第五話 聖夜の美少女清掃員③
どうしたらいいんだ、と視線を巡らせた。周辺は照明が一切見当たらない暗がりなので、視界がとてつもなく悪い。何もないうらぶれた路地だというのはかろうじてわかる。
うごめくヒトガタだけが、暗闇の路地に溶け込まず、異質な雰囲気を発している。少しずつ、少しずつ僕の方に歩み寄ってきている。肌にじわじわと伝わってくる、負の空気。生気が感じられない、人間ではない影のようなもの。
――逃げてしまえばいい。清掃員だって、ヒトガタに遭遇したら逃げると聞いている。
そんな心が、僕の中で響いた。このままヒトガタの進行方向に立っていれば、確実に襲われる。誕生したばかりからなのか、ヒトガタの動きはゾンビのように緩慢だ。今ならば。見なかったことにしてしまえば。
『あんまりリフューズに……ヒトガタに、執着しないでほしい』
いつかに言われた、あさひの言葉が脳裏を過ぎった。
でもここで僕がヒトガタを見過ごせば、どうなる?
僕はぐっと唇を噛み締め、その場になんとか踏みとどまった。
大宮煌の父親がヒトガタに成り代わられて、母親を殺したように。ヒトガタは、全てを奪っていく。
今の僕は、大宮煌だ。ヒトガタを前に逃げるわけには、いかない。
ペンダントを改めて握り締め、息を深く吸い込んだ。
「清掃開――」
僕が気持ちを入れなおして叫ぶよりも先に、
気付けばヒトガタは眼前だった。
「!?」
先ほどまでヒトガタとはかなり距離が開いていたはず。なんでだ。凍りつき、目の前にいるヒトガタをただ凝視するしかなくて。
ヒトガタは気味が悪いくらいに、気配が全く感じられない。音もなくするすると手を伸ばしてきた。
「くっ」
咄嗟に僕は一歩退がる。けれど、足りない。まるでヒトガタの手が伸びたように見えた。僕の二の腕は掴まれていた。それだけで、それだけなのに。ぞくり、と震えた。逃げなかったことを後悔してしまうくらい、全身に駆け巡る戦慄。
「い、嫌だっ」
僕は耐え切れずにひきつった叫びを上げる。必死になって掴まれた腕を振りほどこうとする。でも腕は動かない。全力を振り絞っても、掴まれたところは微動だにしない。表情は強張り、歯の根がかみ合わず、カチカチと鳴ってしまう。
とてつもない力に引き寄せられた。ヒトガタのもう一方の手が、僕の首をわし掴む。そのまま、なんの苦もなく僕を片手で持ち上げてきた。
「ぐ、ぅ……」
息が苦しくても、もがいても、何一つ抵抗できない。
ヒトガタの口が、ぱっくりと開いた。開いた口の先も闇一色だった。僕の眼前にひろがるのは、ただただ闇。
食べられる。このままじゃ、食べられて――
「あああああぁあぁ!!」
その叫びは、僕のものではなかった。ヒトガタが叫んだものでもない。ヒトガタは、吹き飛ばされた。僕はその場に転がり、大量に吸い込んでしまった酸素に咳き込む。何が起きたのか、と咳き込みながら顔を上げる。
トワが、僕の前に立っていた。
トワがヒトガタに突進してきたのだと気付く。肩を上下させて、立っていた。吐き出す荒い息が空気を白く染める。
「トワ!」
僕はなんとか立ち上がり、横に並んでトワの横顔を仰ぐ。
トワの眼が暗闇の中でギラギラと光り、僕の方を全く見向きもせずに、
「ト……」
「うわああああ!」
絶叫し、倒れているヒトガタへと向かって駆けていった。
ヒトガタの上に圧し掛かり、何度も拳を叩きつける。
その動きは、狂気そのものだった。
入れ替わる前に見た、大宮煌の、狂気。
ヒトガタへと打ち続ける拳が割れたのか、トワの手から血が飛び散る。それでも、トワはやめない。ただ叫び、ヒトガタに襲い掛かる。背中に宿るのは憎しみ一色しか見えない。
ヒトガタは殴りつけられ続け、ただうねうねと影が蠢いているように見えた。全くダメージが与えられているようには見えなかった。やっぱり、普通の攻撃なんて意味がないと思い知る。今は突然の攻撃を甘んじて受け入れているけれど、程なく反撃が返ってくるだろう。
それでもトワは止めない。
僕の中に、何かが込み上げた。
「トワ……」
