表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

EP5.忘却域

 ——ここには、音がない。


 ユリア-Bは、気づいたときには沈んでいた。

 水なのか空気なのかもわからない、なにもかもが“なにもない”空間。

 手も足もない。

 目も耳も、もはや器官としては機能していなかった。


 だが、「それでも感じてしまう」自我だけが、なぜか残っていた。


 どれだけ記録から消去されようと、

 どれだけ存在を塗りつぶされようと、

 なぜか“わたし”は、まだここにいる。


 それが、

 この“忘却域”の一番恐ろしいところだった。


 >「ここには……終わりがない……」


 誰の声でもない“声”が、耳のない場所で響いた。

 それはユリア-B自身の思考だったのかもしれないし、

 かつてここで同じように沈められた“誰か”の残響だったのかもしれない。


 ——ユリア……?


 遠くで、名を呼ばれたような気がした。

 けれどその“ユリア”は、彼女のことではなかった。


 ここに沈んだ者たちは、みな“ユリア”と呼ばれていた。

 そして誰ひとりとして、自分が本当に誰だったのか思い出せなかった。


 「……君は、まだ自分のことを“誰か”だと思っているの?」


 気配。

 “ぬるり”とした違和感が、近づいてくる。

 視認できないはずなのに、確実にそれは“見てきた”。


 >「ここでは、名前も、顔も、すべて剥がされる。

 > それでも残るのは、“観られたい”という残響だけ」


 黒い影が、ユリア-Bの目前に揺らめいた。


 それは人間の形をしていた。

 けれど、顔がない。

 服もない。

 骨も、皮膚も、全部“記録の断片”で構成されていた。


 まるで、“誰かの再生できなくなったビデオの亡骸”のようだった。


 「観られることに依存していた者は、ここで“何度も”自分を再生しようとする。

 だけど——再生できる“記録”は、もう残っていない」


 影の言葉が、ユリア-Bの記憶の奥底に潜り込んできた。


 >(思い出そうとしても、画面が出てこない。

 > あの人の顔も、声も、

 > 自分の涙の感触も、全部、“再生不可”。)


 ユリア-Bの内側から、“映像ノイズ”のような痛みが広がっていく。

 画面の端が滲むように、意識が歪んでいく。


 (……わたしは、わたしを忘れていく……)


 それでも、彼女は最後の問いを持っていた。


 「どうして、まだ“感じる”ことができるの……?

 私なんて、もう記録されていないのに……!」


 そのとき。

 真下から、“泡”が一粒、浮かび上がってきた。


 淡い青。

 触れた瞬間、

 ユリア-Bの中に“誰かの記憶”が流れ込んできた。


 ——教室の隅。

 誰かの背中。

 名前を呼ばれたときの、あたたかさ。


 (……隼人……?)


