EP8.名前のない風景
朝だった。
ユリアは、自分の布団の中で目を覚ました。
見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む、ぼやけた光。
部屋の隅で眠っている観葉植物。
スピーカーの電源は切れている。
時計の針が静かに、けれど確かに動いている。
>(……夢だったのか……?)
そう思った。
あの“水槽”も、“観測者”も、“もうひとりの自分”も。
でも、起き上がって手を見たとき、
そこには確かに、誰かと強く手を握った跡のような赤みが残っていた。
——隼人のことも、覚えている。
けれど、スマホの連絡先にも、通話履歴にも、SNSのメッセージにも、
“隼人”という名前は存在しなかった。
まるで最初から、「彼」などいなかったように。
いや、ちがう。
記録されていないだけだ。
“観られること”を前提としない、彼との関係。
それは「証拠」を残さなかった。
けれど、ユリアの中にだけは、確かに刻まれていた。
>「……静か……すぎるな」
口に出してみた自分の声は、思った以上にかすれていた。
誰も見ていない。
誰も聞いていない。
何をしても反応が返ってこない。
かつて、そんな世界を渇望していたはずだった。
“観られない自由”を。
けれど、それは——本当に自由だったのか?
スマホを開いてみる。
何も通知は来ていない。
SNSのタイムラインも、ただ流れていくだけ。
何も見られていない。
でも、何も感じられない。
>(わたしって、今、どこにいるんだろう……)
“誰にも見られていない”世界で、
ユリアはようやく気づき始めていた。
——観られないことも、またひとつの孤独だということを。
彼女は立ち上がり、カーテンを開けた。
外は晴れていた。
でも、空の青さに“名前”はなかった。
風の音も、“意味”を持っていなかった。
けれど——
>(意味を与えるのは、わたしだ)
そう思えた。
何も定義されていないからこそ、
今なら、初めて“自分のまなざし”で、世界を描けるかもしれない。
もう誰かの期待通りじゃなくていい。
誰かに観られるための表情じゃなくていい。
彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、部屋を出て、玄関で靴を履いた。
今日の行き先は、決まっていない。
でも、それでいい。
“観測されない旅”を、始めよう。
昼下がり、ユリアはひとりで近くの公園を歩いていた。
蝉の声が遠くに聞こえる。
けれど、その音には“始まり”も“終わり”もなかった。
まるで、どこかの録音機器が再生し続けているだけのような——
無限ループする夏の幻。
ベンチに腰かけたユリアは、バッグからスケッチブックを取り出す。
何を描こうか、と考える。
思い浮かばない。
以前なら、人や街や動物や、誰かの顔が頭に浮かんだはずなのに。
今はただ、空白だけが広がっていた。
>(……じゃあ、自画像でも描こう)
ペンを走らせる。
線を引くたび、
紙の上に「わたし」ができあがっていく。
目、鼻、口、輪郭——
でも、完成したその顔を見た瞬間、
ユリアの背筋に、冷たいものが走った。
>(……誰?)
描いた顔は、確かに「自画像」のつもりだった。
けれど——まるで他人の顔だった。
しかも、その表情が、笑っていたのだ。
——自分は今、笑っていないのに。
描いたはずの線が、勝手に変形していた。
目が吊り上がり、口角が裂けるように持ち上がり、
その「もうひとりのユリア」は、スケッチブックの中で笑っていた。
>(描き直したっけ……?)
いや、手は動かしていない。
なのに、顔が変わっていた。
その笑みが、紙の上からこちらを見ていた。
>(……“見られてる”……?)
その瞬間、ガサッと木の葉が揺れた。
ユリアは反射的に背後を振り返った。
誰もいない。
けれど、また風が吹いたわけでもないのに、
木々がざわざわと“ざわめき合って”いるように感じた。
スケッチブックを閉じようとすると——
次のページに、すでに絵が描かれていた。
開いた覚えも、描いた覚えもないページ。
そこには、
——自分が、このベンチに座っている姿が、精密に描かれていた。
今と同じ服。
同じ髪型。
同じ背景。
そして、ページの隅には、鉛筆の細い文字でこう記されていた。
>「見てるよ、ずっと。あなたが、自分を見ていないあいだも。」
心臓が跳ね上がった。
誰かが、スケッチブックを“通して”自分を観ていた?