トワ――違う。大宮煌は怒り、憎しみ、叫んでいる。でも、僕には理解ってしまった。煌は泣いているんだ、もう、ずっと前から。涙もなく、泣き続けている。
僕は願ったじゃないか。彼女の心を救いたいって。絶対に失ったりしないって。
心が、カチリ、と定まった。思い悩んでいた全てが、流れ落ちていく。
僕は駆けて、トワを突き飛ばした。
「っ!?」
トワがヒトガタの上からはじき飛ばされ、地面に崩れた。肩を思い切りアスファルトに打ちつけたらしく、表情が歪んだ。それぐらい全力で突き飛ばさないと、正気は戻らないと思ったから、そうした。
「何するんだ大宮さん!」
トワは身を起こし、ギラギラと殺気だった眼のままで僕を睨みつけてきた。その眼差しを受けて、それでも、僕の顔に浮かんだのは笑みだけだった。
「やっと状況理解できましたか? わかったんならさっさと退くなり逃げるなりしてください」
怖いままだったし、強がりなのは自分でも嫌というほどわかる。それでもトワに向けて笑みを向ける。震える指先を背中に隠して。
「君は今、ヒトガタに何もできないただの一般人。ヒトガタを倒す美少女清掃員は、僕なんです」
僕は強く、言い放った。直後、決意に胸が熱くなる。……違う、胸に提げているペンダントが実際に熱を帯びているのだと気付いた。
変身できる。
僕は確信を持って、星のペンダントを握り締めた。
僕は、彼女を必ず救う。心からそう願った。口を開き、息を吸い込む。
「清掃か――「煌ちゃん! コレを使って!」」
あんぐり、と口が開いたままになってしまった。どこからか第三者の声と共に投げつけられた箱。鋭く飛んできた箱を、慌てて受け止める。
「美少女清掃員、ピカピカ見参!」
白い作業着に身を包んだあさひが、仁王立ちしていた。手には既に大型掃除機を構えている。一足跳びでヒトガタへと詰め寄り、立ち上がって忍び寄ってきていたヒトガタへと掃除機を叩きつける。その細腕のどこに力が隠されているのか。掃除機を軽々と振り回し、ヒトガタに何度も攻撃を繰り出した。
「空、の太陽よっ! わた、しのもとにっ照り、光れ! 街、を汚、すっ悪、い子は! ピカピカがお掃除、しちゃっいます! ぷんぷん!」
攻撃しながらも、決めセリフは忘れていなかった。激しい動きに桃色の髪の毛が波打つ。
僕は唖然としてその様子を眺めてしまった。それからようやく正気に返って、あさひが投げつけてきた箱へと目を落とす。
そういえば今日あさひが持ってきたプレゼントを、開けずにそのまま置いてきていたのだと思い出した。
急いで包装紙を破り、箱を開く。
その作業中にもあさひは攻撃の手を緩めない。ヒト型はそれを受け流しながら、手から長い獲物を生み出した。――それは、レイピアのようなすらりと細長い剣だった。リフューズが清掃員のように武器を生み出したことに驚きを禁じえない。やはりルーツは一緒、ということか。
ヒトガタが振り下ろした剣を紙一重であさひが飛び退き、避ける。掃除機を突き出して反撃。しかしヒトガタの速度は更に上回り、避けながらも間合いを詰め、掃除機のホース部分を断ち切った。
早く、早くどうにかしなければいけない。僕はもどかしい気持ちで箱の中身をのぞく。
中に入っていたのは――ペンダント。
今まで首に提げていたものとデザインは異なっている。小さな星の形が連なった、大人びたアクセサリー仕様だ。僕はすぐに今まで着けていたペンダントを首から外そうとした。しかしアクセサリー類を着け慣れていない僕にはうまく外せない。もたもたと、手先が滑る。
その間にもあさひにヒトガタが迫っている。焦燥だけが先走る。苛立ちから思い切って鎖を引きちぎってその場に投げ捨てた。――しゃらん、と地面に金属の鳴る音がした。新しいペンダントをようやく装着。その時、武器を壊されて素手で戦うあさひに、ヒトガタの剣先が肉迫するのが視界に入る。
「きゃっ」
あさひが斬り付けられ、作業着の右肩口が切り裂かれた。あさひは咄嗟、後ろへと跳躍してヒトガタから距離を取る。肩膝を地面に付けているあさひの表情に浮かぶ、苦悶の色。地面に点々と血が落ちている。そして、追い討ちにとヒト型が迫ってきている……!
