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一色  作者: 相原ミヤ
火の国と紅の石
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始まりの赤(2)

 その年の梅雨は雨が多かった。幾つもの嵐が訪れ、海は荒れ、何日も漁に出ることが出来なかった。嵐なのに風はさほど無く、尋常じゃないほどの雨が降り続いた。砂浜には、流木や千切れた海草が打ち上げられた。雨になると祖父の体の調子が悪くなる。悠真の祖父は年のためか、痛む膝をさすり、梅雨時期だというのに囲炉裏に火を入れていた。歩くのすら間々ならなくなった祖父を見て、悠真は胸が痛み晴天を望んだ。

 嵐は、何日間も村の上に留まり続け、下緋の惣次は、灯台に篭り船が難破することを恐れていた。悠真が惣次に握り飯を届けた時、惣次は灯台から海を見ながら悠真に言った。

「嫌な感じじゃ」

惣次の言葉に、悠真は首をかしげた。

「紅の石が反響しておる。野江に勝つほどの力か……」

惣次が海を見る目に迷いは無かった。

 惣次の目は、悠真に不安を与えた。多すぎる雨が地に戻ることなく山肌を流れ落ちてくる。大地が悲鳴を上げていた。

「非難しよう山が崩れるかもしれない。じっちゃんや村の人を呼んでくるから」

悠真が掃除に言うと、惣次は頷いた。

 雨の中、悠真は走り、村の家の一軒一軒の扉を叩き、灯台への非難を勧めた。嵐の中では笠も蓑も役に立たない。風に耐えて、悠真は高い波が打ち寄せる海岸を走った。首を横に振るもの、悠真の言葉に耳を傾ける者、反応は様々だった。

「逃げれるもんから先に連れて行き」

祖父がそう言うから、悠真は逃げることに賛同した村の人を連れて灯台へ走った。子供を抱き、肩を貸し、何度も、何度も灯台と村を往復した。灯台の中は非難した人で溢れ、誰もが下緋である惣次を頼っていた。非難をすることを決めた者の中で、残るは、悠真の祖父と数人の老人だけとなった。必然的に、老人が最後になるのは、散ることの美学を持つ火の国独自のことかも知れない。田舎のこの村には、その精神が強く根付いている。

「もう一回行ってくる」

悠真は再び嵐の中、外へと出た。

 灯台は海へせり出した高台にある。高台から石の階段を降りて砂浜を目指した。嵐の勢力が弱まることはない。夕方だというのに、外は夜のように暗く、雨は冷たく悠真の体力を奪い、海は大きな音を立てて唸る。地の底から響くような音。その音に、悠真は足を止めた。何か、大きなものが迫ってくる恐怖を覚えた。

 直後だった。悠真は息を呑んだ。海岸に面した里山の大半が崩れ落ち、悠真の家を呑み、学び屋を呑み、船を呑み、村の大半を呑み込み、土砂が川のように流れ、微かな明かりに照らし出されるのは、茶色い世界。流れる土砂が大地を揺らし、全てを洗い流す。祖父が生きている可能性は皆無。土砂は思い出を刻んだ家を、両親が生きた証を、全てを洗い流す。迫る音。唸る地面。この世の光景でない。地獄絵図のような情景。

「そんな……」

悠真は言葉を失った。ごつごつした祖父の手の感触が未だに残っている。船の舵を操る逞しい腕も、禿げた頭も、酒を飲んで上機嫌に語る声も、父と母の位牌に手を合わせる後姿も、全てが鮮明に思い出される。その祖父の姿が瞬く間に茶色い土砂に呑み込まれた。二度と見ることが出来ないのだ。何かが悠真の中を通り過ぎた。茶色い色が、流れる緑の木々が、悠真の胸に迫った。

――果てしない孤独

悠真が感じたのは「孤独」だった。この広い世界でたった一人残されたような気がした。悲しみも絶望も感じない。何も考えられないのだ。世界の色が消えたような気がした。

「悠真」

悠真の名を呼んだのは惣次だった。惣次の手が悠真の肩に乗せられた。惣次の手の重みが、悠真の世界に赤い光を取り戻した。赤に導かれるように、少しずつ色が戻ってくる。

――色を憎んでは駄目よ

誰かが悠真に言ったような気がした。それは愛した村が消えた日の出来事だった。

「誰も生きておらん。紅の石が言うとる」

惣次はそう言うと、流れる土砂に手を合わせ、深く頭を下げた。

 悠真たちは、灯台で身を寄せ合い朝を待った。その数、三十人ほど。村の人口の半分にも満たない。子供が泣き、眠りに落ちる。大人だけが不安を抱え、手を合わせる。無事に朝を迎えられるのかという不安。これからの生活に対する不安。下緋である惣次が持つ紅の石が淡く輝き、人々のやつれた顔を照らしていた。赤が人々に安らぎと勇気を与える。

「何も心配することない」

言ったのは惣次だった。

「今の紅は、とても聡明で優しい子。あの子に任しておけばいい」

惣次が言うから、悠真は未だ見ぬ紅のことを思い描いた。男なのか、女なのかも分からない。年も分からない。けれども、紅という存在だけは、火の国に生きるもの全てが知っている。もちろん、悠真も知っている。

