表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

EP8.名前のない風景

 朝だった。


 ユリアは、自分の布団の中で目を覚ました。


 見慣れた天井。

 カーテンの隙間から差し込む、ぼやけた光。

 部屋の隅で眠っている観葉植物。

 スピーカーの電源は切れている。

 時計の針が静かに、けれど確かに動いている。


 >(……夢だったのか……?)


 そう思った。


 あの“水槽”も、“観測者”も、“もうひとりの自分”も。

 でも、起き上がって手を見たとき、

 そこには確かに、誰かと強く手を握った跡のような赤みが残っていた。


 ——隼人のことも、覚えている。


 けれど、スマホの連絡先にも、通話履歴にも、SNSのメッセージにも、

 “隼人”という名前は存在しなかった。


 まるで最初から、「彼」などいなかったように。


 いや、ちがう。

 記録されていないだけだ。


 “観られること”を前提としない、彼との関係。

 それは「証拠」を残さなかった。

 けれど、ユリアの中にだけは、確かに刻まれていた。


 >「……静か……すぎるな」


 口に出してみた自分の声は、思った以上にかすれていた。


 誰も見ていない。

 誰も聞いていない。

 何をしても反応が返ってこない。


 かつて、そんな世界を渇望していたはずだった。

 “観られない自由”を。


 けれど、それは——本当に自由だったのか?


 スマホを開いてみる。

 何も通知は来ていない。

 SNSのタイムラインも、ただ流れていくだけ。


 何も見られていない。

 でも、何も感じられない。


 >(わたしって、今、どこにいるんだろう……)


 “誰にも見られていない”世界で、

 ユリアはようやく気づき始めていた。


 ——観られないことも、またひとつの孤独だということを。


 彼女は立ち上がり、カーテンを開けた。


 外は晴れていた。

 でも、空の青さに“名前”はなかった。

 風の音も、“意味”を持っていなかった。


 けれど——


 >(意味を与えるのは、わたしだ)


 そう思えた。


 何も定義されていないからこそ、

 今なら、初めて“自分のまなざし”で、世界を描けるかもしれない。


 もう誰かの期待通りじゃなくていい。

 誰かに観られるための表情じゃなくていい。


 彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。

 そして、部屋を出て、玄関で靴を履いた。


 今日の行き先は、決まっていない。

 でも、それでいい。

 “観測されない旅”を、始めよう。


 昼下がり、ユリアはひとりで近くの公園を歩いていた。


 蝉の声が遠くに聞こえる。

 けれど、その音には“始まり”も“終わり”もなかった。

 まるで、どこかの録音機器が再生し続けているだけのような——

 無限ループする夏の幻。


 ベンチに腰かけたユリアは、バッグからスケッチブックを取り出す。


 何を描こうか、と考える。

 思い浮かばない。

 以前なら、人や街や動物や、誰かの顔が頭に浮かんだはずなのに。

 今はただ、空白だけが広がっていた。


 >(……じゃあ、自画像でも描こう)


 ペンを走らせる。


 線を引くたび、

 紙の上に「わたし」ができあがっていく。

 目、鼻、口、輪郭——


 でも、完成したその顔を見た瞬間、

 ユリアの背筋に、冷たいものが走った。


 >(……誰?)


 描いた顔は、確かに「自画像」のつもりだった。

 けれど——まるで他人の顔だった。


 しかも、その表情が、笑っていたのだ。


 ——自分は今、笑っていないのに。


 描いたはずの線が、勝手に変形していた。


 目が吊り上がり、口角が裂けるように持ち上がり、

 その「もうひとりのユリア」は、スケッチブックの中で笑っていた。


 >(描き直したっけ……?)


 いや、手は動かしていない。

 なのに、顔が変わっていた。

 その笑みが、紙の上からこちらを見ていた。


 >(……“見られてる”……?)


