第三話 期待の新星☆美少女清掃員③
照明の落ちている、薄暗い体育館倉庫内。球技大会のざわめきも、扉が閉め切られているので届いてこない。マットの上に散らばる僕の長い黒髪。緊迫した状態に、浅くなった呼吸。白い体操着から盛り上がっている胸が上下している。季節的に冷たいはずの空気は、どくどくと激しく脈打つ鼓動と焦燥感から全く感じない。
そして僕に覆いかぶさり、両肩を押さえつけてきている人物――友枝の真剣な瞳だけがこの場で妙にきらめいて見える。
何コレ。
いや、うちのクラスの副委員長、友枝壱が大宮煌にベタ惚れなのは周知の事実なんだけど。いつか友枝がこんな暴挙に出るんじゃないかと、密かに恐れてはいたんだ。友枝は自分の気持ちに真正直だし、僕とは正反対で積極的な奴だ。
でも、押し倒されたことは想定内であったとしても、彼が口にした言葉は、僕の頭を完全に真っ白にさせた。
友枝は僕を押し倒して、なんと言った?
『お前さ、大宮煌じゃないだろ?』
彼の口は確かに、そう紡いだ。
僕が聞きたい。友枝、お前こそ何者だと。なんでバレたんだ。なんでなんでなんで。
「な、なーに言ってるんですかぁ。友枝君ってば嫌だなぁ、冗談キツイですよぉ」
背中には冷や汗がふつふつと浮かんでいる。それでも僕は出来うる限りに軽い口調で、言ってみる。棒読みになってしまった上に笑顔は固くなってしまった。自分の演技力のなさを心の底から呪いたい。
友枝の表情は崩れなかった。それどころか、肩を押さえつけてきている手の力をぐっと強めてきた。
「っ、痛ぅ……」
あまりの痛みに僕の表情は歪む。
「ふざけるなよ偽者。バレバレなんだよ別人だって」
いつものお調子者の友枝とは思えなかった。真剣な眼差しの友枝は、怒っているようにも見える。
「バレバレって、何を根拠にそんなこと……」
僕の声は震えてしまっていた。友枝の迫力を前に、抵抗する気力すら起きない。
「俺はな、さっきも言った通り大宮に惚れてる。ずっと大宮のことを近くで見てきた大宮煌マニアだ。大宮の誕生日、スリーサイズ、血液型、趣味、休日の過ごし方、使ってるシャンプーのメーカーなどなど彼女の全部知ってるんだよ。多分お前よりもずっとな。そして大宮の落ちた髪の毛も収集してる」
「気持ち悪ッ」
友枝のストーカー並の執着っぷりには青ざめてしまう。まさか友枝、大宮煌が美少女清掃員だってことまで知ってるんじゃなかろうか。
けれどその言葉で、僕はあることに気付いてしまった。
……僕は、大宮煌のことを、何一つ知らない。
「教えてやるよ、偽者。大宮煌はな、人のことを呼ぶ時に絶対下の名前で呼ぶんだよ」
「あ……」
そう言われてみれば、そうだ。彼女は、親しい親しくないに関わらず、人の名前を名字でなくて下の名前で呼んでいるじゃないか。ただのクラスメイトな僕にだって親しげに「永久くん」と声をかけてきて、僕は何度も頬が熱くなった覚えがある。きっとそれは、彼女の魅力の一つなんだ。
そんな彼女の拘りに気付いている人物なら、僕が名字で他人を呼んでいることを不審に思うのは当然だ。
友枝だけじゃなくて、それは保田さんも感じているのかもしれない。僕は更に青ざめていく。
「それだけじゃない。口調も全然違う。それにな、大宮はいっつもそんなにおどおどなんてしてない。クラスのみんなも大宮が最近別人みたいだってウワサしてるぜ? 変なキノコでも食ったんじゃないかって」
……やっぱり。周囲が気付かない方がおかしいんだ。
僕と大宮煌は全く正反対の立ち位置にいたのに、僕が大宮煌を演じられるわけなんてない。そのことを改めて、思い知らされた。長く時間が経過すればするほど、きっと周囲の不信感は強まっていってしまう。
僕は喉をごくり、と鳴らした。
「俺はな、大宮煌が実は腹黒サディスト女だってことも知ってる。隠してるんだろうけど、俺ほどの大宮マニアなら見抜けるんだよ」
