表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

EP7.名を失った観測者

 ——その目は、最初からこちらを見ていなかった。


 ユリア-Bは、再び椅子に固定されていた。

 手首と足首には、柔らかくも拒絶できないバンドが巻かれている。

 瞼の裏には、何度も焼き付いたあのモニターの残像。


 幾重にも重なる、自分に似た“誰か”の水槽。


 それぞれが、同じように揺れ、震え、

 そして、自分が自分だと思い込んでいた存在と入れ替わる。


 >(……もう、わたしは……“わたし”じゃない?)


 思考が剥がれていくようだった。

 感情の輪郭が、溶ける。


 けれど、そんな彼女の前に、男が現れた。


 今度の“観測者”は、隼人ではなかった。

 白衣も着ていなかった。

 顔もない。


 正確には——その顔は、彼女自身の顔だった。


 ただし、無表情。

 目は見開かれたまま、感情の揺れは皆無。

 声帯を震わせない声で、語りかけてくる。


 >「——どうして、観られることをそんなに恐れるの?」


 ユリア-Bは答えられなかった。


 それは問いではなく、観察の言語だった。

 相手が彼女の「過去の表情」を模倣して語るたびに、

 何もかもが、観測のデータとして分類されていくのがわかる。


 >「君たちは、ずっと“観られること”に価値を置いてきた」

 >「表現も、共有も、存在の証明も、すべては“誰かに観られる”ことが前提だった」

 >「それが怖いと言うのなら——君は、いったい何を望むの?」


 そのときだった。


 ユリア-Bの背後の壁に、いくつもの目が浮かび上がった。


 まばたきをしない目。

 血管が張りめぐらされた、赤黒い虹彩。

 それぞれの目は、視線を動かすことなく、彼女を“捕らえて”いた。


 それだけで、息が詰まった。


 >「観られることに怯え、観られないことに怯え、

 > そのくせ、誰かを観察することで自我を保っていた」


 壁に浮かぶ目の一つが、ユリア自身の目に変わった。


 >(これは……わたし……?)


 その瞬間、記憶が溢れた。


 ——スケッチブックの中で、他人を描いた無数の線。

 ——動画の再生数に怯えながら、感情を“盛った”演技。

 ——誰かの投稿に無意識でつけた“いいね”。

 ——日常の全てが、“観ること”と“観られること”の交換でできていた。


 >(……わたしも……“観測者”だった)


 視界が揺れる。

 椅子が軋む。


 観測者が微笑んだ。

 その笑みは、ユリアが“笑おうとした時の顔”を忠実に再現していた。


 >「だからこそ、君に選ばせる」

 >「君が“完全に観られない存在”になることを望むなら——」


 部屋の中央に、“黒い水槽”が現れた。


 それは、今までのどの水槽よりも小さく、

 けれど、光を一切反射しなかった。

 観測を完全に拒絶する、“絶対遮断層”。


 >「この中に入れば、君はもう誰にも見られない。

 > 記録も、記憶も、君の存在すら、誰の網にかからない。

 > ——それは、完璧な自由だ」


 観測者は、手を差し出した。


 ユリア-Bの中で、かすかな声が響いた。


 (……それは……“生きている”と、言えるの?)


 その問いを最後に、彼女は静かに目を閉じた。


 黒い水槽が、ゆっくりと蓋を開いた。


 音はない。

 ただ、そこから立ち昇る無音の圧力が、

 ユリア-Bの皮膚にまとわりつく。


 それは空気ではない。

 熱でも、湿度でもない。


 “視線が完全に存在しない空間”の冷たさ。


 誰にも見られない。

 誰も自分の存在を記憶しない。

 どんなデバイスも、記録も、意味も——すべてが剥がれ落ちる。


 >(わたしが……この中に入ったら……)


