赤の消えた屋敷(5)
秋幸は教えてくれた。
その声には怒りが満ちていた。平凡な秋幸が怒りをあらわにしているのだ。
奴の名前は「下村登一」という。奴とは、この屋敷の主のことだ。苗字があるのは、彼が代々高官であることを示している。火の国で苗字を持つものは半分にも満たない。田舎者の悠真にも苗字は無く、悠真の故郷で苗字を持っているのは名主や医師など権力を持ったものだけだ。苗字を持つ者は親から子へと権力が譲渡され、将来が保障されている。
苗字を手にするには、苗字のある家に生まれるか、養子に貰われるか、己が出世して権威をてにするしかない。例えば、術士として名を上げるか、官吏として雇用されて立場ある地位まで出世するか。いずれにせよ、苗字を得る道は限られている。
つまり、地位のある者は苗字を得る権利を手にし、その繁栄を子孫に残すことが出来る。逆に、親が有能であっても、子が無能であれば家が取り潰されることもある。陽緋である野江や、朱将の都南、そして佐久や義藤にも苗字はあるはずだが、彼らは苗字を名乗らない。それは、己の繁栄を子供たちに継がせない決意でもあるのだ。苗字を使用するのは、豪商や地主たち。己の繁栄を子孫に継がせる存在たち。
下村登一もそうだ。親から、祖父母から、先祖代々繁栄を受け継いでいる。この屋敷も建てたのは先祖だろう。登一は、誰よりも紅を崇拝していた。そして、紅になりたいと願っていた。なぜなら、紅は色神だから。火の国の頂点に立つ存在だから。しかし、赤は登一を選ばず、登一は色神になれなかった。己が色神になれないことへの不満が、紅へと向けられた。そして、紅を超える存在になろうと考えたのだ。紅は、民からの信頼で成り立っている。登一は信頼を集められない。だから、人を使ったのだ。人の心を使ったのだ。そして、力を使える四兄弟を利用し、紅の暗殺を図った。
悠真は心の奥から怒りが湧き上がってくるのを感じた。なぜ、このようなことが生じるのか。悠真には分からなかったし、分かりたくなかった。怒りは悠真に決意を固めさせた。
――止めなくてはいけない。
復讐心でなく、決意が悠真を突き動かした。この状況を見過ごすことは出来ない。
「許せない」
自然と悠真の口から言葉がこぼれた。田舎者の悠真が固執するものは何もない。権力にも興味は無かった。生活が出来て、笑って生きることが出来れば十分だ。秋幸が伊汰の髑髏を撫でながら言った。
「人は誰しもが、手にしたものを手放したくないと思うものかもしれない。だから人は自分の力で物を手にしなければならない。自分の力で手にした物は、自分の力量の範囲内の物だから、手放さないように苦戦することも無い。俺だって、手にした物を手放したくないよ。孤児だった俺は、義兄弟と呼べる仲間を得て、二度と一人に戻りたくないと思っている。家族と呼べる子供たちを失いたくないと願っている。登一は、多くを手にしすぎたんだ。先祖が登一の許容量を超えた物を与えすぎたんだ。だから、登一は苦労した。手放さないように、家の顔を潰さないように、そして、己が潰れていった。――そういう事だよ」
秋幸の言葉で悠真は己を振り返った。悠真は何を持っているのだろうか。これまでだったら、悠真が持っているのは故郷だった。しかし、故郷は破壊された。残された悠真は、何も持っていないのだろうか。否。悠真は持っているのだ。赤の仲間との絆を、紅への気持ちを、友を。悠真はそれを手放したくない。そのために、登一を憎む。
悠真が抱いている気持ちは、これまでとは違う。奪われた物の復讐ではなく、己の大切な物を守る為の敵対心なのだ。
「大丈夫」
悠真が言うと、秋幸は不思議そうに悠真に目を向けた。どういうわけか、悠真は笑いたい気持ちだった。不思議そうな秋幸がおかしいのか、自分がおかしいのか、理由は分からないけれども笑いたい気持ちだった。
「登一は、多くの物を持っていると思うんだ。でも、それは物でしかない。俺なんて田舎者だから、そういう物は何も持っていないよ。でも、俺は登一より多くの物を持っていると思うんだ。人との繋がり。人との繋がりが、何よりも大切な物だと、俺は思うんだ。だから大丈夫。俺たちは登一より多くの物を持っているから、負けるはずがないんだ」
小さく、秋幸が笑った。
「悠真は、面白いな。悠真が一緒だと、負ける気がしない」
苦笑した秋幸の表情が柔らかく崩れ、緊張の糸がほぐれていく。悠真以上に秋幸は緊張していたのだ。秋幸が大人だから、表情に出さないだけなのだ。悠真は立ち上がった。
「許せない。必ず、必ず止めよう」
悠真が言うと、秋幸は微笑んだ。
「もちろん。一緒に、こんな支配を終わらせよう」
秋幸が言って、悠真に手を差し出し、悠真は迷うことなくその手を取った。