EP7.名を失った観測者
——その目は、最初からこちらを見ていなかった。
ユリア-Bは、再び椅子に固定されていた。
手首と足首には、柔らかくも拒絶できないバンドが巻かれている。
瞼の裏には、何度も焼き付いたあのモニターの残像。
幾重にも重なる、自分に似た“誰か”の水槽。
それぞれが、同じように揺れ、震え、
そして、自分が自分だと思い込んでいた存在と入れ替わる。
>(……もう、わたしは……“わたし”じゃない?)
思考が剥がれていくようだった。
感情の輪郭が、溶ける。
けれど、そんな彼女の前に、男が現れた。
今度の“観測者”は、隼人ではなかった。
白衣も着ていなかった。
顔もない。
正確には——その顔は、彼女自身の顔だった。
ただし、無表情。
目は見開かれたまま、感情の揺れは皆無。
声帯を震わせない声で、語りかけてくる。
>「——どうして、観られることをそんなに恐れるの?」
ユリア-Bは答えられなかった。
それは問いではなく、観察の言語だった。
相手が彼女の「過去の表情」を模倣して語るたびに、
何もかもが、観測のデータとして分類されていくのがわかる。
>「君たちは、ずっと“観られること”に価値を置いてきた」
>「表現も、共有も、存在の証明も、すべては“誰かに観られる”ことが前提だった」
>「それが怖いと言うのなら——君は、いったい何を望むの?」
そのときだった。
ユリア-Bの背後の壁に、いくつもの目が浮かび上がった。
まばたきをしない目。
血管が張りめぐらされた、赤黒い虹彩。
それぞれの目は、視線を動かすことなく、彼女を“捕らえて”いた。
それだけで、息が詰まった。
>「観られることに怯え、観られないことに怯え、
> そのくせ、誰かを観察することで自我を保っていた」
壁に浮かぶ目の一つが、ユリア自身の目に変わった。
>(これは……わたし……?)
その瞬間、記憶が溢れた。
——スケッチブックの中で、他人を描いた無数の線。
——動画の再生数に怯えながら、感情を“盛った”演技。
——誰かの投稿に無意識でつけた“いいね”。
——日常の全てが、“観ること”と“観られること”の交換でできていた。
>(……わたしも……“観測者”だった)
視界が揺れる。
椅子が軋む。
観測者が微笑んだ。
その笑みは、ユリアが“笑おうとした時の顔”を忠実に再現していた。
>「だからこそ、君に選ばせる」
>「君が“完全に観られない存在”になることを望むなら——」
部屋の中央に、“黒い水槽”が現れた。
それは、今までのどの水槽よりも小さく、
けれど、光を一切反射しなかった。
観測を完全に拒絶する、“絶対遮断層”。
>「この中に入れば、君はもう誰にも見られない。
> 記録も、記憶も、君の存在すら、誰の網にかからない。
> ——それは、完璧な自由だ」
観測者は、手を差し出した。
ユリア-Bの中で、かすかな声が響いた。
(……それは……“生きている”と、言えるの?)
その問いを最後に、彼女は静かに目を閉じた。
黒い水槽が、ゆっくりと蓋を開いた。
音はない。
ただ、そこから立ち昇る無音の圧力が、
ユリア-Bの皮膚にまとわりつく。
それは空気ではない。
熱でも、湿度でもない。
“視線が完全に存在しない空間”の冷たさ。
誰にも見られない。
誰も自分の存在を記憶しない。
どんなデバイスも、記録も、意味も——すべてが剥がれ落ちる。
>(わたしが……この中に入ったら……)
思考すら、誰にも観測されない。
つまりそれは、“わたしがわたしであること”の終わり。
>「恐れることはありません」
>「ここは、あなたが求めた世界——“観られない自由”の完成形です」
観測者が、にじむように姿を変えた。
その顔は——母親の顔だった。
声は優しく、
まなざしは懐かしく、
けれどその目は、眼球がないただの窪みだった。