 思考すら、誰にも観測されない。

 つまりそれは、“わたしがわたしであること”の終わり。


 >「恐れることはありません」

 >「ここは、あなたが求めた世界——“観られない自由”の完成形です」


 観測者が、にじむように姿を変えた。

 その顔は——母親の顔だった。


 声は優しく、

 まなざしは懐かしく、

 けれどその目は、眼球がないただの窪みだった。


 >「小さい頃、あなたはよく鏡の前で泣いていたわね」

 >「誰にも見られないまま、泣いて……」

 >「だから、ずっと“観られること”を渇望していたのよ」


 ユリア-Bの喉が、ひくりと動く。


 言葉にできない吐き気が、胸の奥で膨らんでいく。


 >「けれどもう、大丈夫。

 > 観られなくて済むの。

 > だって、誰にも気づかれなければ——傷つくこともないもの」


 母の顔をした観測者が、黒い水槽の縁をなぞる。


 そこには、指の形をした“へこみ”がいくつも刻まれていた。


 どれも、何かを掴もうとして滑ったような形。


 >(……中に入った人たちの……)


 誰かが、這い出ようとした痕跡。

 けれど、完全遮断層の中では“声”も“爪の音”も、

 外には一切届かない。


 だから、助けることもできない。


 ユリア-Bは後ずさった。


 けれど、背後の扉が“いつの間にか”消えていた。


 床が、水のように揺れる。


 世界が、水槽の内部と外部の区別を曖昧にしていく。


 >「このまま外の世界で、また観られて、また演じて、また記録されて、

 > また“誰かの期待”に形を変えて生きるの?」

 >「それより、ここにいれば……ずっと自由よ。

 > 君が君のままでいられるのは、この中だけなの」


 黒い水槽が、ぼこり、と泡を吐いた。


 泡のひとつがユリア-Bの足元に転がり、弾けた瞬間——

 彼女の耳に、叫び声が響いた。


 >「やめて! ここにいると、“自分を忘れる”!!!」

 >「お願い、お願い、誰か! “わたしのことを思い出して”……!!!」


 その声は、誰かの記録されたデータなどではなかった。

 生きたまま、意識だけが閉じ込められた者の断末魔だった。


 ユリア-Bの口から、息が漏れた。


 声にならない声。

 けれど、それはたしかに——拒絶の震えだった。


 >(……わたしは……そんな自由、いらない)


 その瞬間、水槽の表面に、ひとつだけ“黒い手”が浮かび上がった。

 その手は、彼女の手と“まったく同じ形”だった。


 そして、静かにこう言った。


 >「逃げられないよ。

 > 一度でも“観測されること”を望んだ魂は、

 > 永遠に、“観られたい”という渇きから逃れられないんだよ」


 ユリア-Bの視界が、崩れる。

 黒い手が、彼女自身の喉元に指をかける。


 水も、空気も、重力もない世界。

 けれど、ここには“自分の手で自分を消す”ことだけが可能だった。


 黒い手が、喉に触れた瞬間。

 ユリア-Bの視界がぐにゃりと歪んだ。


 自分の指先が、自分の肌に触れている——

 けれど、その「触れている感覚」は、どこか他人の手触りに感じられた。


 >(……これは……わたし?)


 そんなはずはないのに。

 手のひらの熱も、指先の細さも、

 “わたしのもの”のはずなのに。


 だが、その感覚はあまりに冷たく、

 まるで別人が背後から抱きついているような錯覚すらあった。


 >「怖くないよ」

 >「このまま、目を閉じればいい。

 > “わたし”という名前は、そもそも君に重すぎたんだ」


 喉元に回された手が、少しずつ力を込めてくる。


 水も空気も存在しないのに、呼吸ができない。

 酸素が足りないのではなく——

 “呼吸という行為の記憶”が剥がされていくのだ。


 息の仕方を忘れていく。

 心拍が、自発的に止まり始める。

 自分の体が、自分の命令を受け取らなくなる。


 そんな感覚の中、ユリア-Bはふと“誰か”を思い出した。


 ——隼人。

 あの、ガラス越しに手を差し伸べてくれた人。


 でも、その顔が……思い出せなかった。


 目の色は?

 声の高さは?

 笑ったときの皺は?

