第一話 変身☆美少女清掃員①
――生きていた。たぶん。
それが第一の感想。瞼を開いた視界に映ったのが、僕の実の姉の顔だったから。
死んでしまってまで姉に支配されている状況ではないことを願う。
「あ、起きた?」
姉の表情が、何故だかいつもより一割り増しほど優しげに見える。
僕と三歳年の離れた姉、久遠はのぞきこむようにして、問いかけてきた。
僕はぼんやりとしたまま頷く。どうやら全て夢だったらしい。そうだよな、肉まんを買いに行っていきなり女の子と入れ替わって死に掛けたなんて、ありえない。
寝転んだまま視線だけ巡らせると、ここは姉の部屋のようだった。間取りや広さは僕の部屋と全く一緒だけど、部屋の匂いが僕の部屋とは明らかに違う。清潔感のある香りが漂っている。寝かされているベッドのシーツの色やカーテンの色も違う。
なんで僕はおねえちゃんの部屋で寝ているんだ?
身体を起こそうとし、姉に肩を押し留められた。
「まだ寝てた方がいいわ」
……やっぱり優しい。表情も慈愛に満ちている。こんな姉の顔を見るのは何年ぶりだろうか。僕は感慨深くなった。
そうだ、数年前までは優しい姉だった。いつからだろうか、彼女のSの血が目覚めてしまったのは。
「今日は泊まっていっていいから、ね?」
うんうん。
そういえば昔はよく一緒のベッドで寝てた。布団に潜ってくすぐりあって、じゃれあって。姉のいい匂いと温もりに包まれて、幸せを噛み締めて眠……泊まる?
僕の疑問符が浮かんだ表情に気付いたのか、姉が微笑みかけてきた。
「何も心配することはないのよ」
髪の毛を撫でられる。姉の細くしなやかな指に撫でられ、僕は頬が熱くなった。
やはりここは天国なのか。
いや、昔は究極のシスコンだった僕の願望が生み出した幻?
「あ、の……え、あ?」
声を出して、誰が喋っているんだと横を見る。
相変わらず慈愛の表情に満ちた姉。温かな眼差し。しかし姉が口を開いた気配はない。
「あー?」
自分の声だった。驚愕にガバッと身体を起こした。
「な、なななな! なんだこの声は!」
鈴のように可愛らしく高い声が、自分の耳に届く。あれ、そういえば意識を失う前もこの声だったような。
僕は慌ててベッドから降りる。嫌な予感がざわざわと胸を駆け巡っていた。
姉の部屋の片隅に置いてある姿見の前へと、走った。
――鏡に僕の全身が映る。
「うわああああ!」
叫んだ。叫ぶしか、ない。
「落ち着いて! 錯乱する気持ちはわかるけど! 大丈夫、大丈夫だから!」
背後から姉に抱き締められた。僕の混乱は極まった。あね、あねあねあねの豊満な胸がもろに背中にあたっている!
「おおおおぱ」
「大丈夫、もう何も怖いことなんてないわ。私の名前は久遠って言うのよ。あなたに害を与える存在じゃないから」
後ろからぎゅっと強く抱き締められている。姉の息がくすぐるように首筋を撫でた。
ぞくり、と身体が震えてしまった。そして、混乱したままもう一度鏡を確認し。
頬を紅潮させて、美女に抱き締められているのは、自分のよく知っている少女。
大宮煌、だった。
僕の通う星霜高校の見慣れたセーラー服を着ている。プリーツスカートから伸びる細くて長い足。紺色のハイソックス。髪の毛は腰まで伸びる、艶やかな漆黒のストレート。ぱっちりとした大きい眼が、瞬きを繰り返している。凝視している。まるで自分が見つめられているようで、僕は更に頬が熱くなっていった。そうすると鏡の中の美少女も赤面していく。
「夢じゃなかった……」
呆然と呟く。その声はやはり、女の子のもの。
でも怪我はどうなった? あの出来事が夢じゃないのなら、煌は大怪我をしていたはず。しかし鏡に映る煌は傷どころか、シミや痣一つ見当たらない肌理細かい滑らかな肌だ。
改めて観察してみて、その少女のどこにも欠点が見当たらないことを知る。怪我も気になったけれど、服装も闇の中ではっきりとはわからなかったが、制服ではなかったはず。何故セーラー服を着ているのだろうか。
「悪い夢を見たと思えばいいのよ」
姉が僕の前に回りこんできて、今度は正面から抱き締めてきた。姉は今の僕より少し背が高い。柔らかい感触が触れ、姉の肩まであるさらりと伸びた髪の毛からの香りが、鼻腔をくすぐった。
僕はその色香にうっとりと我を失いかけた。
直後に正気に返る。姉の肩を押して、その身体を離した。
「え、えーと! おねえちゃ、いや、違っ、と、とにかく! なんで僕はここにいるんですか?」
姉の表情は柔らかい。おそらく僕を知らない女の子だと思っての、優しげな表情なんだろう。それにしたって眼差しが温かすぎる気もするけど。
「私の弟がね、あなたのことをこの家まで運んできてくれたのよ。おぶって」
「おとう、と、ですか」
「クラスメイトだって言ってたから煌ちゃんも知っていると思う。内倉永久っていうの」
「トワ……」
「知ってるでしょ? 目立たない弱そうな子だけど」
悪かったな。どうせ僕は目立たないし弱そうだし特技は妄想だ。
知ってるなんてもんじゃない。僕が内倉永久なんだから。
言いかけて、僕は口をつぐむ。女の子の姿でその事実を述べたとしても信じてもらえるわけがない。信じてもらえたとしても、今まで抱擁を自分の弟としていたことを知った姉の反応が恐ろしい。証拠隠滅で殺されるかもしれない。
「あの、久遠さん。その助けてくれたトワ君は、どこにいるんですか?」
まず事情を問うべき相手は、僕と名乗る謎の人物に、だろう。
先ほどの出来事が夢じゃないのなら、僕の身体に入っているのはやっぱり大宮煌なんだろうか?
