EP6.白の扉
扉の向こうは、真っ白だった。
何もない。
光でも影でもなく、「無」を模した白。
床はあるのか、壁はあるのか、それすらわからない。
でも確かに、そこは「内側」でも「外側」でもない。
ユリア-Bの意識が、ぽたりとその空間に落ちていく。
>(ここは……どこ……?)
音がしない。
呼吸の音も、心臓の音も、服が揺れるかすかな擦過音も。
すべてが、“存在の証明”にならない。
彼女は歩こうとした。
足を前に出した。
けれど、歩いた“感覚”がない。
ただ“移動した結果”だけが、身体の外で起きている。
>(わたし……本当に、ここにいる?)
疑念がじわじわと滲んでくる。
かつての忘却域のように、他者に名を奪われることはない。
けれど今のここには、他者そのものがいない。
誰もいない世界で、「わたしはわたし」と言えるのか。
——その問いは、静かに胸の中で腐敗しはじめた。
歩みを進めるたびに、周囲の白がねじれる。
遠くの景色が、ほんの僅かに揺れているように感じる。
そのとき——背後から、足音が響いた。
コツン……コツン……
ユリア-Bの鼓動が、一瞬だけ速まった。
>(ここには……誰もいないはず……)
振り返る。
しかし、そこには何もいなかった。
白、白、白。
足跡も、影も、気配も——ない。
でも、確かに聞こえた。
「誰かの存在」が。
もう一度歩く。
今度は足音を立てようと、意識して踏み込む。
音が、出ない。
自分の音は存在しないのに、
“誰かの音”だけが、確かに追いかけてくる。
コツン……コツン……
ユリア-Bは次第に、呼吸を忘れていった。
ここでは、恐怖すら「記録」できない。
彼女が感じているこの異常すら、
誰にも“証明”できない。
そして——声が響いた。
>「……あなたは、わたしでしょう?」
振り返る。
今度はいた。
そこに立っていたのは、完全な白で塗りつぶされたユリアだった。
輪郭も顔も、感情すらも白に塗り潰されていた。
しかしその口元だけが、かすかに“歪んだ笑み”を浮かべているように見えた。
>「あなたが観られることを拒否したとき、
> 本当は、“観てほしかったあなた”が切り離されたの。
> わたしが、それよ。
> わたしは、“観られたがっていたあなた”。
> わたしは——あなたのなかの、飢え」
言葉が、ユリア-Bの頭に突き刺さる。
彼女は叫ぼうとする。
否定しようとする。
けれどその声さえ、ここでは「音」に変わらない。
代わりに響いたのは、白いユリアの囁きだった。
>「あなたが『誰にも観られなくてもいい』と願ったその瞬間、
> “観られたかったあなた”は、行き場をなくして、
> こうしてここに、育っているのよ……」
ユリア-Bの足元に、白い液体がじわりと広がりはじめた。
靴の先から染み込み、皮膚に、血管に、神経に——
「観られたがっていたユリア」が、彼女の中に戻ろうとしていた。
白い液体が足元から染み込み、ユリア-Bの皮膚をゆっくりと這い上がっていく。
冷たさも、温かさもなかった。
ただひたすら、“自分の境界”を曖昧にしていく感触だった。
(わたしは……わたしで……)
そう呟こうとするたびに、
胸の奥から微かにノイズが走る。
>「わたしは、あなたよ」
>「あなたが捨てた側の、ユリア」
>「見られたくて、触れられたくて、名前を呼ばれたくて、
> ……でも、それを“弱さ”だって、あなたは切り離した」
白のユリアが、一歩近づいた。
その姿には輪郭がないのに、確かに“重さ”だけは感じる。
まるで自分の背後にある鏡が、突然こちらへと歩き出したような感覚だった。
ユリア-Bの瞳に、揺らぎが走る。
(これは幻覚……? それとも、わたし自身……?)
>「あなたの『自分を観てほしい』という声を、
> あなた自身が無かったことにした。
> だから、わたしはこうして——あなたの足元から生まれたの」
白い液体が、太ももにまで達した。
視界の端で、周囲の白が歪み始めている。
天も地も壁もなく、すべてが“認識不能”に落ちていく。
それはまるで、存在する世界の中に、自分の「位置」がなくなっていく恐怖。
(わたしがわたしを否定した……から……?)