「あさひ!」
トワが走り寄って行くのが視界の端に映った。
時間がない! もう、何にも縛られるな! 何も考える必要なんてない!
「清掃開始!」
今度こそ、と僕は新しいペンダントを握り締めて叫んだ。
まばゆい閃光が身体から放たれた。衣服が解けていく。今までの数倍の速度だった。瞬きの間、変身は完了していた。
「美少女清掃員キラキラ参上!」
オレンジ色のつなぎ作業着は、下がミニスカートに変わっていた。何故。
髪は、その名の通り、煌く金色。地面にまで届きそうな、ポニーテールが揺れる。髪の毛更に伸びてるし。しかも、全身が発光している。
「宙の星よ! 僕のもとに輝き、煌け! 街を汚す悪い子は、キラキラが片付けちゃうんだから!」
ポーズを決め、閃光に怯んで動きを止めていたヒトガタに人差し指をびしっと向ける。
「メッだぞ☆」
完璧な殺戮ウインクを決めた。直後、僕は地を蹴った。
今までと違う。身体から満ち溢れてくるパワー。
もう誰も僕を止められやしない!
瞬間で手に現れる獲物。モップも今まで以上に輝き、柄から毛束まで全て光の粒子で形成されている。ヒトガタが反応する前に、それを突き出した。
「今キレイにしてあげるッ」
自然に浮かぶ微笑。
「……!」
ヒト型は僕の速度に反応できない。モップを突き出しながら突っ込めば、ヒト型が初めて見せるような必死な動きで、剣を大きく振るった。
続く剣撃から僕は一時的に身を引く。
バックステップを踏みながら、最終的に近くの石塀に手をかけ、両足を止める。
じわじわと心の中に湧き始めた実感を噛み締める。
――僕は、確実に強くなっている。
息を呑んだだけの一瞬、ヒトガタが眼前いっぱいに近くなって、
剣を胸元に構えて、僕が掴まる石塀ごと切り裂こうと振り払ってきた。
僕の微笑は消えない。
攻撃が届くよりも早くに、跳躍。更に石塀上部を足場に、真上へと飛び上がった。
「勝てる」
宙に浮く、ゆったりとした時間の中で呟いた。
ヒトガタの剣が僕の居た石塀のその場所をパックリと切り取ったのが、見えた。次にはもう上空の僕へと向かってきている。同時に上に向けて振るわれた剣によって、石塀の破片が、宙へと飛んでくる。
僕は咄嗟、破片にモップの柄を突き立てた。
破片が砕け、石つぶてとなってヒトガタに降り注いでいく。
目の前を遮られ、宙で一刻動きを止めたヒトガタの身体を足場に、僕は更に飛翔。
踏みしめた確かな感触。宙高く、高くまで僕は跳び。
上空で感じたひんやりとした空気。
イルミネーションで煌々と輝く街並みが見渡せた。
モップを構えなおす。先端を向けるべき相手はもちろん――
「煌ちゃん頑張って!!」
遥か下から届くあさひの声。僕は無言のまま頷く。
ヒトガタが僕に踏み台に使われた反動で、地面に叩きつけられているのが見えた。
横たわったまま、僕へとじっと顔を向けている。
静かに、終わりの時を待つように。
「キラキラ……」
口から自然に言葉が漏れた。
上昇し続けていた僕の身体がぴたり、と止まる。ゆっくりと下降をはじめた。モップの先端から放たれる光。
やってやる。終わらせてやる。
「モップ……」
光が増して、大きくなった。柄の端まで光り、余剰の光は僕を体ごと包んだ。
落下速度が高まっていく。光で夜空に尾を引いて、落下し続ける。
速くなる。まだ速くなる。加速し続ける。倒すべき敵は、すぐ目の前!
「うわぁあああ!!」
これで……決めるんだ! モップを握る手を強めた。
そして地面は目前。地に横たわったヒトガタも目前。
全力で決めるんだ!! もう誰も奪わせやしない!!
