赤の城
紅城は天守閣を持つ大きな城。朱塗りの柱に白い壁が美しい。板張りの長い廊下は塵一つ落ちておらず磨き上げられている。障子の隙間から見える部屋は、一面畳が敷き詰められ、部屋の中で書物を広げて仕事をする人の姿も見えた。悠真は、高価な畳を見たのは初めてだった。幾重もの階段を上り、廊下を進む。そこは張り巡らされた策のように複雑で、紅を守っているようだった。悠真は粗末で泥だらけの着物を着ていることが恥ずかしく、穢れた自分が歩くことで城を汚しているような気がした。すれ違う人々は、野江に深々と頭を下げていくが、悠真は自分が笑われているような気がした。
「悠真は自分で紅城へ足を運ぶことを決めたのでしょう。前を向きなさい。あなたは、思ったまま走り出す。そのほうが自然であなたらしいわ」
野江の言葉は的を射ていた。
上へと昇り、窓の外に広がるのは壮大な景色。長い廊下の先に一つの木枠の扉があり、扉の前には若い男が座っている。片膝を立て、野江と同じ、柄も鞘も赤い朱塗りの刀を立てて持っていた。年齢は野江より下。悠真よりは上だろう。藤色の着物に、やはり赤い羽織が印象的だった。赤い羽織を着ていることから、扉の前の若い男も紅に近しい存在だろう。そして、高い地位を持っている。若い男の目が、じっと悠真を見ていた。
「調子はどうかしら?義藤」
野江は若い男を義藤と呼んだ。野江が気安く呼ぶから、悠真は彼が野江とも近しいのだと感じた。そして、惣次の話からも義藤の名が出てきたことを思い出した。惣次は、今、悠真の目の前にいる男のことも知っていた。ますます、惣次のことが分からなくなった。同時に、悠真は目の前の男が恐ろしく感じた。まるで、抜き身の刃。鋭く、近づくものを傷つける。悠真は喉元に刀を突きつけられたような錯覚を覚えた。
「それは俺に対してのことですか?それとも紅に対してのことですか?」
悠真は義藤の言葉に戸惑った。彼は、紅を呼び捨てで呼んだ。ここは、陽緋の野江の本名を呼ぶだけで睨まれる場所。そんな中で紅を呼び捨てにすることは、ありえないこと。悠真の目の前にいる男は、色神紅と近しく、色神紅を呼び捨てにできる存在なのだ。
「大仕事を終えて戻ったあたくしに、労いの言葉の一つも無いのかしら?」
野江は立ち止まることなく前に進んだ。
「俺は、その小猿を信用できないので」
義藤は鞘に入れたままの朱塗りの刀を差し出し野江の行き先を阻み、野江はその行為に不機嫌さをあらわにした。悠真は自分が信頼されていないことは、紅城へ足を運んでからずっと感じていた。誰もが見せる敵意と不信感。ただ、野江が一緒にいるから野次を言われることも無く、取り押さえられることも無いというだけだ。術士の筆頭陽緋である野江は、それだけの権威を持っている。そんな野江に逆らうのは、命知らずの愚か者のすること、もしくは野江と同等の立場にある者のすることだ。抜き身の刃のような義藤はおそらく後者だ。隠し切れない品の良さを義藤は持っている。田舎者の悠真とは異なる品の良さが彼にはあるのだ。
「この子をここへ招いたのは紅よ。軽率な真似はお止めなさい。それに、あたくしの目を疑うつもりなのかしら?」
野江の声色はいつもと同じだが、言葉の端々に苛立ちを隠していた。
「どんな理由で、小猿を招いたのか分からない。俺は朱護だ。紅を守る」
義藤は、まっすぐな人のようだった。陽緋の言葉にも意見を変えようとしない。そんな義藤がおかしいのか、野江が苦笑した。
「悠真は惣次の石を使ったわ。不思議よね。他者の紅の石を使えるのは、紅だけのはずなのだから」
義藤は一度悠真を睨み、再び野江に目を戻した。
「ならば、なおのこと紅には近づけられない」
もちろん、悠真も敵意を向けられることに苛立った。義藤は悠真を害のある敵だと認識しているのだ。敵だと認識される覚えは悠真にない。なぜなら、悠真は家族を失い、故郷を失った。被害者であり、復讐者なのだ。感情は混乱し、苛立ちは隠せない。紅城という権威ある場所に足を運び、赤い羽織を許された立場のある人々に直面しても、怯むことは許されない。
「ちょっと待てよ」
悠真は足を踏み出した。このまま斬り殺されるかもしれない。それでも悠真は構わなかった。あの嵐の日に、失いかけた命だ。未来は土砂に流され、未来は祖父や惣次と共に死んだ。この場に己の血を流し、紅の顔に泥を塗りたかった。一歩足を踏み出した悠真と同じように、義藤も軽く腰を浮かせた。
「おやめなさい、悠真」
野江が悠真の前に手を出し、行く手を阻んだ。
「あなたもよ。刀を引きなさい、義藤」
野江に従うのではなく、彼自身の意志で義藤は刀を下げた。義藤は、本当に悠真の命を奪おうと思えば、野江の制止に従うはずがない。悠真に強い敵意と殺意を向けつつ刀を下げる。何を考えているのか分からない人だと悠真は思った。悠真には、義藤の行為が、紅が悠真を試している一貫のように思えるのだ。そんな悠真の気持ちを知ってか知らずか、野江は小さく微笑み、廊下に膝をついた。
「座りなさい、悠真。紅の前よ」
野江に言われて、悠真は慌ててその場に正座をした。汚れた服の土が、廊下に汚れを落としていく。野江と義藤が深く頭を下げるから、悠真もそれに習って頭を下げ、ゆっくりと流れるような所作で義藤が襖を開いた。