表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

EP9.描かれる女

 白紙のスケッチブックに、ゆっくりと浮かび上がった輪郭線。

 それは確かに、ユリア自身の顔だった。


 けれど——

 鏡で見る自分の顔とは、ほんの少しだけ違っていた。


 眉の角度。

 口元の引きつり。

 瞳の焦点の定まらなさ。


 そして、何より異様だったのは、

 そのスケッチの目が——ページの外にいるユリア自身を見つめ返していたことだった。


 >(誰が……描いたの?)


 ユリアは恐る恐る、ページをめくる。


 次のページにも“自分”がいた。

 服装は今と同じ。

 ポーズも、座っているこの瞬間と一致している。

 ただひとつ違うのは、スケッチの中のユリアが、泣いていたこと。


 現実の自分の目は乾いている。

 でも、紙の中の自分は確かに、涙を流している。


 次のページ。

 また“自分”。

 少しずつ、表情が壊れていく。

 口が裂け、頬が消え、瞳孔がにじみ、

 まるで誰かが「ユリア」という女を分解するように——描いている。


 >(これ、全部……“予言のスケッチ”?)

 >(それとも……もう描かれている通りに、わたしは“演じている”?)


 心臓の鼓動が早くなる。

 手汗でページが濡れ、波打っていく。


 ふと——

 背後から、鉛筆の“カリカリ”という音が聞こえた。


 ユリアは、固まった。


 部屋には誰もいない。

 けれど、確かに誰かが“今、この瞬間”の彼女を、背中越しに——描いている。


 反射的に振り返る。


 ——誰もいない。


 けれど、床に置かれたスケッチブック。

 鉛筆がひとりでに転がりながら、ページの上に止まっていた。


 開かれたそのページには、

 ユリアが振り返る直前の横顔が、すでに描かれていた。


 >「いや……これ……いや……」


 口元から漏れた声が、紙の中から反響してくる。


 >「いや……いや、いや、いやだ、描かないで……」


 ——紙の中の“ユリア”が喋ったのだ。


 声は震え、かすれていたが、確かに彼女の声だった。


 そして次のページが、自動的にめくれた。


 今度の“スケッチ”には、こう書かれていた。


 >「描かれることを恐れた女は、いずれ自らを描き出す」


 その一文の下に、鉛筆で描かれていく。


 線がゆっくりと這うように現れる。


 ——今この瞬間のユリアが、スケッチブックに向かって絵を描いている様子。


 >(わたし……これから、描くの?)


 >(誰を?)


 ページの下部には、まだ空白がある。


 鉛筆は、まだ止まっていない。


 手が、動こうとしている。

 意識とは別に、指先が勝手にスケッチブックへ伸びていく。


 鉛筆を握る。

 まだ何も考えていないのに、線が勝手に走る。

 ページに、形が現れる。


 ——それは、水槽だった。


 その中に、小さな人影。


 髪は濡れ、目を閉じ、口を開け、

 窓のない空間の底で、何かを叫んでいる。


 その顔は、ユリアには見えなかった。

 ただ、その存在が、どこか見覚えがある気がした。


 描き終わった瞬間、ページの端にこう浮かんだ。


 >「次に観測されるのは——君の中の“誰か”だよ」


 ——カリ。

 鉛筆が、ふたたび音を立てる。


 でも今度は、背後ではなく、自分の内側から聞こえた。


 心臓の奥。

 脳の裏。

 眼球の底。


 何かが、そこで絵を描きはじめていた。


 鉛筆の音が、止まらない。


 カリ…カリ…カリ……

 自分の手が、勝手に動いている。

 意志とは無関係に、紙の上に線が刻まれていく。


 ユリアは叫びたかった。

 でも喉が詰まり、声にならない。


 描かれていくのは、水槽の中の少女。

 その少女は、ページをめくるごとに少しずつ“ユリア”になっていった。


 肌の色。髪の長さ。指先の細さ。瞳のかたち。


 ——いや、それだけじゃない。


 少女の姿が変わっていくにつれ、ユリアの身体の感覚が薄れていく。


 左手の温度が消える。

 指先の関節が、どこから動いているのかわからなくなる。

 鏡を見ようとすると、顔の輪郭がにじんで見える。


 >(わたし……今、描かれてる?)