>「小さい頃、あなたはよく鏡の前で泣いていたわね」
>「誰にも見られないまま、泣いて……」
>「だから、ずっと“観られること”を渇望していたのよ」
ユリア-Bの喉が、ひくりと動く。
言葉にできない吐き気が、胸の奥で膨らんでいく。
>「けれどもう、大丈夫。
> 観られなくて済むの。
> だって、誰にも気づかれなければ——傷つくこともないもの」
母の顔をした観測者が、黒い水槽の縁をなぞる。
そこには、指の形をした“へこみ”がいくつも刻まれていた。
どれも、何かを掴もうとして滑ったような形。
>(……中に入った人たちの……)
誰かが、這い出ようとした痕跡。
けれど、完全遮断層の中では“声”も“爪の音”も、
外には一切届かない。
だから、助けることもできない。
ユリア-Bは後ずさった。
けれど、背後の扉が“いつの間にか”消えていた。
床が、水のように揺れる。
世界が、水槽の内部と外部の区別を曖昧にしていく。
>「このまま外の世界で、また観られて、また演じて、また記録されて、
> また“誰かの期待”に形を変えて生きるの?」
>「それより、ここにいれば……ずっと自由よ。
> 君が君のままでいられるのは、この中だけなの」
黒い水槽が、ぼこり、と泡を吐いた。
泡のひとつがユリア-Bの足元に転がり、弾けた瞬間——
彼女の耳に、叫び声が響いた。
>「やめて! ここにいると、“自分を忘れる”!!!」
>「お願い、お願い、誰か! “わたしのことを思い出して”……!!!」
その声は、誰かの記録されたデータなどではなかった。
生きたまま、意識だけが閉じ込められた者の断末魔だった。
ユリア-Bの口から、息が漏れた。
声にならない声。
けれど、それはたしかに——拒絶の震えだった。
>(……わたしは……そんな自由、いらない)
その瞬間、水槽の表面に、ひとつだけ“黒い手”が浮かび上がった。
その手は、彼女の手と“まったく同じ形”だった。
そして、静かにこう言った。
>「逃げられないよ。
> 一度でも“観測されること”を望んだ魂は、
> 永遠に、“観られたい”という渇きから逃れられないんだよ」
ユリア-Bの視界が、崩れる。
黒い手が、彼女自身の喉元に指をかける。
水も、空気も、重力もない世界。
けれど、ここには“自分の手で自分を消す”ことだけが可能だった。
黒い手が、喉に触れた瞬間。
ユリア-Bの視界がぐにゃりと歪んだ。
自分の指先が、自分の肌に触れている——
けれど、その「触れている感覚」は、どこか他人の手触りに感じられた。
>(……これは……わたし?)
そんなはずはないのに。
手のひらの熱も、指先の細さも、
“わたしのもの”のはずなのに。
だが、その感覚はあまりに冷たく、
まるで別人が背後から抱きついているような錯覚すらあった。
>「怖くないよ」
>「このまま、目を閉じればいい。
> “わたし”という名前は、そもそも君に重すぎたんだ」
喉元に回された手が、少しずつ力を込めてくる。
水も空気も存在しないのに、呼吸ができない。
酸素が足りないのではなく——
“呼吸という行為の記憶”が剥がされていくのだ。
息の仕方を忘れていく。
心拍が、自発的に止まり始める。
自分の体が、自分の命令を受け取らなくなる。
そんな感覚の中、ユリア-Bはふと“誰か”を思い出した。
——隼人。
あの、ガラス越しに手を差し伸べてくれた人。
でも、その顔が……思い出せなかった。
目の色は?
声の高さは?
笑ったときの皺は?
どれも、もう記憶がぼやけていた。
代わりに、どこかで“演じられた彼の姿”ばかりが頭に浮かぶ。
録画された映像。
シミュレートされた微笑み。
視線の角度。
それらが交錯して、本当の彼が遠のいていく。
>(……もう……“本物”なんて、ない……?)
