#002 価値観
悠木と雪那が瑠衣の立ち位置について話しながら寮へと戻っているその一方、聖燐学園の寮にある食堂では、水琴が茅野と共に机に座り込んだまま難しい顔をして腕を組んでいた。
両者の間に流れる空気は重く、沈黙している。
好意を寄せている相手と二人きりだというのに沈黙が流れるなど、茅野にとってはなかなかに耐えられる状況ではない。
つい助けを求めるかのように周囲を見回してみても、夕食の時間までの微妙な空き時間に食堂を利用している生徒の人数などたかが知れている上に、茅野というこの少年はそもそもあまり社交的ではなく、助けを求められるような相手はいない。
助け舟を期待していた茅野は、諦めた様子でちらりと水琴の顔を見つめた。
どうやら眼鏡の向こう側で水琴は眼を閉じたまま考え込んでいるようで、この状況に声をかけて良いものか、判断がつかない。
――――そもそもこの状況を作るきっかけとなったのは、あの怪文書の件だった。
偶然にも食堂に飲み物を買いに来た茅野が食堂を見ると、机に突っ伏したまま唸り声をあげていた水琴を発見したのだ。
今までなら声をかける事もなかったが、怪文書の件や悠木の聖燐祭での騒動もあって、水琴との距離は他人以上友人未満といったところにまで進んでいる。
それだけで喜ぶなかれと誰もツッコミを入れたいところではあるが、前に一歩進んだというのは彼にとっての大躍進であると言える。
話しかけずに見ているだけで良かったというエゴ――悪く言えばストーカー予備軍の境目に片足を突っ込んでいた彼にとっては、重ねて言うが大躍進なのだ。
そうして茅野は意を決して水琴に声をかけ、同席するに至ったのだ。
ラブレターの件で少し相談があると声をかけた茅野に、水琴は素直に応じたのであった。
――――だが、結果は現状を物語っている。
話が弾むどころか、茅野はこの沈黙に取り残されていた。
茅野が悠木と相談し、決意した――もとい、悠木に丸投げされた結果、ラブレターを出した本人に名乗り出るようにと告げる事になったのだが、その結果は敢え無く玉砕であった。
どうやら茅野の友人である差出人は、未だ名乗り出るつもりはなかったようだ。
これには少々茅野も苛ついたのは事実であった。
好きな相手が困っていて、その困らせている張本人を知っている自分。
好きなはずの相手を困らせているのに、自分が傷つくのが怖いのか黙秘を貫く友人。
どちらも自分がその気になれば現状を打破出来るのだが、それを言い出せない弱い自分に苛立った、というのが正しい。
悠木との話し合いで手にしたはずの想いは、どうやら持続力に欠けていたようであった。
――いっそ、板挟みである事に怒って事実を伝えてしまった方が良いのではないか。
ぐるぐると頭の中を巡り続ける思考のループの中で、相も変わらず出来もしない答えに辿り着いてしまうのだから、茅野という少年も余程不器用であると言えた。
そんな茅野の葛藤など知る由もなく、水琴は時折「んー」と喉を鳴らして唸るばかりであった。
茅野から聞かされた、未だ名乗る気はないらしいという言葉にどうしたものかと思考を巡らせているようだ。
その姿を見て、意外と睫毛が長いだとか、唇が瑞々しいのだとか、腕を組んだせいで胸が強調されているだとか、茅野の視線はそんな発見ばかりを続けていたりもするのだが、生憎水琴はそういう意味では無防備であり気付いていない。
心の距離を取りたがる割に身体は無防備になってしまう。そんな水琴だからこそ年上から言い寄られてしまうのだが、本人はその理由に気付いてはいなかった。
「か、兼末さん?」
そうして、長い沈黙からようやく脱するべく茅野が先に口を開くのであった。
「……あ、ごめんごめん。私さ、考え事してるとそっちばっかりになっちゃうんだよねー。悪い癖なんだよねぇ」
痺れを切らせた茅野に水琴が苦笑しながら答える。
その反応は決して不愉快といったものではなく、茅野は自分の選択が間違いではなかったのだと考え、安堵の息を漏らした。
「いや、良いんだけど……。その、ごめん。力になれなくて」