 ふと、スケッチブックの中に映った少女がこちらを向いた。


 その顔には、表情があった。

 苦しそうな、助けを求める目。


 でも同時に——どこか嬉しそうにも見えた。


 >「これで、やっとあなたと入れ替われる」


 ページの中から声がした。


 その瞬間、現実の部屋が、水の中のように波打ち始めた。


 壁がにじみ、床がゆらめき、空気が重くなっていく。

 耳の奥が詰まり、呼吸がうまくできない。


 ユリアは立ち上がろうとしたが、膝が言うことをきかなかった。


 足元に目をやる。


 ——影が、紙に染み込むように揺れていた。


 黒い影。

 それはユリア自身の影だった。

 しかし、動きが自分と連動していない。


 >(これ……わたしの“描かれた影”……?)


 スケッチブックのページが、ひとりでにめくられる。


 そこには、“完成した少女”がいた。


 水槽の中で、静かに微笑む少女。

 手を合わせ、外にいるユリアに語りかけている。


 >「あなたがわたしを描いたから、わたしは存在できた」

 >「だから今度は——わたしがあなたになる番」


 視界が暗転する。


 ユリアは、崩れるように床に倒れた。


 目の奥に焼きついたのは、ページの中の少女が笑っている顔だった。

 その口元が、ゆっくりとこう動いた。


 >「交代、完了」


 ユリアは、目を覚ました。


 見慣れた天井。

 見慣れた部屋の壁。

 スケッチブックは机の上に、閉じられたまま置かれている。


 何も変わっていない。


 はずだった。


 >(夢……だったの?)


 だが、その直後。

 鏡に映った自分の顔を見て、息が止まった。


 表情が——違う。


 目元のしわ。

 口角の上がり方。

 何より、鏡の中の自分の目が、こちらを見ていない。


 視線が、わずかに外れている。

 まるで“誰かに見られていること”に気づいているふりをしながら、

 その実、自分ではない誰かが鏡を見ているかのようだった。


 >「……誰?」


 思わず、そう呟いた。


 鏡の中の“自分”は、その唇をほんの少し動かして、微笑んだ。


 だが、声はなかった。

 音が、ない。


 背筋に冷たいものが走る。


 ユリアは、スマートフォンを手に取った。

 連絡帳を開く。

 母の名前、隼人の名前、同級生の名前——


 どれも見慣れた文字列。

 でも、それらのアイコンがすべて“同じ顔”になっていた。


 白い背景に、黒い目だけの無表情な顔。

 描かれた線画のように簡素で、表情もなく、誰だかわからない。


 >(なんで……全員、同じ顔……?)


 恐る恐る母にメッセージを送る。


 「今日、体調が悪くて学校休もうと思う」


 返信はすぐに返ってきた。


 >「うん、わかりました。

 > また観にいくからね」


 その文面に、血の気が引いた。


 >(“観にいく”?)


 ふと、部屋の壁の一点が気になった。


 まるで“視線”を感じるかのように。


 ——壁の中に、目がある気がした。


 そのとき、スマホの画面がふたたび点滅した。


 通知:「スケッチが更新されました」


 そのアプリに、そんな機能はなかったはずだ。


 開くと、そこにはこう表示されていた。


 >「次のページが描かれました」


 >「あなたが何をするか、もう決まっています」


 画面には、1枚の絵が映っていた。


 その絵は、ユリアが机の上のスケッチブックを開いている構図だった。


 まさに——今この瞬間の自分。


 >(これ……リアルタイムで“誰かに描かれてる”……?)


 ユリアの背後から、かすかな“カリカリ……”という音が、ふたたび聞こえた。


 でも今度は、部屋の中ではなく——耳の奥から。


 まるで、脳のどこかに小さな画家が住みついているかのように。


 ページが、まためくれた。


 ユリアは机の上のスケッチブックを凝視した。

 さっきまでは閉じられていたはずなのに、

 気づけば数ページ先まで勝手に開かれている。


 インクの乾ききらない匂い。

 擦ったような鉛筆のかすれ。

 それは、“ついさっき”描かれたばかりの絵だった。


 絵の中には、自分がいた。

 ベッドに腰をかけ、スマートフォンを見つめている自分。


 ——ほんの10秒前の構図。


 >(……これ、見られてる?)


