中
朝、晃希が後ろの入口から教室に入ると、前の入口の所で明日実が見覚えのない男子と喋っていた。
頭の中に明日実の交友関係を巡らせ、軽く疑問に思いながら机へ向かう。鞄を置くと、松井由奈が待ってましたとばかりに近寄ってきた。
「おはよう赤坂」
松井はおざなりに挨拶した後、机越しにこちらへ身を乗り出し声を潜めた。
「ねえちょっと、明日実って実崎君と知り合いだったの?」
「実崎ってアイツのこと?」
オレは爽やかです、と書いてありそうな表情で笑っている実崎とやらに顔を向けながら、晃希は逆に問い掛けた。
「誰あれ」
明日実はこちらに背を向けて、実崎に向かってしきりに頭を下げている。
「7組を代表するイケメンくんじゃん。バドミントン部。去年は地区の予選突破して、一年なのに県大会でベスト8に残ったんだって」
「それってすごいの?」
「さあ、よく分からないけどすごいんじゃん? 練習とか試合でも女子の応援結構来るらしいし。でも何がいいって――」
言い止して、同じく二人を見ていた松井がこちらを向く。晃希も顔を戻すと、松井は何か含むところがありそうに唇を吊り上げて笑っていた。
「なんだよ」と晃希は眉根を寄せた。
「実崎君ってあんなモテるのに、告られても片っ端からフってるらしいんだよね。部活に専念したいからって。浮ついてないところが信用できるって、余計に株が上がってくんだけど。それなのに――見てみ?」
あごで示されて再度二人を見た。お互いの携帯を向け合っている。――赤外線通信?
「実崎君、女子と番号交換ほとんどしないらしいよ。部活関係とか、よっぽど親しくなんないと」
妬ける? とからかわれ、晃希は鞄を机の横に掛けながら別にと答えた。
椅子に座る時に、普段よりも勢いがついた。
「あんなの大したことじゃねえだろ」
「あーららー、そんなこと言っちゃうんだー」
ふざけたように言いながら、松井は晃希の机に腰かけた。
「おい、どけ」
「やだ。あんた余裕かましてるけどさあ、明日実って男子から人気あんだからね。つやつや黒髪のクールビューティー系で一見近寄りがたいのに、実は人がいいからギャップに萌えるとかほっとけないとかっつって」
晃希は意外な思いで松井の顔を見上げた。
「……明日実って美人なの?」
「はあ!?」
明日実の友人は呆れた様子でこれ以上は無理だろうというほど眉をしかめ、教室中に響き渡るような大声を出した。クラス中の視線が集まるが、みんなまたすぐにそれぞれの会話や作業に戻った。
目端に、明日実が実崎に向かって手を振っているのが見える。
「あーもーやだやだ。どうせ妹ちゃんが一番かわいいとか思ってんでしょ。そんでその他はどうでもいいんでしょ。なんでこんなのと付き合ってるのかね、明日実は」
松井が、始末に負えないと首を振る。彼女のぼやきが終わりきらない内に、機嫌よさげな明日実が笑顔でやってきた。
「晃希、由奈、おっはよー。大声出して、二人で何話してんのー?」
「おはよー明日実。あんたのこと! 教えろコラ。どうやって実崎君と知り合った」
二人が手を取り合ってじゃれ合う。そこへ晃希は割り込んだ。
「明日実、昨日どうしてメールしてこなかった? こっちからのメールも電話も返事がなかったし。心配するだろが」
「あー……」
明日実が言い辛そうにこめかみを掻いた。
「ゴメン。ちょっとあれから色々あってさ。メールするの忘れてた。晃希からの着信も朝になって気付いたんだけど、学校行ってから説明しようと思って。あ、全然大したことじゃないんだけどね。まあ、ここじゃ言いにくいから昼休みに弁当食べながらってことで」