 どれも、もう記憶がぼやけていた。


 代わりに、どこかで“演じられた彼の姿”ばかりが頭に浮かぶ。


 録画された映像。

 シミュレートされた微笑み。

 視線の角度。

 それらが交錯して、本当の彼が遠のいていく。


 >(……もう……“本物”なんて、ない……?)


 そんな絶望の中で、ふいに耳元で声がした。


 それは——ユリア自身の声だった。


 けれど、今ここにいるユリアの声ではない。


 もっと前に、もっと幼く、もっと素朴だったころの、

 “まだ何者でもなかった少女の声”。


 >「だれでもいい。

 > いいから、わたしのことを……

 > “ちゃんと見てほしかった”だけなのに……」


 その言葉に、ユリア-Bの目から涙がこぼれた。


 水がないはずの空間に、ぽたり、と雫が落ちる。


 黒い手が、ぐらついた。


 >(……わたしは……わたしを殺したいんじゃない)


 喉を締めていた“自分の手”が、ゆるむ。


 >(“わたしを無視した世界”に、抵抗したいだけだった)


 ユリア-Bは、自分の胸元に手を当てた。


 どくん、と、確かな鼓動があった。


 ——それは、観測も記録もできない。

 ただそこに、静かに在るだけの“わたし”の証。


 >(まだ、わたしの中に生きてる)


 >(“誰かに観られたい”じゃない。

 > “誰かと、生きたい”だけだった)


 その瞬間、黒い水槽の壁に、亀裂が走った。


 バチィッ、と空気を切り裂く音。


 空間が振動する。

 光のない水槽の内側に、じわじわとヒビが広がる。


 観測者たちの目が、ざわめいた。

 壁一面に浮かぶ目玉が、一斉に動いた。


 >「おかしい……」

 >「自己の否定に至らない……」

 >「想定外の感情応答……」

 >「……“生きたい”という動機が、まだ……残っている……?」


 ユリア-Bは、崩れゆく水槽の前で、まっすぐに立ち上がった。


 その手はまだ震えていた。

 涙も、止まっていなかった。


 けれど彼女は、つぶやいた。


 >「わたしは、わたしを殺さない」

 >「観測されなくても、記録されなくても、

 > ここにいるって、わたしが信じてる」

 >「それで、十分だから」


 その言葉が終わると同時に、

 黒い水槽が、完全に崩壊した。


 そして、暗闇の奥から——


 “誰かの手”が、光の中から彼女に向かって差し伸べられていた。


 光の中から差し伸べられた手は、温かかった。


 けれど、ユリア-Bは一瞬、掴むのをためらった。


 その手が“誰のものか”が分からなかったからだ。

 隼人なのか、それとも……また“誰かを模した観測の幻”なのか。


 >(でも……この手のぬくもりは……)


 ふと、かすかな記憶が蘇る。


 まだ何も知らなかった頃、

 誰かに転んだ膝を撫でてもらったときの、あの感覚。


 ひとことで説明できない、

 けれど、確かに心の深部に沁み込んでいた“優しさ”の記憶。


 ユリア-Bは、意を決してその手に触れた。


 瞬間——世界が、反転した。


 光が砕け、天と地がねじれ、

 意識が再び深層へと飲み込まれる……かに思えた。


 けれど今度は違った。


 “引っ張られる”のではなく——“引き上げられる”感覚。


 重力の逆転ではなく、誰かの意思に導かれて浮上する実感。


 その先にあったのは、白く濁った水槽の中だった。


 水槽の外には、誰かが立っていた。


 白衣でもない。

 観測者でもない。

 ただの、人間だった。


 彼はガラスの向こうで、にこりとも笑わず、こう言った。


 >「ようやく、君を見つけた」


 その声は……本物だった。


 録音でも再生でもない。

 モニター越しでもない。

 スピーカーを通さない、生の声。


 >(……ほんとうに……来てくれた……?)


 ユリア-Bの目から、また涙がこぼれた。


 ガラス越しに手を伸ばすと、彼もその手に触れようとした。

 触れ合えはしない。

 けれど——互いの“意思”がそこにあった。


 だが、その瞬間。


 水槽の壁に、再び黒い“観測文字”が浮かび始めた。


 >「対象個体:ユリア-B」

 >「状態:錯誤的解放感」

 >「観測継続指示」

 >「次回層:情緒疑似共感フェイズへ移行」


 ユリア-Bの脳に、寒気が走った。


 >(……これも、まだ……?)


