第一話 変身☆美少女清掃員③
僕ははっとして、上空を仰いだ。
トワも握り締めていた僕の手を離して、周囲に視線を巡らせている。
その間にも、獣の雄叫びのような音はずっと聞こえていた。
「タイミング悪いなぁ、まだ何も話してないのに!」
苛立った様子でトワはぼやき、眉間に皺を寄せている。
僕も絶え間ないサイレンのような咆哮に耳を塞ぎたくなりながら、周囲を見回した。
今僕たちが立っているのは人通りの多い街道だ。しかしその声に驚いているのは僕らだけのようだった。通行人は表情も変えずに歩いている。ちょうど通りかかっていたファミリーレストランのガラス越しに見える店内では、ランチの前で慌ただしく店員が動きまわっていた。客がぽつぽつと店の入り口に吸い込まれていく。
誰も、気付いていない。こんなにすごい音が、聞こえていないのか……?
「ついてきて」
「え、ちょっ」
トワが強引に僕の手首を掴んできて、走り出した。僕は足を縺れさせながら、引きずられる。
「普通の人には見えないんだよ。ボクはずっとその見えない奴らと、戦ってきた」
「は?」
僕は息を切らせながら、トワを見上げる。トワは全力疾走で、ついていくだけで必死だ。
トワの眼は真っ直ぐに前を見据えていた。今まで以上に真剣な横顔だった。
「時間がないから手短に話すね。その見えない奴らと大宮煌は戦うんだ。変身して」
「へっ変身ですとぉ!?」
「胸ポケットに手帳が入ってるでしょう? それを出して」
トワの顔は大真面目だったし、厳しい口調だった。ふざけて言っている様子には見えない。
「変身ってどういう――」
「いいからボクの指示に従え」
「はい……」
分厚い手帳は確かに大宮煌のセーラー服の胸ポケットに入っている。トワの言葉を受け、僕は空いている方の左手で制服の胸ポケットに手を伸ばした。胸に触ってしまわないように気をつけながら、手帳を取り出した。
強気な相手に逆らえないのは、姉からの調教の成果かもしれない。
「確認して」
トワが少し表情を緩めて言った。こんな状況に関わらず、嬉しそうだ。
胸に触れないように注意している仕草を見られていたらしい。僕は赤面してしまったのを感じながら、トワを睨みあげる。
「片手じゃ手帳開けないです。離してください、ちゃんとついていきますから」
「りょーかい」
やはり嬉しそうな、トワの弾んだ声。
「三ページ目、開いて」
僕はきゅっと唇を結び、走りながらも手帳を開いた。擦り切れてボロボロになった手帳は何度も同じページを開いたらしく、パラパラ捲るとすぐにトワの指示通り三ページ目でとまった。
それに目を落とし。
「……っな、なんじゃこりゃぁああっ!! む、むむむ無理です!」
「十四歳の頃からボクはやってるよ。大丈夫!」
そんな爽やかな笑顔で振り返って親指立てられても。
「いや、そりゃ絶対できないってことはないけど、なんていうか、これは、恥ずかしすぎます!」
完全に男を捨てろというのか。
目の端に涙が滲んでしまっている状態で、先を走るトワの背中へと声を浴びせた。
「信じてるよ、永久くん」
「……」
今度は振り返らずに、トワが言ってきた。
大宮さん、と呼び続けていたトワが僕の名前を紡いだことに、大きく心が揺らぐ。
でも、でも――
「僕は巻き込まれただけだし! 君の事情は関係ないです! 出来ない!」
「……そう。まあ、そうだよね」
思い切って言い放ってしまって、心臓が張り裂けんばかりにドキドキしていた。強気で吐き捨てたわけじゃなくて、何かもう色々と限界だった。言ってしまってから、かなり後悔が胸に押し寄せてきた。
トワは振り返らない。
「キミが戦えないって言うならしょうがない。ボクが戦う」
「な、トワ!?」
トワは、更に足を速めた。あっという間に大きく距離が開いてしまった。背中が小さくなっていく。
そしてトワは咆哮が聞こえてくる先、うらぶれた細道へ曲がっていき、その姿を消した。
「戦うって……それ、僕の身体じゃないですか」
僕は立ち止まり、一人呟いていた。
羞恥もあったけど、恐怖で足が竦んでいた。
戦うなんて、僕の辞書にはない言葉で。
産まれてからこの方、一度も僕は何かに立ち向かっていった経験がない。そんな僕が命をかけて戦う? ありえない。
トワの言うことが正しければ、細道の先に恐ろしい何かがいるんだろう。実際身が竦むほどの恐ろしい獣の声は聞こえ続けているんだ。
そしておそらく十四歳から戦い続けている大宮煌は、自分の身体を犠牲にしてしまうほどの傷を負った。
血まみれになって死にかけていた大宮煌に、僕は遭遇してしまったんだから。
「なんで……」
なんで死にかけてたのに。ひどい怪我を負ったのに。
彼女は迷いなく、突き進めるんだ。
『ボクの使命の為に、今死ぬわけにはいかないんだ』
『……仕方ないじゃない』
『ボクが戦う』
トワ――煌の言葉、その意味。
