EP9.描かれる女
白紙のスケッチブックに、ゆっくりと浮かび上がった輪郭線。
それは確かに、ユリア自身の顔だった。
けれど——
鏡で見る自分の顔とは、ほんの少しだけ違っていた。
眉の角度。
口元の引きつり。
瞳の焦点の定まらなさ。
そして、何より異様だったのは、
そのスケッチの目が——ページの外にいるユリア自身を見つめ返していたことだった。
>(誰が……描いたの?)
ユリアは恐る恐る、ページをめくる。
次のページにも“自分”がいた。
服装は今と同じ。
ポーズも、座っているこの瞬間と一致している。
ただひとつ違うのは、スケッチの中のユリアが、泣いていたこと。
現実の自分の目は乾いている。
でも、紙の中の自分は確かに、涙を流している。
次のページ。
また“自分”。
少しずつ、表情が壊れていく。
口が裂け、頬が消え、瞳孔がにじみ、
まるで誰かが「ユリア」という女を分解するように——描いている。
>(これ、全部……“予言のスケッチ”?)
>(それとも……もう描かれている通りに、わたしは“演じている”?)
心臓の鼓動が早くなる。
手汗でページが濡れ、波打っていく。
ふと——
背後から、鉛筆の“カリカリ”という音が聞こえた。
ユリアは、固まった。
部屋には誰もいない。
けれど、確かに誰かが“今、この瞬間”の彼女を、背中越しに——描いている。
反射的に振り返る。
——誰もいない。
けれど、床に置かれたスケッチブック。
鉛筆がひとりでに転がりながら、ページの上に止まっていた。
開かれたそのページには、
ユリアが振り返る直前の横顔が、すでに描かれていた。
>「いや……これ……いや……」
口元から漏れた声が、紙の中から反響してくる。
>「いや……いや、いや、いやだ、描かないで……」
——紙の中の“ユリア”が喋ったのだ。
声は震え、かすれていたが、確かに彼女の声だった。
そして次のページが、自動的にめくれた。
今度の“スケッチ”には、こう書かれていた。
>「描かれることを恐れた女は、いずれ自らを描き出す」
その一文の下に、鉛筆で描かれていく。
線がゆっくりと這うように現れる。
——今この瞬間のユリアが、スケッチブックに向かって絵を描いている様子。
>(わたし……これから、描くの?)
>(誰を?)
ページの下部には、まだ空白がある。
鉛筆は、まだ止まっていない。
手が、動こうとしている。
意識とは別に、指先が勝手にスケッチブックへ伸びていく。
鉛筆を握る。
まだ何も考えていないのに、線が勝手に走る。
ページに、形が現れる。
——それは、水槽だった。
その中に、小さな人影。
髪は濡れ、目を閉じ、口を開け、
窓のない空間の底で、何かを叫んでいる。
その顔は、ユリアには見えなかった。
ただ、その存在が、どこか見覚えがある気がした。
描き終わった瞬間、ページの端にこう浮かんだ。
>「次に観測されるのは——君の中の“誰か”だよ」
——カリ。
鉛筆が、ふたたび音を立てる。
でも今度は、背後ではなく、自分の内側から聞こえた。
心臓の奥。
脳の裏。
眼球の底。
何かが、そこで絵を描きはじめていた。
鉛筆の音が、止まらない。
カリ…カリ…カリ……
自分の手が、勝手に動いている。
意志とは無関係に、紙の上に線が刻まれていく。
ユリアは叫びたかった。
でも喉が詰まり、声にならない。
描かれていくのは、水槽の中の少女。
その少女は、ページをめくるごとに少しずつ“ユリア”になっていった。
肌の色。髪の長さ。指先の細さ。瞳のかたち。
——いや、それだけじゃない。
少女の姿が変わっていくにつれ、ユリアの身体の感覚が薄れていく。
左手の温度が消える。
指先の関節が、どこから動いているのかわからなくなる。
鏡を見ようとすると、顔の輪郭がにじんで見える。
>(わたし……今、描かれてる?)