 心臓が鳴る。

 額に汗がにじむ。


 そして次のページには、

 **「ユリアが立ち上がり、部屋を出ようとする」**瞬間が描かれていた。


 まさに今、ユリアが“そうしようとした”直後だった。


 >(……ちがう、わたしは……)


 立ち上がるのをやめようとした。

 でも、足が勝手に動いた。


 足元に、重りのような感覚。

 筋肉の動きが“自分の指示じゃない”ような違和感。


 立ち上がってしまった。


 ——“描かれたとおり”に。


 そして手が、ドアノブに伸びていく。

 それもまた、スケッチブックの次のページに、すでに描かれていた。


 ユリアは震える手でスケッチブックを閉じようとした。


 ——だが、指が止まらない。


 ページを閉じる代わりに、次のページをめくってしまう。


 次のスケッチは——

 部屋のドアを開けて外に出た先で、

 誰かと出会っている自分の姿だった。


 その相手の顔は、黒く塗りつぶされていた。


 >(……会うことが、“決まってる”?)


 ページの隅には、手書きの小さな文字があった。


 >「※このシーン以降の変更はできません」


 ユリアは叫んだ。


 「誰が描いてるのよ!? こんなのおかしい、ふざけないで!」


 だが、その声が部屋に響いたとき——

 スケッチブックの絵の中のユリアも、まったく同じセリフで叫んでいた。


 同じ口の動き。

 同じ肩の揺れ。

 同じ絶望の顔。


 >(……まさか……)


 彼女の脳裏に、最悪の想像が浮かぶ。


 ——自分の“自由意志”は、もう存在しないのではないか?


 ——わたしのこの言葉すら、すでに描かれていたとしたら?


 そして最後のページに、こう記されていた。


 >「この章の最後に、ユリアは“それ”に出会う。

 > 名を持たない観測者。

 > すべてを描き、すべてを知っている存在」


 ページの端には、インクで目のマークが描かれていた。


 ——黒い、単眼の印。


 >(“それ”が……このスケッチを描いてる?)


 耳の奥で、再び“カリ……カリ……”と音が鳴る。


 だが今度は、もっと近い。

 ——頭の裏でも、耳の奥でもない。


 心臓の内側から、聞こえている気がした。


 ユリアは、今まさに描かれ続けていた。

 目には見えない筆で。

 思考すら予め設計された、観測の檻の中で。


 スケッチブックの最終ページが、風もないのに――ふわりと、めくれた。


 そこには、まだ何も描かれていなかった。

 ただ、うっすらと湿っていた。

 紙の表面に、小さな“しみ”のようなものが浮かんでいた。


 水滴ではない。

 血ではない。

 だけど、誰かの存在が染みこんだ“記録の水痕”。


 ユリアは震えながらページに手を伸ばす。


 指先が、紙に触れた瞬間——


 じゅっ……


 小さな焼けるような音がした。

 視界が滲み、頭の奥に直接“映像”が流れ込んできた。



 ——真っ暗な部屋。

 水の音が滴る。

 コンクリートの匂い。

 どこかで、鉛筆の音が響いている。


 > カリ……カリ……カリ……


 ひとりの少女が、椅子に縛られている。

 髪は濡れ、瞳は焦点を失っている。


 その目の前で、黒い影がスケッチブックをめくっている。


 ページの中には、その少女が“段階的に壊れていく様子”が、克明に描かれている。


 顔の皮膚が薄れていく。

 指が逆関節に曲がっていく。

 眼球が徐々に“観測用のレンズ”へと変わっていく。


 その少女は――間違いなく、ユリアだった。



 「やめてっ……!」と叫んで、ユリアはページから手を離した。


 現実に戻っても、心臓は激しく跳ねている。


 けれど。


 指先の皮膚が、少しだけ紙に吸い取られたように剥がれていた。


 乾いたはずの紙が、いまだに冷たい。


 部屋の四方から、“観測者”の目が開いていく。


 壁に。

 カーテンの折り目に。

 本棚の隙間に。

 消しゴムの表面に。

 鏡の奥に。

 スマートフォンの黒い画面に。

 スケッチブックの裏表紙に。


 無数の、目。


 形は人間のものに似ているが、

 まばたきがない。

 瞬きをしない。

 ただ、永遠に見続けるためだけの目。


 ユリアは、ようやく気づいた。


 >(これらは……“観ている”んじゃない)

 >(わたしを、“記録しに来た”んだ)


