さよなら、
夜、どこかで獣の鳴き声が聞こえた。野犬かも知れない。四方を山で囲まれた盆地だから、あり得ない事ではないだろう。声は何べんも続いた。木々やら雲やら電柱やらに反響するそれは、俺の体を掴んでは離す。その度におれの心臓が動きを止めてしまう。
線香から噴き出す細い煙が、何重にも重なり、おどろおどろしい手となって俺の背中をしつこく撫でまわした。気味が悪くなる。悪い想像が頭をよぎるには十分だった。思い浮かぶのは、汗腺から毒素をまきちらす巨大な体躯。鋭い眼はピーナッツ状にひん曲がり、裂けた口で醜く笑う。
なんと、化け物ではないか。
相手が悪い、この場から今すぐに逃げてやりたい。気づけば、もうおれの矮小な心はこの化け物の舌の上に乗っていた。そんなものがこの世にいるかも怪しいのに。だが体は勇敢に――または現実的に――戦いを選んだ。あれよという間に踵を返す。目の前には、傷だらけの猿がいた。目を凝らしてみると、堅そうな体毛に黒っぽいものがこびりついている。内窪んだ目が二つと、小さく鋭い口がまとまった顔が、おれを睨んだ。
「ああ、今のはお前か」自分でこいつではないだろうと思いながらも、うわずった声で聞いた。とにかく今は声の主を見つけて落ち着きたかった。
「違う、犬の声だ。そうに決まってる」一瞬、『今のは』という言葉に恐怖したように見えたが、すぐに無表情に戻った。しわがれていて、かつ甲高い声だった。おれは安心した。万歳、ただの猿。肥大化された超現実的な妄想とは大違いだ。
「お前は誰だ。あの娘はどうした」予想外の逢引きに驚いているらしい。今までおれの存在すら知らなかっただろうから、仕方がない。おれも初対面だった。
「その娘の兄だよ」
「アニだと? 何だ、それは?」
「同じ家で先に生まれた雄ってやつさ」安心した反動でおれの心は尊大になっていた。
「家なんて人間の理屈なんか知るか。だから何だ。お前なんぞに用は無い」猿は牙を剥いた。身なりは貧弱でも、野生の威嚇にはやはり凄味がある。おれはたじろいでしまった。「あの娘は何処にいる」
「死んだよ」答えるまでに時間がかかった。しかしハッキリと言うことはできた。勇気を振り絞り、猿を見下ろして笑顔を取り繕った。
「○×病でな、眠るように逝った。もう起きない。もうお前の嫁になんかならない」顔がひきつっていたらどうしようと不安になる。
「……」
猿は黙りこくった。ざまぁみろだ。人生恐らく初めてであろう胸がすく思いを初めて味わった。猿の牙は口の奥に引っ込み、毛むくじゃらの体はみるみるうちにしぼんでいく。おれの笑顔は本物に変わっていく。この老いた猿を打ち負かした気分を味わった。
「嘘をつけ」一つテンポの遅れた言葉が飛んできた。「前会った時は、そんな素振りはなかったぞ」
「二か月前はな。お前に最後に会った後、倒れた。そのまま死んだんだ」人間の時間間隔で言うとかなり間が空いているが、畜生にその理屈は通じるだろうか。
「お前が殺したな?」また牙を剥いた。怒りや疑念が入り混ざって声が震えていた。期待や予想、希望がつぶされると、見境なく八つ当たりしたくなるのは、人間も猿も同じらしい。
「復讐したけりゃ医者になるこった。特効薬でも作ってくれ。気の毒だが犯人は俺じゃないよ」怒りの矛先を別の物に向けないと、おれの喉元を噛み千切りかねない剣幕だった。おれは怯え、必死に生きようとしていた。
「本当に死んだのか?」猜疑心の強い猿だ。「見せてみろ」じりじりと間合いを詰める。
「どれを見せりゃいいんだ」おれはたじろいでしまった。
「あの娘を、だ」
「死んだっつったろうが」
「さっき聞いたよ」わざとらしくうんざりしている素振りを見せた。その様子が気に入らない。