ぎゅっと拳を固め、震えを無理矢理に追い払った。
「僕も大宮煌がわかってきた気がしますよ、畜生!」
僕は駆け出した。余計なことは考えないようにした。頭の中を真っ白にしなきゃ、動けない。
細道の入り口へと辿り着いたそのタイミングで――
「うわっ!」
「きゃぁっ」
トワの身体が、僕へとぶつかってきた。
トワ自身が体当たりをしてきたわけではなく、吹き飛ばされた身体をちょうど受け止めてしまったらしい。
僕は尻もちをついてしまい、お尻へ直にくらったアスファルトの固さに顔を歪めた。スカートってなんて不便なんだ。利点が一つもないじゃないか。
僕の上に乗りかかっていたトワの身体がずるり、と横に倒れていく。
「大丈夫ですか!?」
「あれ、大宮さ、ん……」
トワは苦痛に顔を顰めつつ、僕を見上げてきた。ようやく僕の出現に気付いた様子だった。
「逃げなきゃ危ないよ? ここはボクが止めるから早く行くんだ」
トワは片膝を立て、よろよろと身を起こした。頬に走った浅い切り傷以外、怪我は見当たらない。何かに吹き飛ばされて、少し身体を痛めた程度のようだった。
僕はとりあえず軽傷のトワを確認できて、安堵の息を漏らす。
そしてトワの肩越しに、細道の先を見た。
最初は犬がいるかと思ったけど、違う。
牙を剥き、陽が差さない薄闇の中で紅い眼を光らせる、影が具現化したようなもの。現実に存在するものには見えなかった。
犬に似ているが遥かに巨躯なソレがぐるぐると呻き、警戒した色で僕らを見つめている。
「イヌガタだから、動きが速くて厄介だ。でもこれ以上先に進ませるわけにはいかない」
トワはふらつきながらも、立ち上がった。
「ボクはこの街を守るんだ」
「ト……」
――トワじゃない。
内向的で保守的な内倉永久は、こんな瞳を持っていない。
やっぱり僕の中にいるのは、煌。彼女は強い意志と、曲がらない信念を持つ女の子、なんだ。
「早く逃げて、大宮さん。ボクは慣れてるから、大丈夫」
振り返ってきたトワは、笑みを浮かべていた。
その顔を見て――僕の中で何かが弾けた。
無心になれ、無心になるんだ!
僕は震える足を無理やりに前に進め、トワの前に回りこんだ。
「僕の身体を返してもらう前に君に死んでもらっちゃ困るんです! だから!」
トワの身を庇うように両手をひろげる。
「おおみやさ」
「煌は引っ込んでてください! 戦うのは僕です!」
僕は勢い任せにその名前を呼び、前だけを見た。
いつも受身で、流されるままで。この状況だって、結局は流された上でのことだけど。
女の子に守られて、逃げろって言われて。怪我までしてるのに。
これ以上、見ないフリなんて出来ないじゃないか。
やってやる。
戦うべき相手を強く睨みつけ。僕は手帳の中身を思い出す。
『一、装着しているペンダントを右手で強く握り締めましょう。』
僕はセーラー服の胸元へと右手を突っ込み、ペンダントを引き出した。
ふにゃりと胸の感触が指先に触れ、頬が熱くなる。鼓動が高鳴る。
取り出したペンダントは金色の星の形だった。それを強く握り締めた。
『二、精神集中。目を瞑って叫んでください。「清掃開始!」←恥ずかしがってはいけません。大声でね。』
僕は瞼を下ろす。考えるのは、目の前の敵を討つことだけ。
恥を捨てろ、恥を捨てろ、恥を捨てろ。
「清掃開始!」
心のままに、大声をあげた。
『三、装着している衣服が全部脱げます。動揺しないようにね(笑)。』
これを手帳に書いた奴は絶対面白がっているに違いない。僕は瞼の裏に感じる強い光を感じつつ、思う。
目は閉じたままにした。しかしわかる、衣服が、光とともに解けていく。
裸になって落ち着かない気分は、しかしすぐに違う衣服に包まれていくことで解消される。
衣服が全て身についたのを感じ取り、ようやく僕は瞼を上げた。
身につけている衣服は、なんとオレンジ色のつなぎの作業着。
ぎょっとしたが、なんとか冷静さを保つ。
たなびく髪色は、輝く黄金。その長い髪の毛は変身とともに高い位置でポニーテールに結ばれていた。
『四、ここからです! 変身完了に必要不可欠な言葉を! はい絶叫! 以下セリフ↓』
「美少女清掃員キラキラ、参上!」
もうやけくそで絶叫した。
『五、ポーズも忘れずに。以下ポーズ見本絵↓』
僕は手帳に書いてあったポーズに従い、右手を腰にあて、左手の人差し指を標的に向けて、腕を伸ばした。何故か右の片足を軽く上げて。このポーズに果たして意味はあるのか。そして、従う必要が……?
ああ、もうここまできたんだ、なるようになれ!
「宙の星よ! 僕のもとに輝き、煌け! 街を汚す悪い子は、キラキラが片付けちゃうんだから! メッだぞ!」
僕は笑顔でウインクを決めた。
高揚した気分、早鐘を打つ鼓動、朱色に染まる頬。今僕は、最高に輝いている!
一拍おいて。
……やっぱり死にたくなった。