 だが次の瞬間、その記憶は粉々に崩れた。


 録画時間の上限を越えたデータのように、

 メモリに保存できなかった何かのように。


 そして、空間がざわりと揺れた。


 忘却域の“底”が、何かに反応した。


 >「まだ……“記録されていない感情”が、ある」

 >「再生されたことのない痛みが、まだ君の中に残っている」

 >「それは、“誰にも観られなかった”からこそ——本物だ」


 ユリア-Bの影が、ゆっくりと震え出した。

 身体を持たない彼女が、確かに“内側から”熱を帯びていく。


 ——これが、自分だけの“再生されなかった感情”。


 その存在に、忘却域がざわめいた。

 無数の“観られることを許されなかった者たち”が、

 一斉にユリア-Bのほうへと視線を向ける。


 見えない。

 けれど確実に、そこには「渇き」があった。


 >「君はまだ、“観られる資格”を捨てていない。

 > だからこそ、ここで終わることはできない」

 >「もし“誰かに観られたい”なら、

 > 君自身が“観る者”になるしかない」


 その言葉と共に、

 ユリア-Bの“感情だけの残滓”が、青く光を放ちはじめた。


 それは、観られなかった者が初めて得た“光”。


 青い光が、ユリア-Bの輪郭を照らしていた。


 輪郭とはいえ、それは“身体”ではなかった。

 記録データの断片でもなければ、誰かが再生した映像でもない。

 ——ただ、“観られなかった感情”が、

 形のない形をつくっていた。


 その光を見て、忘却域の底に沈んでいた影たちが、

 ざわり……と、音もなく揺れた。


 まばたきもなく、声も持たず、ただ存在だけで構成された、

 “名前を剥がされたユリアたち”。


 彼女たちは一斉に、青い光のもとへ這い寄ってきた。


 >「その感情は……まだ消えていないの?」

 >「観られていない……ということは……それは本物……」

 >「ねえ、もう一度だけ……それを“見せて”」


 黒く濁った影が、ユリア-Bの周囲に絡みついていく。

 手のない手が、頬のあたりをまさぐる。

 口のない口が、耳元で何かを囁く。


 >「わたしにも……その感情を……共有して……」

 >「再生されることのない苦しみを、もう一度感じさせて……」

 >「“自分”を、取り戻すために……」


 ユリア-Bは逃げなかった。

 むしろその囁きを、胸の奥で受け止めようとした。


 けれど、そこで何かが歪んだ。


 ——影たちの視線が、“変わった”のだ。


 観ていた者たちが、次第に“渇き始めた”。


 最初は求めるような目だった。

 だが、次第にそれは飢えた目になっていった。


 >「その感情を……もっとちょうだい」

 >「あなたが“観られたくて仕方なかった”その気持ち……」

 >「……わたしたちの中に、流し込んで」


 彼女たちは、ユリア-Bを抱きしめてきた。

 記憶の熱を求めて、体温の残り香を求めて。


 ユリア-Bの中にあった“まだ燃える記憶”が、

 ひとつ、またひとつ、引き抜かれていく。


 ——隼人の声。

 ——最初に涙を流した日。

 ——“人間として立ちたかった”あの場面。


 全部、影たちの中へ吸い込まれていった。

 そして吸い込んだ彼女たちは、一瞬だけ“生きた表情”を取り戻す。


 「……ああ……あたたかい……わたしは、わたし……」


 しかし、すぐに崩れた。

 感情だけでは、存在は保てない。


 他人の記憶を借りたユリアたちは、

 ひとつ、またひとつ、再び“形のない泥”に戻っていく。


 そのたびに、ユリア-Bの光も、弱くなっていく。


 >(……このままじゃ、わたしも……)