友枝の言葉に、僕は呆然と彼を見上げた。
誰も気付いていないと思ってた。少なくとも僕は、大宮煌の表の顔しか知らなかった。
なんでだろうか――僕は、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
「君はそれでも好きなんですね……」
「俺はその性格も全部含めて大宮が好きなんだ。だから、別人のお前が大宮煌のフリをしているのが許せない。俺の好きな大宮は、常に受け身で人任せのお前みたいな奴じゃないんだよ!」
友枝は感情的に喚き、押さえつけてくる力をどんどん強めてくる。僕は表情を歪め、友枝を仰ぐことしかできない。
「お前は何者なんだよ!? 本当のことを言え!!」
どうしよう。友枝は僕を大宮煌じゃないと、完全に見抜いてしまっている。
それでも。
それでも僕は、自分の正体を話すわけにはいかなかった。
僕とトワが入れ替わっている事実を話してしまうと――
「僕は大宮煌です。別人みたいになったとしても、大宮煌なんです!」
僕が強く言い放つと、友枝が少しだけ怯んだ。込めてきていた力が緩む。
「嘘だ! お前は大宮煌なんかじゃ――ほげうぁあっ」
喚く友枝のわき腹へと、唐突に横から蹴りが入った。
友枝は無様に吹き飛んでいった。
「な……!?」
何が起こった。
僕は起き上がり、周囲をきょろきょろと見回す。
視界が悪い中で、遠くわき腹を押さえて悶え転がっている友枝が見える。
その友枝へと容赦なく蹴りを入れた人物は、僕のすぐそばで立っていた。
「刹那! なんでこんなとこに!? なんで友枝君を蹴ったんだ!?」
まさかの刹那の登場だった。
僕は驚きのあまりに目を剥き、立ち上がって刹那を見上げる。
刹那が気だるそうな瞳をこちらに向けてきた。
「暇だったから昼寝してた。うるさいから蹴った」
「うわーなんて適当な理由!」
刹那は一応体操着を着用はしているものの、ずっと体育館倉庫で寝ていた様子だった。寝癖で髪の毛ははねてしまっているし、目も腫れぼったい。
「あの、刹那はさっきの話……聞いてない?」
刹那に先ほどの会話を聞かれてしまったのはまずいかもしれない。刹那にまで疑われてしまうことに……
「話? 聞いてなかった。話なんてどうでもいいし」
まぁ、そうだよね。刹那はそういう奴だ。
刹那がくぁ、と猫のように大きな口を開けて欠伸をしている。本当にどうでもよさそうだ。
「てめぇ、辻か……! 何しやがる!」
復活した友枝が立ち上がって喚き散らした。ずんずんと勢いよく刹那へと迫っていく。
「俺は今大事な話をしてたんだよ! 関係ない奴は引っ込んで……」
刹那が程近くに寄ってきた友枝に、ギラリ、と鋭い一瞥を向けた。先ほどまでの眠そうな眼ではなくて、ゾッとするほど迫力のある眼に、僕までもが硬直してしまう。
「それはこんなところに連れ込んで、嫌がる女の子を押さえつけて、強引に聞き出すほどに大事な話なのか? あ?」
「ごめんなさい俺が間違ってました!」
スススススーと友枝が、体育館倉庫の入り口へと後ずさっていく。
友枝の気持ちは嫌というほどわかった。刹那の睨みは、凄まじく恐ろしかった。こんな顔を見せた刹那を、初めて目にした。
「くそぅ俺は諦めたわけじゃないからなぁっ大宮! 必ず正体を暴いてやる! そして辻! お前も仕返ししてやるから覚えてろよぉぉっ!」
こんなことが前にもあった気がする。負け犬の遠吠えを喚き散らした友枝が、すごすごと退散していった。
友枝が消えて、僕と刹那は体育館倉庫に二人で取り残された。
なんとなく気まずくて、沈黙がおりる。
僕は汚れてしまった体操着の埃をぱんぱん、と払い落とし、乱れてしまった髪を整えた。色々ありすぎて、僕の頭の中はぐしゃぐしゃに混乱している。
「二度目だな」
「……え?」
