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一色  作者: 相原ミヤ
火の国と紅の石
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赤の色神紅(1)

 むせ返るほどの香の匂いが、襖を開くと同時に辺りに漂った。悠真の心臓は嵐の海のように激しく脈打っているのに、頭は晴天の空のように冴え渡っていた。紅は色神。この火の国の頂点に立つ。紅に面通しを行うことは、普通の人生ではありえない。誰もが感極まるはずだ。なのに、悠真は紅に対して尊敬の念は抱いていない。故郷を、家族を奪った存在をどうして尊敬することができようか。悠真はそれほど大人でない。頭を下げたまま目線だけを上に上げてみると、朱塗りの部屋が見えた。それ以上はどんなに目線をあげても何も見えない。それが、自分と紅との間にある長く、果てしない距離のように思えた。

「野江、よく戻った。どうだった、惣次が最期の人生を生きた村は?」

穏やかな男の声が響いた。その声はどこか悠真に惣次を思い出させた。

「壊滅していました」

野江が答えた。悠真は声の主が紅なのだと思った。紅は色神だ。通常は紅が男なのか女なのか、若いのか老人なのか知らない。ただ、その穏やかな声の主は色神の印象とは異なった。この部屋に満ちる鮮烈な赤い色と穏やかな男の声は印象が異なるのだ。不思議な気分だった。何より不思議に感じたのは、その声がとても惣次に似ていたからかもしれない。穏やかさが、大きさが、包み込むような広がりが、祖父と酒を酌み交わしているときの惣次と同じだったのだ。むせ返るような香の匂いも、男とは不釣合いだ。

「そうか……惣次は死んだんだな。最期まで紅の石を使い続けるとは、惣次らしい」

僅かに男は苦笑していた。紅であろう男は言った。その声がとても哀しげで、色神が下緋の惣次を案ずることが意外だった。

「はい。そして、惣爺の石をこの子が……」

野江が悠真を指した。悠真は頭を下げたまま、二人の会話を聞いていた。耳だけで部屋の中の様子を感じ、部屋に満ちる鮮烈な赤を全身で感じようとしていた。その二人の会話に割り込むように、気高く高貴な声が響いた。

「遠爺、わらわにもしゃべらせよ。義藤、野江、顔を上げよ。よう戻ったな、野江」

それは、女性の声のようで、少年のような、不思議な声だった。確かなのは、その声が発せられると部屋に満ちる鮮烈な赤が一層強まるということだ。赤い声が花開き、赤い声が部屋の空気をすべて変えていく。

「気遣い痛み入ります」

野江が答えた。悠真は紅に顔を上げることを許されていない。何も見ることが出来ないから、悠真は耳で必死に辺りを探った。この部屋には惣次と似た声の男と、高圧的な女性がいる。どちらが紅なのか、悠真は想像がついていた。このむせ返るような香の匂いも、目を逸らしたくなるような存在感も、赤に相応しいのは彼女だ。悠真は赤を感じていた。襖が開いたときから感じた色。包み込むような大きく鮮烈な赤が目の前にあった。

「わらわに分からぬことなど、何もあらぬ」

悠真は彼女が紅であると思った。高貴な香の匂いがそれを示していた。香の匂いも、気高い言葉も、全てが彼女は紅であると示していた。

「あら、そうだったわね」

野江は苦笑していた。

「どうであった?」

一言、彼女は言い、野江は答えた。

「漁村は壊滅です。生存者は三十余名。降り続く雨に山が崩れました。山が崩れるまで、あたくしたちは中に入ることが出来ませんでした。外部からの進入を阻みつつ、内部で雨を降らせていました。隠れた術士がいるのでしょう。それも、強大な力を持った。先代前の紅の石を隠れ持つ者は限られています。おそらく官府の仕業かと――一言、付け加えるのならば、村を破壊して相手を殺してでも止めろと言われればできなくともありませんでした……」

まるで自らの実力を伝えるような野江の発言に、苦笑する紅の声が聞こえた。

「分かっておる。野江はわらわの自慢の、歴代最強の陽緋じゃ。野江の力は信じておる。しかし、相手も相手じゃ。わらわを引きずり出すために、そこまでするとは。愚かな奴らよ。したところで、わらわは要求を呑まぬのに」

その言葉で、悠真の中の何かが結びついた。祖父が死に、惣次が死に、村が滅びた理由が結びついた。全ては、紅に関すること。紅が何かの要求を拒否したから、村は滅び、悠真は大切な者を失った。悠真の中の何かが沸々と沸き起こった。憎しみ、絶望、全てを巻き起こし大きな波を作り出していく。村を滅ぼしたのは、紅だ。間違った矛先を向けていることは理解している。けれども、自分を抑えることが出来なかった。

