殿下、その『愛』は嘘ですよ
「ルシア。君との婚約は、破棄する」
王太子レオンハルト殿下の声が、薔薇園に響いた。
春の午後、穏やかな陽射しの中で告げられる別れ。まるで舞台の一場面のような、美しい情景。
「理由を、お聞かせ願えますか」
私の声は震えなかった。心も、乱れない。
「愛する人ができた。セレーナだ」
殿下の隣で、伯爵令嬢セレーナ・ブラントが俯いていた。可憐な少女を演じる彼女の仕草は、完璧だ。
私には、視えている。
殿下の心から立ち昇る、淡い桃色の靄――それは「恋慕」の色。そして、セレーナから殿下へ向けられる、深紅に近い濃密な赤――「執着」の色。
けれど、殿下から私への感情は。
――透明だ。
何もない。最初から、何もなかった。
「そうですか」
私は微笑んだ。心からの、安堵の笑みだった。
「では、婚約破棄をお受けいたします。三年間、ありがとうございました」
深く一礼して、踵を返す。
「待て、ルシア! なぜそんなに平然としていられる!」
「平然? いいえ、殿下」
振り返らずに、私は答えた。
「ただ、私も殿下を愛してはいなかったというだけのことです」
事実を、淡々と。
嘘ではない。私は殿下を愛そうとした。三年間、懸命に。けれど人は、自分を愛さない相手を愛し続けることはできない。
私の感情視の魔法――アイズ・オブ・トゥルースは、十五歳で発現した。以来、私は人々の心の色を視てきた。
嫉妬の緑。怒りの深紅。悲しみの藍。喜びの黄金。
けれど、最も辛いのは「無」を視ることだ。
透明な、何もない空間。
それが、殿下が私に向けてきたものだった。
薔薇園を出ると、回廊の角に人影があった。
「見事だったな、エルヴィン嬢」
壁に背を預けていた長身の男性が、ゆっくりと姿勢を正す。銀髪に、氷のような青灰色の瞳。
ディートリヒ・ノルトヴァルト公爵。王太子殿下の従兄にして、王国最強の騎士団長。「氷の公爵」と恐れられる、この国で最も権勢を誇る貴族。
「立ち聞きとは、趣味が悪うございますね、閣下」
「通りすがりだ」
嘘だ。この人は、わざわざここに来た。
「三年間、貴女を見ていた」
公爵が一歩、近づく。
「レオンハルトの婚約者として、笑顔を絶やさず立ち回る貴女を。他人の感情に疲れながらも、決して弱音を吐かない貴女を」
息が、止まる。
「なぜ、それを」
「貴女の能力のことは知っている。感情視――人の心が視える魔法。便利だが、苦痛でもあるだろう」
公爵の瞳が、私を捉える。
「貴女は、俺の心が視えるか」
「……視えません」
これは、私の秘密だった。
感情視の魔法は、ほぼすべての人に効く。けれど、ごくまれに例外がいる。心の壁が極度に強固な人間、あるいは――心そのものが特殊な構造を持つ人間。
公爵は、その数少ない例外だった。
「視えないことが、怖いか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「むしろ、安心します。視えない方が、楽ですから」
公爵の表情が、僅かに変わった。驚き、だろうか。彼の感情は視えないから、わからない。
「ルシア・エルヴィン。俺は、貴女を妻に迎えたい」
心臓が跳ねた。
「三年間、貴女を見続けた。その聡明さ、気高さ、そして誰にも見せない孤独を」
公爵の手が伸びて、私の頬に触れた。
「視えない心を持つ俺を、貴女はどう思う」
「……怖くは、ありません」
不思議だった。視えない相手は本来、警戒すべきだ。けれど、この人の前では心が落ち着く。
「では、考えてくれるか」
「はい」
公爵の手が、私の手を包んだ。温かい。
「今日はここまでにしておく。だが、レオンハルトの件は放置できん」
「放置とは?」
「貴女に婚約破棄を申し渡した理由だ。おそらく、嘘がある」
私は息を呑んだ。
「セレーナ嬢から、何か吹き込まれたのではないか」
「……私には、彼女の心が視えました」
深紅の執着。そして、私への感情は――毒々しい暗緑色。嫉妬と、憎悪。
「貴女を陥れる算段があったはずだ。それを、俺は看過しない」
公爵の声が、低く響く。
「貴女は黙って去るつもりだったのだろう。だが、俺は許さない」
◆
三日後、王城から召喚状が届いた。