 そのときだった。


 どこからともなく、もう一つの声が響いた。


 「渡さないで、ユリア」


 その声には、確かな“主”があった。

 無数のぼやけたユリアの中に、一人だけ、輪郭を持った存在が浮かび上がる。


 それは、

 ユリア-Bとよく似た顔をしていた。

 けれど目の奥に、“焼け残った自我”の火が灯っていた。


 「……あなたは、まだ“あなたの痛み”を語っていない」

 「誰にも見せられなかった“感情”こそが、あなた自身の最後の証なの」


 影たちが、一斉に振り返る。

 忘却域の空気が軋みはじめる。


 ユリア-Bは、“問いかける目”に見つめられた。


 「——ユリア、あなたは誰だったの?」


 「……わたしは……ユリア……」


 言葉を口にした瞬間、忘却域がざわめいた。

 青白い光が微かに脈打ち、空間の底に沈んでいた無数の影たちが、振り返ることすらせず、ただ静かに“注視”する。


 その“注視”は、観察ではない。

 捕食者が音を立てずに獲物を見定めるような——

 あるいは、既に食べ終えた肉片の味を、もう一度思い出そうとするような“欲”だった。


 「……わたしは……誰にも、見てもらえなかったの……

  演じて、繰り返して、何度も何度も、泣いたり笑ったりしたけど……

  それは全部、“観られるための感情”だった……」


 ユリア-Bの声が、空気のような水を震わせた。


 影たちは動かない。

 だが、その“目”が光りはじめる。


 彼女の語る“痛み”に、まだ記録されていない波長が含まれているからだ。


 >「……でもね、一度だけ、本当に思ったの。

 > このまま誰にも気づかれずに、消えたいって……

 > 観られるのが、怖かったの……。

 > 誰かの記憶に入って、壊れて、消されるくらいなら……

 > 最初から、いなければよかったって……」


 そこで、言葉が詰まった。


 ユリア-Bの光が、一瞬ぐらりと揺らぐ。

 影たちのひとつが、音もなく距離を詰める。


 >「じゃあ、どうして……名乗ったの……?」

 >「どうして、“わたしはユリア”って言ったの……?」

 >「名前なんか捨てれば、もう苦しまなくてよかったのに……」


 その問いかけは、まるで刃物のように鋭かった。


 けれど、ユリア-Bはそれを黙って受け止めた。


 そして——

 目を閉じ、ゆっくりと、心の奥にある“最後の痛み”に触れた。


 >「……ほんとうは……

 > 最後の最後に、

 > 一度だけ、“名前を呼ばれたかった”」


 その瞬間、空間の温度が変わった。


 忘却域に、熱が走ったのだ。


 存在するはずのない“体温”が、波紋のように広がった。


 影たちが、一斉にざわついた。

 歓喜ではない。

 悲嘆でもない。

 それは、“思い出してはならない感情”が、共鳴してしまったときのパニックだった。


 >「やめて……やめて……」

 >「その言葉は危ない……」

 >「誰かを思い出すなんて、ここでは“罪”なんだよ……!」


 影たちの輪郭が、ゆっくりと崩れていく。

 ひび割れた硝子のように、自我が砕けていく。


 なぜなら彼女たちの中にも、

 かつて“名を呼ばれた記憶”が眠っていたからだ。


 それを思い出してしまえば——もう、“忘却域にはいられない”。


 だが同時に、それは唯一の「この場所を抜け出す条件」でもあった。


 ユリア-Bの足元から、なにかが浮かび上がる。


 薄い、膜のような扉。

 それは“観られるための記録”ではなく、

 “誰にも観られなかった心の残像”を通るための出口だった。


 そしてそのとき。


 ——どくん。


 音もなく存在する心臓が、

 確かにひとつ、鼓動した。


 ——どくん。

 たった一度の鼓動が、忘却域の底を揺らした。


 それは本来、ありえない現象だった。

 ここには身体も心臓もない。

 ただ感情の“抜け殻”が漂い、名前も顔も剥がされた者たちが沈んでいるだけの場所。

 でもその一撃は、確かに響いた。