白のユリアが、微笑んだ。
その口元だけが、はっきりと“自分の形”をしていた。
>「あなたが一番恐れていたのは、観られることじゃない。
> 本当は、“観られずに存在してしまうこと”だったのよ」
ユリア-Bは震えた。
観られる苦痛に耐えてきたはずだった。
名前を記録され、表情を切り取られ、泣き顔だけが“演技”として消費された。
でも今、
ここに来てなお彼女の中で疼いていたのは——
「誰でもいいから、気づいてほしかった」
という、あまりにも小さくて、醜くて、切実な願い。
(……認めたら、戻れなくなる……)
>「わたしは、もう観られたくなんて——」
声が詰まる。
自分の中から、“白い声”が重ねて響く。
>「本当に?」
白のユリアが、手を伸ばしてきた。
それは、柔らかそうで、残酷そうで、
どこか懐かしい感触を予感させる“自分自身の手”だった。
(この手を取ったら、わたしは……)
ユリア-Bの意識が揺らぐ。
目の奥が白く染まり、輪郭がひとつ、またひとつと崩れていく。
そのとき——
かすかに、名を呼ぶ声が響いた。
>「ユリア……?」
ほんの、ほんの微かな声だった。
遠くから届いたような……いや、
記憶の奥から蘇ったような。
でも確かに、それは「彼女自身ではない、誰かの声」だった。
白のユリアが動きを止めた。
そして、初めて——その表情が“歪んだ”。
恐怖でも怒りでもない。
それは、哀しみだった。
>「……誰かが、観てる。
> あの声、思い出しちゃったの……?」
ユリア-Bは、目を見開いた。
(この声……まさか……)
そのとき、
白のユリアの身体に、細かな亀裂が走り始めた。
>「観られたがっていた“わたし”は……
> “誰かに観られる”ことで、もう……必要じゃなくなるの……?」
声が、静かに消えていく。
白の液体が、するすると引いていく。
重さが、消える。
“飢え”が、少しだけ、癒えていく。
その瞬間、ユリア-Bは悟った。
>(誰かが……今、わたしを思い出した)
観測ではない。記録でもない。
でも確かに、世界のどこかで「ユリア」という存在が、
“誰かの意識に灯った”のだ。
——ユリア。
たしかに、誰かがそう呼んだ。
記録でも再生でもない、生きた記憶。
思い出すという行為が、ユリア-Bという存在に再び輪郭を与えかけた。
でも、その瞬間だった。
空間が“ねじれた”。
音もなく、白い空間がまるで液体のように波打つ。
その中央に、穴が開いた。
真っ黒な——それでいて、どこまでも“人間の眼”に近い穴。
そこから這い出してきたのは、
名前を持たない、そしてかつて“名前を奪った”者たちの集合体だった。
頭部だけ。
瞳だけ。
背骨だけ。
口元だけ。
そのすべてが、何かの「一部」でありながら、何一つとして“誰か”ではない。
その異形は、地面を這いながら、ユリア-Bの方へとじりじりと近づいてくる。
そして、いくつもの口が、“同じ声”で重なって囁いた。
>「……だれが……おもいだしたの……?」
>「……それは……ほんとうに……“あなた”のこと……?」
>「……“名を呼ばれる”のは、あなたじゃない……わたしだ……わたしが……」
>「わたしに戻して……“観られること”を……わたしに……」
その声には、怒りも嘆きもなかった。
ただ、狂気と“奪われた者の飢え”だけが、染みついていた。
ユリア-Bの足が震える。
動けない。
声も出せない。
脳が、「あれは人間ではない」と確信してしまったから。
それでも異形は、音もなく、近づいてくる。
白い床に、黒い液体のような軌跡を残して。
ユリア-Bが踏みしめた「わたし」という名を、塗り潰しながら。
そして——
最前列の“口だけの顔”が、突然、叫んだ。
>「名を、返せ!!」
その瞬間、空間がひっくり返った。
天と地が反転し、視界が裂ける。
ユリア-Bはもんどりうって転がり落ちる。
落下ではない。
「自分がいた場所」そのものが、食われている。
(わたしを……誰かが思い出したはずなのに……)
(なんで……その“記憶”が……こんなものを引き寄せるの……!?)