僕は刹那を見上げた。刹那はまだ眠そうだったけど、僕のことを見ていた。
「こうして大宮さんが襲われてるのに遭遇するのは、二度目だよな。大宮さんは可愛いんだからもっと自覚を持って行動した方がいい」
「……」
刹那はずっと無表情だった。けど。
僕は呆然と刹那を見つめ続けてしまう。刹那の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。他人に全く興味がないと思っていた刹那が、まるで大宮煌を心配しているように言ってきた言葉は、僕の胸中を更に複雑なものにさせた。
先に視線を外してきたのは刹那の方だった。
入り口付近からは死角になる、体育用具の裏へと戻っていく。
「二度寝するわ。俺の出場種目は午後からだったよな。出番になったら起こしにきて」
「う、うんわかった。助けてくれてありがとう、刹那」
「どーいたしまして」
刹那の姿は見えなくなっていたけど、ひらひらと振ってきた手先だけが確認できた。
僕は体育館倉庫から外へと出る。力がうまく入らなくて、扉にもたれかかって大きく息を吐き出した。
いまだに心臓がどくどくと激しく脈打っている。半袖の体操着なのに、冷たい風が心地良いほどに身体が熱くなっていた。
友枝に正体がばれそうになったことでの動揺もあったけど、多分それ以上に――
「あれ、大宮さん。こんなところで何してるの?」
「っトワ!」
トワが僕を見つけて、駆け寄ってきている姿が目にとまった。
僕の表情は、複雑なものになっていたと思う。それぐらい、今一番会いたくない人物に会ってしまった気分だった。
「おばあちゃんが大宮さんの代わりに活躍してくれてるでしょう? 僕も今見てきたけど、女子バスケの優勝は確実だね。よかったね、大宮さん」
僕の前までやって来て微笑を浮かべるトワを見ても、僕は笑うことが出来なかった。
表情が固くなってしまっているのが自分でも、わかる。
「どうしたの? 何かあった?」
「……」
僕は、問いかけてくるトワに応えることができなかった。
言わなきゃいけないのに。友枝に正体がばれそうなこと。刹那に助けてもらったこと。
「――あのさ、トワ。トワは、なんで刹那のことが好きなんですか?」
僕の口から出たのは、言わなきゃいけないと思ったことじゃなかった。
「何を突然……そんなこと聞いてどうするのさ」
トワの頬にわずかに朱色が差した。
「教えてください。知りたいんです」
僕の真剣な眼差しを前に、トワは軽く息を吐き出してきた。気まずそうに、視線を泳がせている。トワがこんな表情をするのは珍しい。
「別に面白くもなんともないよ? ボクさ……小学生の頃に、知らない変態親父に襲われたことがあってさ。さすがのボクでもピンチだったんだけど。その時、刹那くんが助けてくれたんだ。いつでも人に興味のない感じなのに、大事な時にボクを救ってくれた。だから……」
――ああそうか。やっぱり。
大宮煌が刹那に恋をしている意味が、すごくすごく理解できてしまった。
「刹那くんはきっと覚えてもいない些細な出来事だろうけど。ボクにとっては、大事な思い出なんだ」
「……」
「何で黙ってるのさ? らしくないとか思ってるんでしょう?」
照れ臭そうに睨んでくるトワを見ても、僕はうまく言葉が出てこなかった。
「大宮さん?」
僕の様子に首を傾げているトワの横を、無言のままで通り過ぎていく。
なんでだろうか。胸がもやもやして、むかむかして、頭の中はぐしゃぐしゃで整理がつかない。
刹那は、君にとっての大事な思い出を、きちんと覚えているよ。
そのことを言ったら、きっとトワは喜んだんだろうけど。
何も、言えなかった。
僕は大宮煌の全てを好きな友枝にも、大事な時に救ってくれた刹那にも、刹那との思い出を嬉しそうに語るトワにも、嫌な気持ちを抱えてしまった。
苦しくて、笑えない。