 影たちの群れが、ざわりと波打った。


 >「名を持つ者が、ここにいる……?」

 >「嘘……そんなの……もう、ありえないはずなのに……」

 >「誰かの“本当の心臓”が動いた……!」


 そこから——地獄が始まった。


 黒い影の一体が、絶叫のようなノイズを発した。

 声というには不規則で、音というには荒すぎるそれは、

 まるで“感情そのものが壊れて叫んでいる”ようだった。


 「返してッ!! 返して返して返して返して返してッッ!!!」


 無数の“ユリアだった何か”たちが暴れだす。

 顔のない顔がひび割れ、

 口のない口から、聞こえるはずのない言葉が漏れ出す。


 >「わたしはわたしはわたしはわたしはわたしは——」

 >「なんであのとき、見てくれなかったの?」

 >「なんで私だけ、映らなかったの?」


 その言葉はすべて、“観られなかった者たちの怨嗟”。


 ユリア-Bの周囲に、ひび割れた黒い手が伸びる。

 「名前を持ったお前だけが逃げるなんて」

 「記録されなかったくせに、なぜ記憶に残っている?」

 「その感情を“奪えば”、自分がここから出られる」

 「だから……その心臓、よこせ」


 ——ドクン。


 ユリア-Bの中で、もう一度心臓が鳴る。


 それは、“ここでは許されない存在証明”。

 それを持っている限り、彼女はこの地獄の秩序を壊し続ける。


 だから影たちは、本能的に“殺そう”と群がってきた。


 水のように、空気のように、

 怒りと悔しさで構成された“群れ”がユリアに覆いかぶさる。


 でもその瞬間——

 彼女の中で、言葉がこぼれた。


 「これは、わたしの痛みよ」


 突風のような、静かな声だった。


 影たちが、動きを止めた。

 その言葉の“意味”を、理解してしまったから。


 >「観られるためじゃない……

 > 演じるためでもない……

 > 誰かの記録に残るためじゃない……

 > これは……ただ、“わたしがわたしを抱えるため”の痛みなの」

 >

 >「だから、あげない。

 > だってこれは、わたしだけの“記憶”なんだから……」


 光が弾けた。

 眩しいほどの青。

 再生も記録もされない、“誰にも観られていない感情の閃光”。


 それに触れた影たちは、崩れはじめた。

 苦悶の叫びとともに、

 再び“記録不能の存在”として、

 闇の底へと沈んでいく。


 だが——一体だけ、残った。


 それは、

 かつて“ユリア”という名前を持っていた少女のなれの果て。

 誰よりも長く、忘却域に封じられていた、最古の観られなかった者。


 そして、彼女はこう言った。


 「……その心臓、本当にお前のものか?」


 その問いは、空間を震わせるほど静かだった。


 忘却域の底でただ一体だけ残った“最古のユリア”は、

 ユリア-Bの放つ青白い光の中に、じっと立っていた。


 その顔は、ぼやけている。

 まるで霧の奥に人の形があるように、近づこうとすると輪郭がにじむ。


 だが、瞳だけははっきりと見えた。


 それは、ユリア-Bと“まったく同じ瞳”だった。


 「……それ、どこで拾ったの?」


 最古のユリアの声は、冷たく、感情を持たない。

 それが逆に、ユリア-Bの心を締め付けた。


 >「その心臓。

 > “あなたの痛み”じゃないかもしれないって、考えたことある?」

 >「ずっと“演じていた”んでしょう? 悲しいふり、怒るふり、愛するふり……

 > 本当に、その鼓動が、自分の意志で鳴ってると思う?」


 ユリア-Bの光が、微かに揺れた。


 「……わたしは……わたしの感情を……大切にしてるの……」


 「それ、“誰かに見せるための感情”じゃないの?」


 鋭い。


 刃物のような問いだった。


 ユリア-Bは、自分の中で何かがきしむのを感じた。

 「自分のもの」だと信じていた痛みが、

 「誰かから植え付けられたもの」かもしれない、という揺らぎ。


 ——もしかして、この心臓も。