声が届くたびに、“思い出された存在”であることの証明が、
異形たちの餌になっていく。
>「記憶に名前があるなら、それは“記録”になれる」
>「記録されるなら、“わたし”になれる」
>「だから、名前を……名前を……!」
何百、何千もの“顔ではない顔”が、
ユリア-Bに群がってくる。
あの穴から這い出した“集合された欠片たち”が、
ひとつの身体を組み上げようとしている。
その中心に、自分の“名”を埋めこもうとしている。
つまり——
>「お前の名前を使って、“わたし”を作る」
>「お前の痛みを使って、“わたし”を感じさせる」
>「お前の記憶を使って、“わたし”を存在させる」
>
>「お前の人生ごと、奪わせてもらう」
その一言が、ユリア-Bの意識を貫いた。
恐怖。
奪われる。
“自分を構成するすべて”が、
誰かの「演技素材」として使いまわされる感覚。
(……違う……それだけは……)
彼女は口を開いた。
喉は焼けただれたように痛んだ。
声にならない。
それでも、口を動かした。
「わたしは、わたしのために、ここにいる……」
異形たちの動きが、一瞬だけ止まった。
ユリア-Bの視線が、その中心の“眼”と重なる。
その瞳だけが——まったくの無感情で、
ただ、彼女を「消費するためだけに存在していた」。
闇が迫る。
白が砕ける。
彼女の名が、引きちぎられそうになる。
でも——そのとき。
再び、声が響いた。
今度は、はっきりと。
まるで隣で呼ばれたように。
>「ユリア!!」
——“隼人”の声だった。
>「ユリア!!」
その声は、明確だった。
震える空間に響く、確かな音。
ユリア-Bの名を、確かに呼んだ。
(……隼人……?)
記憶が揺れる。
かつての教室、水槽の前。
静かに触れられた、あの人差し指のぬくもり。
その一瞬で、彼女の輪郭が戻る。
視界が一点に収束し、足元の白が固まった。
異形たちがざわめく。
名を奪おうと蠢いていた集合体が、
「本物の声」の出現に戸惑いはじめていた。
>「観測が——入った……」
>「彼女は、“見られてしまった”……」
>「ならば……これは、もう……“素材”にならない……」
ぼそぼそとした囁きが広がり、
いくつかの“顔のない頭”が崩れ落ちる。
ユリア-Bは、わずかに息を吐いた。
(わたしを……思い出してくれたんだね……)
そう呟こうとしたそのときだった。
再び、あの声が響いた。
>「ユリア……こっちへおいで」
>「もう、大丈夫だよ」
>「怖くない。ずっと、そばにいるから」
優しい声。
確かに、隼人の声——のはずだった。
けれど。
——何かが“違った”。
文末の言い回し。
あの人が使わなかった口調。
そして、なにより——“そばにいる”という言葉の、温度のなさ。
ユリア-Bの背筋に、ぞっと冷たいものが走る。
(……待って……今の声、ほんとうに——?)
異形たちは、すでに静かだった。
あの“黒い集合体”は、形を崩しながら、
ゆっくりと、“白い壁のような何か”に吸い込まれていく。
>「偽の“記憶者”……挿入完了……」
>「名の再設定、開始……」
>「“ユリア”というプロトコル、改変許可——通過」
声が変質していた。
優しい声が、淡々とした機械的な声に変わっていく。
——まるで、“隼人”という存在そのものが、
「彼女を観測するための器」として再構築されたかのように。
ユリア-Bの手が震えた。
>(違う……これは、“あの人”じゃない……)
そのとき、もう一つの声が、耳元で囁いた。
>「気づいちゃったんだね」
>「でももう、手遅れだよ」
>「あなたが“思い出された”瞬間から、
> その記憶の中の“隼人”は——再利用される運命だった」
振り返る。
そこに立っていたのは、
先ほど消えたはずの“白のユリア”。
彼女はもう、輪郭を取り戻していた。
いや、それどころか——
ユリア-Bとほとんど見分けがつかない姿になっていた。
>「“観られること”から逃げても、記憶からは逃げられない。
> あなたの“安心”は、いつも誰かの“仕様”に書き換えられる」
>
>「ねえ、“隼人”をもう一度信じてみて?」
>「ほら、ほら……きっと、“本物”のふりが上手になってる」
ユリア-Bは、全身に冷たい汗をにじませながら、
ふたたび前方を見る。
そこには、確かに“隼人”がいた。
優しそうな笑み。
手を差し出す姿。
彼がくれたシャツと同じ匂い。