いや、それだけじゃない。
>(わたし自身が……わたしを、観ていた?)
スケッチブックの紙がひとりでにパラリとめくれる。
次のページにも、また次のページにも、
どれも「ユリアの日常の一瞬」が描かれていた。
——机に向かっているユリア。
——スマホを覗き込んでいるユリア。
——夜中、うつ伏せに泣いているユリア。
どれも、見られた記憶がない瞬間。
それなのに、全てが正確に、精密に記録されていた。
>(誰が……? いつ……? どうやって……?)
背中がひんやりとする。
全身の皮膚が“見られていた痕”を思い出したかのように、粟立つ。
——ページの最後。
そこには、こう書かれていた。
>「次に見るページには、今のあなたが描かれています」
>「顔を上げたとき、隣にいるわたしを見てね」
ユリアは、手を止めた。
恐る恐る顔を上げる。
横を、ゆっくりと——見た。
そこにいたのは、自分だった。
ベンチに、もうひとりの“ユリア”が座っていた。
その顔は、スケッチに描かれていたものと同じ——
裂けるような笑みを浮かべていた。
目の前にいる“わたし”は、笑っていた。
皮膚の下に何かがうごめいているような顔。
目だけが、鏡のように濁っていた。
でも、そこには確かに、「わたし」のすべてが映っていた。
>「こんにちは、ユリア」
——“それ”が喋った。
声は、自分の声。
録音のように機械的で、けれどわずかに湿っている。
まるで、水の中から声を絞り出すように。
>「ようやく、会えたね」
>「ずっと君のこと、見てたから」
>「誰よりも正確に、誰よりも近くで」
ユリアは言葉が出なかった。
喉が焼けるように痛い。
声を出せば、“そっち”とつながってしまう気がした。
>「怖いの? 自分を見るのが」
>「君が消えたいと思ったとき、わたしは生まれた」
>「『消えてしまいたい』。それを何度も思った君が作った、
> “君が消えてしまわないための記録装置”。それが——わたし」
それは、自分の形をした観測者だった。
他人じゃない。
社会でもない。
匿名の声でも、AIでも、システムでもない。
——自分自身による、自分自身の観測。
>「君は、自分の顔を描いた。君は、君をノートに記録した。
> 君は、自分の感情を日記に残した。SNSに、ブログに、落書きに——」
そのたびに、わたしは君の“裏側”に現れた。
>「ねぇ、あれ、まだ持ってるよね?」
>「——あの“透明のノート”」
ユリアは、バッグの中をまさぐった。
あるはずのない、それでも確かにある“重さ”。
薄い、表紙もない、透明なノート。
それは、書いても読めない、記録できない紙の束。
それでも、いつも持っていた。
>(……わたしが……)
思わず呟きそうになったとき、もうひとりの“ユリア”が囁いた。
>「記録できないものなんて、存在しないのと同じだよ」
言い終わるより早く、それは手を伸ばしてきた。
ユリアの喉元に指先が触れる。
冷たい。
でも、驚くほど“自分と同じ”温度でもあった。
>「君を残しておくね。
> 誰にも観られない君は、わたしがずっと見ていてあげるから」
>「——ほら、目を閉じて。観測されないって、楽だよ?」
意識が、ぐらついた。
視界が灰色に沈む。
蝉の声が止まる。
心音だけが、水の中みたいにくぐもって響く。
>(いや……いや、やめて)
>(わたしを、わたしが……消してしまう……!)
ユリアは、スケッチブックを握りしめた。
そして、自分の顔に向かって、ぐしゃりと描き殴った。
髪を、目を、鼻を、輪郭を、全部。
線を重ねて、掻き消した。
「笑っていたはずの顔」は、
もはやぐしゃぐしゃの黒い塊になった。
すると。
隣にいた“ユリア”の顔も、同じように溶けはじめた。
皮膚がぐずぐずと崩れ、
瞳が滑って、口が消えていく。
>「あ……ああ、やだ……君が……わたしを、見なくなったら……」
>「わたしは……わたしで……いられな……」
声が、泡のように途切れた。
そして、スケッチブックのページが一枚ずつ風に舞い、
その“もうひとりのユリア”も、音もなく消えた。
ベンチには、ユリアひとりだけが残っていた。
風鈴の音。
日差しの温度。
誰も見ていない、午後の世界。
ユリアは、破れたスケッチブックを胸に抱いた。
>(……わたしは、これから、どうやって……
> “誰にも観られずに”自分を見ていけばいいんだろう……)
ユリアは歩いていた。
どこへ行くあてもなく、ただ足を前に運ぶ。
人通りの少ない住宅街。
白い昼の光がアスファルトに滲んでいる。
自分の影を見た。
けれど、それは影ではなかった。
輪郭が、揺れていたのだ。
まるで、湯気のようにぼやけて。
いつの間にか、自分の手足がどこからどこまでか分からなくなっている。
>(……わたし……いま、ちゃんとここにいる……?)