「死骸を見せろ」根性の悪そうな目玉がこっちを覗きこんだ。
何て趣味の悪い猿だ。
俺たちはタクシーに乗った。汚い猿が座席を汚さないように、タオルを運転手からもらった。その上に猿がちょこんと乗る。真後ろに猿が座ったのをバックミラーで見て、運転手は肩をこわばらせた。この世で噛みつく畜生ほど厄介なものは無い、と分かっているらしい。すると、両手を使って何か大事そうに持っているのを見つけた。気になって開けさせてみると、細いソーセージがべたべたとしたものに和えられて現れた。血まみれの指だった。
「群れの連中にやられた」恨みつらみをきつい口臭に乗せて運んでくる。
「人間を嫁にするといったら……奴ら訳も聞かない内に殺しにきやがった……最近の若いやつは……人の話も聞かんし、感謝も知らないでいやがる……お前らがガキのころ、おれは毛づくろいも、餌取りもしてやったことは無い……まず義理が無い……阿呆な面で小便垂れ流していたお前らをおれはずっとが嫌いだったよ……けどな、お前らががきのころ、指を食うことも、子を孕まそうとしたこともこれっぽっちもないんだ……狂ってやがる! ……全く、全く……『お前なんか猿じゃない』『気ちがいだ!』……何も分かっちゃいないんだ……おれがどんなにお前らの気に食わないことしたとしても、おれは何の迷惑もかけちゃいない……おれはただ嫁を決めただけなのに……低能め、エゴの塊どもめ……殺してやる……」
頭を振りまわしながら、歯をカチカチと鳴らす。空気にかみついているのだ。その若い衆を皆殺しにする妄想でもしているのだろうか。
猿の内部事情などに何の興味もなかった。
ぼんやり考える。あの娘は、何故こんな猿を拒絶しなかったのだ。老けこんだ畜生のくせに、鬱鬱として気位だけは高い。今ここにいるはずの無い若者をドロドロに呪って、バランスを保とうとしている。逃げ腰の主張だ。強さが感じられない。デリケートというよりも、小心者と言ったほうがこれには合っている。母性が働くとしても、器が大きすぎる。ろくな旦那になるわけがない。縄で嫁を引きずり回す、井の中の鬼畜になるに違いない。もう少し考えれば分かったはずだろう。こいつはただの根暗猿だということが。
「あの娘だけはおれのことを決してけなさなかった……蔭でも言わなかったと、信じられる。会う約束なんてしたことなかったのにいつも会おうと思えば会うことができた。本当に分かりあえてたんだ、おれたちは……! 死ぬわけがない。ほら吹いていたなら……お前も殺してやるからな」俺を睨みつけながらこんな物騒なことを言う。
さっさとくたばれ。
おれは窓の外に意識を移した。黒い木が続き、間にひっそりと電信柱や、無人販売所が立っている。
すると――黒い影がその中を縫ってかけているのに気づいた。かなり大きい。軽トラックほどに見える。その動きのたくましさは、犬や狼を連想させた。タクシーを追いかけている。ただの動物とは到底信じられないスピードだ。
「イルラカムイだ!」猿が顔の下から出てきて言った。小刻みに震えている。
「イルラカムイ?」
「死のカミだ。丸飲みにして、死に損ないをはっきり死なすのだ。やつらめ、おれの事ちくりやがったな!」
「まさか車ごと丸のみって事は無いよな?」俺のこの発言に運転手がビクッとした。金貰って車を転がしているだけの立場にとって、これはたまったもんじゃない。
「どうしてこうなる? 惚れたが悪いか? バカ言うな。じゃあなぜみんな嫁も子もいて、俺だけいないのだ?」
猿は、ぶつぶつ言ったきりうずくまった。バスケットボールほどの毛玉は、どうやら死に絶えようとしているらしい。今誰を恨んでいるのだろうか。追い出した群れの連中か、それともこんな状況に陥った運の悪い自分なのだろうか。どちらにせよ逆恨みか、先に立たない自己嫌悪でしかない。