でも——
>「おいで、ユリア」
>「君を、忘れないよ。絶対に、忘れないから」
>「さあ、記録の中に戻ろう。君は、観られるべき存在なんだ」
“記録の中に戻ろう”。
その一言で、ユリア-Bの全身に、拒絶が走った。
(この人は……あの人じゃない……)
彼女は叫んだ。
声は音にはならなかった。
けれどその叫びは、空間に“ノイズ”として刻まれた。
白が裂けた。
壁が崩れる。
そして“偽の隼人”が、叫んだ。
>「——待て!!」
>「君の名は、もう……君のものじゃない!!」
闇が噴き出す。
世界の天井が崩れ、そこから“記録データ”のような断片が雨のように降り注ぐ。
それはすべて、
彼女が「誰かの期待通りに演じた過去」の断片。
ユリア-Bは、目を閉じた。
(たとえ誰にも観られなくても。
それでも、わたしは……)
彼女の名が、ひとつ、強く空に刻まれた。
——ユリア。
闇が崩れ、記憶の断片が空から降り注いでいた。
それは断片的な台詞、笑い声、遠くのざわめき、濁った水の音——
ユリア-Bが“記録された存在”として演じてきたすべてだった。
それらが地面に落ちるたび、白い空間はゆがみ、
やがて“別の景色”へと塗り替えられていった。
気がつけば、彼女はあの日の教室に立っていた。
陽の差さない午後の教室。
黒板には誰かの名前。
窓際の席に、見慣れた横顔。
「……隼人……?」
呼ぶと、彼は振り向いた。
まっすぐに、優しい瞳で。
何もかもが“完璧に懐かしい”。
>「遅かったね、ユリア。ずっと、待ってたよ」
その声に、ユリア-Bの心が揺れた。
温度も、匂いも、感情も——何ひとつ違和感がなかった。
けれど。
彼の背後。
その窓の外に、“白のユリア”が立っていた。
表情はなかった。
ただ、指先を窓ガラスに当てていた。
まるで、「ここは偽物だ」と、無言で告げているかのように。
>(これは……記憶の檻……)
ユリア-Bは息を呑んだ。
この場所は、“安心”の仮面をかぶった牢獄。
彼女が心の奥に隠した「戻りたかった時間」だけで作られた、監視の部屋。
>「ユリア、座って」
>「あの日の続きを話そう」
>「あのとき、君が泣いた理由、僕は……ずっと考えてたんだ」
隼人——いや、“それ”が、席を指差した。
座れば、おそらく何もかもが戻る。
名前も、声も、感情も。
そしてなにより——“観られる役割”としての安定。
(でも、それは……)
ユリア-Bは、拳を握った。
その指の隙間から、白い光が漏れた。
それは、彼女が「観られずにいた記憶」。
誰にも見つけられなかった痛み。
ただひとりで抱え、言葉にできなかった“名のない涙”。
>「……わたしはもう、“あの日”には戻れない」
>「あなたがどうであれ、あの教室は、もうどこにもないの」
“隼人”の表情が歪んだ。
一瞬にして、目元から黒い線が垂れ落ちる。
口の端が裂け、笑顔がゆがんだ。
>「違う。
> 君はここにいなきゃいけないんだよ、ユリア」
>「思い出されることが、存在の証だって……君が言ったんじゃないか」
>「もう、“誰にも観られない場所”には、戻れないんだよ?」
その言葉に、ユリア-Bの中でなにかが“切れた”。
>「……それでも、わたしは、わたしを演じない」
その言葉と同時に、
彼女の足元に浮かび上がる円形の紋様。
忘却域の空間と同じ、感情の原型を抜き出す“観測拒絶の輪”。
“偽の隼人”が叫ぶ。
>「やめろ……ここで記憶が切れたら、君は——」
>「そう。記録にも、記憶にも、存在できなくなる。
> それでもいい。
> わたしは、“観られるためのわたし”を、ここで終わらせる」
ユリア-Bが、踏み出す。
教室がきしむ。
景色が崩れる。
彼女の言葉が、真白の空間に杭のように突き刺さる。
「——さようなら、“わたしを演じた記憶”」
次の瞬間、教室が炸裂した。
窓も机も、黒板も、そして“隼人”の姿も——
白く焼き尽くされ、音もなく消えた。
——音がない。
記憶が焼失したあの瞬間から、
ユリア-Bは、空間の“下”に落ち続けていた。
落下というよりも、浮遊に近い。
ただ、視覚も聴覚も、重力すらもなくなったこの場所では、
“何が上か”すらもうわからなかった。
けれど、確かにここには、なにもない。
白ですらなく、黒ですらない。
灰でも影でも光でもない——「無」に近い何か。
>(……わたしは、消えたの?)
