#001 不名誉な渾名
春のうららかさには似つかわしくない激動の一週間に比べて、あれからは実に平和な一ヶ月が過ぎた。
最近では段々と平均気温が上がってきて、ジメついた湿度が感じられる――梅雨の到来だ。
「まったくもう。こんな湿度じゃ髪がしっかりセットできないわっ!」
いつぞやの保護者かペットの方と思われた霊長類何某様がそんな寝言を仰っている。
髪がしっかりとまとまらず苛立っているらしいのだが、髪をセットする前に、まず最初にその筋骨隆々とした体格をどうにかした方がいいと思われる。
「なんですって……?」
「――と、茅野くんが言ってますね」
「ッ!? こ、こんな時だけしっかり苗字を……ッ!? って、違ッ! そんな事一言も……!」
危うく口に出てしまった言葉を外野くんになすりつけ、事なきを得た。
ふむ、実に平和な日々だ。
「……ねぇ、悠木クン。他人を冤罪で売っておいて何事も無かったかのように食事をするってどうかと思うの。割と本気で悠木くんが怖いと感じるんだけど」
「失礼だな。俺は茅野くんの心の声を代弁しただけだぞ?」
四人掛けのテーブルで、外野くんと霊長類何某様。それに俺と雪那が朝食を食べながら、そんな会話をする。
外野くんから、ちょっと聞こえてはいけない骨の音が聞こえた気もするが、ここは巧を見習ってスルースキルを発動しよう。
男子寮と女子寮の合同で部屋の移動を手伝った男子は、外野くんが言ったように召使いライフを堪能している。確かに聖燐学園はお嬢様が多いと言われていたが、そういった扱いをフザけ半分にやっているのではなく、割と本気で利用している女子を見かけるのが怖いところだ。
女尊男卑の世界は、今もこうして何故か同じテーブルについている二人を見れば一目瞭然である。
お嬢様方は確かに、若干数名を除けば身なりが良い。
そういう意味では、優待制度の特待生しかいない寮にいる男子生徒は、どちらかと言えばガリ勉タイプというか、あまり身だしなみに気を遣っていないタイプが多い。
そんな環境からも、異性慣れしていない秀才諸君たる男子にとって、高嶺の花との共同生活で、低いカーストしか位置できないのだろう。
俺はノーと言える男だと言うのに、嘆かわしい限りである。
もっとも、俺はあの一週間以来、基本的に雪那と一緒に行動しているせいか、そういった女性に見惚れる事もない。
孤高の人として名を馳せ気味であった雪那が俺と一緒にいるのだ。浮いた話の一つや二つ期待してみたのだが、俺はどうやら召使いとして見られているらしい。
浮いた噂が来たら、是非笑みを浮かべながらドヤ顔をしながら否定してやろうと考えていたのに、非常に残念だ。
それに加えて――あれ以来、篠ノ井と巧を二人きりにしようと試みているのだが、巧がそれを拒むように俺達を呼び止める。
以前までならあまり篠ノ井と二人きりになる事に何も考えていなかったというのに、一体どういった心境の変化なのやら。
まったく、本当にアイツは空気を読めない男だ。
「――私、一つ気になっているのだけど。もしかしたら風宮くん、篠ノ井さんと悠木くんをくっつけようとしているんじゃないかしら」
雨の中、傘を差して並んで歩きつつ、巧のここ最近の行動について話していたら、雪那が唐突にそんな事を言い始めた。
「……へ?」
「何をハニワみたいな顔をしているの? 土偶愛好の気はないのだけど」
「い、いやいや。ちょっと待てって。俺と篠ノ井をくっつける?」
あまりに突拍子もない言葉を告げられ、慌てて訊き返す。
篠ノ井は確かに美少女だ。男として大歓迎――と言いたいところではあるが、それ以前にヤンデレは勘弁してもらいたい。
「言い方が悪かったかもしれないわね。むしろ風宮くんは、篠ノ井さんの“独り立ち”を促そうとしていると言えばいいのかも。ずっとべったりくっついてきた篠ノ井さんと、距離を置きたがっているというか、そんな節が見えるのよね」
「……おい、そんな事して篠ノ井がそれに気付いたりしたら……」
想像してみる。
篠ノ井は巧という存在が暴走のストッパーになっているように見える。
そんな巧が、篠ノ井から距離を置いたりしたら。
……血の雨が振りかねない……。
誰のって、俺の血だ。
「少し探りを入れてみる必要があるかもしれないわ。そんな訳だから、悠木くん。ちょっと今日の放課後、篠ノ井さんを呼び出して、それとなく状況を聞き出してもらえないかしら?」
あぁ、そういうのもありかも……って、ん?
