#010 絶望
突き出された包丁の先端を見て、雪那は身体を僅かに震わせた。
「……どうする、つもり……?」
「ふ、ふふふ、ふふ……。どうしてくれようかな。ぼ、僕はもう、終わった。終わったんだよ、櫻さん……。だからもう、何をしても、今更何も、変わらないんだよ」
狂気。
その一言に尽きる様相で三神は雪那に向かって震えた包丁の先を突き付け、壊れた笑みを浮かべていた。
虚ろな眼差しで笑い声をあげ、ふらふらとしながら動くその様には力が入っているとは到底思えない様子だった。
もしも走り出せればあっさりと逃げきれるような、そんな気さえする程のゆっくりとした動きで三神は雪那に向かって一歩、また一歩と踏み出す。
しかし、そんな牛歩であっても雪那への距離は徐々に縮まっていた。
雪那の身体はすっかり狂気にあてられて縛られ、その場に立ち尽くしているのが精一杯だったのだ。
近付くに連れて自分も叫び声をあげたくすらなるものの、何が刺激になって三神が動き出すのか、判断がつかない。
スピードを出して逃げ出せばどうだろうか。
でも、その瞬間にいきなり走り出されたら、自分はあの包丁に貫かれるのではないか。
ならば、叫び声をあげてみたらどうだろうか。
それもダメだ。焦って襲い掛かってくる可能性すらある。
祈る、謝る、抵抗する、反撃する。
どれも最悪なイメージしか沸かず、ただただ一歩ずつを踏み出す三神のその動きによって頭の中をグルグルと回るばかりだった。
時間を稼ぐ。
答えが出ないなら、それしかない。
雪那は自分と三神の位置を改めて、一度冷静に考察する。それが例え冷静ではないとしても、出来る限り落ち着けるようにと自分で自分に言い聞かせた。
三神はこの旧教室の入り口に背を向け、雪那に向かって一歩一歩、遅々としたものではあるが距離を詰めてきている。
すでに二人の距離はわずか5メートル前後にまで詰まっていた。
左右を抜けようにも、包丁を突き出している以上、下手をすればあれが自分の肌を貫くだろうと思うと足が前に出るはずもない。
そこまで考えて、自分が窮地に追いやられているのだと理解し、ようやく雪那は金縛りのような呪縛から解かれ、後方に足が下がった。
旧教室の奥。
そこには、誰かいるかもしれないと考えた準備室が広がっている。
扉は開いている。
――あそこに逃げ込めば、時間を稼げるかもしれない……。二階なら、最悪窓から飛び降りれば良い。
雪那はようやくそこまで判断して、動き出すタイミングを図る。
「もう、終わりだ。櫻さん。僕は、僕はキミと」
喋りだした言葉が長く続こうとしたその瞬間、雪那はくるっと反転して三神に背を向けた。長い長髪を揺らしながら、雪那は走って準備室へと駆ける。
喋りだした僅かな隙が、その続きを口にしているという集中力の切れるタイミングだと踏んだのだ。
迫る狂気とはまだ十分に距離はある。
今しかない、と震える身体を無理矢理にでも動かし、転びかけてでも雪那は足を止めようとはしなかった。
雪那の判断は正しかったと言えるだろう。
三神は既に、雪那を刺し殺すつもりでいる。
自暴自棄になった三神は、自分をこの状況にまで追い込んだ雪那を許せなかった。
自分が惹かれた相手を許せなかった。
だからこそ、雪那の判断は正しかった。
前方へと走れば、即座に三神は雪那の白い肌を刺し貫こうとしただろう。
後方に走るというのは、正しいはずだった。
「……ふはっ、アッハハハハハハッ!」
しかし、三神はその姿に奇声とも呼べる笑い声をあげた。
慌てて扉を閉めた雪那が、簡素な鍵をかける。
およそ10畳程度の狭い準備室の中で、雪那は今の内に外に出られるはずの窓を見つめた。
「……そ、んな……」
楽器を置いているその準備室の窓。