「あんたが……」

村が滅んだのは、紅のせいだ。悠真は顔を上げた。叱責され、処罰されるのは覚悟の上。今の悠真は、それを考える余裕がない。目の前に広がるのは、朱塗りの壁が鮮やかな小部屋。畳みの緑色が朱塗りの壁の鮮やかさを際立たせ、小窓から光が差し込み、部屋の中を照らす。一段高くなった奥にかけられた簾は半分開けられ、ひじ置きにもたれかかるように、しどけなく横たわっているのは、紅色の着物が鮮やかな女性。黒髪は結い上げられ、紅い簪が美しい。赤が高貴とされる火の国では、唇に紅をさす人はいない。鮮やかな口紅と、紅く線が引かれた目元がとても魅力的だった。妖艶で、儚い。悠真は彼女以上に化粧が似合う人を思い浮かべることが出来なかった。間違いなく、それは紅。誰よりも鮮烈な赤を持っている。紅は夢に現れた赤とどかがと似ていた。高圧的な雰囲気が同じだ。紅の横に控えるように、惣次と似ている男が座っている。惣次と似ているが、惣次とは異なる。赤く美しい羽織が二人の違いを示していた。惣次は死んだ。同一人物のはずがない。それに、下緋の惣次と赤い羽織を結びつけることが出来なかった。

――赤は美しい色じゃろ。

夢に現れた赤の声が悠真の脳裏に響いた。憎いはずなのに、悠真の目は彼女を見つめ、心は彼女を捉えていた。とても美しい人。赤が鮮烈に悠真の心に刺さる。赤が視界に煌く。

 紅は赤い煙管を口にくわえていた。煙管を持つ指先の爪は紅く塗られ、身を預けるひじ置きの隣には火鉢と香立てが置かれていた。

「あんたが滅ぼしたんだ!」

愚かな行為だ。悠真は、感情に任せて紅に飛び掛った。野江の隣を駆け抜け、義藤の隣を通り抜けようとした。悠真は野山を駆けて育った。足腰は丈夫で、悠真より速く駆けることが出来る者は村にいなかった。筋肉が躍動し、心臓が高鳴る。強い緊張の中、復讐心だけが、悠真を突き動かしていた。何もしなければ、悠真は物と同じだ。再び生きるため、夢を見るため、現実を走るため、悠真は目の前の紅を憎んだ。紅を守る義藤が体を起こす。世界がゆっくりと動き、悠真の耳に自分の呼吸の音が響く。

「うわあああ!」

悠真は己を奮い立たせるために大声を上げ、何かに取り付かれたように、悠真は義藤の隣を駆け抜けようとした。しかし、相手は紅を守る存在。火の国でも卓越した力を持っている。

「愚かな」

一言、耳元で響いた。荒立つ悠真の感情とは逆に、義藤の声は静かで、水の上に生じた小さな波紋のようであった。

 白刃を首に突きつけられ、悠真は身動き一つとることが出来なかった。義藤は悠真を容易く制し、格の違いを否応なしに感じさせられた。抜刀した義藤が悠真と紅の間に割って入り、悠真に白刃を突きつけるのに要した時間は一瞬のこと。野江に地に倒された時と同じように、悠真は何が起こったのか分からないのだ。

「わらわが何を滅ぼしたと?」

紅がゆっくりと体を起こした。紅が動くたびに、鮮やかな赤い色が動く。そして、悠真の喉に白刃を突きつける義藤に言った。紅の声は赤く輝く。

「義藤、案ずるでない」

そして紅は悠真に言った。

「そちは、生き残りとな」

紅の持つ煙管から、白煙が上がっていた。紅の動きの一つ一つが優美で、悠真の心を惹き付けた。歩く姿が気高い。流すような横目が美しい。あまりに高貴で、あまりに気高い。それが紅なのだと示していた。彼女以上に、赤が似合う存在はこの世界にいない。憎い。紅が憎い。赤が憎い。なのに、美しさから目を離すことが出来ない。

「わらわに何の罪があると申すのか?」

紅は優雅に微笑み言った。赤い口元がほろりと綻ぶ。

「野江。小猿を連れてくると決めたのは野江じゃ。何が野江を動かした?」

紅の持つ煙管が野江を指した。紅の白く細い手が持つ煙管がゆらゆらと白い煙を上げていた。朱塗りの下地に金の装飾が施された、美しい煙管だ。

「まあ良い、ここへ小猿を招いたのはわらわじゃ。小猿の村が滅びたのは、わらわに要求を呑ませようとした者に違いない。そこに惣次がいると知っておったのじゃろう。わらわたちが惣次まで見捨てるとは、相手も思っておらんじゃったじゃろうな」

悠真は紅の口から下緋である惣次の名が出てきたことに疑問を持ったが、何も問うことが出来なかった。何も問えない自分。無力な自分。目の前には、紅がいる。果てしない怒りが込み上げてきた。紅は知っていたのだ。要求を呑まないことが、村の滅亡につながることを。紅だけでない。野江も、義藤も知っていたのだ。知っていて、見捨てた。紅は高貴な存在だ。色神であり、火の国を支える唯一無二の存在。だからと言って、悠真にとっては見知らぬ人だ。村の方が大切だ。村を見捨てた彼らが許せなかった。

「だから、あんたが殺したんだ!」

悠真の感情が爆発し、色が悠真を包んだ。一つ、赤い色に悠真は心の中で手を伸ばした。

――わらわの色を貸そうぞ。

赤が悠真に言った。悠真は赤の声に心の中で頷いた。


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