姉が言うには、内倉永久は……ええい、ややこしい。トワ、と呼ぶことにする。トワは僕を連れて、一緒に自宅に帰ってきたらしい。だったらすぐにでもトワと会えるはず。
「自分の部屋にいるわ」
想像通りの姉の言葉を受け、僕はすぐさま扉の方に向かいかけて。
手首を掴まれて、止められてしまった。僕は姉の方へ首だけ振り向かせた。
「気をつけて。永久はしょぼいし草食系というのもおこがましいくらいヘタレだけど、一応男の子だから」
「泣いていいですか」
弟のことを語る姉の眼に、鋭さが帯びた。豹変したといってもいい。
「永久に会いに行くなら一緒に行きましょう」
「いっいやいや一人で行きます。ちょっとトワ君と二人きりで話したいことが」
久遠の眼に更に鋭さが増した。こわい。いつもの自分を見る姉のソレだ。
「まさかあなた、永久と付き合ってる、とかじゃないわよね?」
「いえいえいえ! そんなまさか!」
僕は大袈裟に身体の前で両手を振って否定した。姉の表情が和らぐ。
「そうだよね。永久となんて、まさかねぇ。ありえないわよねぇ。永久はありえないわー」
馬鹿にしたような言い方に、さすがに僕でも少しムッときた。
そこまで僕を完全否定することないじゃないか。
僕は半眼になって姉を見つめる。
「おねえちゃ、いえ、久遠さんはトワ君のこと、よっぽど嫌いなんですね」
「愛しているわ」
「ああああいー!?」
叫んでしまった。
さらりと飛び出した姉の宣言に、僕は目を剥き、姉をひたすらに凝視してしまう。
姉はうっとりと恍惚の表情を浮かべていた。
「永久のことが可愛くて可愛くて虐めたくて虐めたくて虐めたくて……!」
「……」
おねえちゃん、あなた歪んでるとは思ってたけどそこまでですか。
「だから、ね」
姉が一歩僕へとすり寄ってきた。怪しげな眼差しを向けられる。
「とっくんは私のオモチャなんだから、手、出しちゃダメよ?」
耳元へと唇を寄せられ、吐息と共に囁かれた。
ぞくぞくぞくと、身体が震える。
「し、失礼しましたー!」
耐え切れなかった。急いで退出した。
ばたん、と後ろ手に扉を閉める。大きく息を吐き出す。心臓がバクバクと高鳴っている。
「愛してるとかオモチャとか……」
姉は完全に僕を別人だと認識して、言葉を繰り出していた。
いちいち考えていたら身が持ちそうにない問題発言ばかり聞いてしまった。姉の本音を垣間見てしまった気まずさを、とりあえずは横に追いやる。
今は姉よりも、大きな問題が隣の部屋にいる。
思考を切り替えて、隣の、自分の部屋の前へと足を進めた。
扉の前に立つと、少し怖気づいた。
おそらく僕の身体がこの先にいるのだろう。見たくない現実を突きつけられるかもしれない。
自然と表情が強張ってしまっていた。
自分の身体に入っているのは、大宮煌、なんだろうか。
「大宮煌、か」
大宮煌という女の子を思い浮かべてみると、再び鼓動が高鳴った。
大宮煌は僕とクラスメイトの女子だ。けれどそれだけの女子じゃない。星霜高校新入生代表として入学式の挨拶をしたその時から、校内で知らない人間はいないぐらいに既に有名人だった。超絶な美少女が、凛とした声と毅然とした態度で答辞を読み上げる様に、先生、生徒一様に見惚れていた。もちろん首席合格の彼女は、学年首位。スポーツも万能。芸術方面も多才。
何よりも彼女の魅力は、その可愛い顔に似合った綺麗な心、だと思っていたんだ今日までは。
誰に対しても笑顔で優しく、頼れる存在。
「あれは悪い夢だったのか、な……」
普段の煌を思い出すと、やはり先ほどの非情冷酷な態度のトワは別人だったように思う。
やはり僕の見た悪い夢だったのではないだろうか……現状、大宮煌の身体に僕の精神が宿っているらしいことだけは、確かなものだけれど。
もし煌の本性が先ほど見たソレならば、心打ち砕かれる男子生徒は数多だろう。
僕だって、ショックだ。恋愛感情を抱くには遠すぎる相手だけど、多少なりとも憧れていたんだ。