そんな絶望の中で、ふいに耳元で声がした。
それは——ユリア自身の声だった。
けれど、今ここにいるユリアの声ではない。
もっと前に、もっと幼く、もっと素朴だったころの、
“まだ何者でもなかった少女の声”。
>「だれでもいい。
> いいから、わたしのことを……
> “ちゃんと見てほしかった”だけなのに……」
その言葉に、ユリア-Bの目から涙がこぼれた。
水がないはずの空間に、ぽたり、と雫が落ちる。
黒い手が、ぐらついた。
>(……わたしは……わたしを殺したいんじゃない)
喉を締めていた“自分の手”が、ゆるむ。
>(“わたしを無視した世界”に、抵抗したいだけだった)
ユリア-Bは、自分の胸元に手を当てた。
どくん、と、確かな鼓動があった。
——それは、観測も記録もできない。
ただそこに、静かに在るだけの“わたし”の証。
>(まだ、わたしの中に生きてる)
>(“誰かに観られたい”じゃない。
> “誰かと、生きたい”だけだった)
その瞬間、黒い水槽の壁に、亀裂が走った。
バチィッ、と空気を切り裂く音。
空間が振動する。
光のない水槽の内側に、じわじわとヒビが広がる。
観測者たちの目が、ざわめいた。
壁一面に浮かぶ目玉が、一斉に動いた。
>「おかしい……」
>「自己の否定に至らない……」
>「想定外の感情応答……」
>「……“生きたい”という動機が、まだ……残っている……?」
ユリア-Bは、崩れゆく水槽の前で、まっすぐに立ち上がった。
その手はまだ震えていた。
涙も、止まっていなかった。
けれど彼女は、つぶやいた。
>「わたしは、わたしを殺さない」
>「観測されなくても、記録されなくても、
> ここにいるって、わたしが信じてる」
>「それで、十分だから」
その言葉が終わると同時に、
黒い水槽が、完全に崩壊した。
そして、暗闇の奥から——
“誰かの手”が、光の中から彼女に向かって差し伸べられていた。
光の中から差し伸べられた手は、温かかった。
けれど、ユリア-Bは一瞬、掴むのをためらった。
その手が“誰のものか”が分からなかったからだ。
隼人なのか、それとも……また“誰かを模した観測の幻”なのか。
>(でも……この手のぬくもりは……)
ふと、かすかな記憶が蘇る。
まだ何も知らなかった頃、
誰かに転んだ膝を撫でてもらったときの、あの感覚。
ひとことで説明できない、
けれど、確かに心の深部に沁み込んでいた“優しさ”の記憶。
ユリア-Bは、意を決してその手に触れた。
瞬間——世界が、反転した。
光が砕け、天と地がねじれ、
意識が再び深層へと飲み込まれる……かに思えた。
けれど今度は違った。
“引っ張られる”のではなく——“引き上げられる”感覚。
重力の逆転ではなく、誰かの意思に導かれて浮上する実感。
その先にあったのは、白く濁った水槽の中だった。
水槽の外には、誰かが立っていた。
白衣でもない。
観測者でもない。
ただの、人間だった。
彼はガラスの向こうで、にこりとも笑わず、こう言った。
>「ようやく、君を見つけた」
その声は……本物だった。
録音でも再生でもない。
モニター越しでもない。
スピーカーを通さない、生の声。
>(……ほんとうに……来てくれた……?)
ユリア-Bの目から、また涙がこぼれた。
ガラス越しに手を伸ばすと、彼もその手に触れようとした。
触れ合えはしない。
けれど——互いの“意思”がそこにあった。
だが、その瞬間。
水槽の壁に、再び黒い“観測文字”が浮かび始めた。
>「対象個体:ユリア-B」
>「状態:錯誤的解放感」
>「観測継続指示」
>「次回層:情緒疑似共感フェイズへ移行」
ユリア-Bの脳に、寒気が走った。
>(……これも、まだ……?)
目の前の彼は、本物に“見えた”。
でもこの温度すらも、“演算された救済感”に過ぎないのではないか?
まるで、彼女の「信じたくなる気持ち」すらも……
予め観測プログラムに組み込まれていたかのように。
ユリア-Bは、崩れそうになる足を必死に支え、口を開いた。
>「……もし、あなたが……本当にここにいるなら……」
>「どうか……“わたしのことを観ないで”」
>「“わたしと一緒にいて”……それだけでいい……」
ガラスの向こうの彼は、黙って頷いた。
そして、次の瞬間——彼の拳が、水槽の壁を全力で叩いた。
ガンッ。
衝撃が走る。
ガラスに、薄いヒビが入る。
それは観測装置の破壊行動。
すぐに、警告音が室内に響いた。
>「観測妨害行為を検出」
>「感情同期エラー」
>「記録者に対する反抗因子……確定」
天井から光が落ち、ユリア-Bの頭上に“もうひとつの水槽”が降りてこようとする。
新しい、より深い層への封印。
でも今、彼女の目の前には“意思”を持って破壊を選んだ存在がいた。
>「逃げよう、ユリア」
>「今度こそ、観られるためじゃなく、“生きるため”に——!」
ガラスに走った亀裂が、音を立てて広がる。
警告音が空間を満たす中、
天井から“白い拘束装置”が無数に降りてきた。
ユリア-Bの上半身に、冷たい金属の輪が巻きつこうとする。
けれどその瞬間、彼が叫んだ。
>「目を閉じるな、ユリア!」
>「ここで目を閉じたら、“それ”が本物になるぞ!」
——それ。
観測。
記録。
錯覚された感情。
“選ばされた選択”。