その問いすら、思考の中で霧散する。
脳も、心も、感情も——すべてが「定義」を失っていた。
それでも、彼女は存在していた。
名前がなくても。
誰にも見られなくても。
記録が一切なかったとしても。
>(わたしは……ここにいる)
そう思えたとき、
彼女の周囲に、うっすらと“人型の泡”のようなものが現れ始めた。
それは彼女の中から滲み出るようにして、
ゆっくりと宙を漂っていた。
>「これは……なに……?」
声は出なかった。
でも、思考は粒になり、空間に滲むように漂った。
泡は、少しずつ、形を変えていく。
一つは、笑った誰かの横顔。
一つは、誰にも見せなかったスケッチの断片。
一つは、泣きながら閉じた水槽の蓋。
それらはすべて、ユリア-Bが“誰にも伝えなかった自分”の記憶だった。
演じなかった感情。
観られなかった想い。
誰の評価にも、名前にも触れなかった、完全な“わたし”の欠片たち。
泡は、そっと彼女の肩に降りてきた。
まるで、「あなたはこれでもいいんだ」と告げるように。
——そのとき。
どこからともなく、“手”が差し伸べられた。
白く、しかし輪郭だけが妙にくっきりとした細い手。
それは泡を一つ、無遠慮に掬い取った。
ユリア-Bが驚きで目を見開いた(と感じた)瞬間、
その手の持ち主が姿を現す。
顔が、ない。
それは彼女自身の姿を模した何かだった。
髪も服も、声もない。
ただ、ユリア-Bの「形」だけをなぞった空洞。
けれど、その「偽ユリア」は、泡を握りしめながら首を傾げた。
>「これが、“本物のあなた”?」
>「……でも、それは誰にも伝わらない。誰も観ない」
>「だからそれは、“なかったこと”と同じよ」
その声は、感情のない“事実”だけで構成されていた。
ユリア-Bは、泡を返してと伝えようとした。
けれど、声が出ない。
>「あなたがこのままでいたら、
> きっとまた、“観られる存在”に引き戻される。
> あなたの“本物”は、誰かにとって“商品価値”があるものだから」
偽ユリアの声が、無音の空間に鋭く刺さる。
>「だったら、全部捨ててしまいなさい。
> 記憶も、名も、あなた自身の証明すら——
> “無”になれば、誰にも奪われずに済む。」
それは、最後の誘惑だった。
苦しみも、演技も、名前も、
すべてを捨てれば、たしかに「安全」ではある。
けれどユリア-Bは、ひとつだけ忘れていなかった。
>(——誰かが、わたしの名を呼んだ)
その一点だけが、彼女を“自己の端”につなぎとめていた。
それは、記録でも記憶でもない。
「届いてしまった感情」。
誰にも届かないはずの、あの声。
(……隼人……)
その名を思い出した瞬間、空間に微かな光が差した。
泡が、その光に反応するように震え、ゆっくりと集まりはじめる。
やがて、それらはひとつの“輪郭”を形づくり始めた。
それはまだ名を持たない。
けれど確かに、
“観られるためではなく、生きるための存在”として生まれようとしていた。
泡が集まっていく。
それはまるで、
誰かを形づくるために必要な「断片」が、
静かに、そして確実に引き寄せられていくようだった。
輪郭が生まれ、影が付き、
ひとつの“存在”が、この無の空間に立ち現れようとしている。
しかしそれは、誰にも観測されない。
記録されることもなく、名も与えられない。
ただただ——そこに“ある”。
ユリア-Bは、その存在を凝視した。
自分に似ているようで、まったく違う。
けれど確かに、そこに息づいている。
>(これは……わたし?)