「ううん、それはしょうがないよ。やっぱり名乗り出たくないって言うなら、キミが悪い訳じゃないんだし。
まぁ教えてくれても良いんだよ? 私は気付かないフリしておくしさー」
「う……っ」
ニヤニヤと笑いながら冗談混じりに告げる水琴であったが、茅野にとってこれは悪魔の囁きとも言える程の効果を発揮しているのであった。
自分が好いている相手が困っている状況で、そんな彼女が求める答えを自分は持っているのである。
友情と恋愛感情、どちらを取れば良いのかが彼には分からない。
そういった経験が茅野にはなかった。
――こういう時、永野なら……。
そんな考えが茅野の脳裏を過ぎった。
茅野が知る永野悠木という人物ならば、まず間違いなく友人を庇ってみせるだろう、と。
事実として、一人の少女を庇って汚名を着てみせたのだ。
心のどこかで憧れにも似た感情を持っている相手。同時に、それは憧憬の念だけではなく、目標としている姿であった。
例え悠木がこういった立場に立ったとしたら思わず口を滑らせる可能性があっても、それを茅野は知らない。もしも直接頼まれれば、「はい喜んで」の居酒屋さながらの返事と共に暴露しかねない悠木の本性など、茅野は知らないのである。
独特な琴線を持って人に対して接する悠木の性格を把握しろ、という方が茅野にとっては難しいだろう。
水琴の視線に耐えられなくなり、何か言葉を発しなければと考えた茅野が口を開こうとしたその時、水琴がくすっと笑って沈黙を破り、椅子の背もたれに背中を預けた。
「冗談だよ、冗談。いやぁ、外野クンもなかなか真面目だねぇ」
「か、茅野だから!」
甚だ心外な呼び名が定着しつつある現状に茅野が叫んだ。
「あぁ、ごめんごめん。でもこれって、悠木クンなりの渾名みたいなもので悪気があって貶してる訳じゃないし、良いと思うよー」
「そ、そういうものかな……。渾名って言われてもあまり嬉しくないような……」
そうは言うものの、茅野はこれが渾名となっているのは理解しているし、特別嫌っている訳ではない。
何せ自分をこう呼ぶのは、なんだかんだで親しくなってくれている証拠だ。渾名で呼ばれるというのは、それだけで親しくなっている気がしてくるものなのだ。
そう考える茅野が小さく笑うが、その向かいに座っている水琴は誰に対しても渾名や呼び名を変えている節があるが、それに気付く事はなかった。
「まぁ詳しくは本人に訊いた方が良いと思うけどね。ほら、悠木クンってああ見えて、他人に対して壁が厚い部分があるからさ。渾名をつけたり名前で呼んだり、そういうのって多分、彼なりの境界線だと思うし」
――――その言葉に、茅野の胸がちくりと痛む。
確かに悠木は、水琴と茅野の二人を繋いだ人物でもある。
共通の話題として名前が挙がるのは珍しくなどなく、当然と言えば当然だ。
だが、高校生男子の茅野にとって、想い人が他の男子の名を口にして理解しているような口調で喋る姿を見るのは、少しばかり胸が痛かった。
勝手な独占欲、或いは嫉妬心とでも言うべきだろう。
そういったものが渦巻いてしまう辺り、茅野はある意味では何処までも健全であった。
「……兼末さんは、永野の事、その……好きなの?」
「悠木クンねー。うん、好きだよー」
「……そ、そうなんだ」
「あぁ、恋愛的な意味じゃないよ? 私、特に恋愛らしい恋愛って興味ないんだよねぇ」
「え?」
ほっとしたのも束の間、茅野は水琴の言葉に思わず声を漏らした。
恋愛に興味がない。
それは、悠木を好きだとか自分が水琴に惚れているとか、そうした感情ですら無意味になってしまうような、そんな気がしたのだ。
それでも水琴は気にした様子もなく続ける。
「あのラブレターの件も、直接断るつもりだったんだよねぇ。私、高校生活で恋愛とかする気ないし、仕事の関係もあって今は頑張りたいから。外野クンに断ってもらうっていうのもちょっと酷な気がして、それで直接名乗り出て欲しいんだけどなー」
水琴の言葉に、茅野は短く「そうなんだ」とだけ返した。
その顔は強張り、視線はテーブルの上に置かれた飲み物に向けられる。