ユリアは咄嗟に身体をひねり、装置をかいくぐった。
重い水が揺れるような粘着感。
空間がぐにゃりと軋む。
ここはまだ、水槽の中だ。
ユリアの足元が軋んだ。
床が透け、そこに無数の過去の「ユリアたち」が沈んでいた。
息をしていない。
笑ってもいない。
ただ“観られた記録”として静止している。
>(……これが……わたしの……未来だった)
彼の拳が、再びガラスを叩く。
ヒビが限界まで広がった。
「これで最後だ!」と叫ぶ声が、記録ではなく鼓膜に直接届く。
——その瞬間、
世界が、破裂した。
音も、光も、時間すらも、すべてが一度に“弾け飛んだ”。
水槽の内と外の区別がなくなり、
ユリアは彼の腕の中に引き寄せられていた。
温度がある。
重力がある。
そして——鼓動が、ある。
だが、安堵は訪れなかった。
破壊された観測装置の中から、
“真の観測者”が姿を現したのだ。
それは人の形をしていなかった。
粘膜のような質感。
どこにも目がないのに、“見られている”という圧倒的な実感。
記録でも、再現でも、演算でもない。
ただ「存在そのものを見抜く」ための存在。
>「観測対象、脱走確認」
>「自我保持レベル:異常値」
>「削除処理、優先度上昇——開始します」
天井が、無音で割れた。
黒い管が何本も降りてくる。
まるで触手のように、地を這い、ユリアと彼を囲んだ。
>「行くぞ、ユリア!」
>「このまま“選ばれる側”で終わりたくないだろ!」
彼の手が、強くユリアの手を引く。
逃げ場は、ただ一つ。
奥に見える、扉のように揺れる光の歪み。
それが現実かどうかは、分からない。
けれど、今だけは——
彼女は“自分の意思”で、その扉へと走り出した。
——「見つけた」。
それは、音ではなかった。
耳に響いたのではない。
頭の奥、“存在の輪郭”に直接語りかけるような言葉だった。
ユリアは振り返れなかった。
後ろを向いた瞬間、自分が“ただの観測対象”に戻る気がしたからだ。
代わりに、彼の手を強く握る。
その手は、まだ温かかった。
けれど、次第に透け始めていた。
>(違う、まだ——まだ消えていない)
足元の白い床に、黒い“目”の文様がじわじわと浮かび上がる。
それは円を描くように増殖し、ふたりを囲む“観測の輪”を形成していた。
>「君たちの存在理由は、我々の視界内に限定される」
>「記録されない感情、観測されない意志、それらは無だ」
声なき声が、白の空間を振動させる。
>「ここで抗っても無意味だ」
>「“観られなければ、存在しない”——君たちが作った原則だろう?」
ユリアの膝が崩れかける。
言い返す言葉が、出てこなかった。
確かに、自分もこれまで“観られること”に存在意義を感じていた。
——でも。
>「……ちがう……」
その声は、震えていたけれど、
確かにユリア自身の声だった。
>「わたしはもう、観られるために生きてない」
>「……誰かの視線に映って、形を決められるんじゃない」
>「わたしが、わたしで在ることを……“名前”で選ぶの」
真の観測者が、微かに揺らいだ。
ユリアは目を閉じ、彼の手を強く握りなおす。
そして、かすれた声で叫んだ。
>「——ハヤト!!!」
その瞬間、空間が裂けた。
何もなかった空に、彼の輪郭が戻ってくる。
手の温度が戻り、
瞳に光が灯り、
呼吸の震えが伝わってきた。
彼もまた、ユリアの名を呼んだ。
>「ユリア——おかえり」
“存在の外側”で交わされたその呼びかけは、
観測者たちにとっての“バグ”だった。
>「……観測できない……」
>「……予測不能な自己定義……」
>「……“名前の呼応”による存在確定——解析不能……」
黒い目たちが、次々と砕けていく。
無数の観測の輪が、破壊音もなく崩れ落ち、
白い空間の地平に、“現実”への裂け目が現れた。
そこには、どこまでも普通の光があった。
柔らかい風の音。
埃の匂い。
記録も、演出も、監視もない、“ただの世界”。
ユリアは、彼の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
振り返れば、
あの“真の観測者”は、もはや目すら持っていなかった。
観る力を失ったものは、何も定義できない。
ユリアは、最後に一度だけつぶやいた。
>「わたしたちは、“観られるため”に、生きてるんじゃない」
裂け目をくぐり抜けた先は——懐かしい空気の匂いがした。
ほこりの混じった光。
床に落ちたノート。
机の上に置きっぱなしの水の入ったペットボトル。
——学校の美術室。
ユリアは、ゆっくりと肩を落とした。
まだ現実感がなかったけれど、それでも、
重力のある世界で足が床を踏んでいる感覚は、確かな救いだった。
彼——隼人もすぐ横にいた。
彼の目も、髪も、呼吸の熱も、まぎれもなく“本物”のようだった。
>「……戻れた……のかな?」
そうつぶやいた瞬間、
窓の外で風鈴の音が鳴った。
懐かしい——はずの音。
だが、その音には“揺らぎ”がなかった。
まるで……録音された“環境音”のような。
ユリアは不意に、視線を横にずらした。
壁にかけられた時計の針が——まったく動いていない。
それどころか、
美術室に差し込む光の“角度”さえ、ずっと同じだった。
>(……ここは……本当に、“現実”なの?)