「おいちょっと待て。そういう事なら俺が巧から話を聞いた方がいいだろ。雪那と巧が二人きりになるなんてリスクが高いだろうし。それか、雪那が篠ノ井と話せばいいじゃねぇか」
俺がそう告げると、雪那が傘で顔を隠した。
「そ、それはほら。ちょうどこの機会に風宮くんとの距離を縮めておくのも必要な一手かと、思って……ッ! ちょっと、傘から手を離して……ッ!」
「この……っ、病みモードが発動したら面倒とか思ってるだけだろ……っ! おい、顔見せてみろ、この……っ」
雨に濡れるのも厭わずに、俺は雪那の傘をなんとか持ち上げようと試みたのであった。
「に、肉じゃが作ってあげるから……ッ!」
「やれやれまったく。本当にまったく。食事に釣られる訳じゃないんだが。そういう訳じゃないんだが、雪那が嫌だと言うなら仕方ない。俺が何とか探ってやろう」
……………………。
「ねぇ、悠木くん。あなたって……」
「いや、言わないでくれ……ッ」
女子の手料理――しかも肉じゃがと言われて、果たして断れる男がどれだけいるというのか。
俺は是非食べたい派なのだ。
ともあれ、俺はとりあえず巧から話を聞くとだけ告げて、雪那とはクラスの教室の前で別れた。
そうして教室を見れば――篠ノ井と巧が、別々に一人ぼっちで時間を潰している、だと……?
いつもなら休み時間の度に篠ノ井が巧と話しているというのに、巧は外を見つめてぼーっと過ごしているだけだ。篠ノ井は篠ノ井でそんな巧をちらちらと見つつも、話しかけに行こうとしていない。
これは、何かが起きている。
そんな風に感じたのは、もはや俺だけではないらしい。
クラス内でもちらちらと視線が向けられているようだし、若干空気が重い。
うん、もう少しどこかで時間を潰して――なんて考えていると、ふと視線が俺に集中しているのが分かった。
……あ、はい。
俺が話しかけますよ。
「おはよう、巧。なんだよ、篠ノ井もこっち来いよ」
「おーっす」
「あ、うん。おはよ、悠木くん」
……なんとかいつも通りにポジションに戻ったところで、周りの連中がほっとため息を漏らしているのが俺にはしっかりと見えていた。
お前ら、貸し一だからな。
「いやー、濡れたなぁ。こういう時は悠木みたいに寮にいるのが羨ましいよ」
「バカ言え。その代わり成績で必死になるんだぞ。それに、お前には嫁がいるじゃないか。毎日嫁に起こしてもらってんだ、それ以上何を望むんだ」
敢えてからかいつつ告げてみるが、巧は少し浮かない顔をして、ぎこちない笑みを浮かべた。篠ノ井も何やら言葉に詰まっているらしい。
……何こいつら、めんどくせぇ。
ケンカしてる空気を出していないとでも装えてると勘違いしている、ケンカ中のカップルぐらい面倒臭いぞ。
なんで俺がこいつらに構わにゃならんのだ。
ともあれ、状況が読めない。
見る限りだと、巧が何かをやらかしたような気配だし、気付かないふりして巧には見えないようにスマホを操作しようとして――誰かからのメールが届いていた。
……篠ノ井かよ。
『ちょっと相談があるんだけど、放課後時間空けてもらっていい、かな?』
……めんどくせぇ、とは言える空気ではないわな、これは。
篠ノ井も何かを感じ取っているのだろう。
横目で篠ノ井の方を見ると、篠ノ井がこちらを見て思い詰めた様な表情を浮かべているし。
早速了解とメールを返し、そのまま雪那に状況を報告する。
『そう。篠ノ井さんからアプローチが来るなんて予想外だったけど、まさかそんな事になってるなんてね。よろしくね』
気のせいか、雪那の幻覚が安堵のため息を漏らしたような気がする。
今の篠ノ井なら雪那にメールぐらいはしてそうなもんだけど……してないって事か。
結論から言えば、今日一日で巧と篠ノ井の間に何かが起こったというのは、紛れもない事実だという事が判明した。
篠ノ井に対して巧はあっさりとし過ぎた反応ばかりを返していて、篠ノ井は篠ノ井で拒絶される度に泣き出してしまいそうな顔で、それでも必死に堪えている、という有様なのだ。
当然ながら、そんな姿はクラスのみんなにもよく分かるし――その度に、どうにかしてくれないかと視線で訴えられる始末である。
そんな訳で、放課後。
俺は周囲の視線に乗せられた重圧に負け、篠ノ井を屋上へと呼び出した。
「ねぇ悠木くん。私もしかしたら巧に避けられてるかもしれないの。これってアレなのかな。もしかして、もしかしてだけど。そんな事って万に一つもあるのかな?」
雨のあがった屋上でぶつけられたのは、そんな質問だった。