 次のページがない。


 スケッチブックにはもう、描く余白が残されていない。


 ——だから。


 今度は、現実そのものが紙になる。


 空間が、ざらついて見える。

 自分の肌が、わずかに灰色がかる。

 色が褪せ、影が固まっていく。


 足元の床が、鉛筆で塗りつぶしたような質感に変わる。


 部屋が——

 自分が——

 「描かれる対象そのもの」に変わっていく。


 「ユリア」


 誰かが呼んだ。


 耳元ではない。

 自分の脳の奥で、その声が囁く。


 >「君を、永遠に残すよ」

 >「消えないように」

 >「忘れられないように」

 >「……観られ続けるように」


 ユリアは、逃げるようにスケッチブックを閉じた。


 ——が、ページの隙間から、黒いインクが滲み出てきた。


 そのインクは、床を伝い、彼女の足首に絡みつく。

 やがて脚を登り、腰へ、胸へ、首へ。


 喉の奥が、墨のようにざらついた。


 息が詰まる。

 瞳が黒く染まっていく。


 次の瞬間、鏡の中のユリアが、微笑んだ。


 そして、その口元がこう動いた。


 >「……やっと、“描けた”ね」


 ユリアは息を吸おうとした。

 だが、空気の味が変わっていた。


 湿っている。

 生臭い。

 そして、なによりも――紙の匂いがした。


 >(この空間が、もう現実じゃない……?)


 天井が、少しずつ“波打って”いる。

 照明の輪郭が崩れ、鉛筆で描いた線画のように歪んでいく。


 机。椅子。壁。

 すべての輪郭が、少しずつグラファイト色に変わっていく。


 スケッチブックを閉じたはずなのに。

 もう何も描かれていないはずなのに。


 ユリアは立ち上がろうとした。


 ——が、膝からパキッと音がした。


 骨の音ではない。

 紙が折れた音だった。


 驚いて足元を見る。


 自分の膝が、スケッチのように折り曲がっていた。

 影のつけ方すら、クロスハッチで描かれている。


 息が止まる。


 喉に手をあてると、皮膚が“紙の手触り”だった。


 >(わたしの身体が……紙になってる……?)


 天井から、ゆっくりと“何か”が降りてきた。


 人の形に似ていたが、目と口が描かれていない。

 ただの“人型の影”――その全身が、ノートの余白に描かれた落書きのように不完全だった。


 それは、顔のないまま、ユリアの目の前まで滑るように近づいてきた。


 そして、おもむろに腕を伸ばす。


 指先には、鉛筆が握られていた。


 その鉛筆を、ユリアの顔の上にそっと当てた。


 >「輪郭、ずれてるね」

 >「直してあげる」


 そう呟いた“声”は、耳ではなく、ユリアの皮膚の下から聞こえた。


 顔に触れた瞬間、視界が崩れた。


 額のラインが引き直される。

 鼻筋がシャープになる。

 目の大きさが、変えられていく。


 ユリアはそのたびに、自分の記憶が削れていくのを感じた。


 彼の笑顔が、誰だったのか思い出せない。

 母の声が、どんな響きだったか思い出せない。

 小さいころに見た風景が、白紙になっていく。


 >(これは、“修正”じゃない……)

 >(わたしの人生を、描き換えてる……)


 影は、満足げに鉛筆を浮かべた。

 そして言った。


 >「もう少しで、君は“完成する”よ」

 >「名前も、過去も、全部、観測済み」

 >「残るのは、“存在としての美しさ”だけ」


 ユリアは、かすれた声で問いかけた。


 「……その“完成”って、なに?」


 影は初めて、輪郭だけの笑みを浮かべた。


 >「完成した絵は、動かない。

 > だから安心して。

 > 君はもう、動かなくていいんだよ。」


 その言葉と同時に、ユリアの左手の指が止まった。

 次に、右足の感覚が消えた。

 そして——胸が、呼吸しなくなった。


 呼吸が止まった。


 けれど、死ぬわけではなかった。

 肺が空気を吸わないまま、凍ったように静止していた。

 血液が止まり、心臓が沈黙し、

 それでもユリアの“意識”だけが、まだかろうじて揺れていた。


 完成寸前のスケッチ。

 そこに命が残っているなど、誰が思うだろう。


 >(だめ……このままじゃ……わたし、“誰かの所有物”になる……)


 けれど、身体が動かない。

 目も閉じられない。

 ただ、頭の奥で“誰かの鉛筆”の音だけが響いていた。


 > カリ……カリ……カリ……


 “それ”は、もう真正面にいた。

 輪郭の曖昧な影。

 顔のない観測者。


 けれど、ユリアにはわかった。


 “それ”は、自分が描き出した存在だった。


 ずっと恐れていた“誰か”の正体は、

 スケッチブックの奥深くで、無意識にユリア自身が創造してしまった“観測の化け物”。


 観られたいと願った瞬間。

 見られることで存在を確かめようとした瞬間。

 その全てが、今の“これ”を呼び寄せた。


 >(わたしが……“描いた”んだ……?)