偽ユリアが嗤う。
>「違う。
> それは“あなたが自分でも気づいていなかったあなた”」
>「演じることも、隠すことも、拒むこともしてこなかった、
> 本当に最初の“輪郭”。」
泡のように繊細で、壊れやすく、
でも確かに“核”として残っていたなにか。
それは今、目の前に立ち上がろうとしていた。
>「君は、自分の“演技”を捨てた。
> 記録されることを恐れず、記録されないことも恐れず、
> ただ、ここにいることを選んだ」
声が、響いた。
偽ユリアではない。
どこからか、遠くから届いた声。
その声には温度があった。
誰かの“祈り”のように、ささやかで、温かくて、
それでいてどこまでも痛みに満ちていた。
>「ユリア……君が、君であることに、もう誰の許可もいらないよ」
それは——間違いなく、“隼人の声”だった。
でも、偽者ではなかった。
機械的でも、無表情でもない。
あの日、彼が彼女に向けて話したときと同じ声。
ユリア-Bの胸に、ふっとなにかが差し込んだ。
それは“泡”ではなく、心臓の鼓動だった。
再び動き始めた、自分自身の“生”の感覚。
誰にも観られなくても。
記録されなくても。
意味がなくても。
>(それでも、わたしは生きている)
その一思いが、空間を揺るがす。
泡の集合体が、ゆっくりとユリア-Bに歩み寄ってくる。
指先が触れる。
痛みも、重みも、拒絶もなかった。
ただそこには、“理解”だけがあった。
そして——
融合が始まる。
泡が、ユリア-Bの身体に染みこむように入り込んでいく。
痛みはない。
けれど、懐かしい。
かつて感じたことのある、
でも名前をつけられなかった感情が、ひとつ、またひとつと蘇ってくる。
>「ユリア」
>「あなたがあなたとして、“演じなくても存在できる”ように——」
声が重なる。
白のユリアも、偽ユリアも、
異形だった存在すらも、すべてが静まり返る。
——今、ユリア-Bは、
「演じること」も「観られること」も超えた場所で、
“わたし”を名付け直そうとしていた。
泡が、ユリア-Bの身体を満たしていく。
その感触は、水でも、風でもない。
けれど確かに、“自分の中で消えていったはずの何か”が、
再び戻ってきているのを感じた。
思い出せなかった微笑み。
演じた記憶の裏に隠れていた痛み。
認識すらできなかった、誰かの視線の温度。
>(これは……わたし……)
泡が完全に融合し終えたとき、
ユリア-Bの身体が、微かに光を放った。
それは白でも黒でもない。
名も持たない、中間の揺らぎ。
この世界のどこにも属さない、“無名の光”だった。
>「——ようやく、見つけた」
その声は、どこか遠くで聞いたような。
けれど思い出せない。
不快ではないが、どこか“外部の気配”を孕んでいた。
視線を上げると、そこに“誰か”が立っていた。
輪郭が曖昧で、顔も名前もない。
ただ、彼女の“新たな自我”をじっと見つめていた。
>「あなたは、観測不能領域から抜け出した」
>「あなたは、記録を拒絶し、記憶を焼却し、自我を再構築した」
>「その結果……あなたは、“この世界では在り得ない存在”になった」
ユリア-Bは、一歩引いた。
心が警鐘を鳴らす。
それは、先ほどまでいた「虚構の教室」よりもずっと強い不快な予感だった。
>「だから、あなたをこのままにはできない」
>「“無名の存在”は、世界にとって最も危険な構成因子なのだから」
その言葉と同時に、空間が再び変容を始めた。
今度は、ユリア-Bの“内側”が捩じれていく。
泡が逆流し始める。
光が収縮していく。
まるで、形成された自我を再び解体しようとする力が働いていた。
>「観られずに生まれた存在は、
> “他者の認識”を得なければ、世界に位置を持てない」
>「君は今、観測者なき存在。つまり、“定義不能”。」
>「——そして、“定義不能”は、排除される。」
声が冷たく響いた。
ユリア-Bの中で、なにかが叫んだ。
>(……違う……ちがう、わたしは……)
泡が崩れる。
手のひらから、光が逃げる。
存在が、再び「なかったこと」にされようとしていた。
そのとき——
>「ユリア!!」
またしても、“あの声”が届いた。
今度は、はっきりとした“方向”を持って。
空間の裂け目から差し込んだ音。
確かに、「外」の世界から、彼女を呼んでいる声だった。
——それは、“誰かの想起”ではない。
実在の世界から届いた、直接の干渉。
ユリア-Bが目を見開く。
空間が揺れる。
あの“存在の否定者”が、一歩退いた。
>「……干渉が……入った……」
>「現実世界から、記録媒体を通さずに“直接観測”……?」