僕は一体どうしてしまったのだろうか。
この気持ちは――なんなんだろうか。
その後も沙良さんのめざましい活躍を、僕はずっとぼんやりとしながら近くで観戦していた。全く僕が球技大会に身が入らない状態でも、沙良さんが全て僕の代わりに出場してくれたので問題はなかった。
女子バスケ部門を見事優勝へと導き、ソフトボールでもエースとして出場し、やはり優勝。
残るは明日に持ち越しになっている、バレーの決勝戦と卓球個人戦だけだ。
そして学校からの帰り道、僕は沙良さんと二人で、帰路についていた。
赤く染まる景色を背景に、閑静な住宅街をトボトボと歩いて行く。
「青春のやり直しをしているようで楽しいもんだなぁ。明日も任せときな、キラリ」
全く疲れた様子がない沙良さんが、笑顔でガッツポーズを見せてきた。
横を歩く僕は、沙良さんの笑顔にもわずかに口元が歪んだだけだった。
ずっとうまく笑えない。僕の心は晴れないままだった。
「……今日はずっと元気がないんだね。どうしたんだい? 悩んでるんだったら、話してみな。お前さんが今話せるのはこの沙良さんだけだろう?」
沙良さんの言葉に、僕は立ち止まってしまう。
「僕は、最低です」
沙良さんの全てを受け止めてくれそうな柔らかい表情を前に、思わず、言ってしまった。
「友枝に正体がばれそうになりました。友枝は大宮煌のことを心から大好きで、だから大宮煌が別人だって気付いちゃって。ピンチの時に刹那が助けてくれました。それなのに、僕はそのことをトワに言えなかった。それどころか、友枝にも、助けてくれた刹那にも、嫌な気持ちを持ってしまいました」
僕は吐き出す。
自分の整理のつかない気持ちを、そのままに。
「それだけじゃないんです。球技大会のことだって! トワに頼って、沙良さんに全部任せきりで! 僕は今日ほど自分が嫌になったことはありません! 最低で、情けなくて!」
『俺の好きな大宮は、常に受け身で人任せのお前みたいな奴じゃないんだよ!』
友枝の放った言葉は、僕の胸に深く突き刺さっている。
友枝の言うとおりだ。僕は常に受身で、人任せで。こんなにも、自分が嫌になったのは本当に初めての経験だった。
数歩先を歩いていた沙良さんが立ち止まって、振り返ってくる。束ねている銀色の長い髪も一緒にくるり、とまわった。
銀色の髪は夕陽に映えている。
そして沙良さんは、挑むような瞳を僕に向けていた。
「だったら、なんで戦わないんだい?」
「戦う……?」
「君は自分が情けないことを、はじめて本心から悔しく思っている。そして、負けたくないと思ってるんだろう?」
ああ、そうだ。
――僕は、負けたくないんだ。友枝に、刹那に。自分自身に。
自分の気持ちに戸惑いながらも、僕はしっかりと頷いた。
「そういう時はね、戦うんだよ」
沙良さんがニヤリ、といつもの素敵な笑顔を見せてきて、僕は息を呑んだ。
逃げることばかり考えていた僕に、戦うことなんて出来るのだろうか。
「お前さん、友枝壱に正体を隠し通そうとしたんだろう? それも充分な戦いだよ。お前さんが、煌のことを庇ってくれてるって私は分かってるよ」
僕は頬が熱くなっていくのを感じた。
「大宮煌が内倉永久と入れ替わった目的は、自分の身体を捨てて生き延びる為。そのことを周囲が知ったら、私の孫は殺人者として映るだろうからね。黙っていてくれてありがとう、永久君」
「そ、そんな大層な理由じゃ……」
「沙良さんは知ってるよ。お前さんは、本当は強い子だ」
沙良さんの言葉に、僕は胸が熱くなった。
拳を握り締め、正面に立つ沙良さんを強く見据える。
「沙良さん、明日の試合――全部僕に出場させてください!」
僕が言い放つと、沙良さんが笑顔で親指をグッと立ててきた。
「その言葉を待っていた。君はもっと、もっと、強くなれるぞ」
僕は強い光を瞳に宿し、頷いた。
球技大会一日目、終了。