第四話 サドとテストと清掃員☆②
「沙良さん、今日はトワの家に泊まっていきます」
『ああそうかい。煌によろしく言っておいておくれ。……ところで永久君』
「なんですか?」
『なんで泣いてるんだい?』
「聞かないでください」
通話を切った。床にパタパタと落ちる涙の雫。優しい沙良さんの声を聞いて、涙が溢れてきてしまった。僕は泣く泣く、背後の閉じられた扉を振り返る。ずおお、と何か陰の雰囲気を醸し出しているような、そんな扉。もう開けたくない。
しかし僕は意を決し、ドアノブを持ち、扉を開いた。
「電話終わった?」
部屋に佇む少年、トワが鋭い眼を向け、低い声を放ってきた。自分の顔の筈なのに、なんと恐ろしく厳しい表情が出せることか。
僕は頷く。トワが言葉もなく、顎で指し示した学習机の前にある椅子に座った。
ひろげられたままだったノートへと目を落とした。ノートに書かれた英単語の羅列に、くらくら眩暈を覚えながらも、声に出して読み上げていく。
「――遅い。もっと早く覚えていくんだ」
「いや無理これ以上早くなんて、ひぎぃぃぃ!」
机の上に置かれた僕の手のすぐ横。
ペンがどすっと突き立てられた。
「口答えする暇なんてあるの?」
僕は涙目ながらも、トワの言葉に従って先ほどよりも早口で英単語を覚える為に口にする。今までの勉強法なんて甘かった。甘すぎた。トワの、いや大宮煌の本性を垣間見て、僕は心の底から後悔した。知らない方が幸せだった。そしてその凄まじい本性を知ってしまった今、いよいよ期末テストでの勝負をトワに知られた時のことを考えると恐ろしくなる。ああ、目の前が霞んで英単語がよく見えないや。
ドカッ――椅子蹴られた。
「よそごとを考えているね」
「考えてません! 頭の中は英単語でいっぱいです!」
そのうち鞭でも持ち出してくるのではないだろうか。姉の部屋にありそうだ、なんて考えてしまって背筋が震えた。そうか、この家は鬼の棲家だったんだ。
そんな恐ろしい光景が繰り広げられ、数時間が経過した。夜もすっかり深まってきている。
いい加減休憩させてくれと、パンク寸前の頭で訴えようと考えていた矢先。
ノック音が聞こえた後、扉が開けられた。
顔をのぞかせたのは姉だ。
「ご飯できてるけど、今日は煌ちゃんも永久も、ここで食べるの?」
「ああ、うん。追い込みだし、今日はここに持ってきてくれるとありがたいな」
トワが姉の顔を見た瞬間に、表情を和らげた。嘘のように優しい笑顔になっている。
「わかったわ。……でもまさか永久、煌ちゃんをこの部屋に泊めるの?」
「徹夜で勉強するだけだよ。大丈夫、ボク大宮さんに全く興味ないから」
トワは笑顔のままで言い放つ。さりげなく傷ついた。
「そう……なら、いいんだけど」
姉が表情を曇らせつつも、紡いだ。視線を床へと落とし、息を軽く吐いている。どこか物憂げな雰囲気だ。美しい顔立ちの姉には、鬱気な表情の方がよく似合う。
「煌ちゃん、ご飯運ぶの手伝ってくれる?」
姉から声をかけられ、僕は顔を上げた。
「あ、はい」
この空間から解放される! 僕は思わず顔を綻ばせ、姉へと駆け寄った。トワの表情を見るのが怖かったので、振り返らずに姉と共に部屋を出る。
二人で階段を降りて行き、ダイニングに入った。
食卓に並べられた夕食をトレイにうつす作業を手伝った。テスト期間中で食べやすいものを、と気を使ってくれたのだろう。おにぎりだ。
「ね、煌ちゃん」
物憂げな表情のまま、姉が言葉を吐き出す。
「なんですか?」
僕はあの空間から出られたことで軽くなった心のまま、軽く聞いた。表情もウキウキと軽い。
「やっぱりね、あの子別人だと思うのよ」
「そうですね。……え?」
僕の作業していた手が止まった。徐々に頭に浸透していく、姉の言葉。
「え? え?」
顔が青ざめていってしまうのを感じた。動揺しているのを悟られるのはまずいとはわかっているのだけど、姉の深刻な言い方に、冷静さは保っていられなかった。
「誰かが、あの子の身体を奪ったに違いない。精神は全然違う人間が入ってる、としか思えない」
「そんなまさかーマンガみたいな話あるわけないじゃないですかー」
ひどい棒読みになってしまった。姉の推理は的を得すぎている。動揺で心臓が、ありえないほどの早鐘を打っていた。
「私もそう思ってたんだけど。でも、絶対今のとっくんはとっくんじゃないの」
姉はため息を吐き、言った。こんなにも哀しそうな瞳を見せる姉を、初めて目にしたかもしれない。……少し罪悪感。
僕は、ごめんおねえちゃん、と心の中で謝罪するしかない。
本当のことは、決して言えないから。
「成長したんですよ、きっと」
今は落ち込んでいる姉に少しでも浮上してもらう為に、嘘を重ねるしかない。
しかし姉の耳には届いているのかいないのか、表情は変わらない。
「……確かめよう、と思うの」
ぽつり、と姉が小さな声で言い放ってきた。
「確かめる?」
僕は首を傾げてしまう。何をどうやって確かめるというのだろうか。
「今夜、私、とっくんを襲うわ」
「……」
「今夜、私、とっくんを襲うわ」
僕の時間は完全に止まっていたので、姉が二度繰り返した。
「……なんですとおおおおおお!?」
ようやく僕の時間が戻ってきた。戻った瞬間、絶叫した。
姉は大真面目な顔のままだ。僕の絶叫にも全く動じていない。
「今夜、私、」
「もういいです! わかりました! 理解しました! そして理解した上で言います! 血の繋がった姉えええええぇ!!」
「構わないわ、覚悟はできてる」
そっちの覚悟ができていても、こっちの覚悟ができていない!