「キラキラモップファイナル!!」
ヒトガタの体を、モップが貫く。
瞬間、僕自身も見えない速さで光が広がり、視界が全て消え失せる。
白い光の中。どこまでも白い光。
「……!」
ヒトガタが声ならぬ悲鳴を上げ、闇夜に溶けていった。
完全なる、消滅。
ふと気づけば光の世界は消えて、世界はいつもの風景。闇に落ちた、見慣れた景色だった。
沈黙が路地に落ちる。暫く、誰のものともわからない荒い息遣いだけが響いていた。
「煌ちゃん、すごい……」
あさひがぽつりと呟いた。僕はそちらを見て、微笑みを浮かべる。
「清掃――完了」
変身が解けていく。あさひも同様に、元に姿に戻った。
「あさひ、怪我は?」
トワが呆然としたままの表情で、あさひへと近付き、問いかける。
「大したことないよ、全然大丈夫」
僕もあさひの方に駆け寄っていく。変身時に切り裂かれた筈の衣服は、元の衣服に戻って跡形もない。しかし、じわりと肩口に滲む赤色が痛々しい。
「病院! 沙良さんに診てもらわないと!」
「うん、そうだね。沙良さんのとこに行こう」
あさひが笑顔で応じてくる。僕はあさひの笑顔を見て、安堵の息を漏らす。そして、ようやく現実に戻った気がした。
夢でも見たのかと思う。高揚した気分はそのままだったし、今僕がしたことが、自分のやったこととは思えない。
「それにしても、なんであさひが助けに来てくれたんですか?」
フワフワした気分のまま僕が聞くと、あさひは僕の方を見て肩を軽くすくめた。
「だって煌ちゃん、お母さんからのプレゼント忘れていっちゃうんだもの。そのことに気付いて煌ちゃんを探しに来たんだ。そしたらリフューズの声が聞こえてきて……」
「まさかプレゼントが変身関連のものだとは思わなくて」
僕が言い訳すると、あさひが首を傾げた。
「え? だってわたしの両親、美少女清掃員の研究機関勤めだよ? お母さんからのプレゼントだって言えばわかると思ったんだけどなぁ」
「そ、そうだったんですか」
僕は横目でさりげなくトワを睨みつけた。嘘とか言って、あさひの両親は本当に研究機関の人間だったんじゃないか。トワは取り繕った笑顔だ。
「それにしても助かりました。こんなパワーアップするものを届けてくれて」
僕の言葉に、あさひは再び首を傾げている。
「ううん……? ペンダントはメンテの為に定期的に変えるものだけど、特にパワーアップする機能なんてついてなかった筈だけどなあ?」
「え?」
僕はトワの方を見る。トワも無言で首を振っている。じゃああのすごいチカラはなんだったんだ。ヒトガタすら一撃で片付けてしまう、凄まじい力。
「でもすごい! ヒトガタ相手だと光の力がうまく作用しなくて武器も効かないのに。清掃できちゃったのを見たの、初めて。煌ちゃんすごいよ! 感動しちゃった!」
ぎゅっと両手を握られ、僕は頬を赤らめる。そんな風に率直に褒めてもらえると照れる。あさひの後ろに立つトワも安心したのか、穏やかな表情だ。
良かった。みんなを守れた。腰が抜けてしまうかと思うほどの虚脱感だった。
「――よお。こんなところにいたのか」
その低い声が僕の耳に届いたのは、空耳かと思う。
三人の立つ場所から、数メートル闇の先、彼は突如現れた。いつものように不敵な笑顔を浮かべて。
「――刹、那?」
僕は焦りから視線を泳がせる。今は普通の格好だと思い出し、なんとか落ち着きを取り戻して刹那と対峙した。大丈夫だ、何も不自然に見える部分はない。
僕は刹那へと走り寄っていく。
「どうしたの、刹――」
「大宮さん!」
浮かべていた笑顔のままで、突然、トワに突き飛ばされた。
何が起こったのか、瞬間把握ができない。アスファルトに身体が衝突し、息が止まる。痛みに目を瞑った。次に瞼を開き、視界が確認した世界には。
刹那が無表情に、トワの首を絞めていた。片腕で軽々とトワの身体を持ち上げ、ゴミ屑のように投げ捨てた。
「っ!? 刹那、何を――!?」
「邪魔するなよリフューズ。俺に用があるのは、大宮煌の方なんだよ」
刹那は感情を含まない声でそう紡ぎ、倒れているトワの足を踏みつける。軽く踏みつけたように見えたが、めき、と嫌な音が響いた。
「あああっ」
トワが堪えきれないで、悲鳴を上げた。
「ヒトガタすら凌駕する輝きを放つ完璧な清掃員。そんな厄介なものが産まれてしまったなんてな。ヒトガタにとって、最悪な事態だ。だから、俺は大宮煌をさっさと片付けなきゃいけない」
「せつ……な?」
目の前にいるのは、本当に刹那なんだろうか。信じられない。これは、現実なのか?