ふと、スケッチブックの中に映った少女がこちらを向いた。
その顔には、表情があった。
苦しそうな、助けを求める目。
でも同時に——どこか嬉しそうにも見えた。
>「これで、やっとあなたと入れ替われる」
ページの中から声がした。
その瞬間、現実の部屋が、水の中のように波打ち始めた。
壁がにじみ、床がゆらめき、空気が重くなっていく。
耳の奥が詰まり、呼吸がうまくできない。
ユリアは立ち上がろうとしたが、膝が言うことをきかなかった。
足元に目をやる。
——影が、紙に染み込むように揺れていた。
黒い影。
それはユリア自身の影だった。
しかし、動きが自分と連動していない。
>(これ……わたしの“描かれた影”……?)
スケッチブックのページが、ひとりでにめくられる。
そこには、“完成した少女”がいた。
水槽の中で、静かに微笑む少女。
手を合わせ、外にいるユリアに語りかけている。
>「あなたがわたしを描いたから、わたしは存在できた」
>「だから今度は——わたしがあなたになる番」
視界が暗転する。
ユリアは、崩れるように床に倒れた。
目の奥に焼きついたのは、ページの中の少女が笑っている顔だった。
その口元が、ゆっくりとこう動いた。
>「交代、完了」
ユリアは、目を覚ました。
見慣れた天井。
見慣れた部屋の壁。
スケッチブックは机の上に、閉じられたまま置かれている。
何も変わっていない。
はずだった。
>(夢……だったの?)
だが、その直後。
鏡に映った自分の顔を見て、息が止まった。
表情が——違う。
目元のしわ。
口角の上がり方。
何より、鏡の中の自分の目が、こちらを見ていない。
視線が、わずかに外れている。
まるで“誰かに見られていること”に気づいているふりをしながら、
その実、自分ではない誰かが鏡を見ているかのようだった。
>「……誰?」
思わず、そう呟いた。
鏡の中の“自分”は、その唇をほんの少し動かして、微笑んだ。
だが、声はなかった。
音が、ない。
背筋に冷たいものが走る。
ユリアは、スマートフォンを手に取った。
連絡帳を開く。
母の名前、隼人の名前、同級生の名前——
どれも見慣れた文字列。
でも、それらのアイコンがすべて“同じ顔”になっていた。
白い背景に、黒い目だけの無表情な顔。
描かれた線画のように簡素で、表情もなく、誰だかわからない。
>(なんで……全員、同じ顔……?)
恐る恐る母にメッセージを送る。
「今日、体調が悪くて学校休もうと思う」
返信はすぐに返ってきた。
>「うん、わかりました。
> また観にいくからね」
その文面に、血の気が引いた。
>(“観にいく”?)
ふと、部屋の壁の一点が気になった。
まるで“視線”を感じるかのように。
——壁の中に、目がある気がした。
そのとき、スマホの画面がふたたび点滅した。
通知:「スケッチが更新されました」
そのアプリに、そんな機能はなかったはずだ。
開くと、そこにはこう表示されていた。
>「次のページが描かれました」
>「あなたが何をするか、もう決まっています」
画面には、1枚の絵が映っていた。
その絵は、ユリアが机の上のスケッチブックを開いている構図だった。
まさに——今この瞬間の自分。
>(これ……リアルタイムで“誰かに描かれてる”……?)
ユリアの背後から、かすかな“カリカリ……”という音が、ふたたび聞こえた。
でも今度は、部屋の中ではなく——耳の奥から。
まるで、脳のどこかに小さな画家が住みついているかのように。
ページが、まためくれた。
ユリアは机の上のスケッチブックを凝視した。
さっきまでは閉じられていたはずなのに、
気づけば数ページ先まで勝手に開かれている。
インクの乾ききらない匂い。
擦ったような鉛筆のかすれ。
それは、“ついさっき”描かれたばかりの絵だった。
絵の中には、自分がいた。
ベッドに腰をかけ、スマートフォンを見つめている自分。
——ほんの10秒前の構図。
>(……これ、見られてる?)