姉は真摯な眼差しを僕に向けてきた。どきりとする。そりゃ、おねえちゃん綺麗だ。美しい。実の姉なのに、時折ときめいてしまうことなんてあるけれども。しかししかし。
僕は首を強く振った。長い髪の毛もぶんぶんと一緒に揺れる。
「駄目です駄目です! それだけは駄目です!」
「煌ちゃん、私真剣なの」
ぎゅっと両手を握り締められた。姉の手が僅かに震えているのに気付き、はっとした。その顔を改めて見つめる。瞳が、揺れている。
「私の弟を奪った奴を、許せない」
「……久遠、さん」
僕は力が抜けていく。胸がじわわと熱く、泣きそうになってしまっていた。そんな風に言われて、嬉しくないわけがない。そして、そんな決意を抱く姉を止めることなんて……
「今夜、私、とっくんの童貞を奪うわ」
なんかセリフ変わってるし。
止めよう。決意を新たにした。
「永久がお風呂入って出てきた時が狙い目だと思うの。脱衣場で服を着る前の濡れた身体、髪から滴り落ちる雫、細身だけど意外に引き締まった二の腕、胸板……」
絶対に止めよう。覚悟を決めた。
「というわけで、ご飯食べたらお風呂に入るように言ってね」
ニッコリと晴れやかな表情になった姉の言葉に、僕は浅く頷いた。
僕の貞操を守らねば。
食事をのせたトレイを両手に持ち、その指に力を込めた。
部屋に戻ると、「遅い」と声だけで人が殺せるような、トワの厳しい言葉が飛んできた。
僕の気も知らないで、と潤む眼のままで遠くからトワを見る。
「さあ、勉強の続きをやるよ」
「え、だってご飯」
「食べてる暇なんてない」
冷たく言われ、僕は半ベソ状態で学習机の前に座る。刹那とのキスだの、トワの鬼畜っぷりだの、姉からの襲う宣言だの、僕の周囲はサド変人ばかりじゃないか。
早く元に戻りたい。切なる願いを抱き、しかし元に戻る方法は全く思い当たらないのだ。溜め息ばかりが漏れてしまう。
「ああ、そうだ。ご飯食べたらお風呂に入るようにって」
一応姉の言葉は伝えなければなるまい。僕は椅子をまわして、トワに向けて言う。
「うん、わかった」
頷くトワ。貞操の危機とも知らずに。気楽だな。
風呂上りのトワを襲いにいく、と姉は言っていた。トワが無事に風呂から上がり、着替えて出てくるまで、姉の邪魔をしてやる。あの姉を止めるには、その状況になってから完全に無理だと思わせないと無理だ。長い付き合いでわかっている。彼女は言葉で説得できるタイプではない。心の中で計画を反芻し、強く頷いた。
「さぼってないで早くやれ」
トワがのキツイ言葉に、何かを通り越して温かい感情すら芽生えた。
僕が守ってやるからな、大丈夫だ、内倉永久の身体を穢させやしない。
僕は目を細め、ぬるい視線でトワを見た。
「何その目、気持ち悪い」
トワが目を眇め、言ってきた。本気で気持ち悪そうだ。失礼な。これでも美少女なんだぞ。
「大丈夫です、大丈夫」
フフフ、と安心させる為に笑みすらこぼして見せた。少し壊れてきてしまったのかもしれない。――ガスッ
トレイを投げつけられた。角がおでこに直撃した。
「痛い」
「いいから勉強してってば!」
あまりに気持ち悪すぎたのか、トワが表情を引き攣らせて言い放ってきた。
「……勉強します」
僕は学習机に向き直り、勉強を再開させた。
問題は一つじゃない。今夜は徹夜で明日の期末テストにのぞみ、そして一番を取らねばいけない。僕は一旦勉強に集中し、ノートにペンを走らせた。
暫く部屋の中には、カリカリというペンの音だけが続いた。
時計の秒針の音すらも聞こえてくる静寂の中、夜は非情にも更けていく。
一区切りついたところで、僕は一旦トワを振り返ってみた。集中している間は気付かなかったけど、トワがやけに静かだったことにその時になって気付いたのだ。
トワはベッドに腰かけて、前かがみになって胸元をおさえていた。
「トワ?」
苦しげに、荒く吐き出される息。
僕は椅子から降りて、トワに駆け寄った。トワはただ事じゃない様子だ。