『その身体、ボクにちょうだい』
あの時確かに、トワはそう言った。非情な笑みを浮かべ。
僕は色々な思考を打ち払うように、大きく頭を振った。
思い切って、ノックもなしに扉を開け放った。
「……!」
予想はしていたけれど、やはり衝撃。
言葉すら出てこない。
――自分の身体が、ベッドに寝そべっている。
扉が開け放たれたことで、閉じていたトワの瞼が上がる。
その両耳にはヘッドフォンが付いていた。トワは呑気にも音楽を聴いていたらしい。
「なに日常を満喫してるんですか!」
思わず声を荒げていた。その声で、ようやくトワが立ち尽くす僕の方を見遣ってきた。
「やあ大宮さん。意識が戻ったんだね」
まるで動じた様子のないトワが、軽く言ってきた。ヘッドフォンを外して、笑顔まで向けてくる。
「僕は大宮煌じゃなくて、内倉永久です」
僕はトワを睨みつけ、低く言い放つ。クラスメイトと言えど、僕はほとんど女子と会話をしたことがない。緊張から敬語になってしまう。
「知ってるけど、そう呼ばないとややこしいでしょう? ボクはキミのことをこれから大宮さんって呼ぶから」
トワの皮をかぶった煌が、肩を竦めて言った。
「やっぱり……君が大宮煌なんですよね? なんで僕の身体が君のものになったんですか? なんで大宮さんは大怪我してて、しかも金髪で……どうして入れ替わった僕は生きてるんですか?」
あの時。身体が入れ替わった僕はトワに見下ろされ、激痛に意識を手放した。
完全に死んだ、と思ったのに。
「まあまあ。そんなに一度に聞かれても答えられない」
トワがよっと軽快な動きで身を起こした。
「確かにボクは大宮煌だよ。でも今は内倉永久の身体だから、キミはボクのことをトワって呼んでほしい」
「……嫌「呼べ」」
僕は不満げな表情を消して、すぐさま頷いた。有無を言わさない凄まじい強制力だった。怖かった。
トワが満足気に微笑みを浮かべている。
「えーと、次はなんで身体を奪ったか、だったよね」
「死に掛けてて僕の身体を奪って生き延びようとしたように思えたんですけど」
「ご名答だよ、大宮さん」
「……僕が死んでもよかったってことですか」
「うん。もちろんキミを犠牲にする気満々だった」
僕は頭を抱えた。トワは恐ろしいまでに笑顔のままだ。
「今更本性を隠してもしょうがないしね」
やはり彼女は、腹の中が真っ黒だった。
クラスメイト代表として煌には良い子でいてほしかった、と声を大にして叫びたくなった。僕は泣きたい気分で顔を上げてトワを見つめる。トワはこの状況に全く動じていない様子だ。
「ボクはある方法でキミの身体と入れ替わった。そして大宮煌の身体は死んでしまう筈だった。キミの精神だか魂だかごと。でも何故か蘇生した。ちょっとボクにも理由がわからないんだ。でも死ななくてよかったじゃないか」
「元に戻してください」
僕はベッドに近付いてトワへと詰め寄る。しかしトワは全く表情を変えず、
「無理」
あっさりと告げてきた。
「はぁっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
それは煌の声なんだけど、耳に馴染んできてしまったのがなんだか悔しい。
「なんで無理なんですか!? 君がなんかやって身体が入れ替わったんですよね!? だったら元に戻す方法だって」
「この方法が使えるのは一度だけなんだ。まあ、究極魔法みたいな感じ? 悪いけど諦めて」
「僕にこのまま一生女の子の身体でいろって!? いや、無理無理無理!」
動揺と混乱で声が上ずってしまっている。
僕は頭の中が吹き荒れる嵐状態でパニックのまま、トワの肩を強く掴み。
「僕の身体を返してください!」
叫び、トワの身をベッドへと押し倒した。
自分の顔を間近で見て、鏡でも見ているような気分になる。
あの時煌はキスして、自分と入れ替わった。だったらもう一度キスすれば入れ替わるのでは?