国王陛下からの、婚約破棄に関する事実確認。公開での審問だという。
謁見の間に足を踏み入れた瞬間、私は状況を理解した。
玉座には国王陛下。その右にノルトヴァルト公爵、左に宰相。中央には殿下とセレーナ。周囲には主だった貴族たちが居並んでいる。
公開裁定だ。
「本日召喚したのは、婚約破棄の経緯に疑義が生じたためである」
陛下の声が、重く響く。
「レオンハルト。経緯を述べよ」
「はっ」
殿下が一歩前に出る。その顔は強張っていた。
「セレーナより、ルシアが彼女を虐めていたとの訴えがあり、調査の結果――」
「待て」
公爵が遮った。
「その『調査』とは、どのようなものだったのか」
「セレーナの証言と、数名の目撃者の話を――」
「目撃者とは誰だ」
殿下が口ごもる。
「全員、ブラント伯爵家の関係者だな」
公爵の声が、冷たく響いた。
「陛下。私は独自に調査を行いました。その結果を報告させていただきます」
「許可する」
「エルヴィン侯爵令嬢ルシアは、過去三年間、王太子妃候補として模範的な行動を取ってきました。社交界での評判も上々。虐めなどの行為は、一件も確認されませんでした」
謁見の間がざわめく。
「むしろ、ブラント令嬢セレーナが、エルヴィン令嬢の評判を落とすために虚偽の噂を流していた証拠が、複数見つかりました」
「嘘です! 私は……!」
セレーナが叫ぶ。その瞬間、私には視えた。
彼女から立ち昇る感情の色が、激しく揺れている。恐怖の灰色と、怒りの深紅が入り混じる。
「証人を呼べ」
公爵の合図で、数名の侍女と騎士が入ってきた。
「彼女たちは、ブラント令嬢が虚偽の噂を流す場面を目撃しています」
一人ずつ、証言が始まる。セレーナの顔が、みるみる青ざめていく。
「レオンハルト」
陛下の声が、冷たい。
「そなたは、裏も取らずに婚約者を断罪しようとしたのか」
「父上、しかし――」
「エルヴィン嬢」
陛下が私に視線を向けた。
「そなたには、この場で言いたいことがあるか」
私は深呼吸をして、前に進み出た。
「陛下。私には、感情視の魔法があります」
謁見の間が、静まり返る。
この能力のことは、ごく一部の人間しか知らない。公にすれば、様々な思惑に巻き込まれるからだ。
「殿下が私に婚約破棄を告げた時、私には視えました。殿下の心に、私への愛情がないことが」
殿下が顔を上げる。
「そして、セレーナ様の心にあったのは――殿下への執着と、私への憎悪でした」
「ルシア……」
「私は、殿下を恨んではおりません。愛されない婚約など、双方にとって不幸です。だからこそ、婚約破棄を受諾したのです」
私は、セレーナに視線を向けた。
「セレーナ様。貴女の心は、今も視えています」
彼女が震える。
「貴女は殿下を愛していると仰いますが――貴女の心にあるのは『愛』ではありません。それは『所有欲』です。殿下という『地位』が欲しいだけ。殿下ご自身を見ていないことは、明白です」
「違う! 私は、殿下を――」
「では、お聞きします」
私は静かに問いかけた。
「殿下の好きな花は、何ですか?」
セレーナが、言葉に詰まる。
「殿下が幼い頃に飼っていた猟犬の名前は? 殿下の剣の流派は? 殿下が最も大切にしている場所は?」
すべて、私は知っている。三年間、婚約者として殿下の傍にいたから。
けれど、セレーナは答えられない。
「貴女は、殿下を知ろうともしていない。ただ『王太子妃』という立場が欲しかっただけです」
セレーナの感情の色が、激しく揺れた。そして――砕け散った。
「違う、違う! 私は、ただ……」
彼女が泣き崩れる。
「メルツ令嬢には、相応の処分を下す」
陛下の声が、厳かに響いた。
「社交界への出入りは、今後三年間禁止する。そして、レオンハルト」
「はっ」
「そなたには、判断力の欠如という重大な欠陥がある。当分の間、外交の場への同席は許さん」
殿下が蒼白になる。それは実質、次期国王としての格を下げられたことを意味していた。
「エルヴィン嬢。不当な扱いを受けながらも、品位を保ち続けたこと、見事である」
「恐れ入ります」
「ディートリヒ。何か言いたいことがあるのではないか」
公爵が、前に進み出た。
そして、私の前で――跪いた。