人が通れるであろう程度には開くはずのその窓は―――
「逃げれると思ったのかい、櫻さん! アッハハハハハ!」
――楽器の細かな機材を置くために壁一面に打ち付けられた棚の向こう側で、中央を遮るように分断されていた。
それは、人一人が通るにはあまりにも狭い幅だった。
◆ ◆ ◆
「そういえば悠木先輩、今日の打ち上げ会参加するですか?」
雪那とお化け屋敷前で別れた俺達は、適当に露店を冷やかしてまわりながら部室へと戻っていた。瑠衣に瑠衣の小さな顔と同じぐらいのサイズの綿飴を買わされ、当の本人が綿飴と格闘しながら俺に向かってそんな話を振ってきた。
「打ち上げ会?」
「校庭でキャンプファイアみたいなことするらしいです。悠木先輩は参加しないですか?」
「んー、どうするかなぁ。特に考えてないな」
キャンプファイア。それ即ち、リア充の宴。
参加しても良いかもしれないが、久々に俺の口から呪詛が漏れそうな予感がする。
リア充は薪と共に燃えて爆発しろ、と。
「……悠木先輩、人気コンテストで1位になったらそう言われる側です」
「俺の思考を読んだ上でツッコミまで入れてくるとは、やるな」
「駄々漏れですよ、その口から」
ジト目で綿飴を食べながら瑠衣が俺に向かってツッコミを入れてきた。
言われてみれば、今回の男女人気コンテストで1位になったりしたら、俺が言われる側になる訳だ。
もしかしたら告白される、とかあるのかもしれない……!
……なんて思ってみても、付き合うという立場になるって考えるとちょっと及び腰になってしまうのだから、我ながら中途半端なモテ願望だ。
モテるとかそういうのは、そりゃ男だもの。そういった願望はある。
いや、男女なんて関係ないだろう。少なくとも化粧をしない男の方が誤魔化しが出来ないのだから、真っ向勝負だ。
脱線気味の思考を溜息と共に整理する。
俺が恋愛どうのこうのが苦手なのは、簡単に言えば家庭環境の問題が関係している。
ちょうど雪那と沙那姉と会った、あの夏の前からだ。
だから、沙那姉の当時の俺に対する裏切りは、当時の俺にある意味では追い打ちをかけた。
「どうしたです? なんか真剣な顔してるですけど」
「あぁ、いや。何でもねぇよ」
瑠衣に声をかけられて意識を引き上げた。
あまりウダウダと考えていてもしょうがない。
「おはよ。悠木も瑠衣もここにいたんだな」
ちょうどそんな事を考えていた時だった。
ドアを開けて入ってきたのは、相変わらずの幼馴染コンビの片割れこと巧だ。
「おはようですー。あれ、ゆずさんと一緒じゃないんです?」
「あぁ、うん。今さっきまで吹奏楽部の演奏パレード見てたんだけどな。そこで別行動になった」
「珍しいな、お前と篠ノ井が別行動なんて」
「そういうお前も、そういえば櫻さんと一緒に回るんじゃなかったのか?」
「あぁ、実行委員の仕事で手を貸してくれって呼ばれてどっか行ったぞ」
「実行委員? でも今宮川さんに会ったんだけど……」
「宮川?」
真面目な委員長タイプだった宮川さんの顔を思い出しつつ巧に反応すると、巧が苦笑しつつ「何でピンと来ないんだよ」とツッコミが返ってきた。ピンとは来ているが、俺の事を大嫌いだと顔に書いてあるような態度の女子だ。
あまり俺には接点がない、というより避けられてる。
汚物を見るような目で見られるようになったのは、確か去年の初夏だ。噂のせいだろう。
「んで、その宮川さんがどうしたんだ?」
「どうしたって、ウチの実行委員だろ。
さっき会ったんだけど、今日は昨日と違って暇で予定が空いてるからってゆずに一緒に回らないかって声をかけてきたんだよ。今ゆずと宮川さん、一緒に回ってるはずだぞ?」
「ふはぁ。でも、暇で予定が空くぐらいなら雪那先輩が呼ばれる意味が分からなくないですか?」