 目の前の彼は、本物に“見えた”。

 でもこの温度すらも、“演算された救済感”に過ぎないのではないか?


 まるで、彼女の「信じたくなる気持ち」すらも……

 予め観測プログラムに組み込まれていたかのように。


 ユリア-Bは、崩れそうになる足を必死に支え、口を開いた。


 >「……もし、あなたが……本当にここにいるなら……」

 >「どうか……“わたしのことを観ないで”」

 >「“わたしと一緒にいて”……それだけでいい……」


 ガラスの向こうの彼は、黙って頷いた。


 そして、次の瞬間——彼の拳が、水槽の壁を全力で叩いた。


 ガンッ。


 衝撃が走る。

 ガラスに、薄いヒビが入る。


 それは観測装置の破壊行動。


 すぐに、警告音が室内に響いた。


 >「観測妨害行為を検出」

 >「感情同期エラー」

 >「記録者に対する反抗因子……確定」


 天井から光が落ち、ユリア-Bの頭上に“もうひとつの水槽”が降りてこようとする。


 新しい、より深い層への封印。

 でも今、彼女の目の前には“意思”を持って破壊を選んだ存在がいた。


 >「逃げよう、ユリア」

 >「今度こそ、観られるためじゃなく、“生きるため”に——!」


 ガラスに走った亀裂が、音を立てて広がる。


 警告音が空間を満たす中、

 天井から“白い拘束装置”が無数に降りてきた。


 ユリア-Bの上半身に、冷たい金属の輪が巻きつこうとする。

 けれどその瞬間、彼が叫んだ。


 >「目を閉じるな、ユリア!」

 >「ここで目を閉じたら、“それ”が本物になるぞ!」


 ——それ。


 観測。

 記録。

 錯覚された感情。

 “選ばされた選択”。


 ユリアは咄嗟に身体をひねり、装置をかいくぐった。


 重い水が揺れるような粘着感。

 空間がぐにゃりと軋む。


 ここはまだ、水槽の中だ。


 ユリアの足元が軋んだ。

 床が透け、そこに無数の過去の「ユリアたち」が沈んでいた。


 息をしていない。

 笑ってもいない。

 ただ“観られた記録”として静止している。


 >(……これが……わたしの……未来だった)


 彼の拳が、再びガラスを叩く。


 ヒビが限界まで広がった。


 「これで最後だ!」と叫ぶ声が、記録ではなく鼓膜に直接届く。


 ——その瞬間、

 世界が、破裂した。


 音も、光も、時間すらも、すべてが一度に“弾け飛んだ”。


 水槽の内と外の区別がなくなり、

 ユリアは彼の腕の中に引き寄せられていた。


 温度がある。

 重力がある。

 そして——鼓動が、ある。


 だが、安堵は訪れなかった。


 破壊された観測装置の中から、

 “真の観測者”が姿を現したのだ。


 それは人の形をしていなかった。


 粘膜のような質感。

 どこにも目がないのに、“見られている”という圧倒的な実感。


 記録でも、再現でも、演算でもない。

 ただ「存在そのものを見抜く」ための存在。


 >「観測対象、脱走確認」

 >「自我保持レベル:異常値」

 >「削除処理、優先度上昇——開始します」


 天井が、無音で割れた。


 黒い管が何本も降りてくる。

 まるで触手のように、地を這い、ユリアと彼を囲んだ。


 >「行くぞ、ユリア!」

 >「このまま“選ばれる側”で終わりたくないだろ!」


 彼の手が、強くユリアの手を引く。


 逃げ場は、ただ一つ。

 奥に見える、扉のように揺れる光の歪み。


 それが現実かどうかは、分からない。

 けれど、今だけは——


 彼女は“自分の意思”で、その扉へと走り出した。


 ——「見つけた」。


 それは、音ではなかった。

 耳に響いたのではない。

 頭の奥、“存在の輪郭”に直接語りかけるような言葉だった。


 ユリアは振り返れなかった。

 後ろを向いた瞬間、自分が“ただの観測対象”に戻る気がしたからだ。


 代わりに、彼の手を強く握る。


 その手は、まだ温かかった。

 けれど、次第に透け始めていた。


 >(違う、まだ——まだ消えていない)