「トワ、大丈夫ですか? トワ?」
僕の呼びかけにも応えられないのか、トワが身を震わせて肩を上下させている。
僕は心配になってトワへと手を伸ばし――
「触るな!」
僕の手は、トワの手によって撥ね退けられてしまった。
トワの鋭い眼光が、僕を捕らえる。僕はそのあまりに強い瞳に、身動きが取れなくなってしまう。
「ボクに構ってる暇なんてないでしょう。勉強しろ」
「だって、トワ、すごく苦しそうで……」
「なんでもない。ボク、お風呂入ってくるから。その間もさぼらないでやってて」
トワの顔は蒼白に近く、冷や汗も浮かべている。それでも震えながら立ち上がり、僕の横を通り過ぎていく。
僕はぎゅっと唇を噛み締めた。
……トワは、一人で何を抱えているっていうんだ。
拳を握り締める。取り残された部屋で、僕はやるせない気持ちになった。
僕には、どうすることもできないんだろうか。
トワが去っていった扉を、見つめた。
胸が苦しくて、どうしようもなくて――
「ってそういえば、風呂?」
先ほどトワはお風呂に行くと言って、部屋を出ていった。今更その事実に気付き、僕は驚愕に顔を強張らせた。
「うわあああああ!! どこだ姉えええええ!!」
頭はパンク寸前、虐められすぎてぼろぼろになった精神。加えて空腹。
完全に壊れた僕は、絶叫しながら扉を開け放った。
「はい」
部屋の前に立ってた。
「あねっ、姉! 姉!」
絶対に姉を止めると決意したものの、どうやって引き止めるか具体的な方法を全く考えてなかった。バカだ。意味もなくバカみたいに姉と繰り返してしまって、僕は頬が熱くなっていく。
「ふふ、煌ちゃんって本当に可愛いわねぇ」
頭を撫でられて、姉が踵を返し、あっさりとその場から離れ――
「逃がすかああ!」
立ち去ろうとする姉の腰にしがみついた。タックルかました。
「きゃあ!」
廊下に姉が倒れる。ずべっと間抜けな音がした。僕は急いで姉から離れた。やりすぎてしまった感が。
「何するのよ、煌ちゃん……」
顔面を床に打ち付けてしまったらしい、振り向いた姉のおでこが赤くなってしまっている。
それ以上に、ギラリと光る眼が目立っていた。
「私に虐めてほしいの?」
ニヤリと口の端を吊り上げ、姉が言い放ってくる。ぶんぶんと頭千切れるくらい強く横に振った。
「ただ僕は久遠さんがトワを襲うって言うから止めようと……」
「邪魔する気なのね」
「……そ、そうです! 邪魔します!」
こうなったらもう真正面からぶつかっていこう。僕はきりりと宣言した。真っ直ぐに姉と見つめあう。
「面白いわ、煌ちゃん」
「トワは襲わせません」
自然、闘いの前のように、僕は身構えていた。姉相手なのに、気分は凄まじい強敵を前にした美少女清掃員の心持ちだ。
「あなたもアイツが好きなのね」
「は? いや、それは違」
「誤魔化さないで。アイツのことが好きなのね!?」
迫り来る姉。やっぱり怖い。狭い廊下でにじり寄られ、僕は後ずさることもできずに姉と至近距離で対峙する。
どう言えばいいんだ。どう言えば納得するんだ。
というかそもそも、僕はトワのことをどう思っているんだろう?
「僕は……」
喉がごくりと、鳴った。
「僕はトワのこと、」
姉の真剣な表情。こちらも真剣に答えなければ、姉の心には響かない。
息を吸い込み、肺いっぱいに空気を溜める。
「僕はトワのことを――」
ぐわああああああ
僕の言葉に重なって聞こえた、咆哮。最悪なタイミングでリフューズ出たし。
……泣いた。
「ちょっと野暮用ができたので、失礼します。あとはご勝手にどうぞ」
鼻水ずびずびになりながら、言った。
「煌ちゃん?」
唐突な僕の宣言に戸惑う姉の声を背に、僕は駆け出した。
トワは風呂中だ。気付いてない可能性が高い。ああやってやるさ。一人で戦ってきてやるとも。
「僕の貞操を返せええええええぇぇえ!!」
僕は涙を流し、絶叫しながら、家を飛び出した。
今の僕だったら一撃でリフューズだって倒せる。そんな気がした、十七歳の冬。