「それって実崎君も関係あるのー?」と松井が首を傾げる。
「んー、まあねー」と明日実は曖昧に答えた。
ここで予鈴がなり、松井と明日実はそれぞれの席に戻っていった。
「ここの鍵、持ってるやつに借りてきた」
そう言って松井は解錠し、重い開き戸を肩で押し開けた。
風が吹きこんでくる。照りつける日射しが強く、影が濃い。空はよく晴れていて、山際に入道雲がそびえていた。
「屋上って初めて!」と明日実がフェンスに駆けていく。
「ここ、基本立ち入り禁止だよな。鍵持ってるやつって?」
「同じ学年にいる、去年の卒業生の彼女。別のクラスで中学からの友達。彼氏がこっそり作った合い鍵を貰ったんだって。時々借りてるんだー。本当は内緒だから、明日実にも教えるのこれが初めてなんだよね。誰にも言うなよ」
「分かった」
松井に答えながら晃希は明日実の方へ歩いていった。明日実が掴んだフェンス越しに、精巧に作られた箱庭のような景色が広がっている。走っている電車の動きがひどくのんびりして見えた。
「で」
晃希は背後をふり返った。
「なんで実崎までいんの?」
目の前には、朝見た男が腰ポケットに手を突っ込んで立っている。スポーツマンらしい短めの髪に、女受けが悪くなさそうな顔。制服を適度に着崩しているところを見ると、ガチガチの校則遵守タイプではなさそうだ。
「私が呼んだんだー」
はいはーいと松井が手を上げた。
「関係者なんだし、実崎君とお昼を食べる機会なんてそうそうないからねー」
「もう、由奈は」
明日実が松井を軽く睨む。
「実崎君にだって迷惑でしょうが」
「あ、そんなことないって全然。こうやって友達増えるのも嬉しいもんだよ」
――友達って目つきじゃねえだろが。
声に出さない晃希の難癖も知らぬげに、実崎は下心を感じさせない爽やかな顔で明日実に笑いかけた。
太陽の下は脱水症状を起こしそうに暑い。
屋上扉の建物が作る影に入り、地べたに座ってそれぞれ弁当を広げた。
「水田さんって自分で弁当作ってんの?」
実崎がコロッケパンを囓りながら明日実に訊く。明日実はミートボールを箸に突き刺しながらかぶりを振った。
「んーん、母親。朝早く起きるなんてムリだよー」
「赤坂のは妹ちゃん?」
玉子焼きを食べながら尋ねてくる松井に、プチトマトを摘みつつ晃希は違うと答えた。
「俺のも母親」
「そういや麻里ちゃん、お菓子作りは好きだけど料理は苦手だって言ってたことあったなー」
「明日実は結構得意だよね、料理」
「え、ほんと? 食わしてよ」
「えー? お腹壊すかもしんないよー?」
声を上げて三人が笑う。――何が面白いんだ。
冗談めかしているが実崎は本気で言っている。明日実は分かっていないのか、それとも気付いていて躱しているのか、晃希には判断がつかなかい。
「そんなことより」
和気藹々とした雰囲気が気に食わず、晃希は水を差すように言った。
「昨日何があったんだよ」
明日実と実崎がお互いの反応を窺うように顔を見合わせる。気に食わねえ、と晃希は思った。
明日実は時々ブリックのオレンジジュースを飲みながら、とつとつと語り始めた。
昨日、あれから暴漢に公園の草むらへ引きずり込まれたこと。同じく夏祭りの帰りだった実崎が、近道の公園に落ちている金魚を見つけて不審に思い、僅かな物音を聞きつけたこと。明日実は服を破かれる前に実崎によって助け出されたこと。
明日実の話が終わった後、誰も口を利かなかった。晃希は気まずそうに黙りこむ明日実を呆然と見つめることしかできなかった。
――俺が麻里の足を気にしながら帰っている最中に、明日実は一人でそんな目に遭ってたのか?
