#004 『設定』
私――櫻 雪那――は真正面に座って俯いたままの篠ノ井を見つめ、しばしの沈黙を貫いた。
カチ、カチ、カチ、と規則正しく動き続ける時計の秒針の音が鳴り響く部室内。
悠木くんには一度二人きりにしてもらうように頼んだけれど、その後はこうして沈黙が流れている。
時折外から聞こえてくる運動部の掛け声が、まるで遠い世界の出来事のようにすら感じられる。
「ねぇ、篠ノ井さん」
ピクッと身体を震わせ、俯いていた篠ノ井さんがゆっくりと顔を上げた。
所在無さげに揺れる視線。
そんな彼女とは対照的に腕と足を組んでまっすぐ睨みつけながら、嘆息する。
「……そんなに萎縮されるのもなんだか傷付くのだけど」
「……ごめん……」
――このままでは埒が明かない。
そう判断して、続けた。
「篠ノ井さんが私をどう思っているかはだいたい分かったわ。まぁある程度は分かっていた事だし、だからこの一年間はこの『読書部』には来なかったのだけど」
「……どうして、ゆっきーはこの部に来たの?」
それは至極当然とでも言うべきか、篠ノ井さんが疑問に感じるのも無理はない。
私は実際、この一年間――篠ノ井さん達を避けてきたのだから。
そんな私の狙いが何かなど、篠ノ井さんには理解できるはずもない。
――おおかた、私が巧くんを本当に狙っているとでも勘違いしているみたいね。
篠ノ井さんのここ数日の反応を見ていれば、それは当たり前のように導き出される答えだった。
「少なくとも、あなたが考えている目的で来た訳じゃないわ」
そんな私の答えに、篠ノ井さんは見て分かる程に安堵して――同時に、未だにどこか疑いを孕んだ視線を向けてきていた。
「……巧が狙い、じゃないの……?」
「何度も同じ事を言わせないで。私はあんなラノベ主人公みたいな男、願い下げよ」
「ら、ラノベの主人公……」
「鈍感で、誰が相手でも構わず愛想を振り撒いて、結局自分の気持ちには鈍感。そんな相手に恋い焦がれる程、私は幼稚じゃないわ」
今度こそ明確に、はっきりと紡いだ拒否の意思。
篠ノ井さんはゆっくりと目を見開きながらも、安堵に崩れそうになっている。
昨日の失敗からずっと張り詰めていた緊張の糸が、今の一言でプツッと音を立てて切れたのだろうか。
「じゃ、じゃあどうして『読書部』に……?」
その疑問は、ある意味すごく正しい疑問だろう。
私は優待制度を使った生徒だし、部活に入る理由はない。
そんな選択肢を選んでいる生徒は稀有な存在だもの、当然そういった疑問が生まれるのは自然な流れ。
まぁ、悠木くんという一人の例外がいるのだが、それはあくまでもイレギュラーな存在だし。
「私はね。昔交わした約束を、今なら果たせる。そう思ったから、こうして『読書部』に来ただけ。風宮くんとあなたの色恋事情なんて、まったくもって、これっぽっちも本当は興味なんてないわ」
「約束……?」
「そうよ。だから安心していいわ」
そう、私はただ――昔交わした約束を、今になってようやく果たせると、覚悟したからここに来たのだ。
悠木くんには嘘を吐いた事になるけれど、こうでもしなくちゃ……もしかしたら彼は、私を避けてしまうから。
気を取り直して、安堵する篠ノ井さんの前に指を突き出した。
「さて、篠ノ井さん。あなたが風宮くんとどうにかなりたい、というのは十分に理解出来ているわ。だから、私もそれに協力してあげる。代わりに、篠ノ井さんにはしっかりと私に協力してもらいたいの。もちろん、これは私とあなただけの秘密。漏洩は赦さないし、拒否は認めないわ」
あくまでも淡々と、それでいて整然と告げる。
こうなる事も、これから起こる事ですらも予測しているかのような、そんな堂々たる口調で。
その重圧に篠ノ井さんは小さく頷いた。
「――ねぇ、篠ノ井さん。私が今から言う設定を、しっかり憶えておいてね」
◆ ◆ ◆
寮の自室。
いつの間にやら眠ってしまったらしい俺は、スマホの振動音で目を覚ました。
表示されていた雪那の名前を見て、慌てて通話ボタンをタップする。
「もしもし」
《おはよう、悠木くん。せっかく寝ていた所で悪いのだけど、報告した方が良いと思って電話させてもらったわ》
「な、何故それを――!」