心臓が鳴る。
額に汗がにじむ。
そして次のページには、
**「ユリアが立ち上がり、部屋を出ようとする」**瞬間が描かれていた。
まさに今、ユリアが“そうしようとした”直後だった。
>(……ちがう、わたしは……)
立ち上がるのをやめようとした。
でも、足が勝手に動いた。
足元に、重りのような感覚。
筋肉の動きが“自分の指示じゃない”ような違和感。
立ち上がってしまった。
——“描かれたとおり”に。
そして手が、ドアノブに伸びていく。
それもまた、スケッチブックの次のページに、すでに描かれていた。
ユリアは震える手でスケッチブックを閉じようとした。
——だが、指が止まらない。
ページを閉じる代わりに、次のページをめくってしまう。
次のスケッチは——
部屋のドアを開けて外に出た先で、
誰かと出会っている自分の姿だった。
その相手の顔は、黒く塗りつぶされていた。
>(……会うことが、“決まってる”?)
ページの隅には、手書きの小さな文字があった。
>「※このシーン以降の変更はできません」
ユリアは叫んだ。
「誰が描いてるのよ!? こんなのおかしい、ふざけないで!」
だが、その声が部屋に響いたとき——
スケッチブックの絵の中のユリアも、まったく同じセリフで叫んでいた。
同じ口の動き。
同じ肩の揺れ。
同じ絶望の顔。
>(……まさか……)
彼女の脳裏に、最悪の想像が浮かぶ。
——自分の“自由意志”は、もう存在しないのではないか?
——わたしのこの言葉すら、すでに描かれていたとしたら?
そして最後のページに、こう記されていた。
>「この章の最後に、ユリアは“それ”に出会う。
> 名を持たない観測者。
> すべてを描き、すべてを知っている存在」
ページの端には、インクで目のマークが描かれていた。
——黒い、単眼の印。
>(“それ”が……このスケッチを描いてる?)
耳の奥で、再び“カリ……カリ……”と音が鳴る。
だが今度は、もっと近い。
——頭の裏でも、耳の奥でもない。
心臓の内側から、聞こえている気がした。
ユリアは、今まさに描かれ続けていた。
目には見えない筆で。
思考すら予め設計された、観測の檻の中で。
スケッチブックの最終ページが、風もないのに――ふわりと、めくれた。
そこには、まだ何も描かれていなかった。
ただ、うっすらと湿っていた。
紙の表面に、小さな“しみ”のようなものが浮かんでいた。
水滴ではない。
血ではない。
だけど、誰かの存在が染みこんだ“記録の水痕”。
ユリアは震えながらページに手を伸ばす。
指先が、紙に触れた瞬間——
じゅっ……
小さな焼けるような音がした。
視界が滲み、頭の奥に直接“映像”が流れ込んできた。
⸻
——真っ暗な部屋。
水の音が滴る。
コンクリートの匂い。
どこかで、鉛筆の音が響いている。
> カリ……カリ……カリ……
ひとりの少女が、椅子に縛られている。
髪は濡れ、瞳は焦点を失っている。
その目の前で、黒い影がスケッチブックをめくっている。
ページの中には、その少女が“段階的に壊れていく様子”が、克明に描かれている。
顔の皮膚が薄れていく。
指が逆関節に曲がっていく。
眼球が徐々に“観測用のレンズ”へと変わっていく。
その少女は――間違いなく、ユリアだった。
⸻
「やめてっ……!」と叫んで、ユリアはページから手を離した。
現実に戻っても、心臓は激しく跳ねている。
けれど。
指先の皮膚が、少しだけ紙に吸い取られたように剥がれていた。
乾いたはずの紙が、いまだに冷たい。
部屋の四方から、“観測者”の目が開いていく。
壁に。
カーテンの折り目に。
本棚の隙間に。
消しゴムの表面に。
鏡の奥に。
スマートフォンの黒い画面に。
スケッチブックの裏表紙に。
無数の、目。
形は人間のものに似ているが、
まばたきがない。
瞬きをしない。
ただ、永遠に見続けるためだけの目。
ユリアは、ようやく気づいた。
>(これらは……“観ている”んじゃない)
>(わたしを、“記録しに来た”んだ)
次のページがない。
スケッチブックにはもう、描く余白が残されていない。
——だから。
今度は、現実そのものが紙になる。
空間が、ざらついて見える。
自分の肌が、わずかに灰色がかる。
色が褪せ、影が固まっていく。