 その瞬間、ガサッと木の葉が揺れた。


 ユリアは反射的に背後を振り返った。

 誰もいない。


 けれど、また風が吹いたわけでもないのに、

 木々がざわざわと“ざわめき合って”いるように感じた。


 スケッチブックを閉じようとすると——

 次のページに、すでに絵が描かれていた。


 開いた覚えも、描いた覚えもないページ。


 そこには、

 ——自分が、このベンチに座っている姿が、精密に描かれていた。


 今と同じ服。

 同じ髪型。

 同じ背景。


 そして、ページの隅には、鉛筆の細い文字でこう記されていた。


 >「見てるよ、ずっと。あなたが、自分を見ていないあいだも。」


 心臓が跳ね上がった。


 誰かが、スケッチブックを“通して”自分を観ていた?

 いや、それだけじゃない。


 >(わたし自身が……わたしを、観ていた?)


 スケッチブックの紙がひとりでにパラリとめくれる。

 次のページにも、また次のページにも、

 どれも「ユリアの日常の一瞬」が描かれていた。


 ——机に向かっているユリア。

 ——スマホを覗き込んでいるユリア。

 ——夜中、うつ伏せに泣いているユリア。


 どれも、見られた記憶がない瞬間。


 それなのに、全てが正確に、精密に記録されていた。


 >(誰が……? いつ……? どうやって……?)


 背中がひんやりとする。

 全身の皮膚が“見られていた痕”を思い出したかのように、粟立つ。


 ——ページの最後。


 そこには、こう書かれていた。


 >「次に見るページには、今のあなたが描かれています」

 >「顔を上げたとき、隣にいるわたしを見てね」


 ユリアは、手を止めた。


 恐る恐る顔を上げる。

 横を、ゆっくりと——見た。


 そこにいたのは、自分だった。


 ベンチに、もうひとりの“ユリア”が座っていた。


 その顔は、スケッチに描かれていたものと同じ——

 裂けるような笑みを浮かべていた。


 目の前にいる“わたし”は、笑っていた。


 皮膚の下に何かがうごめいているような顔。

 目だけが、鏡のように濁っていた。

 でも、そこには確かに、「わたし」のすべてが映っていた。


 >「こんにちは、ユリア」


 ——“それ”が喋った。


 声は、自分の声。

 録音のように機械的で、けれどわずかに湿っている。

 まるで、水の中から声を絞り出すように。


 >「ようやく、会えたね」

 >「ずっと君のこと、見てたから」

 >「誰よりも正確に、誰よりも近くで」


 ユリアは言葉が出なかった。


 喉が焼けるように痛い。

 声を出せば、“そっち”とつながってしまう気がした。


 >「怖いの? 自分を見るのが」

 >「君が消えたいと思ったとき、わたしは生まれた」

 >「『消えてしまいたい』。それを何度も思った君が作った、

 > “君が消えてしまわないための記録装置”。それが——わたし」


 それは、自分の形をした観測者だった。


 他人じゃない。

 社会でもない。

 匿名の声でも、AIでも、システムでもない。


 ——自分自身による、自分自身の観測。


 >「君は、自分の顔を描いた。君は、君をノートに記録した。

 > 君は、自分の感情を日記に残した。SNSに、ブログに、落書きに——」


 そのたびに、わたしは君の“裏側”に現れた。


 >「ねぇ、あれ、まだ持ってるよね?」

 >「——あの“透明のノート”」


 ユリアは、バッグの中をまさぐった。

 あるはずのない、それでも確かにある“重さ”。


 薄い、表紙もない、透明なノート。

 それは、書いても読めない、記録できない紙の束。


 それでも、いつも持っていた。


 >(……わたしが……)


 思わず呟きそうになったとき、もうひとりの“ユリア”が囁いた。


 >「記録できないものなんて、存在しないのと同じだよ」


 言い終わるより早く、それは手を伸ばしてきた。

 ユリアの喉元に指先が触れる。


 冷たい。


 でも、驚くほど“自分と同じ”温度でもあった。


 >「君を残しておくね。

 > 誰にも観られない君は、わたしがずっと見ていてあげるから」

 >「——ほら、目を閉じて。観測されないって、楽だよ?」


 意識が、ぐらついた。

 視界が灰色に沈む。

 蝉の声が止まる。

 心音だけが、水の中みたいにくぐもって響く。


 >(いや……いや、やめて)


 >(わたしを、わたしが……消してしまう……!)