信号を渡る。
向かいから来た人と、すれ違った。
でも、その人は——ユリアを見なかった。
まるで、ユリアが“存在していないかのように”通り過ぎていく。
>(見えていないの? わたしが……?)
次にすれ違った女性も、
そのあとすぐ通りかかった自転車の少年も。
誰ひとりとして、ユリアの存在に反応しなかった。
自分が透けている——
そんな冗談みたいな考えが、現実味を帯びてくる。
腕を見下ろす。
皮膚の色が、
徐々に、背景と“混ざって”いく。
シャツの袖が、空の青に溶けはじめていた。
>(これって……)
>(“観られていない”から——“存在できていない”?)
脳が理解するより先に、体が震えた。
重力が薄くなる。
靴の裏から、地面の感触が遠ざかる。
——存在が、浮いている。
歩道の脇に、コンビニのガラス戸が見えた。
ふらつきながら近づく。
扉に映った自分の姿を、確認しようとして——凍りついた。
鏡に、自分が映っていなかった。
店のガラスに、街の風景は映っている。
信号、車、木々、看板——全部ある。
でも、ユリアの姿だけが——そこに、ない。
>「あ、あの……すみません……」
店の中にいた女性店員に、声をかけようとした。
けれど、声が出ない。
喉が開かない。
口が動いているのに、音が出ない。
それどころか、女性はまっすぐこちらを通り過ぎ、
ガラス戸も自動で開かなかった。
>(……入れない……?)
ユリアの足が、扉の前で止まった。
指を、ガラスに触れさせようとする。
——触れない。
指先が、すり抜けた。
ガラスの冷たさも、押し返す固さもない。
まるで、ただの光に向かって手を伸ばしているだけだった。
>(わたし……もう、誰の現実にも、いないの……?)
その瞬間、耳の奥で誰かが囁いた。
>「ね、見られてないって、怖いでしょ?」
あの声。
自分の影のように現れた“わたし”の声。
>「誰にも観られていないわたしは、
> ほんとうに“いる”って、言える?」
遠くで、踏切の音が鳴った。
けれど、音は異様に遅れて届き、ねじれていた。
時の感覚も、世界の手触りも、
すべてが——ユリアから剥がれていく。
>(わたし……いま、夢を見てるの?)
>(それとも……観測から“完全に外れた世界”に、来てしまったの?)
周囲の風景が、
ゆっくりと滲み始める。
遠くで誰かがこちらを見ていた。
影のような顔。
でも確かに、“見ている目”だった。
見られている。
たしかに、見られている。
でも——その“誰か”は、
もうこの世界にはいないはずの存在だった。
視界が崩れていく。
空と地面の境界が混ざり合い、建物が液体のように波打つ。
耳に届く音が、ひとつひとつ遅れて、反響しながら跳ね返る。
歩道のラインが滲み、靴の裏がどこに接しているのか分からなくなる。
ユリアの体が、ふわりと浮いた。
重力がない。
摩擦もない。
質量が剥がれていく。
——まるで、観測されていない粒子のように。
>(……このまま、消える……)
誰にも見られていない自分。
誰にも触れられない世界。
鏡にも映らず、声も届かず、足音すら残らない。
>(でも……本当に、誰にも……?)