足元の床が、鉛筆で塗りつぶしたような質感に変わる。
部屋が——
自分が——
「描かれる対象そのもの」に変わっていく。
「ユリア」
誰かが呼んだ。
耳元ではない。
自分の脳の奥で、その声が囁く。
>「君を、永遠に残すよ」
>「消えないように」
>「忘れられないように」
>「……観られ続けるように」
ユリアは、逃げるようにスケッチブックを閉じた。
——が、ページの隙間から、黒いインクが滲み出てきた。
そのインクは、床を伝い、彼女の足首に絡みつく。
やがて脚を登り、腰へ、胸へ、首へ。
喉の奥が、墨のようにざらついた。
息が詰まる。
瞳が黒く染まっていく。
次の瞬間、鏡の中のユリアが、微笑んだ。
そして、その口元がこう動いた。
>「……やっと、“描けた”ね」
ユリアは息を吸おうとした。
だが、空気の味が変わっていた。
湿っている。
生臭い。
そして、なによりも――紙の匂いがした。
>(この空間が、もう現実じゃない……?)
天井が、少しずつ“波打って”いる。
照明の輪郭が崩れ、鉛筆で描いた線画のように歪んでいく。
机。椅子。壁。
すべての輪郭が、少しずつグラファイト色に変わっていく。
スケッチブックを閉じたはずなのに。
もう何も描かれていないはずなのに。
ユリアは立ち上がろうとした。
——が、膝からパキッと音がした。
骨の音ではない。
紙が折れた音だった。
驚いて足元を見る。
自分の膝が、スケッチのように折り曲がっていた。
影のつけ方すら、クロスハッチで描かれている。
息が止まる。
喉に手をあてると、皮膚が“紙の手触り”だった。
>(わたしの身体が……紙になってる……?)
天井から、ゆっくりと“何か”が降りてきた。
人の形に似ていたが、目と口が描かれていない。
ただの“人型の影”――その全身が、ノートの余白に描かれた落書きのように不完全だった。
それは、顔のないまま、ユリアの目の前まで滑るように近づいてきた。
そして、おもむろに腕を伸ばす。
指先には、鉛筆が握られていた。
その鉛筆を、ユリアの顔の上にそっと当てた。
>「輪郭、ずれてるね」
>「直してあげる」
そう呟いた“声”は、耳ではなく、ユリアの皮膚の下から聞こえた。
顔に触れた瞬間、視界が崩れた。
額のラインが引き直される。
鼻筋がシャープになる。
目の大きさが、変えられていく。
ユリアはそのたびに、自分の記憶が削れていくのを感じた。
彼の笑顔が、誰だったのか思い出せない。
母の声が、どんな響きだったか思い出せない。
小さいころに見た風景が、白紙になっていく。
>(これは、“修正”じゃない……)
>(わたしの人生を、描き換えてる……)
影は、満足げに鉛筆を浮かべた。
そして言った。
>「もう少しで、君は“完成する”よ」
>「名前も、過去も、全部、観測済み」
>「残るのは、“存在としての美しさ”だけ」
ユリアは、かすれた声で問いかけた。
「……その“完成”って、なに?」
影は初めて、輪郭だけの笑みを浮かべた。
>「完成した絵は、動かない。
> だから安心して。
> 君はもう、動かなくていいんだよ。」
その言葉と同時に、ユリアの左手の指が止まった。
次に、右足の感覚が消えた。
そして——胸が、呼吸しなくなった。
呼吸が止まった。
けれど、死ぬわけではなかった。
肺が空気を吸わないまま、凍ったように静止していた。
血液が止まり、心臓が沈黙し、
それでもユリアの“意識”だけが、まだかろうじて揺れていた。
完成寸前のスケッチ。
そこに命が残っているなど、誰が思うだろう。
>(だめ……このままじゃ……わたし、“誰かの所有物”になる……)
けれど、身体が動かない。
目も閉じられない。
ただ、頭の奥で“誰かの鉛筆”の音だけが響いていた。
> カリ……カリ……カリ……
“それ”は、もう真正面にいた。
輪郭の曖昧な影。
顔のない観測者。
けれど、ユリアにはわかった。
“それ”は、自分が描き出した存在だった。
ずっと恐れていた“誰か”の正体は、
スケッチブックの奥深くで、無意識にユリア自身が創造してしまった“観測の化け物”。
観られたいと願った瞬間。
見られることで存在を確かめようとした瞬間。
その全てが、今の“これ”を呼び寄せた。
>(わたしが……“描いた”んだ……?)