 ユリアは、スケッチブックを握りしめた。

 そして、自分の顔に向かって、ぐしゃりと描き殴った。


 髪を、目を、鼻を、輪郭を、全部。

 線を重ねて、掻き消した。


 「笑っていたはずの顔」は、

 もはやぐしゃぐしゃの黒い塊になった。


 すると。


 隣にいた“ユリア”の顔も、同じように溶けはじめた。


 皮膚がぐずぐずと崩れ、

 瞳が滑って、口が消えていく。


 >「あ……ああ、やだ……君が……わたしを、見なくなったら……」


 >「わたしは……わたしで……いられな……」


 声が、泡のように途切れた。


 そして、スケッチブックのページが一枚ずつ風に舞い、

 その“もうひとりのユリア”も、音もなく消えた。


 ベンチには、ユリアひとりだけが残っていた。


 風鈴の音。

 日差しの温度。

 誰も見ていない、午後の世界。


 ユリアは、破れたスケッチブックを胸に抱いた。


 >(……わたしは、これから、どうやって……

 > “誰にも観られずに”自分を見ていけばいいんだろう……)


 ユリアは歩いていた。


 どこへ行くあてもなく、ただ足を前に運ぶ。

 人通りの少ない住宅街。

 白い昼の光がアスファルトに滲んでいる。


 自分の影を見た。

 けれど、それは影ではなかった。


 輪郭が、揺れていたのだ。


 まるで、湯気のようにぼやけて。

 いつの間にか、自分の手足がどこからどこまでか分からなくなっている。


 >(……わたし……いま、ちゃんとここにいる……?)


 信号を渡る。

 向かいから来た人と、すれ違った。

 でも、その人は——ユリアを見なかった。


 まるで、ユリアが“存在していないかのように”通り過ぎていく。


 >(見えていないの? わたしが……?)


 次にすれ違った女性も、

 そのあとすぐ通りかかった自転車の少年も。

 誰ひとりとして、ユリアの存在に反応しなかった。


 自分が透けている——


 そんな冗談みたいな考えが、現実味を帯びてくる。


 腕を見下ろす。


 皮膚の色が、

 徐々に、背景と“混ざって”いく。


 シャツの袖が、空の青に溶けはじめていた。


 >(これって……)


 >(“観られていない”から——“存在できていない”?)


 脳が理解するより先に、体が震えた。


 重力が薄くなる。

 靴の裏から、地面の感触が遠ざかる。


 ——存在が、浮いている。


 歩道の脇に、コンビニのガラス戸が見えた。

 ふらつきながら近づく。


 扉に映った自分の姿を、確認しようとして——凍りついた。


 鏡に、自分が映っていなかった。


 店のガラスに、街の風景は映っている。

 信号、車、木々、看板——全部ある。


 でも、ユリアの姿だけが——そこに、ない。


 >「あ、あの……すみません……」


 店の中にいた女性店員に、声をかけようとした。


 けれど、声が出ない。


 喉が開かない。

 口が動いているのに、音が出ない。


 それどころか、女性はまっすぐこちらを通り過ぎ、

 ガラス戸も自動で開かなかった。


 >(……入れない……?)


 ユリアの足が、扉の前で止まった。


 指を、ガラスに触れさせようとする。


 ——触れない。


 指先が、すり抜けた。


 ガラスの冷たさも、押し返す固さもない。

 まるで、ただの光に向かって手を伸ばしているだけだった。


 >(わたし……もう、誰の現実にも、いないの……?)


