プロローグ
僕は目の前にいる少女に、確かに見覚えがあった。
そのことに気付くのに多少のタイムラグがあったけれど。
顔以前にその全容に衝撃を受けて、頭の中がしばらく真っ白だったのだと思う。非日常的光景を目の当たりにしてしまうと、現実を受け入れられない脳が逃避を始める。
これは夢じゃないだろうか、と気弱な僕は考えていた。
甘い考えを打ち砕く、鉄錆のような匂いが鼻をついて現実に引き戻された。
僕の知っているであろう少女が、全身血にまみれて、倒れていた。
週末。僕は寒々とした深夜に、夜の街へと出ていた。
次の日が休みだからって、夜遊びするぜやっほーってわけじゃない。夜遊びするようなスポットもない田舎街だ。右手に提げているビニール袋の中身の為に、渋々歩いているのだ。自然に溜め息が漏れる。
『突然だけどおねえちゃんね、肉まんが食べたくなっちゃったの』
自室でぬくぬくと寝ていたら、たたき起こされた。満面の笑顔でふとんを持ち上げている姉の顔を見て、僕は恐怖に打ち震えた。
姉の唐突な気まぐれ指令は、いつものことだ。
は? 明日まで我慢しろよ、寒いよ畜生。なんて僕には口答えをする勇気はない。僕を下僕だと思っているだろう姉を泣かせてやることが、目下ささやかな夢だ。心の中ではブツブツと文句を垂れつつ、しかし従順に上着を着込んでいる時に、更に姉から上乗せされた言葉。
『肉まん冷めてたら、殺すから』
凍てつく冬空の下、外へと放り出された。
土曜日で幸いだった。明日学校だったらこの苦行は辛い。
僕は徒歩十分程の場所にあるコンビニまで走り、姉待望のホカホカ肉まんを購入した。売り切れだったら店員に泣きついているところだった。肉まんを購入できなかった時のことを想像するだけで、更に寒さが増す。
人気のない街路を白い息を吐き出しながら、早足で帰っていた。僕の足音だけが、規則的に響く。僕の住む街ははっきり行って田舎であり、早い時間から街全体が暗闇に落ち、静寂に包まれる。コンビニの無駄に明るい灯りが遠のいていくと、あとはぽつぽつと小さな街灯が道を照らしているだけだ。建ち並ぶ住宅も店も、人の気配を感じられないくらいに暗闇に包まれている。
だから、その小さな呻き声はすぐ耳に届いた。自然、足が止まってしまった。
「……は、ぁ……くっ」
声が聞こえた方へと目を遣る。ビルとビルに挟まれた隙間、細い路地になっている場所から、その声は聞こえてきた。
僕の歩いていた大通りの街灯は路地に届かない。先が見えない。闇に吸い込まれそうな空間だ。いつもは視野にも入れずに通り過ぎていくような横道だ。
僕は逡巡した。
呻き声は、か細い女の子のものに聞こえた。
早く帰らないと姉が怖い。姉超怖い。
でも……こんな深夜に女の子が苦しんでいる声なんて、大事かもしれない。
正直気になった。好奇心と、少しだけの騎士精神、というやつだ。情けないくらい小心な自覚はあるけど、それぐらいは持ち合わせている。
少し迷った末に思い切って路地へと足を踏み入れて、
――その光景を目にしたのだ。
「ちょ、うわっ、きゅ、救急車……!」
少女の服は原型を留めていないくらいに引き裂かれて、破れてしまっている。露出している肌には、無数の裂傷。深い切り傷からは大量の血液が溢れ出してきている。重ねて、重ねて少女にとめどなく赤色が上塗りされていく。
まさかここまで深刻な事態に遭遇するとは、予想していなかった。僕は今までに見たことのない血の量を目にして、眩暈を覚えた。そして生臭い血の臭いが充満する空間に耐えられず、込み上げた吐き気。気持ちが悪い。冬の冷たい風が吹く中なのに、全身に汗が浮かんでいた。