安易な希望に縋り、その顔を寄せていく。
「うっ」
――途中で気分が悪くなった。
自分の顔にキスするのは、やっぱり嫌だ。
それにしても、特徴があまりない顔だ。なんて自分の顔ながらに思う。まあ悪くはない、と思いたい。
トワが、別人のように魅力を最大限に引き出した微笑みを見せた。
「無理だって言ってるのに。それに、さ」
「うわぁっ」
トワに手首を掴まれ、強い力で引かれる。簡単にベッドの上に倒されてしまった。
ばふ、と僕の身体でシーツがはねた。
いつのまにか立場が逆転している。
手首を掴まれたまま。トワに見下ろされ、
「今はボクが男の子の身体なんだから、力でかなわないと思うよ?」
言い放ってきた。
僕はぐっと唇を噛み締めた。敗北感が心に溢れた。
僕は視界が潤んでいくのを感じた。こんなことで泣きそうになってる僕は、やっぱり姉の言う通りにしょぼくてヘタレだ。情けない。
と。その時――
がちゃりと扉が開けられた。
僕とトワはその体勢のまま、扉の方へと目を向けた。
姉、久遠が立っていた。
「永久ぁぁああ!! アンタ何やってんのよおおお!!」
姉が炎上した。ように見えた。
僕は光速でベッドから降りた。条件反射で姉の前へと走り、土下座した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいぃ!」
土下座している頭をげしげしと足で踏みつけられた。いつも通りのパターンだ。
「そんなので許されると思ってるの!? このヘタレが! 阿呆め! 大体肉まんはどこいった! ……ってアレ、間違えた。あなたは煌ちゃんじゃない」
姉の攻撃が止み、僕は顔を上げる。そういえば僕は煌だった。無駄に攻撃対象になってしまった。
情けないまでに眉が下がっているだろう表情を、姉が柔らかい表情で見下ろしてきた。
「ほら、立って煌ちゃん」
姉が優しい声で手を差し伸べてきた。僕はその手をおずおずと遠慮がちに取る。
僕が立ち上がると、その横で姉がトワを強く睨みつけていた。
「煌ちゃんが暴漢に襲われて×××な目にあっていたところを助けてきた奴のすることじゃないわ!」
「な、暴漢ですと!?」
姉の吐き捨てた言葉に、僕は大仰に反応してしまい。
「かわいそうにかわいそうに!」
そしてまた姉に抱き締められてしまった。
……姉の優しすぎる態度の理由がようやく判明。
何を姉に吹き込んだんだ、と、トワの方を見遣る。トワは肩を竦めている。
「えーと、襲ってきたのは大宮さんの方だし?」
やっぱりこの子、最悪。
「な、ななんということを! えーと久遠さん、いや、違うんです!」
僕は焦りのままに言い放ち、首を何度も振る。
抱き締められたままだったので、姉の身体が震えているのが伝わってくる。
再び、姉が耳元に口を寄せてきて。
「今度誘惑しやがったら、コロス」
囁かれた。
標的にされた。
今度こそ泣いた。
「あ、大宮さん。明日から忙しいよ。たくさん教えなきゃいけないことがあるから。問題は山積みだ。まあ今日のところは時間も遅いし、ゆっくり寝て」
トワが爽やかな笑顔で告げてくる。
「寝るって……どこで?」
僕はえぐえぐと泣きながら問いかけた。
「もちろん私の部屋でよ。さ、行きましょうか。煌ちゃん」
姉の部屋にベッドは一つしかない。
「一緒に寝る、んですか?」
「そうね、ちょっと狭いけど。女の子同士だから問題ないでしょう?」
……そりゃ昔はよく一緒に寝たけども。
姉の匂いに包まれて、ぬくもりを感じながら幸せを噛み締めて。
でも、今は、十七歳の健全男子高校生で。やっぱり姉と一緒のベッドで寝るのは色々問題があるような気が! 気が!
ずるずると引きずられて、僕に抵抗の余地はなかった。
ちょっとは何もかもに逆らえるようになりたい。戦えるようになりたい。
――なんて願望は願望のままで。
結局は安らかに寝息を立てる久遠に抱き枕にされている状態におさまっている。
まったく眠れそうにない。
「とっくん……大好き、うにゅー……」
その甘い寝言に身悶えながら。
「煌ちゃん、コロス……」
低く鋭い寝言に身を震わせ。
これって天国なのか、地獄なのか。