謁見の間が、しんと静まる。
「ルシア・エルヴィン。俺の妻になってくれ」
息が止まる。
「三年間、貴女を見続けてきた。貴女の強さ、優しさ、そして孤独を。俺は、そのすべてが欲しい」
「閣下……」
「ノルトヴァルト公爵家は、貴女を全力で守る。二度と、他人の感情に疲弊する日々を送らせはしない」
公爵の手が、私の手を取った。
「俺の心は、貴女には視えないだろう。だが、それでもいい。言葉と行動で、俺の心を伝える」
彼の青灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「答えは、今すぐでなくていい。だが俺の気持ちは本物だ」
視えない。
けれど、わかる。
この人の言葉には、嘘がない。
「ルシア!」
突然、殿下が駆け寄ってきた。
「待ってくれ! 俺は間違っていた! もう一度、俺と――」
「殿下」
私は、静かに遮った。
「もう、遅いのです」
殿下の顔が、絶望に歪む。
「三年間、私は待っていました。殿下が私を見てくれる日を。けれど殿下は、一度も私を見なかった」
私は、公爵を見た。
「そして私は、見てくれていた方を見つけました」
「リュシア……」
「さようなら、殿下。どうぞ、お元気で」
最後の一礼。私は、公爵の傍らに立った。
「閣下。一つ、お願いしてもよろしいですか」
「何でも」
「貴方の心を、いつか視せてください」
公爵の瞳が、僅かに揺れた。そして、見たこともないほど柔らかな笑みが浮かんだ。
「いいだろう。だが、視えなくても信じてもらえるよう、俺は努力する」
「それでは、お手柔らかに」
「断る」
公爵の腕が、私の肩を抱いた。
「手加減する気はない。覚悟しておけ」
囁きは、甘さを含んでいた。
◆
王城を出て、公爵家の馬車に乗り込む。
「本当に、よろしかったのですか。あのような場で求婚など」
「レオンハルトが貴女に縋りつく前に、俺の意志を示す必要があった」
公爵が、真顔で答える。
「俺のものだと、わからせたかった」
「……嫌では、ありません」
「ならば、慣れてもらう」
公爵の手が、私の頬に触れた。
「俺に大切にされることに、慣れてもらう」
「閣下。答えを、今申し上げても?」
公爵の瞳が、僅かに見開かれる。
「私を、貴方の妻にしてください」
沈黙。
そして、公爵の顔に――初めて見る、心からの笑顔が浮かんだ。
「承った」
唇が、私の額に触れる。
「俺の妻になれ、ルシア。後悔はさせない」
三年間の重荷を手放した私の肩は、驚くほど軽い。
そして公爵の腕の中は、驚くほど温かかった。
視えなくても、いい。
この人の心は、言葉と行動で感じられるのだから。
◆
それから一年。
私はノルトヴァルト公爵夫人として、穏やかな日々を送っている。
殿下は、婚約者選びに難航しているという。「あの時、ルシアを手放さなければ」と後悔しているとか。
けれど、もう遅い。
私の心には、もう殿下の居場所はない。
「ルシア」
執務室の扉が開き、夫――ディートリヒが入ってくる。
「今日は一緒に昼食を取れ」
「昨日も一緒でしたが」
「足りない」
朝も昼も夜も、ディートリヒは私の傍にいたがる。最初は戸惑ったが、今では心地よく感じる。
「ディートリヒ」
「なんだ」
「貴方と結婚して、よかったです」
夫の動きが止まる。私の手を取り、唇を押し当てた。
「俺もだ」
静かな声は、万の甘言より雄弁だった。
そして、ふと思う。
夫の心は、今も視えない。けれど、視えなくても困らない。
なぜなら、夫は毎日、言葉と行動で心を見せてくれるから。
視える心より、信じられる心の方が、ずっと尊い。
私は今、心から幸せだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「感情が視える能力」×「婚約破棄」×「冷却系ざまぁ」という組み合わせで、静かに去る主人公と、最初から見ていた相手役を書いてみました。主人公が持つ特殊能力が、逆に孤独を生む――けれどその孤独を理解してくれる人と出会う、という構造です。
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