 その瞬間、耳の奥で誰かが囁いた。


 >「ね、見られてないって、怖いでしょ?」


 あの声。

 自分の影のように現れた“わたし”の声。


 >「誰にも観られていないわたしは、

 > ほんとうに“いる”って、言える?」


 遠くで、踏切の音が鳴った。

 けれど、音は異様に遅れて届き、ねじれていた。


 時の感覚も、世界の手触りも、

 すべてが——ユリアから剥がれていく。


 >(わたし……いま、夢を見てるの?)

 >(それとも……観測から“完全に外れた世界”に、来てしまったの?)


 周囲の風景が、

 ゆっくりと滲み始める。


 遠くで誰かがこちらを見ていた。

 影のような顔。

 でも確かに、“見ている目”だった。


 見られている。

 たしかに、見られている。


 でも——その“誰か”は、

 もうこの世界にはいないはずの存在だった。


 視界が崩れていく。


 空と地面の境界が混ざり合い、建物が液体のように波打つ。

 耳に届く音が、ひとつひとつ遅れて、反響しながら跳ね返る。

 歩道のラインが滲み、靴の裏がどこに接しているのか分からなくなる。


 ユリアの体が、ふわりと浮いた。


 重力がない。

 摩擦もない。

 質量が剥がれていく。

 ——まるで、観測されていない粒子のように。


 >(……このまま、消える……)


 誰にも見られていない自分。

 誰にも触れられない世界。

 鏡にも映らず、声も届かず、足音すら残らない。


 >(でも……本当に、誰にも……?)


 その瞬間。

 ——背中に、“視線”を感じた。


 ぞくりと、脊髄を何かが這い上がってくる。


 ただの空気の動きじゃない。

 明らかに、誰かがこちらを見ている。


 ゆっくりと、後ろを振り返る。


 風景は崩れ、まるで溶けかけたゼラチンのようだったが、

 その中央に——ひとつの“目”が浮かんでいた。


 物理的な目ではない。

 巨大でもなく、小さくもなく、色も形も定かではない。

 けれど、それは間違いなく「見る」という機能だけを宿した存在だった。


 >(あれは……“あの水槽”の……)


 否。

 ちがう。

 それはもっと、根源的なまなざしだった。


 「あなたはここにいる」と告げる、ただそれだけのまなざし。

 善でも悪でもない。

 監視でも、愛でも、記録でもない。

 ただ——在ることを、肯定する目。


 その“目”と視線が交わった瞬間、

 ユリアの身体が、ゆっくりと「形」を取り戻していく。


 足に地面の感触が戻る。

 服の生地が風に揺れる。

 手のひらに、指の輪郭が浮かび上がる。


 >「……わたし、まだ……」


 声が出た。

 それは震えていたが、確かに空気を振動させていた。


 >「……まだ、ここにいる……」


 “目”は、何も答えない。

 けれど、それ以上の返答はなかった。


 ユリアは、静かに息を吐いた。


 「見られること」は、恐怖だった。

 でも同時に、「見られなさすぎること」も、また恐怖だった。


 自分が“存在している”ことを、誰かに証明してほしかった。

 けれど今——その役目を、“目”ではなく“自分自身”が担おうとしている。


 >(見られる、じゃない……)


 >(わたしが、見るんだ)


 ユリアは、視線を下ろした。


 足元には、かつて自分が描いたスケッチブックのページが、一枚だけ落ちていた。

 雨に濡れたように滲みかけていたが、

 そこには一言だけ、鉛筆の線でこう記されていた。


 >「見る者になったあなたへ」


 ユリアは、その紙を拾った。


 そして、濁った空の中に、ただ一筋の光を見上げた。


 スケッチブックのページを握りしめたまま、ユリアは歩き出した。


 あたりの風景は、まだほんのわずかに揺れている。

 ビルの影が輪郭を曖昧にし、街路樹の葉は風もないのにわずかに震えている。


 >(見られないことで、消えかけていた)

 >(でも……“見られた”とき、確かにわたしは戻った)

 >(それって……やっぱり……)


 怖かったはずだった。

 あれほどまでに、誰かの目に晒されるのが嫌だった。

 けれど、視線を失った世界では、自分がどこにいるのかすら分からなかった。


 >(ねぇ、わたしは……ほんとうに“見る者”になったの?)