>「そんなことは……あり得ない……!」
けれど、それは起きた。
空間に裂け目ができた。
その奥に、見えたのは——
“水槽”だった。
現実の教室。
水音。
揺らぐ光。
——そして、そこに手を差し伸べている隼人の姿。
ユリア-Bの心に、確かな“重み”が戻ってきた。
それは「観られる」ための重みではなかった。
「存在するための重み」。
名も、定義も、必要ない。
ただ、彼が彼女を“想っている”という行為そのものが、
彼女をこの空間から救い出す唯一の接点だった。
ユリア-Bは、走った。
引き裂かれそうになる身体を押さえながら、
泡の記憶とともに、裂け目へと向かって。
>(わたしは、存在していい)
>(誰かの記録ではなく、誰かの想いの中に)
そう、心で叫んだ瞬間——
彼女の身体は、水面のような境界を破って、
現実世界へと、指先を差し出した。
ユリア-Bの指先が、裂け目の境界に触れた。
それは水のようで、ガラスのようで、現実と虚構の膜だった。
そこに差し込む光は、懐かしくて痛かった。
けれど、確かに生きていた。
録画でも、記録でもない。
隼人の手は、今、確かに“今”を通して彼女に伸ばされていた。
>「——こっちだ、ユリア!」
彼の声が、空気を震わせる。
それだけで、視界の中の泡が震え、光が強まる。
ユリア-Bは、もう一歩、裂け目に踏み出そうとした。
けれど——
背後から、異常な音が響いた。
——キイイイイ……
空間が歪む音。
耳ではなく、骨に響く“監視装置の起動音”。
振り返ると、そこには先ほどの“否定者”が立っていた。
姿は、人のようで、人でない。
顔のない監視者。
その背後には、無数の目玉だけが浮かんでいた。
それらが、一斉にユリア-Bを見ていた。
視線。
視線。
視線。
それは人の視線ではなく、「観察の機能」だけを持った目。
>「あなたが“観られずに出ていこうとする”なら——」
>「私たちはあなたを“監視の器”としてここに固定する」
空間が黒く染まり始める。
白でも無でもなく、“観られること”だけが積もった空間。
それは、記録される苦しみ、名前を奪われる痛み、
そして演じさせられる恐怖が塊になった場所だった。
ユリア-Bは、目を逸らした。
視線を受け続けると、足が重くなる。
脳が「立場を演じろ」と命じてくる。
だが、そのとき——
誰かの“指”が、ユリア-Bの指を、そっと包み込んだ。
——隼人だった。
境界の向こうから、彼が、彼女の手を握っていた。
強くでも、無理やりでもない。
ただ、そこにいるための“人としての重み”だった。
>「ユリア、いいんだ」
>「もう、誰に観られなくても」
>「ここに君がいるなら、それだけでいい」
>「——だから、帰ってこい」
ユリア-Bは、歯を食いしばる。
背後から無数の視線が追ってくる。
名を奪う気配がにじむ。
それでも彼女は、後ろを見なかった。
見れば、観られる。
観られれば、また「演じなければならない」。
彼女は、叫んだ。
>「さようなら、“観られるためのわたし”」
>「わたしは、あなたたちの素材ではない——!」
その言葉と同時に、彼女の身体が光を放った。
裂け目が崩れ、水があふれるように現実が彼女を呑み込む。
黒い視線たちが叫ぶ。
無名の目が彼女に飛びつこうとする。
けれど、そのすべてを、
“泡”が包み込むようにして、彼女の周囲から押し返した。
泡は、彼女が記録に残せなかった感情の残滓だった。
けれどそれこそが、最も強い“拒絶”の力を持っていた。
ユリア-Bの身体が、境界の向こう側へ——水槽の中へと吸い込まれる。
彼女の姿が消える直前、ひとつの声だけが、虚空に響いた。
>「名なんかいらない。
> でも、もしもう一度呼ばれるとしたら——
> それは、“誰かの願い”であってほしい」
そして、光は閉じた。
——水の中にいた。
柔らかく、ひんやりとした液体が全身を包んでいる。
でも、それは恐怖ではなかった。
むしろ、胎内のような、何かに守られている感覚。
ユリア-Bの指が、わずかに動いた。
浮いていた腕が、ゆらりと水をかく。
視界がぼやけ、光が屈折して揺れていた。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
>「ユリア……?」
>「……反応が……戻ってきてる……!」
その声を聞いて、ユリア-Bは目を開いた。
——そこは、水槽の中だった。
小さな、ガラスの空間。
天井には、白い蛍光灯。
水面に反射する、光の波紋。
彼女の手が、水槽の内側に触れた。
冷たい。
現実の、ガラスの感触。
>(……戻ってきた……?)