《――あぁ、勘違いしないでね。別にこの前あなたの部屋に行った時に、密かに監視カメラを仕掛けたりとかそんな事、してないんだからね》
「淡々としたトーンでそれを言われると信憑性が増す気がするのは俺だけだろうか」
寝起きからハードなやり取りを要求されつつ、部屋の明かりをつけた。
いつの間にやら、既に十九時前。外はすっかり暗くなっていた。
《それで、悠木くん。この時間になると、女子も男子寮には入れないの。そんな訳で、そこのバルコニーから飛び降りてきてもらえるかしら》
「なるほど。急いで玄関から出るからちょっと待っててくれ」
玄関から外へと飛び出た俺は、相変わらずの制服姿の雪那を発見した。
まだ春とは言え夜風の冷たい外で、一人ポツンと座っている。
「なんだ、今日は私服じゃないんだな」
「えぇ。今さっきまで部室にいたから。思ったより時間がかかってしまったわ」
「でも、寒くないのか?」
「平気よ、これぐらい」
とりあえず急いで走ってきたせいか、俺は暑い。余計に羽織っていたジャケットを脱いで、俺はそれを雪那に渡さずに小脇に抱えた。
「……ねぇ、悠木くん。おもむろにジャケットを脱いだのだから、そこは貸す場面じゃないかしら」
「え、だって平気って言っただろ、雪那……いえ、冗談です。渡そうと思ったんです」
ジト目で見られたもので、思わず軌道修正してジャケットを手渡すと、雪那はそれを膝の上にかけた。
どうやら寒いのは足だったらしい。スカートだしな。
ちょっとジャケットが羨ましいとか思ったのはご愛嬌だ。
ともあれ、そこで俺は雪那が篠ノ井との間で起こった話し合いとやらの顛末を聞いて――思わず目を丸くした。
「……夏まで篠ノ井の手伝いをする?」
雪那はなんと、夏までは篠ノ井の邪魔を一切せずに、サポートに回ると言い出したのだ。
「えぇ、そうよ」
「ちょ、ちょっと待てよ。それって篠ノ井にしかメリットはないんじゃないか?」
俺の中に生まれた疑問は正にそれだった。
雪那が何を企んでいるのかは分からないが、とりあえずは巧との関係を作るのが目的だったはずだ。
にも拘らず、夏まで篠ノ井のサポートをすると言い出す始末だ。
意味の分からない行動に、俺は思わず雪那を見つめて目を丸くしていた。
例えばこれが、巧と篠ノ井の立場が逆だったとしたら分かる。
巧が篠ノ井を好きで、それで篠ノ井に告白したい。だが相手は美少女として人気も高い。そんな立場にいるなら、告白してもフラれる可能性の方が高いんじゃないかと不安になる気持ちも分かる。
だが、実際はその逆なんだ。
俺から見ても、篠ノ井を巧が振るなんて事、有り得ないとすら思える。
むしろ振ったら馬鹿だ。
だったら、告白しちまった方が篠ノ井にとっては安全だろう。
そう告げた俺に、雪那はあっさりとそれを否定した。
「気持ちを伝えて、それがうまく行くかどうかなんて解らない。それにあの二人は幼馴染で距離も近すぎる。今の関係がもしかしたら壊れるんじゃないかってそう思ったら、きっと篠ノ井さんは二の足を踏んでしまうでしょうね」
「……気持ちを言葉にする事で、関係が壊れる……」
俺はその雪那の言葉に、記憶を掘り起こす。
あぁ、まただ。
またあの時の事が思い出される。
「確かに。それは怖い、よな」
「……悠木くんなら、それが誰よりも分かるでしょ」
「え?」
「何でもないわ。それで、今回の私のメリットは篠ノ井さんに引導を渡す下準備、とでも言えばいいかしら。しっかりと譲歩したという事実があれば、きっと篠ノ井さんも暴走しない。そうなれば、私が彼女のあの病みモードに襲われる心配もなくなるわ」
ふむ、確かに雪那の言う事にも一理あるが……。
「それで、夏の期日までに決着が着いたりしたら、雪那は諦められるのか?」
「……えぇ、もちろん」
雪那がそう言うのであれば、俺が何を言ってもしょうがないだろう。
俺の知らない所で、雪那が一体何を考えているのか。それは解らないけど。
裏があるのだろうとは思っていても問い詰めるような問題でもない。
……何より、もしかしたらこれがきっかけになるかもしれない、とか。
そんな事を密かに思うのは、健全な証拠だ。
何はともあれ、こうして俺と雪那は一度、篠ノ井の恋のキューピッドを演じる事になったのであった。