「今の陽緋の野江は歴代最強の術士。美しく、術だけでなく剣技にも優れる。あの子だったら、多くの術士を束ねていける」

惣次は続けた。

「今の朱将の都南は、剣士としても、策士としても優れている。術は使えぬが、柴の鍛えた刀が補っている。多少荒っぽいところもあるが、不器用なだけ。他者に気遣いの出来る子だ」

惣次はそこまで言うと、村人たちを見渡し微笑んだ。

「紅を守る朱護頭の義藤は、若くて頑固だが頭の切れる子だ。術に優れ、剣技に優れる。子供の頃から紅を守るために戦い続けてきた。生まれながらの才にも恵まれ、努力も惜しまない。数年後が楽しみな子だ」

惣次は紅を守る方々の名を知り、気安く呼んでいる。それは、今までの惣次の印象からは考えられないことだった。惣次は弱くて年をとった下緋で、それ以上でもそれ以下でもない。下緋は、術士の中でも最下の存在。紅に近づけるような立場でない。なのに、どうして惣次は知っているのか。そんな疑問を悠真は持ったが、それを問い詰めることは出来なかった。惣次の言葉が悠真を始めとし、村の人々に希望を与えているからだ。絶望的な状況でも、紅が守ってくれる。そういう希望が満ち始めた。火の国で生きる民にとって「赤」は希望の色なのだ。

「他にも学者の佐久やからくり師の鶴蔵、加工師の柴や、数え切れない子たちが紅を信頼し、支えている。何の心配も要らない」

惣次の言葉も田舎臭さが抜けている。噂でなく、惣次自身が紅を知り、紅の回りの優れた術士たちを知っている。悠真はそんな疑問を覚えたが、紅の話を聞いて心が和んだ。紅は色神であり、悠真たちが崇拝できる存在だから、紅という存在が疲れ果て、希望を失った悠真たちに光を与えた。赤い色を与えた。身を寄せ合い、濡れた体を乾かし、うつらうつらと悠真は夜を過ごした。祖父が死んだという実感はまったく無い。朝日が昇る頃、再び嫌な予感を覚えた。嵐は弱まることを知らず、再び地鳴りが響く。突然、惣次が人々を掻き分け、年齢を感じさせないほどの勢いで駆け出した。直後、高い波が灯台に迫った。大量の海水が窓を押し破り灯台の中へ入り、惣次の紅の石が輝き、風を巻き起こし水を防ぐ。しかし、それは一時のこと。紅の石の輝きが弱まった直後に、鋭く剥がれた木の柱が惣次の胸に突き刺さった。惣次の赤い血が飛び散り、悠真の頬につき、地鳴りが響き、山も崩れ始めた。紅の石はまだ水を防いでいる。それが、長く持たないことは明らかだった。一刻の猶予も無かった。

 悠真は惣次と同じように人々を掻き分けて駆け出した。強い風と雨が悠真を阻もうとしたが、悠真は止まらなかった。悠真が惣次に駆け寄ったとき、彼は息も絶え絶えの状態で、空を見たままの目に輝きはない。助かる見込みはない。悠真は何も出来ない。術士である惣次が何も出来ないのだ。悠真に何かが出来るはずがない。しかし、悠真は何かをしたかった。悠真の後ろには、生きることを切望している村の人たちがいる。親も祖父も亡くした悠真にとって、村の人が家族だった。

惣次の紅の石がそこにあった。

「……悠真、お前なら出来る」

惣次は倒れ、目を見開き悠真を苛烈な目で見据えた。駆け寄った悠真に、惣次は血で汚れた手で紅の石を差し出した。燃えるような赤。赤は美しい色のはずなのに、血の赤は少しも美しく思えなかった。残酷で、恐ろしい色のようだ。それでも、悠真は赤にすがった。今の悠真を救えるのは赤だけなのだ。

――力を……

悠真は思った。手に紅の石を握り、願った。

――紅の石は、守る力があるはずなんだ。力を……

悠真の脳裏に死んだ祖父の姿が見えた。祖父と酒を酌み交わす惣次の姿が見えた。

――力を……

直後、悠真の視界が赤く染められた。赤い色が鮮やかに輝いた。体の中を熱い何かが駆け抜けていく。赤、青、黒、白、黄、燈、緑……。数え切れないほどの色が悠真の身体を駆け抜け、赤だけが、鮮烈に強く輝いた。

 そこには風も雨も冷たさも無い。悠真は赤い光の中にいた。振り返れば、身を寄せあう村の人たちがいた。悠真の手の中の紅の石が輝き、強い力を発していた。

「ありがとう」

悠真は言った。それは、本来術士としての才覚がない悠真に力を貸してくれた、紅の石への礼だった。そして、村の人を守るために命を懸けてくれた惣次への礼だった。

「ありがとう」

悠真の頬を涙が流れた。助かったという安堵が悠真を包み込み、気づけば、惣次の紅の石は、色を失い砕けていた。それは惣次が死んだからなのかもしれないが、詳細は術士でない悠真には分からない。悠真は、紅の石に相応しい存在でないのだから。


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