 それは頷いたように、鉛筆を宙に構えた。


 >「ラストライン」


 その一言とともに、ユリアの胸の中央に線が引かれる。


 まるで心臓を真っ二つに割るような、硬質な音。

 その瞬間、彼女の視界が“紙の白”に染まりかけた。


 何もかもが静かになる。

 音も、匂いも、肌の感覚も、記憶も。

 すべてが“作品の一部”として整理され、保管されていく。


 >(……わたしが……終わる)


 ——そのときだった。


 スケッチブックの余白の隅で、小さな“書き損じ”が揺れた。


 インクがにじみ、意図しない形に崩れた一筆。

 その“破綻”が、空間にわずかな“ノイズ”を生んだ。


 ユリアの目が、ピクリと動いた。


 その“間違い”が、まだユリアが完全に完成されていない証だった。


 >(……今しかない……)


 ユリアは、自分の意識の奥から、必死に“線の乱れ”を広げた。


 イメージの中で、白紙にインクをこぼすように。

 完璧な構図に、汚点を増やすように。

 完成を、拒否するように。


 影が慌てて振り向いた。

 初めて、その形がわずかに崩れた。


 口が、裂けた。

 目が、無数に現れ、同時に消えた。


 ユリアは、思いきり叫んだ。


 >「わたしは……完成されない!!」


 紙の世界が、ビリビリと震えた。

 壁が裂け、天井が崩れ、床が“白紙”へと戻っていく。


 ユリアの身体もまた、輪郭が滲んでいく。

 けれどそれは、支配される形での溶解ではなかった。


 自分で選び、自分で壊す、“観測されない存在”への逃走。


 紙の世界が、裂けていく。


 天井から、ぽっかりと穴が開いた。

 そこは暗闇でも、光でもなかった。

 ただ、存在のない空白だった。


 ユリアは、自分の輪郭が崩れていくのを感じた。

 肩のラインがゆがみ、髪の質感が消え、肌の影がにじんでいく。


 だが、まだ“目”だけが残っていた。

 “観測されてきた目”ではなく、

 自分が観るための目が。


 ユリアは、その目で“それ”を見返した。


 黒い影。

 観測するだけの存在。

 顔のない、描き手の化け物。


 その姿が、次第に――自分自身と似てきていることに気づいた。


 >(あれは……“完成されかけた、わたし”?)


 わたしの“失敗作”。

 わたしが描こうとし、

 そして逃げようとした結果、切り離された“かつての自分”。


 それが、観測者として、ずっと見ていた。


 >「帰れないよ」

 >「君はもう、描かれてしまった」

 >「いくら線を崩しても、痕跡は残る」


 影はそう囁いた。


 だが、ユリアは笑った。


 口の形だけで。

 声はもう、音にならなかった。


 観測されることを拒否するには、“見えなくなる”しかない。


 それが、存在の終わりを意味しても。


 ユリアは、最後の一歩を踏み出した。

 白紙の空間――スケッチブックの外、“誰にも描かれていない場所”へ。


 その瞬間、すべての音が消えた。

 鉛筆の音も、心臓の鼓動も、空気のざわめきも。


 ——真っ白。


 ——真っ黒。


 ——それとも、ただの“無”か。


 けれど、ユリアはまだ“自分”でいられた。


 名前も、顔も、過去もわからない。

 だけど、“描かれていない”という、それだけが自由だった。


翌日。

ユリアの部屋に、誰もいなかった。


机の上のスケッチブックは閉じられたまま。

ページの端が、微かに濡れていた。


ただ、一つだけ違っていたのは――


最後のページが、破り取られていた。


そこに何が描かれていたのか、誰にもわからない。

そして、誰にももう観ることはできない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