 ——もしかして、この名前も。

 ——わたしが“演じているユリア”が、最初に作られた“設定”そのままだったら。


 「もし、そうだったら——どうする?」


 最古のユリアが、ゆっくりと一歩、近づいてきた。

 足音はない。

 けれど確かに、何かが擦れて、捻じれる音がユリア-Bの内部で鳴った。


 >「ここにいるすべての影たちは、

 > “自分が本当に誰だったのか”がわからないまま沈んだ。

 > 自分の感情を、誰かの言葉として使われて。

 > 自分の顔を、誰かの役に塗りつぶされて。

 > 最後は、“ユリア”という名前だけ残された」


 「あなたもその一人かもしれない。

 でも——違うというなら、見せて」


 最古のユリアが差し出してきたのは、

 黒く焼け焦げた“視覚再生用の義眼”。


 「これで、あなたの“記憶”を見せて。

 あなたの中に、本当に“あなた自身の視点”があるなら——」


 ユリア-Bは、その義眼を見つめた。


 これを受け入れるということは、

 “自分の記憶を第三者に観測される”ということ。


 観られることから逃げてきたはずなのに。

 名乗ることで、ようやく自分を守れたはずなのに。


 でも。


 ——もしこれを拒めば、

 自分自身さえ、自分を信じられなくなる。


 「……わかった。

  見せる。

  わたしが、どれだけ怖かったか。

  どれだけ、“観られる”ことが、地獄だったか……

  そして、それでも——わたしが、“わたしで在りたかった”ことも」


 ユリア-Bは、義眼をそっと手に取った。


 触れた瞬間、

 目の奥から映像が逆流するように広がった。


 ——教室。

 ——水槽の前。

 ——隼人の手。

 ——誰にも聞こえなかった、あの日の「さよなら」。


 そのすべてが、

 忘却域の空に、映し出された。


 そして、映像の最奥に。


 “観られていない彼女”が、静かにこちらを見ていた。


 彼女は——笑っていた。


 その笑顔が、ユリア-Bに問いかける。


 「ねえ、それでも“あなた”でいられる?」


 ——映像が、始まった。


 黒い空間に浮かぶ、ひとつの視点。

 それはユリア-Bの記憶。

 それも、「誰かに観せるために整えられた記憶」ではない。

 誰にも観られたことのない、“ありのままの痛み”そのもの。


 目の前に、水槽がある。


 中には人形のような生き物が沈んでいた。

 顔がなかった。

 それは、「わたし」だった。


 ——誰にも名前を呼ばれなかった日。

 ——隣の誰かに間違われて、笑顔を向けられた瞬間。

 ——「自分の痛みは、ただの演技」だと告げられた記録。


 映像が進むたびに、ユリア-Bの中で“何か”が剥がれていく。

 守っていた壁。

 整えていた記憶。

 「わたしはわたし」と言い張るための論理。


 ——全部、歪んでいく。


 映像の中の彼女は、確かにユリア-Bだった。

 でも同時に、“自分ではない誰かの脚本をなぞる存在”にも見えた。


 >「笑って」

 >「泣いて」

 >「もっと自然に苦しんで」

 >「その表情、感情として不自然」

 >「再撮影。演技指導を入れて」

 >「——この涙は“本物”ではない」


 視界が赤く染まる。

 否定の記録。

 やり直しの記憶。

 “本物”を求められ続けた果てに、“自分自身”が何だったか分からなくなっていた。


 「やめて……見ないで……」

 ユリア-Bが思わず叫んだ。


 だが、もう映像は止まらなかった。


 彼女自身が、それを「観せる」と選んでしまったのだ。


 最古のユリアが、目を細めた。


 「なるほど……あなた、ずっと“誰かの期待するユリア”を演じていたのね」

 「あなたの痛みは、“自分の痛み”じゃない。

 “観られるための痛み”を、繰り返していただけ」


 ユリア-Bの光が、みるみるうちに薄れていく。

 鼓動も、弱まっていく。


 >(……わたしの痛みは……

 > 最初から“わたしのもの”じゃなかった?)