刹那は声もなく笑う。くっくっ、と肩が揺れた。
「そんな顔するなよ。せっかくだから教えてやる。俺は、ヒトガタだ。何百年も、成り代わり、成り代わり、人の身体を奪って生きてきた。長く生きてきた所為か、眠気ばっかり襲ってくるけどな。最近内倉永久とキスして、永久がリフューズになっていると気付いたんだよ。そして長く生きているヒトガタとして、ヒトガタを統治する立場にいる俺はヒトガタを清掃できるお前を見過ごすわけにはいかなくなった」
「嘘、だ……」
だって、高校生になってはじめてできた友達が刹那で。
内気でなかなか人と親しくなれない僕に全く構わずに話しかけてきて。連れまわしてきて。ずっと一緒にいてくれて。そんな刹那に感謝してて。飾らない言葉と、たまに見せる優しさとか。
「全部、嘘だったって言うのか……? 虚像だったって……?」
「大宮さんも永久も、気に入っていたのにな。本当に残念だ」
「させません!」
その場で一番速く動いたのは、あさひだった。いつの間にか変身し、刹那へと掃除機を振り上げる。
刹那は背後へと跳躍し、それをかわす。
「邪魔が多いし、今日はもう眠いから帰るよ。次に会うのが楽しみだな、大宮さん」
刹那は無邪気に笑みを浮かべて、言葉を紡いできた。
ズキリ、と心にひびが走った。なんで、なんで笑うんだ。笑えるんだ。地面に伏しているトワは無言のままで、表情も見えない。
「それじゃあ」
刹那が背を向けて、走り去った。
「待ちなさい!」
あさひが掃除機を抱えたまま、それを追いかけていく。あさひは首だけを振り向かせ、僕の方を見遣った。
「煌ちゃん……トワ君をお願い」
くしゃりと一瞬だけ泣きそうな表情になったが、あさひは健気にも微笑みを浮かべた。
ああそうか、と思い当たる。あさひは、大宮煌が刹那に恋してることを知っているから――
二人が消えた闇の先を目で追いながらも、僕は倒れているトワの方へと駆け寄った。きっと誰よりも心を引き裂かれたのは、トワだ。
「トワ、大丈夫ですか?」
トワは腕に力を込め、なんとか身を起こそうとするがなかなか立ち上がれない。僕がその身体を支えてやり、なんとか半身だけ起こすことができた。
「折れてはないと思うから、大丈夫。歩けるよ」
「トワ……」
僕は間近にあるトワの瞳をのぞきこんだ。無理に造った笑顔と、揺れる瞳。僕の背中にしがみつく指先が震えているのが伝わってくる。
「驚きだよね、まさか、刹那君がヒトガタだったなんて」
「……」
何も言葉が出てこない。胸が詰まった。堪らないほど、泣き叫んでしまいたくて。
それでも今泣くのは、僕じゃない。
僕は自身の胸に、トワの頭を強く抱え込んだ。
「大宮さん? ……なんか自分の胸の感触とかあんまり嬉しくないんだけどなぁ」
「泣きなよ、煌。今だけ……泣いていいです」
「何言ってるの大宮さん。ボクは、泣きたく、なんか」
語尾が震えていた。トワは、しがみつく手を強め、胸に顔を埋めてきた。
「好きだと思ってた男の子が、まさか、ボクの憎むべき対象だった、なんてね。笑っちゃうよね、笑っちゃうよ、本当に……」
「……それでも、」
僕は顔の見えないトワへと声をかける。トワは肩を震わせていた。
「それでも、僕らが刹那を好きだと思った気持ちに嘘はないです」
トワから嗚咽がこぼれた。
僕はトワの背中をそおっと、何度も、撫でさすってやる。そうして、時間が過ぎていく。
「あ――雪、だ」
空気が冷え込むと思ったら、僕の眼前に雪の粒が落ちてきた。
空を見上げる。雪がちらちらと舞い落ちてきている。泣き続けているトワはそのことにまだ気付いていない。
そして僕の眼に映る今日の宙に、星は一つも、見えなかった。