 >(それとも、また“見られたい者”に戻っただけじゃないの……?)


 そのとき。


 誰かの背中が、前方に見えた。


 灰色のパーカーに、黒いズボン。

 歩幅のリズム、首筋の形。


 >(……あれ……)


 心臓が、ひとつ強く跳ねた。


 その後ろ姿は、あまりにも隼人に似ていた。


 ユリアは息を呑んだ。

 声をかけるべきか、迷った。


 >(でも……名前を呼んで、もし違ったら……)


 ふと、あの水槽の中で“彼”を呼んだときのことが脳裏をよぎった。


 「名前を呼ぶことは、存在を認めること」


 そうだ。

 今ここで、もし“呼んでしまったら”——

 彼は、この現実に“存在してしまう”。


 >(もし、それが……観測された幻だったら?)


 手が震える。

 それでも、ユリアは、そっと声を漏らした。


 >「……隼人……?」


 その背中が、ピクリと止まった。


 ゆっくりと振り返る、その動作。

 まばたきをするように、時間が引き延ばされる。


 その顔。


 それは——


 >「ユリア……?」


 ——間違いなく、“彼”だった。


 けれど、その目の奥が、どこかおかしい。


 完全に“無表情な視線”が、ユリアを貫いていた。


 あたたかさも、驚きも、懐かしさもない。

 それは、ただ「見る」ことに特化した目。

 “観測装置としての目”だった。


 >(……嘘……)


 彼の口元が、笑みを浮かべる。


 だがそれは、見覚えのある笑顔ではなかった。

 あの、“水槽のユリア”が描いた、あの顔に似ていた。


 >「また、観ていい?」

 >「今度は、もっと細かく観察するから」


 世界が、にわかに揺れた。


 まるで、ふたたび“水の中”に引き戻されたかのように。

 空気が重たく、光が歪む。


 ユリアは一歩、後ずさる。


 >「……隼人……?」


 >「なに? 名前で呼んでくれて、嬉しいよ」


 >「君がそう呼んだから、僕は今、ここにいる」


 >「でもね——」

 >「“君が観てる僕”と、“僕が君を観てること”は、まったく違うことだよ?」


 その言葉と同時に、彼の背後に何かが現れ始めた。


 複数の目。

 黒い瞳孔だけの目が、空間に浮かんでいた。


 ユリアが呼び出してしまったのは——

 もしかすると、“彼の形をした観測者”だったのかもしれない。


 ユリアはその場から一歩も動けなかった。


 “隼人”は微笑んだまま、ゆっくりと近づいてくる。

 けれど、その歩き方には不自然な“規則性”があった。

 一歩ずつ、まるでプログラムされたように、全く同じ角度、同じ重心で足を運ぶ。


 >(……これは、彼じゃない)


 頭では理解している。

 でも、目の前のその顔が、声が、表情が、

 あまりにも“懐かしいまま”で——心の奥がつかまれてしまう。


 >「君は、僕に名前をくれた」

 >「だから僕は、ここにいられるようになった」

 >「君が望んだんだよ、観られることを。記録されることを。永遠に残ることを」


 ユリアの頭の奥で、何かが軋む音がした。


 ふと、自分の影が地面に伸びているのを見た。

 その影は、隼人の姿を模していた。


 >(わたしが……作ったの?)


