さよならの病院前
金木犀の香りはあっという間に消え、外の空気はいつの間にか冷たくなっていた。
息を吐くたび白い息がふわりと広がり、これと一緒に胸の苦しみも消えてくれればいいのにと思う。
ベッドの脇には、桜が好きだった白いかすみ草が飾られている。
本当は夏の花だけど、雪みたいで綺麗だから冬に飾りたかったらしい。
窓の外がすっかり冬景色なことなんて気づいていないだろう、今も彼女は暖かい部屋ですやすや眠っている。
ーー桜と出会ったのは、幼稚園の頃。
桜の家の近くに俺が引っ越してきたのが始まり。
近くに同じ年頃の子供がいなかったからかよく話すようになった。
小学生の頃は6年間、いつも一緒に登校していた。
俺は小学生の頃からサッカーをやっていたのもあって、帰りは別だったが。
クラスが同じでも別でも、他愛のない会話をしながら同じ道を歩くのが妙に心地よかったことを覚えている。
中学生になると部活もあって登下校も別だし、思春期なこともあり、一緒にいることも減っていた。
部活といえば、俺らの中学校は全員強制参加で…俺はサッカーのクラブがあって部活動ができなかったから、悩んでたんだよな。
悩みながら帰宅していた時、「祐希だ〜なんだか久しぶりだね。なんか難しい顔してない?悩み事?」
なんて犬の散歩中の桜に突然話かけられて、その時久しぶりに話したことを思い出した。
桜はいつも話しかけてくれるし、態度が変わることもなかった。どんな時も。
同級生に俺と付き合ってるのかと揶揄われた時も、それが原因で友達と気まずくなった時も。
「久しぶり。部活どうしようか考えてた」
「あ〜そうかクラブあるもんね…そしたら一緒に園芸部入る?幽霊部員でも大丈夫だし!」
「園芸部…」
「出席しなきゃ行けない時だけ来ればいいよ、何かあったら私が誤魔化しておくしね」
ニコッと笑いながら言う桜を見ながら、笑顔久しぶりに見たな、なんて呑気に思った。
桜は子供の頃から花が好きで、育てるのが楽しかったらしい。
園芸部なら静かだし、出席しなきゃ行けない時だけ来ればいいと二つ返事で了承したな。思い返してみても、意外と悪くなかった。
桜は今も昔も変わらない。喜怒哀楽がすぐ顔に出て、名前の通り笑顔が満開の桜のように綺麗で、可愛い。
よく笑うからか、桜の周りには常に人がいて、明るい。あまり感情を表に出さない俺とは大違いだ。
中学校までは同じ地区なので同じ学校に通っていたが、高校からは違う。
当たり前のことなのだが、なぜかこの先も勝手にずっと一緒にいると思っていた自分がいた。
俺はサッカーができればよかったし、成績も悪くなかったので自転車かバスで通える近くの高校を選んで。
桜も同じ高校に行くかと期待したが、彼女は女子校に進学することが決まっていたのでこの時点で離れることが確定。
離れたらいくら家が近くとも話す機会も会える機会もなくなる、それがなぜかたまらなく嫌だった。
この時ようやく、この気持ちが恋なのだと気づく。我ながら遅い初恋の自覚である。
自覚した途端、急に焦り出した。彼氏ができてもおかしくない年頃だし、桜は可愛いから誰かに取られるのではないかと。
善は急げだと言わんばかりか、すぐに一緒に帰る約束を取り付けて帰り道で告白をした。
好きだと自覚した後だからか、桜の顔がなぜか見れなくて…「なぁ、俺…お前のこと好きなんだけど…付き合ってくれない?」なんて、緊張からなんでもないように言ってしまったことだけ少し後悔している。今でも。
そんな告白に対しても桜は「なにそれ!言い方下手すぎ!本当に私のこと好きなの?」なんて笑いながら言ってたっけ。
中学卒業後、付き合い始めだというのにデートできたのは1回だけ。
サッカー優先の俺を彼女はいつも応援してくれてたし、文句も言われたことがなかった。
時間が合えば少し近所の公園で話す。そんな付き合いでも桜はいつも楽しそうで、俺はその笑顔をずっと見たいって思ってたんだ。
高校に入学してからは、同じ路線バスに乗れば一緒に登下校できるようになった。