それは頷いたように、鉛筆を宙に構えた。
>「ラストライン」
その一言とともに、ユリアの胸の中央に線が引かれる。
まるで心臓を真っ二つに割るような、硬質な音。
その瞬間、彼女の視界が“紙の白”に染まりかけた。
何もかもが静かになる。
音も、匂いも、肌の感覚も、記憶も。
すべてが“作品の一部”として整理され、保管されていく。
>(……わたしが……終わる)
——そのときだった。
スケッチブックの余白の隅で、小さな“書き損じ”が揺れた。
インクがにじみ、意図しない形に崩れた一筆。
その“破綻”が、空間にわずかな“ノイズ”を生んだ。
ユリアの目が、ピクリと動いた。
その“間違い”が、まだユリアが完全に完成されていない証だった。
>(……今しかない……)
ユリアは、自分の意識の奥から、必死に“線の乱れ”を広げた。
イメージの中で、白紙にインクをこぼすように。
完璧な構図に、汚点を増やすように。
完成を、拒否するように。
影が慌てて振り向いた。
初めて、その形がわずかに崩れた。
口が、裂けた。
目が、無数に現れ、同時に消えた。
ユリアは、思いきり叫んだ。
>「わたしは……完成されない!!」
紙の世界が、ビリビリと震えた。
壁が裂け、天井が崩れ、床が“白紙”へと戻っていく。
ユリアの身体もまた、輪郭が滲んでいく。
けれどそれは、支配される形での溶解ではなかった。
自分で選び、自分で壊す、“観測されない存在”への逃走。
紙の世界が、裂けていく。
天井から、ぽっかりと穴が開いた。
そこは暗闇でも、光でもなかった。
ただ、存在のない空白だった。
ユリアは、自分の輪郭が崩れていくのを感じた。
肩のラインがゆがみ、髪の質感が消え、肌の影がにじんでいく。
だが、まだ“目”だけが残っていた。
“観測されてきた目”ではなく、
自分が観るための目が。
ユリアは、その目で“それ”を見返した。
黒い影。
観測するだけの存在。
顔のない、描き手の化け物。
その姿が、次第に――自分自身と似てきていることに気づいた。
>(あれは……“完成されかけた、わたし”?)
わたしの“失敗作”。
わたしが描こうとし、
そして逃げようとした結果、切り離された“かつての自分”。
それが、観測者として、ずっと見ていた。
>「帰れないよ」
>「君はもう、描かれてしまった」
>「いくら線を崩しても、痕跡は残る」
影はそう囁いた。
だが、ユリアは笑った。
口の形だけで。
声はもう、音にならなかった。
観測されることを拒否するには、“見えなくなる”しかない。
それが、存在の終わりを意味しても。
ユリアは、最後の一歩を踏み出した。
白紙の空間――スケッチブックの外、“誰にも描かれていない場所”へ。
その瞬間、すべての音が消えた。
鉛筆の音も、心臓の鼓動も、空気のざわめきも。
——真っ白。
——真っ黒。
——それとも、ただの“無”か。
けれど、ユリアはまだ“自分”でいられた。
名前も、顔も、過去もわからない。
だけど、“描かれていない”という、それだけが自由だった。
翌日。
ユリアの部屋に、誰もいなかった。
机の上のスケッチブックは閉じられたまま。
ページの端が、微かに濡れていた。
ただ、一つだけ違っていたのは――
最後のページが、破り取られていた。
そこに何が描かれていたのか、誰にもわからない。
そして、誰にももう観ることはできない。