混乱に陥って、青ざめて立ち尽くしながらも、僕は少女を観察してしまっていた。
その時になって、気付いた。
「……大宮、さん……?」
その少女は荒い息を吐き出しながら、肩を大きく揺らし、うずくまっている。少女が僕の言葉にはじめて反応を示した。
ガラス球のように虚ろだった眼が、初めて僕の方へと向く。一体どこに傷口があるのかわからないくらい、血にまみれた少女が朦朧としているらしい意識で、手を伸ばしてきた。
彼女はクラスメイトで、僕のクラスの委員長でもある大宮煌だと、思う。多分。
確実にそうだと思えないのは、その少女の髪が――
「うわあっ」
足を掴まれた。僕の喉元からは情けなくも悲鳴が飛び出した。直後に反省した。重傷を負っている少女に対してあげる声じゃない。
しっかりしろ。相手はおそらく瀕死の状態で、助けを求めているんだ。
僕は気持ちを入れなおし、腰を屈める。
「大宮さん、大丈夫!?」
「……き、み……永久、くん?」
「待ってて、今救急車を」
「ちょうどよかった」
「え?」
上げかけた腰が、止まる。
少女は、口の端を吊り上げて、笑った。怪我しているのに。どう見たって、死にそうなのに。
僕の手首が彼女の伸ばしてきた指に掴まれた。想像を絶する力強さで引っ張られた。
「ちょ!」
地面に転がされてしまった。アスファルトに背中を打ち付けられた衝撃に、息が一瞬止まる。
事態を把握する間もなく、仰向けになった僕の身体の上に、ずるずると少女が這い上がってくる。
足を掴まれた時に感じた恐怖は、やはり間違いではなかったのかもしれない。
その少女の血に染まった顔面、ギラギラと光る眼。そして、冷酷な笑み。
何より、その少女は大宮煌の特徴の一つでもある、腰まである艶やかな黒髪ストレートではなくて。
闇夜に光る――金色の髪だった。
自分の知っている少女とはかけ離れた、存在。
「その身体、ボクにちょうだい」
煌が言った。
「お、おおみや、さ――!」
直後、唇を塞がれた。
柔らかい感触を強く押し付けられ、口の中にひろがっていく血の味。
なんという最悪なファーストキスなんだ。泣きそうな気分になった。そして、動揺以外の何かに反応して、鼓動が激しく脈打つ。どくどくどく、血が激しく身体を駆け巡り、目の前が眩んでいく。
意識が遠ざかっていく。反転する世界。滲んでいく、煌の顔。
――失っていたのは一瞬、だと思う。
重たい瞼を上げ、薄い視界の中で僕を見下ろしている存在に気付く。
身体がありえないくらいの痛みに襲われていた。どこが痛いのかわからないくらい、全身に駆け巡っている。激痛に悲鳴を上げかけ、けれどその眼が捉えたものに悲鳴すら忘れる。
月明かりの下で。
僕が、僕を見下ろしていた。
「……ぇ?」
掠れた問いかけが、喉から漏れ。
更に驚愕。それは僕の声ではなく、女の子のもので。
「ボクの使命の為に、今死ぬわけにはいかないんだ。ごめんね、大宮さん」
出血と痛みで薄れていく意識の中、僕が言い放ってきた。
何が起こっているのか分からない。
僕を見下ろす僕がにっこりと笑みを浮かべ。それは、罪の意識をカケラも感じさせない笑顔だった。
激痛で言葉すら出てこない状態で悟る。どうやら僕はこのまま、死ぬのだ、ということ。
「その為にキミの身体をもらったから」
ああ、そうか。
今僕を見下ろしている僕は……おそらく大宮煌なのだ。
入れ替わった、ということなのか。
把握と共に、意識は朦朧と薄れていく。僕の顔もぼやけていって。
少し憧れていた僕のクラスメイトは、容赦なく僕を殺すつもりらしい。
今更知った。
大宮煌は、最低最悪な女だ。