「明日実ぃ……! 何が大したことないだよ。絶体絶命の大ピンチじゃん!」
松井が泣きそうな声を出しながら明日実に抱きついた。
「ちょ、ちょっと由奈」
明日実は松井を受けとめ、こぼさないようにオレンジジュースを置くと、晃希と実崎に助けを求めるように首を巡らせた。
「えーと、なんか暗くなっちゃったけど。実崎君が絶妙なタイミングで救ってくれたんだしさ、むしろショックを受けられる方が申し訳ないっつーか。終わったことだしこんなの軽く聴いといてよ」
「軽く聴けるか!」
明日実に抱きついたまま松井が勢いよく顔を上げた。すぐに険しい顔で晃希を向く。
「大体赤坂、なんで明日実を送ってかねーんだよ! そんなん一緒に行った彼氏の役目だろーが」
「いやいやちょっと待って由奈」
慌てた様子で明日実が口を挟んだ。
「晃希はちゃんと送ってくれようとしたんだってば。いいやって私が断っちゃったの」
「なんで断る! どうせ赤坂がまた妹ちゃんを優先して、明日実が遠慮したんでしょ?」
「そりゃ麻里ちゃん優先すんの当たり前でしょ? 足痛めてたんだし、可哀想じゃん。私の方が年上なんだしさあ」
「そんなん知るか! 私にとっては明日実の方が大事だ」
吐き捨てるように言うと、松井はまた明日実の胸に顔を埋めた。そんな友人を、穏やかな目で明日実は見つめていた。
「ありがとね、由奈。――でも、私もちょっと反省してるんだよね」
一つ溜息をついて明日実は松井の背中を撫で始めた。
「夏だからって露出大めで出かけちゃったし。あそこら辺、結構寂しい場所だったじゃん。あんな格好で夜にあんな場所一人でうろうろしてたら、襲ってくださいって言ってるようなもんだったかなって」
「それは違うと思うけど」
突然割り込んできた声に、明日実が目を上げて実崎を見る。
「水田さんはかわいい格好で行きたかったんでしょ? 彼女がああいう服装でおしゃれしてきてくれたら、俺だったらすげー嬉しいよ。悪いのは理性を振り捨てて道行く女を襲う痴漢バカの方。そんなの理由にならないよ。水田さんは悪くない」
「えらい!」
またもや松井が唐突に起き上がる。
「その通りだよ実崎君! それでこそ男だ!」
「いや」
実崎が苦笑して腕をさする。
「結局犯人逃がしちゃったからな。ボコボコにして警察に突き出したかったんだけど……不甲斐なくてごめんな水田さん」
「ええっ、そんなの全然!」
明日実が急いでかぶりを振った。
「謝ってもらう理由なんてないじゃん! めちゃくちゃ助かったんだから。ほんとありがとう」
「私も言う! 明日実を助けてくれてありがとう実崎君」
「どういたしまして」
実崎は、二人の謝礼攻撃に気を使わせない爽やかな笑顔で応えていた。
晃希は言うべき言葉を見つけられず、三人の様子をぼんやり眺めていただけだった。
――昨日、明日実はどんな服を着ていた? 麻里の浴衣姿は柄まで覚えているのに、どうしても思い出せない。
焦点を合わせると、明日実は晃希を見ていた。目が合った瞬間、向かい合った顔は困ったように笑った。晃希は自分が何を考えているか、明日実に見透かされていると悟った。
視線を引き剥がし、取り繕うように実崎に向かって頭を下げる。
「俺からもお礼を言わせてくれ。ありがとう、取り返しがつかなくなるところだった」
そしてまた明日実に向き直る。目を伏せて言った。
「送ってやらなくてごめん」
「だから晃希のせいじゃないってばー」
晃希の罪悪感を吹き飛ばすように、明日実は明るい声で許した。
それから場の雰囲気が元に戻り、食べる作業に戻った。
昼休みの終わりを告げるチャイムがなり、めいめいが立ち上がる時、実崎が顔を近づけてきた。
「別に、赤坂に礼を言われる筋合いはないから」
実崎を見ると、口だけが笑った感情の窺えない視線を寄越していた。女子二人には聞こえなかったらしい。
「じゃ、俺先に戻るから。アドレス知ってるから水田さん越しにでもまたお昼誘ってよ。お先」
ぱっと横を向くと、実崎は明るい声を残して行ってしまった。
明日実と松井は「またね」と返事した。
その放課後、下駄箱へ行く途中で実崎に会った。晃希は正直に顔を歪めそうになり、意志の力でなんとか平静を装った。
「お、今日はよく会うなー。俺はこれから部活。赤坂は今帰るとこ?」
そう言って、実崎が辺りを見回す。
「あれ、水田さんは?」
「今日は俺の予定があるから別行動」
麻里を塾まで送っていく日だった。
明日実は松井とグループの女子二人とで寄り道をすると言っていた。
「ふーん、その予定って妹さん関連?」
「それが? 実崎になんか関係ある?」
「別に。俺が女だったら妹優先の彼氏なんてイヤだろうなーと思っただけ」
好き放題に言ってから、友達に呼ばれた実崎は立ち去った。
――何が部活に専念したいだ。完全に明日実のこと狙ってんじゃねーか。