「綿飴に必死だな、瑠衣。んー、って事は、雪那が担当してた仕事で呼ばれたと考えるより……」
「……悠木先輩、もしかして、ですけど……」
瑠衣の言葉が示すその可能性は、確かに俺にも過ぎった。
俺も慌ててスマフォをポケットから取り出し、雪那の番号へと電話をかける。
《――おかけになった番号は、電波の届かない――》
「ダメだ、繋がらない。電源が入ってない」
「おい、まさかだけど」
「あぁ、そうだよ。三神だろ……!」
悪態をつきながら、俺は巧の言葉の続きで出て来るだろう名前を口にした。
三神。
昨日の夕方の段階で、三和先生を通して三神の謹慎処分が言い渡されたと昨夜レイカから寮で聞かされた。
寮住まいじゃない三神なら、わざわざ学園に来ないだろうとは思っていたが、読みが甘かった。
「櫻さんを呼び出したのも三神って事か……?」
「いや、多分他のヤツだろうな。アイツが誰か実行委員を通じて無理やり呼ばせたんだろ……。巧、レイカに一応事態を報告しといてくれ。俺アイツの番号知らないんだわ」
「お、俺も知らないぞ。ゆずが連絡取ってたはずだから、ゆずに連絡してみる」
「頼む。俺は雪那を探してくる」
「わ、私も行くです!」
「いや、雪那のケータイの電源が切れてるんだ。もしかしたらここに戻って来るかもしれないから、瑠衣はここで待っててくれ。何かあったら連絡してくれ」
「でも、早く探さないと……!」
「分かってる。それでも勘違いかもしれないし、入れ違いになるかもしれない。頼む」
「……分かりました」
「悠木、ゆずと連絡ついた。今生徒会長に連絡してもらってるから、俺も行く」
「あぁ、頼む。この校舎を見てくれ。俺は他に行く。篠ノ井がレイカと連絡取れるなら、レイカに実行委員か生徒会を動員してくれって頼んでもらってくれ」
「分かった! ゆず、聞こえたか!?」
スマフォ片手に話す巧と簡単に打ち合わせをして、俺はそのまま校舎を飛び出した。
校舎を離れて露店を出している人の群を見るが、人集りで全く何処に誰がいるのか判然としない。
こういう時に限って、黒い長髪の女子が多いように見える。
焦りと苛立ちが、俺の中に募っていた。
「クソ……ッ」
油断していた。
三神の謹慎処分が決まって、昨日の帰り道を無事に過ごしたせいで完全に油断していたとしか言えない。
もしさっき、雪那の電話に手伝いに行くとでも言っていれば。
あるいは、俺が実行委員にさえなっていれば、今日の状況を理解して、その呼出が不審なものであると理解出来たのかもしれない。
人混みを見回しながら、自分の中でも後悔がグルグルと回っているような気さえした。
そんな時だった。
ポケットに突っ込んでいた俺のスマフォがけたたましく鳴動した。
表示されたのは、登録されていない番号だった。
「もしもし!」
《ユーキ、私よ。レイカ》
「なんだ、レイカか……」
まさか三神がかけてきたのかと一瞬過ぎったが、どうやら違ったらしい。
《なんだ、はないでしょ。事情は篠ノ井さんから聞いたわ。
人通りの多いところは生徒会メンバーと実行委員を動員して探してもらっているわ。それよりも、チェックが届かない場所を探しなさい》
「チェックが届かない場所……?」
《えぇ。もし三神クンが雪那さんを狙って呼び出しているなら、大学部の方には行けないはずよ。だとしたら間違いなく高等部の近くに呼び出してる。それも呼び出しても怪しまれない場所のはずよ》
「怪しまれない場所……。分かった、行ってみる!」
とは言ったものの、この学園の敷地はレイカも言った通りに広い。
俺はとりあえず、寮の近く――お化け屋敷をやっていた廃校舎から離れ、以前外野クンに連れて行かれた工事予定だった旧女子寮方面へと向かって走り出した。