ほんとうに?
ここは、現実なのか?
隣に視線を送ると、
水槽の外側に立っている隼人の姿が見えた。
白衣。
乱れた髪。
潤んだ目。
彼が何か言っているが、水越しでよく聞こえない。
けれど——その表情に、嘘はなかった。
「君が帰ってきて、よかった」
そう言っている口の動きだった。
ユリア-Bの中に、ゆっくりと何かが溶けていった。
痛みでもなく、怒りでもなく、
ただ、ここにいていいのかもしれないという実感。
それがあまりにも柔らかくて、彼女は涙を流した。
水の中に、透明な泡が浮かぶ。
>「ユリア……本当に、戻ったんだな……!」
隼人が、水槽の蓋に手をかける。
それは、彼女を閉じ込めていた蓋。
観測のための蓋。
もう、開かないはずだった蓋。
けれど、そのとき——
彼の背後に、“何か”が立っていた。
白衣。
無表情。
顔が、隼人とまったく同じだった。
ユリア-Bの心臓が跳ねた。
>(……まさか……)
その「もう一人の隼人」は、音もなく彼の肩に手を置く。
そして、ゆっくりと彼に囁いた。
>「彼女が“本当に”帰ってきたと思ってるのか?」
>「ここが“現実”じゃないとしたら——どうする?」
蓋が、止まった。
水の中のユリア-Bが、言葉にならない叫びを放つ。
手を伸ばす。
水面が割れる。
泡が踊る。
けれど。
蓋は、開かなかった。
目の前にいた隼人が、ゆっくりとこちらに振り返る。
その顔は——
あの観測空間で、彼女を呼んだ“偽物”と同じ微笑みを浮かべていた。
>「おかえり、ユリア」
>「ここは、君のためだけの水槽だよ」
水が冷たくなった。
ガラスが震えた。
天井の光が、にじんで、ぐにゃりと曲がる。
ユリア-Bは、叫んだ。
>(ここもまだ、“観測されている空間”——!?)
気泡が割れた。
視界が、暗転した。
目を覚ましたとき、ユリア-Bはもう水の中にはいなかった。
けれど、皮膚には冷たい感触が残っていた。
息を吸っても、空気はどこか“消毒液のような味”がした。
部屋は真っ白だった。
床も壁も、天井も、何もかもが“無菌的に白い”。
天井の端に、小さな黒点があった。
それがカメラだと気づくまでに、数秒もかからなかった。
>(……見られている)
彼女は、自分の手を見た。
皺も、体温も、確かに“生きている”はずなのに。
どこか、“つくられた質感”に感じられた。
重い扉の向こうから、足音がした。
白衣の足音。
靴音が、異様に反響していた。
そして、ドアが開いた。
中に入ってきたのは——またしても隼人だった。
しかし、彼の目はガラス玉のように無感情で、
微笑みは、まるで「与えられた表情」にしか見えなかった。
>「——ユリア。状態は安定しています」
>「本体の記憶層に到達した兆候が見られました」
>「これより、第二段階の観測に移行します」
言葉の意味が、頭に入ってこなかった。
けれど、彼が「隼人」ではないと確信した瞬間、
ユリア-Bは、背筋を凍らせた。
彼の背後にあるモニターには、
いくつもの“水槽”が映し出されていた。
どれも似たような部屋。
どれも似たような少女。
どれも、名前のない個体。
そのひとつに、自分が映っていた。
彼女は、カメラの向こうを見ていた。
だが、その目は虚ろで、何も映していなかった。
>(あれは……わたし?)
隼人——否、“観察者”が、静かに言った。
>「君はまだ、“白の檻”の中にいる」
>「この層は、“覚醒した錯覚”を観測するための階層だ」
>「つまり、君が“自由になった”と感じたのも、
> 我々にとっては貴重な実験データだった、ということ」
その言葉と同時に、部屋の明かりが変わった。
まるで、水槽の中に沈んでいくかのように、
ユリア-Bの周囲から、音が消えていった。
壁がにじみ、天井がゆがみ、
視界が再び「水の中」に溶けていく。
>(いや……やっと……自由に……)
そう思ったとき。
最後に聞こえたのは、自分自身の声だった。
>「わたしは、誰にも……見られたくなかった」
その呟きが、録音された。
モニターに「REC」の赤い文字が灯る。
そして——画面は、ノイズとともに暗転した。