短い時間でも会えるならと、お互い時間が合いそうな時はバスで会うのが当たり前になりつつあった。
入学してすぐ、GWが終わった後くらいに桜から体調が良くないから休むと連絡があり、最初はみんなして風邪だと思っていた。
ただ、数日経っても体調がよくならないということで病院で検査すると聞いたすぐ後。
桜のお母さんから、桜が病気でもしかしたらもう目を覚まさないかもしれないということを言われた。
最初言われたことの意味がわからず、嘘を言うな、なぜ検査後にそんなことになるんだ、つい先日まで会って、彼女は笑っていたのに。
病気を信じることができず、とにかく食事が喉を通らなかったことを覚えている。
教えてもらった病院に行った日。
そこには会えていなかった彼女が静かに眠っていた。規則的な電子音が鳴る中、いくつもの管に繋がれながら。
嘘でも夢でもない現実を受け入れることができず、その日以降しばらくは学校も練習も行けなかった。
とはいえ進学校。いつまでも休むこともできないので、久しぶりに学校に行った日の帰りのバス。
ドアが開いて乗ろうとした瞬間、「祐希、お疲れ!」なんて桜の声が聞こえるもんだから泣きそうになった。
ついに幻聴も聞こえるくらい寂しいんだなって失笑しながら席に座ろうとしたら。
目の前に制服を着た、彼女がいる。
意味がわからなかった。寝たきりを聞かされた時と同じくらいの衝撃。
彼女が寝たきりになってから、意味がわからないことだらけだ。
それでもバスは何事もなかったかのように出発し、身体が揺れ、思わず転びそうになった。
「ほら、立ってると転ぶよ!早く座りなよ」なんて、目の前の彼女は笑いながら言っている。
夢なのだろうか。それとも目が覚めて完治して登校した?
いや、昨日病院行った時には眠っていたのに。完治なんてありえない。例えそうでもすぐに学校は無理だ。
なんて考えながらこの状況に頭が追いついてない俺を見て、察したのか。
「…気付いたらバスにいたの。私もわからないんだ。でもね」
そう区切る桜の手が、俺の手を握る。当然、何も感じない。
「またこうして話せるなら、私は嬉しい。この時間を大切にしたい。ただ、いつどこで私がこうして祐希の前に来れるかわからないから、この帰りの時間だけ。まずは、この時間だけに限定したいんだ。」
ーーそれからいつもそのバスに乗るようにした。
あの日は先生に体調が悪いと言い、帰宅しようと乗ったバスだったから通常の下校時刻よりも早いバスだった。
毎日そのバスに乗るために、俺はクラブ練習があると偽り担任に報告。
授業は終わっている時間なのと、サッカーでそこそこ優秀な成績を残しているおかげですんなり了承された。
「そういえば、愛が大きい〜なんて言われたっけ。その通りだよばーか」
寝ている桜に話しかける。
不意に彼女の枕元にあるクレーンゲームでゲットしたぬいぐるみが目に入り、あの時の彼女の笑顔を思い出す。
もう一度、桜の笑顔が見たいな。あわよくば、名前を呼んでほしい。
*
今日は特に寒く、雪予報が出ているからなのか、空もどんよりとしていた。
首にマフラーを巻いて病院に行くバスに乗る。
車内は暖かいな、などと思っていると「祐希」とずっと名前を呼んでほしかった人の声が聞こえた。
まさかと思い、いつもの座席に顔を向けると、そこには笑っている彼女がいる。
「桜…」
「祐希、今日もお疲れさま。さすがにこんなに寒いとマフラーするんだね?雪降るかな〜!」
雪が降るのを期待して窓の外を見ながら無邪気にはしゃぐ彼女を、隣の席で眺める。
夢でも、なんでもよかった。また笑顔が見れて、名前を呼ばれたことにどうしようもなく、ただ抱きしめたくてたまらなかった。
もちろん抱きしめることなんてできないのだが。
「ちょっと〜なんて顔してるの!初めて見たよ祐希のそんな顔」
「うるさい」
「うるさくないです〜会えなくて寂しかったんでしょ!」
こういう他愛のないやり取りが嬉しくて、切なくて。
「…寂しかったよ、もう会えないと思ったしもう話せないと思ってたから」