それは酷く残忍なフラれ方だと言えた。
想いを口にする前から、一方的に告げられた恋愛する気がないという発言。
水琴は知らない。
この眼の前にいる地味な少年が、自分を好いてくれているなど。
だからこそ、水琴は無邪気にその気持ちを告げてしまった。
目の前がぐらりと歪んだような気さえして、茅野にはどうする事も出来なかった。
この場に座っているのも辛く、下手に口を開けば涙が溢れてしまうような気さえして、ただただ沈黙する。
何をしても事態は悪化しそうで、何をするにもまず目頭が熱くなりそうなそんな感覚を押し殺すばかりで身動きなんて取れるはずもなかった。
そこへ――――
「よう、おつかれー」
――茅野と向かい合う水琴の後方から、悠木の声が二人に届けられた。
「お、悠木クン達も今帰りー?」
「おう。どうしたんだよ、仕事でバタバタしてるって言ってたのにこんなトコで」
「ん、ちょっと気分転換にねー」
声をかけた悠木と、共に寮へと戻ってきた雪那が机に歩み寄る。
そんな二人に気付き、茅野は立ち上がった。
「……ごめん、ちょっと宿題するから先に部屋に戻るよ」
「おう。おつかれー」
俯いたまま顔を見ようとはしないで、茅野はその場を後にする。
彼にとって、悠木と雪那の登場は有難かった。
どうする事も出来ないままの状況。
一対一で面と面を向かって座っていては顔を見られる可能性もあったが、悠木と雪那の二人が立ってくれたおかげで、注意は僅かばかりに逸れた。
そう思えたのだ。
だが、その姿を見ていた雪那が悠木の服をそっと引っ張り、注意を引いた。
「ねぇ、何だか様子がおかしかったんじゃないかしら」
「まぁ、な」
小声で話しかけてきた雪那に、悠木が答える。
悠木には、水琴の言葉が聞こえていた。
ちょうどこの場所は寮の入り口に背を向ける位置にあたる。
ガラス張りの席に座っていた悠木は二人に気付き、水琴の後ろから近づいていたのである。
だからこそ、水琴の言葉は聞こえていた。
それは隣にいる雪那も同じであったが、雪那はその言葉の重さを知らない。
茅野が水琴に対して好意を抱いている事を、知らないのだ。
せいぜいが、水琴に当てられたラブレターに対する返事の意思を口にしたと思っている程度である。
「そういえばゆっきー、これから時間平気?」
「えぇ、別に何か用事がある訳でもないし大丈夫だけど。どうしたの?」
「いやー。仕事一段落したし今の内に宿題片付けておきたいんだけど、ちょっと授業で分かりにくいところがあってねー。復習しておきたくって」
「そういう事ね。悠木クンも一緒にする?」
「あー、悪い。俺ちょっくら用事済ませたいからパス。部屋戻るわ」
「そう? 分かったわ」
雪那と水琴を残し、悠木は少しばかり重い足取りで自室へと向かって歩いて行くのであった。
◆ ◆ ◆
一階で話していた外野クンと水琴の会話。
その内容は外野クンにはあまりにも重く、あまりにもショックが大きいものだっただろう。
そんな事を考えながら、俺は自室の隣――つまりは外野クンの部屋の前で足を止めた。
ドアの横についたチャイムを鳴らす。
返事がない。
鳴らす。
返事がない。
鳴らす鳴らす鳴らす。
沈黙。
ふむ。
どうやら俺は、チャイムの最速連打記録に挑戦する必要があるようだ。
そんな訳で、俺はチャイムに指を置いてから、カッと目を開いた。
「ぬおおおおっ!」
《もうっ! いないって諦めるかすれば良いだろ!》
10連打程までは粘るかと思いきや、3連打目でドアホンから外野クンの声が聞こえてきた。
「いるのは分かってるんだ。大人しくドアを開けて、すぐに中へと入らせろ」
《犯人に投降を促すかのように何言ってるんだよ! そんな気分じゃないんだよ!》
「ほう。ならば水琴に全てをぶち撒けてこようか――」
《――すぐ開ける! 開けるから! もう、何でこんな事に……》
ブツブツと言いながら受話器を下ろしたであろう姿を想像しながら、俺は満足気にそのドアが開くのを待っていた。
ドアがようやく開き、外野クンが姿を見せた。
外野クンは、どうやら泣いていたらしい。