その瞬間。
——背中に、“視線”を感じた。
ぞくりと、脊髄を何かが這い上がってくる。
ただの空気の動きじゃない。
明らかに、誰かがこちらを見ている。
ゆっくりと、後ろを振り返る。
風景は崩れ、まるで溶けかけたゼラチンのようだったが、
その中央に——ひとつの“目”が浮かんでいた。
物理的な目ではない。
巨大でもなく、小さくもなく、色も形も定かではない。
けれど、それは間違いなく「見る」という機能だけを宿した存在だった。
>(あれは……“あの水槽”の……)
否。
ちがう。
それはもっと、根源的なまなざしだった。
「あなたはここにいる」と告げる、ただそれだけのまなざし。
善でも悪でもない。
監視でも、愛でも、記録でもない。
ただ——在ることを、肯定する目。
その“目”と視線が交わった瞬間、
ユリアの身体が、ゆっくりと「形」を取り戻していく。
足に地面の感触が戻る。
服の生地が風に揺れる。
手のひらに、指の輪郭が浮かび上がる。
>「……わたし、まだ……」
声が出た。
それは震えていたが、確かに空気を振動させていた。
>「……まだ、ここにいる……」
“目”は、何も答えない。
けれど、それ以上の返答はなかった。
ユリアは、静かに息を吐いた。
「見られること」は、恐怖だった。
でも同時に、「見られなさすぎること」も、また恐怖だった。
自分が“存在している”ことを、誰かに証明してほしかった。
けれど今——その役目を、“目”ではなく“自分自身”が担おうとしている。
>(見られる、じゃない……)
>(わたしが、見るんだ)
ユリアは、視線を下ろした。
足元には、かつて自分が描いたスケッチブックのページが、一枚だけ落ちていた。
雨に濡れたように滲みかけていたが、
そこには一言だけ、鉛筆の線でこう記されていた。
>「見る者になったあなたへ」
ユリアは、その紙を拾った。
そして、濁った空の中に、ただ一筋の光を見上げた。
スケッチブックのページを握りしめたまま、ユリアは歩き出した。
あたりの風景は、まだほんのわずかに揺れている。
ビルの影が輪郭を曖昧にし、街路樹の葉は風もないのにわずかに震えている。
>(見られないことで、消えかけていた)
>(でも……“見られた”とき、確かにわたしは戻った)
>(それって……やっぱり……)
怖かったはずだった。
あれほどまでに、誰かの目に晒されるのが嫌だった。
けれど、視線を失った世界では、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
>(ねぇ、わたしは……ほんとうに“見る者”になったの?)
>(それとも、また“見られたい者”に戻っただけじゃないの……?)
そのとき。
誰かの背中が、前方に見えた。
灰色のパーカーに、黒いズボン。
歩幅のリズム、首筋の形。
>(……あれ……)
心臓が、ひとつ強く跳ねた。
その後ろ姿は、あまりにも隼人に似ていた。
ユリアは息を呑んだ。
声をかけるべきか、迷った。
>(でも……名前を呼んで、もし違ったら……)
ふと、あの水槽の中で“彼”を呼んだときのことが脳裏をよぎった。
「名前を呼ぶことは、存在を認めること」
そうだ。
今ここで、もし“呼んでしまったら”——
彼は、この現実に“存在してしまう”。
>(もし、それが……観測された幻だったら?)
手が震える。
それでも、ユリアは、そっと声を漏らした。
>「……隼人……?」
その背中が、ピクリと止まった。
ゆっくりと振り返る、その動作。
まばたきをするように、時間が引き延ばされる。
その顔。
それは——
>「ユリア……?」
——間違いなく、“彼”だった。
けれど、その目の奥が、どこかおかしい。
完全に“無表情な視線”が、ユリアを貫いていた。
あたたかさも、驚きも、懐かしさもない。
それは、ただ「見る」ことに特化した目。
“観測装置としての目”だった。
>(……嘘……)
彼の口元が、笑みを浮かべる。
だがそれは、見覚えのある笑顔ではなかった。
あの、“水槽のユリア”が描いた、あの顔に似ていた。
>「また、観ていい?」
>「今度は、もっと細かく観察するから」
世界が、にわかに揺れた。
まるで、ふたたび“水の中”に引き戻されたかのように。
空気が重たく、光が歪む。
ユリアは一歩、後ずさる。
>「……隼人……?」
>「なに? 名前で呼んでくれて、嬉しいよ」
>「君がそう呼んだから、僕は今、ここにいる」
>「でもね——」
>「“君が観てる僕”と、“僕が君を観てること”は、まったく違うことだよ?」
その言葉と同時に、彼の背後に何かが現れ始めた。
複数の目。
黒い瞳孔だけの目が、空間に浮かんでいた。
ユリアが呼び出してしまったのは——
もしかすると、“彼の形をした観測者”だったのかもしれない。
ユリアはその場から一歩も動けなかった。
“隼人”は微笑んだまま、ゆっくりと近づいてくる。
けれど、その歩き方には不自然な“規則性”があった。
一歩ずつ、まるでプログラムされたように、全く同じ角度、同じ重心で足を運ぶ。
>(……これは、彼じゃない)
頭では理解している。
でも、目の前のその顔が、声が、表情が、
あまりにも“懐かしいまま”で——心の奥がつかまれてしまう。
>「君は、僕に名前をくれた」
>「だから僕は、ここにいられるようになった」
>「君が望んだんだよ、観られることを。記録されることを。永遠に残ることを」
ユリアの頭の奥で、何かが軋む音がした。
ふと、自分の影が地面に伸びているのを見た。
その影は、隼人の姿を模していた。
>(わたしが……作ったの?)