「ごめんね。…もう体力がほとんどなくてさ!これが最後になりそうなんだ」
今にも泣きそうな顔を桜がしている。きっと俺も同じような顔をしているだろう。
胸の奥がきゅっと締め付けられて、言葉がうまく出てこない。
伝えたいことはこんなにもたくさんあるのに。
「私さ?最初に告白された時、本当にこいつ私のこと好きなのか?って疑ってたんだよね。でも言わなかった。ずっと祐希が好きだったから」
「…」
「だからもし違ってもいいや〜付き合えたことだけでも幸せだしな〜って思ってたの。本当だよ?祐希はサッカーにしか興味ないと思ってたし」
「…そんなことない」
「ふふ、そんなことあるでしょ!でもいいの。いつも前を向いて努力してる祐希が好きだし、私はそんな祐希の隣で一緒に前を向いて楽しく過ごしたかったから」
桜の思いを聞きながら、色んな感情が渦巻いていく。
「…病気になって寝たきりになって。祐希があまりにも憔悴していたから、どうにかいつもの祐希に戻ってほしいって願ってたの。そしたらバスにいた。普通ならありえない時間を共に過ごせて…」
「…」
「本当はもっと一緒に色んなことしたかったし、行きたかったし、話したかったけど。でもね、楽しかったし幸せだった。いつもありがとう」
「…俺も、だよ」
笑顔で話している桜を見ていたはずなのに、気付いたら涙が溢れていて、彼女の顔がまともに見られなかった。
幸い今日は雪予報なのでバスに乗客はおらず、泣いていても誰にも見られない。
「私がいなくなって、しばらくは無理でもさ〜また前を向いて頑張ってほしいの。私の好きな祐希のまままっすぐ生きてほしい。サッカー選手も目指してほしい。祐希は照れて言わないけど、夢なんでしょ?あ、でも結婚するなら女子アナとかモデル以外ね!」
「なんだそれ…」
ーー病院前、ーー病院前
アナウンスを聞き、もうすぐ病院に到着する直前なことに気づく。
どうしても言いたいことを直接伝えたくて、溢れる涙を雑に拭いながら桜の顔を見る。
「桜」
「…もうすぐいかなきゃ」
「俺、お前が初恋で、こうなった後はサッカーを優先したことを何回も後悔した。でも、いつも笑ってくれる桜を見て、やっぱり頑張ってよかったとも思うんだ」
「うん、そうだよ」
「桜の笑顔が好きで、それをずっと見てたかったから。俺は俺に恥じないように生きる。桜が好きな俺のまま、生きるよ。だからさ」
プシューー
到着し、ドアが開く。
凍えそうなほど冷たい空気が入ってきて、寒さを感じる。いつの間にか雪が降っていた。
「俺のこと、笑顔で見ててよ。応援して。きっと気づくから」
「…もちろん!ずっとずっと祐希のこと応援してる」
繋いでいた手を離し、2人して泣きながら、笑い合う。
「桜、たくさんありがとう。大好きだ」
「大好きなんて初めて聞いた〜こちらこそ最後までありがとう。私も祐希のこと大好きだよ!」
名残惜しく、別れが嫌でどうしても足が進まなかったが、いつまでもここにいるわけにもいかず。
一歩踏み出して、バスを降りる。
冷たい空気はどこか気持ちが落ち着いた。傘を持っていないので雪が制服や髪にまとわりつく。
振り返ると、ドアが閉まる直前、泣いているのに笑いながら「ばいばい!」と桜が手を振っていた。
いつもまたね、なのに。別れの挨拶が違うことに気づいた直後、スマホが鳴る。
表示された名前を見た瞬間、思考が真っ白になり、急いで病室に向かった。
*
今日もいつものバスに乗る。
進路希望調査のプリントを見ながら、いつもの定位置に座る。今でも桜の定位置は、空席のまま。
「進路ね〜もう高校卒業だもんね」
なんて声が聞こえたような気がするが、もちろん隣に彼女はいない。
「大学どうするかな〜」
そんな俺のため息と独り言は、外の喧騒に紛れバスの車内に響かず静かに消える。
未来のことを考えながら、窓の外に目をやると桜が満開に咲いていた。
「桜、綺麗だな」
来年も、再来年も、春が来る。
きっと毎年思い出すだろうな、なんて思いながらまぶたを閉じた。