 あのとき、水槽の中で願った。

 「誰かがわたしを見ていてくれれば、存在できる」と。


 あのとき描いた。

 スケッチブックに、思い出すように。


 あのとき呼んだ。

 彼の名前を、繰り返し、祈るように。


 >(それが……この“隼人”を生んだ?)


 “彼”はもう、数歩先まで来ていた。

 その両目は確かにこちらを見ている。

 だが——視線の中に“揺らぎ”がない。


 生きている人間の目にはあるはずの、

 感情の滲み、反射する不安定さ、些細な動き。


 それが、ない。


 >「さあ、見せてよ」

 >「君が今、何を感じてるか。どう思ってるか。どんな顔してるか」

 >「全部、観せて。君が望んだんだから」


 ユリアは、喉の奥から叫びを絞り出した。


 >「違う! わたしは……そんなもの、望んでない……!」


 “隼人”の動きが止まる。

 微笑みが、ゆっくりと崩れていく。


 >「じゃあ、どうして名前をくれたの?」


 影が、ユリアの足元からせり上がるように広がった。

 その影の中で、何百もの“目”がこちらを見ていた。


 黒く、静かで、全てを記録するためだけの目。


 ユリアの口から、再びかすれた声が漏れた。


 >「返して……彼を……」

 >「わたしの“記憶”を、返して……」


 “隼人”は、首をかしげた。


 >「君が“記録”にしたんだよ。

 > “彼”は、もう君の中にしかいない。

 > ……ほら、思い出してごらん?

 > 最後に彼と交わした、本当の言葉は、なんだった?」


 ユリアの脳裏に、空白が広がる。


 最後の記憶——

 隼人の“声”だけがあって、言葉の意味がない。

 顔は浮かぶのに、口の動きが読めない。

 まるで——音声ファイルが破損しているように。


 >(覚えていない……)


 >(本当に、彼と“そんな会話”したっけ……?)


 “隼人”が近づく。

 もう目の前だった。


 その口が、ユリアの耳元で囁いた。


 >「君が覚えていないなら……わたしが代わりに残してあげるよ」

 >「この目で、何度でも、繰り返し、再生してあげる——君の“偽物の記憶”を」


 ——その瞬間、

 ユリアの瞳に、自分自身が“観られている映像”が焼きついた。


 ベンチで震える自分。

 スケッチブックに向かう自分。

 泣いている自分。

 笑っている自分。

 名前を呼ぶ自分。


 観られているだけの、自分。


 それは、“ユリア”という存在の最も脆い断片だった。


 映像が、止まらない。


 ユリアの瞳に流れ込む“自分”の姿。

 それは、記憶ではなかった。

 むしろ、誰かが勝手に撮ったドキュメンタリーのようだった。


 無表情に笑っている自分。

 水槽の前で“誰もいない相手”に話しかけている自分。

 鏡の前で、自分の頬を引っ掻いている自分。


 >(こんな……こと、してない……わたし……こんなの……)


 >「君は忘れてるだけだよ」

 >「だから“わたし”が覚えていてあげてるの」

 >「ね? わたしの中に、君は残り続けられる」

 >「記憶よりも、正確に。痛みよりも、鮮明に」


 “隼人”の声が、すぐそばで囁く。


 その口元からは、音とともに記録の断片があふれていた。


 ——「ありがとう」

 ——「また今度、会えるよな」

 ——「ユリア、笑って」

 ——「……もう、君のことは……」


 最後の言葉だけ、歪んでいた。

 途中で音が割れ、ノイズに変わった。


 >(……あれ?)


 ユリアは眉をひそめた。


 それは、どこかで聞き覚えのある“ノイズ”だった。

 ——そうだ。

 あの水槽の中で、何度も繰り返し聞かされた、壊れた録音音声。


 >(これは……“記録された音”じゃない)

 >(“合成された記憶”……!)