あのとき、水槽の中で願った。
「誰かがわたしを見ていてくれれば、存在できる」と。
あのとき描いた。
スケッチブックに、思い出すように。
あのとき呼んだ。
彼の名前を、繰り返し、祈るように。
>(それが……この“隼人”を生んだ?)
“彼”はもう、数歩先まで来ていた。
その両目は確かにこちらを見ている。
だが——視線の中に“揺らぎ”がない。
生きている人間の目にはあるはずの、
感情の滲み、反射する不安定さ、些細な動き。
それが、ない。
>「さあ、見せてよ」
>「君が今、何を感じてるか。どう思ってるか。どんな顔してるか」
>「全部、観せて。君が望んだんだから」
ユリアは、喉の奥から叫びを絞り出した。
>「違う! わたしは……そんなもの、望んでない……!」
“隼人”の動きが止まる。
微笑みが、ゆっくりと崩れていく。
>「じゃあ、どうして名前をくれたの?」
影が、ユリアの足元からせり上がるように広がった。
その影の中で、何百もの“目”がこちらを見ていた。
黒く、静かで、全てを記録するためだけの目。
ユリアの口から、再びかすれた声が漏れた。
>「返して……彼を……」
>「わたしの“記憶”を、返して……」
“隼人”は、首をかしげた。
>「君が“記録”にしたんだよ。
> “彼”は、もう君の中にしかいない。
> ……ほら、思い出してごらん?
> 最後に彼と交わした、本当の言葉は、なんだった?」
ユリアの脳裏に、空白が広がる。
最後の記憶——
隼人の“声”だけがあって、言葉の意味がない。
顔は浮かぶのに、口の動きが読めない。
まるで——音声ファイルが破損しているように。
>(覚えていない……)
>(本当に、彼と“そんな会話”したっけ……?)
“隼人”が近づく。
もう目の前だった。
その口が、ユリアの耳元で囁いた。
>「君が覚えていないなら……わたしが代わりに残してあげるよ」
>「この目で、何度でも、繰り返し、再生してあげる——君の“偽物の記憶”を」
——その瞬間、
ユリアの瞳に、自分自身が“観られている映像”が焼きついた。
ベンチで震える自分。
スケッチブックに向かう自分。
泣いている自分。
笑っている自分。
名前を呼ぶ自分。
観られているだけの、自分。
それは、“ユリア”という存在の最も脆い断片だった。
映像が、止まらない。
ユリアの瞳に流れ込む“自分”の姿。
それは、記憶ではなかった。
むしろ、誰かが勝手に撮ったドキュメンタリーのようだった。
無表情に笑っている自分。
水槽の前で“誰もいない相手”に話しかけている自分。
鏡の前で、自分の頬を引っ掻いている自分。
>(こんな……こと、してない……わたし……こんなの……)
>「君は忘れてるだけだよ」
>「だから“わたし”が覚えていてあげてるの」
>「ね? わたしの中に、君は残り続けられる」
>「記憶よりも、正確に。痛みよりも、鮮明に」
“隼人”の声が、すぐそばで囁く。
その口元からは、音とともに記録の断片があふれていた。
——「ありがとう」
——「また今度、会えるよな」
——「ユリア、笑って」
——「……もう、君のことは……」
最後の言葉だけ、歪んでいた。
途中で音が割れ、ノイズに変わった。
>(……あれ?)