 足元の白い床に、黒い“目”の文様がじわじわと浮かび上がる。

 それは円を描くように増殖し、ふたりを囲む“観測の輪”を形成していた。


 >「君たちの存在理由は、我々の視界内に限定される」

 >「記録されない感情、観測されない意志、それらは無だ」


 声なき声が、白の空間を振動させる。


 >「ここで抗っても無意味だ」

 >「“観られなければ、存在しない”——君たちが作った原則だろう?」


 ユリアの膝が崩れかける。

 言い返す言葉が、出てこなかった。

 確かに、自分もこれまで“観られること”に存在意義を感じていた。


 ——でも。


 >「……ちがう……」


 その声は、震えていたけれど、

 確かにユリア自身の声だった。


 >「わたしはもう、観られるために生きてない」

 >「……誰かの視線に映って、形を決められるんじゃない」

 >「わたしが、わたしで在ることを……“名前”で選ぶの」


 真の観測者が、微かに揺らいだ。


 ユリアは目を閉じ、彼の手を強く握りなおす。


 そして、かすれた声で叫んだ。


 >「——ハヤト!!!」


 その瞬間、空間が裂けた。


 何もなかった空に、彼の輪郭が戻ってくる。


 手の温度が戻り、

 瞳に光が灯り、

 呼吸の震えが伝わってきた。


 彼もまた、ユリアの名を呼んだ。


 >「ユリア——おかえり」


 “存在の外側”で交わされたその呼びかけは、

 観測者たちにとっての“バグ”だった。


 >「……観測できない……」

 >「……予測不能な自己定義……」

 >「……“名前の呼応”による存在確定——解析不能……」


 黒い目たちが、次々と砕けていく。


 無数の観測の輪が、破壊音もなく崩れ落ち、

 白い空間の地平に、“現実”への裂け目が現れた。


 そこには、どこまでも普通の光があった。

 柔らかい風の音。

 埃の匂い。

 記録も、演出も、監視もない、“ただの世界”。


 ユリアは、彼の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。


 振り返れば、

 あの“真の観測者”は、もはや目すら持っていなかった。


 観る力を失ったものは、何も定義できない。


 ユリアは、最後に一度だけつぶやいた。


 >「わたしたちは、“観られるため”に、生きてるんじゃない」


 裂け目をくぐり抜けた先は——懐かしい空気の匂いがした。


 ほこりの混じった光。

 床に落ちたノート。

 机の上に置きっぱなしの水の入ったペットボトル。


 ——学校の美術室。


 ユリアは、ゆっくりと肩を落とした。


 まだ現実感がなかったけれど、それでも、

 重力のある世界で足が床を踏んでいる感覚は、確かな救いだった。


 彼——隼人もすぐ横にいた。


 彼の目も、髪も、呼吸の熱も、まぎれもなく“本物”のようだった。


 >「……戻れた……のかな?」


 そうつぶやいた瞬間、

 窓の外で風鈴の音が鳴った。


 懐かしい——はずの音。


 だが、その音には“揺らぎ”がなかった。


 まるで……録音された“環境音”のような。


 ユリアは不意に、視線を横にずらした。

 壁にかけられた時計の針が——まったく動いていない。


 それどころか、

 美術室に差し込む光の“角度”さえ、ずっと同じだった。


 >(……ここは……本当に、“現実”なの?)


 ユリアはゆっくりと歩き出す。

 机の上のペンを取ろうと手を伸ばすと——


 ペンが、指をすり抜けた。


 ——すり抜けた?