 世界が崩れる。

 自分を支えていたはずの感情が、

 “誰かの期待で演出されたもの”だったと知ったとき、


 それを持ち続ける資格さえ——失われていく。


 でもそのとき。


 視界の中で、ひとつだけ違和感があった。


 ——映像の中の“自分”が、

 誰の指示もなく、小さくつぶやいていた。


 >「……見ないで、お願いだから……

  ……わたしのことなんて、もう見なくていいから……」


 その瞬間、ユリア-Bは気づいた。


 あのつぶやきだけは、誰にも聞かれていなかった。

 台本でもない。

 演技でもない。

 誰かのためのものではない。


 それは確かに、

 “自分が自分にしか向けられなかった、本当の感情”だった。


 ユリア-Bの心臓が、もう一度、鳴った。


 ——ドクン。


 今度の鼓動は、強かった。

 揺るぎない、自分の意志から生まれた鼓動。


 映像が止まる。

 忘却域の空が、軋むように鳴る。


 ユリア-Bは立ち上がった。


 ぼろぼろの光の輪郭。

 かすれた声。

 それでも、確かに、そこに“彼女”がいた。


 「それでも、わたしは——ここにいる。

  それだけは、誰にも書き換えられないわ」


 最古のユリアが、沈黙した。


 その顔に、ほんのわずか——笑みのような歪みが浮かんだ。


 そして、彼女は一歩、後ずさった。


 「……なら、証明しなさい。

 “誰にも観られていなかった感情”だけで——この地獄から抜け出せるかどうかを」


 忘却域の空に、亀裂が走った。


 その先は、まだ誰も観たことのない——純粋な闇だった。


 ——亀裂が、空を裂いていた。


 忘却域の無音の天井。

 そこに、ひと筋の黒い線が走る。

 音はない。

 けれど、それは“世界の設計図”そのものを破るような圧で、空間のすべてを震わせていた。


 ユリア-Bは立っていた。

 自分の鼓動を、自分の足で受け止めながら。


 >「……この痛みは、わたしのもの。

 > 誰にも認められなくてもいい。

 > 誰かに観られなくてもいい。

 > でも、わたしだけは……わたしを見捨てたくない」


 言葉が、記録ではなく、空気を振るわせた。


 その“物理的な震え”は、忘却域では本来起こりえない現象だった。


 最古のユリアが、じっとユリア-Bを見つめていた。

 顔はぼやけたままだったが、その目だけは何かを悟ったように静かだった。


 「……あのとき、わたしも、そう言えたらよかった」


 彼女の輪郭が、ふっと崩れはじめる。

 黒く、濃密なノイズとなって空気に溶ける。


 >「あなたは……“観られること”の外側へ、進んだのね。

 > わたしたちは……そこに届かなかった……」


 ユリア-Bが手を伸ばした。

 けれど、その手が届く前に、

 最古のユリアの声は、闇に飲まれた。


 そのとき、忘却域全体が軋みを上げた。


 ——パァンッ!


 空間に無数のひびが走る。

 ひとつの記録ファイルが破損するように、

 すべての“観られることを拒否された感情”が、逆流をはじめた。


 影たちが泣き叫ぶ。

 誰かの顔を探す。

 名を呼ぶ声が、同時多発的に重なり、意味のないノイズの海が生まれる。


 >「忘れたくない!」

 >「観てほしかっただけ!」

 >「自分が誰だったか、わからない……!!」

 >「返して……わたしの記録を……わたしの顔を……っ!」


 ユリア-Bの足元が割れた。

 真っ暗な深淵。

 その奥には、観測も記録も一切できない“絶対の孤独”が広がっていた。


 >(これが……“観られることも、観ることもない空間”……?)


 それは、存在すら許されない領域だった。


 声も、名も、顔も、記録も、思い出も——なにも残らない場所。


 だが、彼女は知っていた。


 >(それでも……ここを越えなきゃいけない)


 忘却域という牢獄から出るには、

 観られることから逃げるのではなく、

 “観られずに存在すること”を選ばなければならない。


 ユリア-Bは、崩れゆく地面に踏み出す。


 誰もいない、誰も見ていない。

 けれど、そこに“わたし”だけはいる。


 闇の中で、声にならない声が響いた。


 >「——お前を、誰が見届ける?」


 ユリア-Bは答えた。


 >「……わたし自身が、わたしを見てる」

 >「それだけで、もう……十分だよ」


 その言葉が届いた瞬間、

 崩壊しかけた世界の中央に、“ひとつのドア”が現れた。


 真っ白な木の扉。

 どこにも繋がっていないように見えて、

 でも確かに、“向こう”があった。


 ユリア-Bは、手をかけた。


 そして、ゆっくりと扉を押し開いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