光のない瞳。言葉の区切り。
どう見ても病みモードが発症しておりますが。
「お、落ち着こう。一旦落ち着くんだ、篠ノ井」
「落ち着いてるよ? すごく落ち着いているよ? ただ気になったから。同じ男の子の悠木くんなら、巧から何か聞いてるんじゃないかって思ったから、こうして訊いているだけだよ?」
落ち着く、という意味の解釈がどうやら俺とは違うらしい。
まず間違いなく落ち着きが足りていないぞ、篠ノ井。
「だいたい、どうしてそんな結論に至ったんだ? 俺にはいつも通りに見えるぞ」
「あはは、悠木くんは何も知らないんだね。巧は全く違うんだよ? 最近は私が起こす前に起きてるし、お弁当だって自分で作るからいらないって言い始めるし。ねぇ、悠木くん。私、もしかして。もしかして要らないって思われてるのかな?」
捲し立てるような口調――だと言うのに、今にも泣き出してしまいそうな程に、篠ノ井の声は震えていた。
雪那から聞いた篠ノ井の過去。
それを聞いたせいか、以前のような、得体の知れない何かに対するような恐怖は感じない。
理由が分かったからだろうか。何とか篠ノ井の変化は俺も理解できた。
「なぁ、篠ノ井。ちょっと深呼吸してくれ」
「何で? 深呼吸したら巧は前みたいに戻ってくれるの? そんな事、ある訳ないのに」
「良いから。ほれ、吸ってーーーー」
最初は反論していた篠ノ井も、渋々俺の言葉に深呼吸を始めた。
「…………」
「………………く、苦しいんだけど……!」
「吐いてーー」
「ふはぁ……」
ふむ、瞳に光が戻ったようだ。
こういった、調子を崩されると気持ちも少しは落ち着くらしい。
どうやら俺は篠ノ井に刺されるような選択肢からは逃れる術を手に入れたみたいだな。
「さて、篠ノ井。篠ノ井が言う巧の変化だが、むしろそれって普通な事だと思うんだが?」
「普通……? 普通って何? 私には――」
「ほら、まぁ聞けよ」
篠ノ井のスイッチが入る前に、一度言葉を遮る。
そうしてゆっくりと、単純な言葉を投げかけていく。
「高校生にもなって、幼馴染の女の子が家に来て起こしてくれるなんてのは、言ってみれば普通でも何でもない。まぁ男の願望ではあるのは否定しない。俺なら大歓迎だ」
「だったら――ッ!」
「まだ聞けって」
全部が全部、篠ノ井を否定する言葉を告げたら、行き場を失ってしまう。
どうすればいいのか分からない。だけどこのままじゃ、篠ノ井はマズい方向に進んでしまいそうだ。
だから一つずつ説明する。
なんとなく小さな子供を相手にしている様な、そんな感覚になりながら。
「巧は篠ノ井の事が大事なんだと思うよ。それは普段の巧を見てれば分かる。だからこそ、巧が何か考えてやっているなら、それは篠ノ井を傷付けるとか要らないとかって意味じゃなくて、篠ノ井の為にやってるんだと思うんだよ、うん」
「……私の為……? そんなの要らないよ。私は、今までのままずっと……!」
「なぁ、篠ノ井。前に俺が言った、押して駄目なら引いてみろって話は憶えてるか?」
「……うん」
「巧は、それをしたいんじゃないのかね」
以前話した時は、篠ノ井から俺に対する信頼の弱さのせいもあって、素直に話を聞かせるには至れなかった。
だけど今回はちょっと違うみたいだ。
篠ノ井は俺の言葉を篠ノ井なりに理解しようとしてくれているらしい。
「……ねぇ、悠木くん。それは、なんの為に? 私は巧に傍にいてほしいの。そんなの私の為なんかじゃない。私は……」
「悪いんだが、俺は巧じゃないから分からんぞ。篠ノ井がそれを気にしてるなら、巧に訊いてみるしかないだろうさ。ただ、アイツが篠ノ井を嫌ってるなんて事がないってのは、俺が保証するよ」
とは言ったものの、これで巧が決別を告げたりしたら、俺刺されるんじゃね?
……いかんッ!
ここは保留させて、俺のいない所で解決してもらわないと……――――!
「分かった……。うん、悠木くんがそう言うなら、信じてみるよ」
「え、ちょっ、今のナシ――」
「ありがとう、悠木くん。それじゃあ、少し様子見て話してみるね!」
「いや、その、篠ノ井さん! 待って……」
走り去る篠ノ井。
俺は、屋上にただ一人ポツンと残された。
手を伸ばしたまま固まっている俺。
そんな俺のもとへ、篠ノ井と入れ替わるように雪那が歩み寄ってきた。
「悠木くん、見事なコントロールぶりだったわ。これからは『ヤンデレコントローラー』という異名を名乗って良いわ」
「いや、割と本気で遠慮したい、そんな二つ名」
新たな波乱は、こんな形で唐突に訪れるのであった。