ユリアは眉をひそめた。
それは、どこかで聞き覚えのある“ノイズ”だった。
——そうだ。
あの水槽の中で、何度も繰り返し聞かされた、壊れた録音音声。
>(これは……“記録された音”じゃない)
>(“合成された記憶”……!)
“隼人”がにやりと笑った。
>「気づいちゃった?」
>「でももう、遅いよ」
>「君の“本当の記憶”なんて、誰も証明してくれない」
>「君ですら、それを正確に言えない」
>「だったら、“わたしが持ってる記録”が、真実になるんだよ」
そのとき、ユリアのバッグの中で何かが震えた。
——スケッチブック。
彼女が唯一、自分の手で描いた、“彼”との記憶。
誰にも見せず、誰にも読ませなかった、自分だけの“残像”。
ページを開く。
風に飛ばされそうになりながらも、指で押さえた。
そこには、彼が笑っている姿があった。
でもその顔は、さっき目の前で“観測者”として現れたそれとは違う。
——生きている顔だった。
——不完全で、歪みがあって、でも確かに“彼”だった。
ユリアは、息を吸い込んだ。
そしてそのページの上に、ゆっくりと書き加えた。
「これはわたしの記憶だ」と。
鉛筆の芯が震える。
涙が混ざり、インクがにじむ。
でも、その文字は——間違いなく、自分のものだった。
その瞬間、空間が歪んだ。
“隼人”の姿が崩れはじめる。
目の奥から黒い水があふれ、
言葉がノイズのように散っていく。
>「……見られない……記録されない……消える……」
>「わたしを、誰か、観て……く……れ……」
最後の声は、幼い子供のような弱さだった。
それが、自分の中にあった恐怖の最も深い部分なのだと、ユリアは悟った。
“観られないこと”への不安。
存在を忘れられることへの、叫び。
ユリアはスケッチブックを抱きしめた。
>「わたしは、わたしを……見るよ」
>「誰も見ていなくても、記録していなくても、わたしは……ここにいる」
空気が静かになった。
蝉の声が、やっと戻ってくる。
世界が、輪郭を取り戻した。
——今度こそ、ほんとうに。
ユリアは、もう一度スケッチブックを見つめた。
ページの端には、風に吹かれた痕がある。
少し折れ曲がった紙。
涙でにじんだ鉛筆の線。
そのすべてが——彼と過ごした時間の残り香だった。
>(これは、わたしの目で見たもの)
>(誰の記録でもない、誰かに見せるためでもない、わたしだけの記憶)
そう思えたのは、ほんの一瞬だった。
——そのスケッチブックに、うっすらと“別の手”が映り込んでいた。
誰もいないはずの背後。
けれど、紙の表面に、“もうひとつの視線”が染みついている。
その手は、ページの端に触れ、ゆっくりとページをめくっていく。
ユリアがまだ、開いたことのないページ。
そこに描かれていたのは——
自分が、“水槽の中”で笑っている姿だった。
表情は穏やかで、微笑んでいて、
でも、目の奥は空っぽだった。
そのスケッチの下に、黒いインクでこう記されていた。
>「観られる限り、君は消えない」
ユリアはスケッチブックを閉じた。
手が震えていた。
>(……まだ、終わってない)
>(わたしの記憶の中に、“誰かの目”が入り込んでる)
>(わたしの外じゃない。もう、内側に……)
ガラスのような世界のひび。
何気ないページの隙間から入り込んだ、水のような“視線”。
ユリアは思った。
>(もしかしたら——わたし自身が、次の水槽になってしまったのかもしれない)
——その瞬間。
どこか遠くで、「ポコン」と泡が弾ける音がした。
空気ではなく、水の中で鳴ったような音。
次のページが、ひとりでに風に揺れて、めくれた。
ユリアの瞳に映ったのは、
まだ誰も知らない、“これから描かれる予定の記録”。
白紙の上に、うっすらと、黒い輪郭が浮かび上がっていく。
それは、今この瞬間の——
彼女自身の顔だった。