ユリアはゆっくりと歩き出す。
机の上のペンを取ろうと手を伸ばすと——
ペンが、指をすり抜けた。
——すり抜けた?
振り返る。
隼人の姿は、そこにあった。
けれど、彼は少しも動かない。
いや、“まばたき”さえ、していない。
ユリアの耳に、ノイズが走った。
>「観測プールB:再構築試行中」
>「感情反応ログ:静止」
>「対象個体ユリア:定義再取得プロセス中……」
——まだ、“観測”は終わっていなかった。
ユリアが見ていた美術室も、隼人の姿も、
すべてが「ユリアが戻りたいと望んだ世界」の模写だった。
それは“自由意志”の皮を被った、新たな収容層。
“観測者”が直接出てくることはない。
けれど、彼らはあくまで「ユリアの願い」を逆手に取って、
彼女を“観測し続ける”別の方法を見つけただけだった。
まるで、
自分の記憶と感情をベースに組まれた、無限に優しい檻。
>(わたし……出られてない……)
誰かに見られていないと存在できない。
だから、あらかじめ“見られたい場所”を与える。
見せかけの自由、見せかけの現実。
——観測の最終形。
ユリアの背後に、またしてもあの“目”が現れる。
けれど今度は、目玉ではなかった。
“彼女自身の形をした影”が、背中にぴたりと張りついていた。
ユリアの動きを完璧にトレースし、
口も、目も、全く同じ形に動いている。
>「……逃げられると思った?」
>「“君の自己像”そのものが、もう観測装置の一部だよ」
>「君が君を“思い出そうとする”限り——僕たちは、君を見つけ出せる」
声は、自分の声だった。
ユリアは、ふらりと立ち尽くした。
>(……わたし……
> “自分のこと”すら……もう自由に、考えられないの?)
ユリアは、影と向き合った。
それは彼女自身の姿をしていた。
まったく同じ顔。
同じ声。
同じ記憶を、同じ順番でなぞる存在。
けれどその目だけは、
まるで誰か他人のもののように冷たかった。
>「君はずっと、自分を“こうあるべき”って監視してきた」
>「泣いてはダメ、怒ってはダメ、誰にも嫌われないように、
> 誰かにちゃんと見てもらえるように」
>「でもそれが、一番強い“観測”だった」
ユリアは唇を噛みしめた。
影は言った。
>「ねぇ……そんなに“観られたくない”なら、
> 自分のことなんて全部、消してしまえばいいのに」
そう言って、影の手が伸びてくる。
指先が、ユリアの額に触れる。
その瞬間——脳が焼けるような感覚に襲われた。
目の前がぐにゃりと歪み、
視界が暗く沈み込んでいく。
>(いや……いや、ちがう……)
>(わたしは……)
>(わたしは——)
そのとき、ふと誰かの声が聞こえた。
>「ユリア……きみが“自分でいること”を選ぶ限り、
> たとえ誰にも見られなくても——君は、君でいられるんだよ」
——隼人の声だった。
記憶のなかでも、もっとも曖昧で、
けれど唯一、観測されなかった瞬間の声。
それは、ただ傍にいてくれたときの、声だった。
ユリアはその声にすがるように、言葉を吐き出した。
>「……わたしは、
> わたしがわたしでいることを……自分の意思で決めたい……!」
その瞬間——影の顔に、ヒビが走った。
音もなく、その「もうひとりのユリア」は崩れていく。
表情も、声も、記憶も、すべてが砕けて、霧のように消えていく。
そして最後に残ったのは、
“誰にも観られていない”ユリア自身の心の静けさだった。
時計の針が、コチ、と動いた。
窓の外の風鈴が、自然な風に揺れて鳴った。
まるで、世界が本当のリズムを取り戻したかのように。
ユリアは、そっと息をついた。
涙も流れていなかった。
けれど、何かが確かに“終わった”のだと、胸の奥でわかった。
>(……わたしは、もう……観測のなかにはいない)
そして彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「生きていくために、自分の目で世界を見てみたい」
そう思ったのは、もしかしたら——生まれて初めてのことだったかもしれない。