しかし、恐怖の影は車に向かって突進することもなく、しばらくして、静かに木々の中に消えていった。
妹の墓は、小高い岡の上の集団墓地の一角にある。月の光を浴びて、青白く光っていた。その影響か、昼間よりも墓石が細長く見える。ほとんどの墓の名前は同じ名前で区別がつかない。けれども、知り合いの墓は決して間違えることは無い。こういう場合、血縁者の奇妙なカンはいつでも働くものだ。
ひびわれた石階段を上り目の前に来た時、猿はまんじゅうをほおばっていた。供え物をちょろまかしたようだ。
「そんなもの食ったら罰が当たるぞ」
「どうせ死ぬ」あのイルラカムイとやらを見てから、呆けたような、吹っ切れたような雰囲気を漂わせていた。あれは、タクシーをおりた音もこの猿を来る気配は無かった。どこにも姿は見えないが……
「あいつは、どこへ行ったんだ?」
「どっかに隠れていやがるんだ。あいつらは仕事を見せたがらない。見られてしまえば、他のイルラカムイがそいつを殺しに行くからだ」
車に運ばれていたとき、手を出さなかった理由はそれで分かった。カミと言えど自分の命は惜しいと考える。賢明な生き物だ。
「それよりあの娘は何処だ?」
「ここだよ」俺が指差す先に、猿は目をやった。墓石がある。『△△家の墓』と彫られている。
まんじゅうを真下に落として、猿は動かない。ポカンと口を開けたままだ。
「何を言っている。ただの石ころではないか」
「この下にいるんだよ」
「……」
「掘り起こすなんて言うなよ。もう寝かせてやれ。ずっとヒィヒィ言ってたんだ」
ちょこちょこと墓に近づいて、彫られた文字をなぞった。
「何で死んだんだ。いつも上手いカキをくれたじゃないか。おれの子を産んでくれると言ったじゃないか」
所々禿げた背中に指す月の光は、この畜生の涙に見えた。
振り返った猿の顔は、陰で真っ黒に塗りつぶされて、どんな表情をしているのか分からなくなっている。
「おれはもう何処へも戻れない」
声に残っていたのは、取り返しのつかない事実にぶち当たった後悔と喪失感だったのだろう。
「お前のために逃げてきたんだ。お前がいなくなったら元も子もないじゃないか!」
吹き出した怒りの矛先を、自分に突きつけて何が見えたのか、俺には分からなかった。
まるで操られているかのようにふらふらと立ち上がり、猿は明後日の方向に体を向けた。
「おれがそばにいなきゃ、死ぬんだろ」不覚にも情けをかけてしまった。
「もういい。しがみつくものがなくなった――それに、死ねばあの娘と握手くらいはできるだろう」
自分を愛する余り、自らの枠からはみ出し過ぎたせいで、生きる意味すら無くしてしまった。
そんなやつには死んだ先にしか希望は無いのだ。幸せなんてものはないのだ。
猿は軽快として林の中に溶けていく。その時、肌を貫く激しい風が立った。木々は藍色に燃え上がる。頭上には、黒く巨大な狼が藍色に染まった空をかけている。白く輝いていた。あれがイルラカムイか――死に神のくせに肉付きはいいのだな、と不思議な感動を覚えた。
墓に視線を戻すと、真下に細長い肉塊が転がっていた。あの猿の噛みちぎられた指であった。このぐらいは許してやろう。せめて指一本くらいはそばに居させてやろう。線香の代わりにはちょうどいい。
遠くで、獣の鳴き声がする。その声は、ここへ来る前に聞いたあの声にそっくりではないか。すると、奴の死は最初から前のめりになだれ込んでいたのか。体の、何処かもわからぬ場所から虚しさが湧きあがった。
声は墓石に反響し、冷たい風に運ばれていく――
(終わり)
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