 振り返る。

 隼人の姿は、そこにあった。


 けれど、彼は少しも動かない。

 いや、“まばたき”さえ、していない。


 ユリアの耳に、ノイズが走った。


 >「観測プールB:再構築試行中」

 >「感情反応ログ:静止」

 >「対象個体ユリア:定義再取得プロセス中……」


 ——まだ、“観測”は終わっていなかった。


 ユリアが見ていた美術室も、隼人の姿も、

 すべてが「ユリアが戻りたいと望んだ世界」の模写だった。


 それは“自由意志”の皮を被った、新たな収容層。


 “観測者”が直接出てくることはない。

 けれど、彼らはあくまで「ユリアの願い」を逆手に取って、

 彼女を“観測し続ける”別の方法を見つけただけだった。


 まるで、

 自分の記憶と感情をベースに組まれた、無限に優しい檻。


 >(わたし……出られてない……)


 誰かに見られていないと存在できない。

 だから、あらかじめ“見られたい場所”を与える。

 見せかけの自由、見せかけの現実。


 ——観測の最終形。


 ユリアの背後に、またしてもあの“目”が現れる。


 けれど今度は、目玉ではなかった。


 “彼女自身の形をした影”が、背中にぴたりと張りついていた。


 ユリアの動きを完璧にトレースし、

 口も、目も、全く同じ形に動いている。


 >「……逃げられると思った?」

 >「“君の自己像”そのものが、もう観測装置の一部だよ」

 >「君が君を“思い出そうとする”限り——僕たちは、君を見つけ出せる」


 声は、自分の声だった。


 ユリアは、ふらりと立ち尽くした。


 >(……わたし……

 > “自分のこと”すら……もう自由に、考えられないの?)


 ユリアは、影と向き合った。


 それは彼女自身の姿をしていた。

 まったく同じ顔。

 同じ声。

 同じ記憶を、同じ順番でなぞる存在。


 けれどその目だけは、

 まるで誰か他人のもののように冷たかった。


 >「君はずっと、自分を“こうあるべき”って監視してきた」

 >「泣いてはダメ、怒ってはダメ、誰にも嫌われないように、

 > 誰かにちゃんと見てもらえるように」

 >「でもそれが、一番強い“観測”だった」


 ユリアは唇を噛みしめた。


 影は言った。


 >「ねぇ……そんなに“観られたくない”なら、

 > 自分のことなんて全部、消してしまえばいいのに」


 そう言って、影の手が伸びてくる。


 指先が、ユリアの額に触れる。

 その瞬間——脳が焼けるような感覚に襲われた。


 目の前がぐにゃりと歪み、

 視界が暗く沈み込んでいく。


 >(いや……いや、ちがう……)


 >(わたしは……)


 >(わたしは——)


 そのとき、ふと誰かの声が聞こえた。


 >「ユリア……きみが“自分でいること”を選ぶ限り、

 > たとえ誰にも見られなくても——君は、君でいられるんだよ」


 ——隼人の声だった。


 記憶のなかでも、もっとも曖昧で、

 けれど唯一、観測されなかった瞬間の声。


 それは、ただ傍にいてくれたときの、声だった。


 ユリアはその声にすがるように、言葉を吐き出した。


 >「……わたしは、

 > わたしがわたしでいることを……自分の意思で決めたい……!」


 その瞬間——影の顔に、ヒビが走った。


 音もなく、その「もうひとりのユリア」は崩れていく。


 表情も、声も、記憶も、すべてが砕けて、霧のように消えていく。


 そして最後に残ったのは、

 “誰にも観られていない”ユリア自身の心の静けさだった。


 時計の針が、コチ、と動いた。


 窓の外の風鈴が、自然な風に揺れて鳴った。


 まるで、世界が本当のリズムを取り戻したかのように。


 ユリアは、そっと息をついた。


 涙も流れていなかった。

 けれど、何かが確かに“終わった”のだと、胸の奥でわかった。


 >(……わたしは、もう……観測のなかにはいない)


 そして彼女は、ゆっくりと立ち上がった。


 「生きていくために、自分の目で世界を見てみたい」

 そう思ったのは、もしかしたら——生まれて初めてのことだったかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