 “隼人”がにやりと笑った。


 >「気づいちゃった?」

 >「でももう、遅いよ」

 >「君の“本当の記憶”なんて、誰も証明してくれない」

 >「君ですら、それを正確に言えない」

 >「だったら、“わたしが持ってる記録”が、真実になるんだよ」


 そのとき、ユリアのバッグの中で何かが震えた。


 ——スケッチブック。


 彼女が唯一、自分の手で描いた、“彼”との記憶。

 誰にも見せず、誰にも読ませなかった、自分だけの“残像”。


 ページを開く。

 風に飛ばされそうになりながらも、指で押さえた。


 そこには、彼が笑っている姿があった。


 でもその顔は、さっき目の前で“観測者”として現れたそれとは違う。


 ——生きている顔だった。

 ——不完全で、歪みがあって、でも確かに“彼”だった。


 ユリアは、息を吸い込んだ。

 そしてそのページの上に、ゆっくりと書き加えた。


「これはわたしの記憶だ」と。


 鉛筆の芯が震える。

 涙が混ざり、インクがにじむ。

 でも、その文字は——間違いなく、自分のものだった。


 その瞬間、空間が歪んだ。


 “隼人”の姿が崩れはじめる。

 目の奥から黒い水があふれ、

 言葉がノイズのように散っていく。


 >「……見られない……記録されない……消える……」


 >「わたしを、誰か、観て……く……れ……」


 最後の声は、幼い子供のような弱さだった。

 それが、自分の中にあった恐怖の最も深い部分なのだと、ユリアは悟った。


 “観られないこと”への不安。

 存在を忘れられることへの、叫び。


 ユリアはスケッチブックを抱きしめた。


 >「わたしは、わたしを……見るよ」


 >「誰も見ていなくても、記録していなくても、わたしは……ここにいる」


 空気が静かになった。

 蝉の声が、やっと戻ってくる。


 世界が、輪郭を取り戻した。


 ——今度こそ、ほんとうに。


 ユリアは、もう一度スケッチブックを見つめた。


 ページの端には、風に吹かれた痕がある。

 少し折れ曲がった紙。

 涙でにじんだ鉛筆の線。

 そのすべてが——彼と過ごした時間の残り香だった。


 >(これは、わたしの目で見たもの)


 >(誰の記録でもない、誰かに見せるためでもない、わたしだけの記憶)


 そう思えたのは、ほんの一瞬だった。


 ——そのスケッチブックに、うっすらと“別の手”が映り込んでいた。


 誰もいないはずの背後。

 けれど、紙の表面に、“もうひとつの視線”が染みついている。


 その手は、ページの端に触れ、ゆっくりとページをめくっていく。

 ユリアがまだ、開いたことのないページ。


 そこに描かれていたのは——


 自分が、“水槽の中”で笑っている姿だった。


 表情は穏やかで、微笑んでいて、

 でも、目の奥は空っぽだった。


 そのスケッチの下に、黒いインクでこう記されていた。


 >「観られる限り、君は消えない」


 ユリアはスケッチブックを閉じた。

 手が震えていた。


 >(……まだ、終わってない)


 >(わたしの記憶の中に、“誰かの目”が入り込んでる)

 >(わたしの外じゃない。もう、内側に……)


 ガラスのような世界のひび。

 何気ないページの隙間から入り込んだ、水のような“視線”。


 ユリアは思った。


 >(もしかしたら——わたし自身が、次の水槽になってしまったのかもしれない)


 ——その瞬間。


 どこか遠くで、「ポコン」と泡が弾ける音がした。

 空気ではなく、水の中で鳴ったような音。


 次のページが、ひとりでに風に揺れて、めくれた。


 ユリアの瞳に映ったのは、

 まだ誰も知らない、“これから描かれる予定の記録”。


 白紙の上に、うっすらと、黒い輪郭が浮かび上がっていく。


 それは、今この瞬間の——

 彼女自身の顔だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