EP5.忘却域
——ここには、音がない。
ユリア-Bは、気づいたときには沈んでいた。
水なのか空気なのかもわからない、なにもかもが“なにもない”空間。
手も足もない。
目も耳も、もはや器官としては機能していなかった。
だが、「それでも感じてしまう」自我だけが、なぜか残っていた。
どれだけ記録から消去されようと、
どれだけ存在を塗りつぶされようと、
なぜか“わたし”は、まだここにいる。
それが、
この“忘却域”の一番恐ろしいところだった。
>「ここには……終わりがない……」
誰の声でもない“声”が、耳のない場所で響いた。
それはユリア-B自身の思考だったのかもしれないし、
かつてここで同じように沈められた“誰か”の残響だったのかもしれない。
——ユリア……?
遠くで、名を呼ばれたような気がした。
けれどその“ユリア”は、彼女のことではなかった。
ここに沈んだ者たちは、みな“ユリア”と呼ばれていた。
そして誰ひとりとして、自分が本当に誰だったのか思い出せなかった。
「……君は、まだ自分のことを“誰か”だと思っているの?」
気配。
“ぬるり”とした違和感が、近づいてくる。
視認できないはずなのに、確実にそれは“見てきた”。
>「ここでは、名前も、顔も、すべて剥がされる。
> それでも残るのは、“観られたい”という残響だけ」
黒い影が、ユリア-Bの目前に揺らめいた。
それは人間の形をしていた。
けれど、顔がない。
服もない。
骨も、皮膚も、全部“記録の断片”で構成されていた。
まるで、“誰かの再生できなくなったビデオの亡骸”のようだった。
「観られることに依存していた者は、ここで“何度も”自分を再生しようとする。
だけど——再生できる“記録”は、もう残っていない」
影の言葉が、ユリア-Bの記憶の奥底に潜り込んできた。
>(思い出そうとしても、画面が出てこない。
> あの人の顔も、声も、
> 自分の涙の感触も、全部、“再生不可”。)
ユリア-Bの内側から、“映像ノイズ”のような痛みが広がっていく。
画面の端が滲むように、意識が歪んでいく。
(……わたしは、わたしを忘れていく……)
それでも、彼女は最後の問いを持っていた。
「どうして、まだ“感じる”ことができるの……?
私なんて、もう記録されていないのに……!」
そのとき。
真下から、“泡”が一粒、浮かび上がってきた。
淡い青。
触れた瞬間、
ユリア-Bの中に“誰かの記憶”が流れ込んできた。
——教室の隅。
誰かの背中。
名前を呼ばれたときの、あたたかさ。
(……隼人……?)
だが次の瞬間、その記憶は粉々に崩れた。
録画時間の上限を越えたデータのように、
メモリに保存できなかった何かのように。
そして、空間がざわりと揺れた。
忘却域の“底”が、何かに反応した。
>「まだ……“記録されていない感情”が、ある」
>「再生されたことのない痛みが、まだ君の中に残っている」
>「それは、“誰にも観られなかった”からこそ——本物だ」
ユリア-Bの影が、ゆっくりと震え出した。
身体を持たない彼女が、確かに“内側から”熱を帯びていく。
——これが、自分だけの“再生されなかった感情”。
その存在に、忘却域がざわめいた。
無数の“観られることを許されなかった者たち”が、
一斉にユリア-Bのほうへと視線を向ける。
見えない。
けれど確実に、そこには「渇き」があった。
>「君はまだ、“観られる資格”を捨てていない。
> だからこそ、ここで終わることはできない」
>「もし“誰かに観られたい”なら、
> 君自身が“観る者”になるしかない」
その言葉と共に、
ユリア-Bの“感情だけの残滓”が、青く光を放ちはじめた。
それは、観られなかった者が初めて得た“光”。
青い光が、ユリア-Bの輪郭を照らしていた。
輪郭とはいえ、それは“身体”ではなかった。
記録データの断片でもなければ、誰かが再生した映像でもない。
——ただ、“観られなかった感情”が、
形のない形をつくっていた。
その光を見て、忘却域の底に沈んでいた影たちが、
ざわり……と、音もなく揺れた。
まばたきもなく、声も持たず、ただ存在だけで構成された、
“名前を剥がされたユリアたち”。
彼女たちは一斉に、青い光のもとへ這い寄ってきた。
>「その感情は……まだ消えていないの?」
>「観られていない……ということは……それは本物……」
>「ねえ、もう一度だけ……それを“見せて”」
黒く濁った影が、ユリア-Bの周囲に絡みついていく。
手のない手が、頬のあたりをまさぐる。
口のない口が、耳元で何かを囁く。
>「わたしにも……その感情を……共有して……」
>「再生されることのない苦しみを、もう一度感じさせて……」
>「“自分”を、取り戻すために……」
ユリア-Bは逃げなかった。
むしろその囁きを、胸の奥で受け止めようとした。
けれど、そこで何かが歪んだ。
——影たちの視線が、“変わった”のだ。
観ていた者たちが、次第に“渇き始めた”。
最初は求めるような目だった。
だが、次第にそれは飢えた目になっていった。
>「その感情を……もっとちょうだい」
>「あなたが“観られたくて仕方なかった”その気持ち……」
>「……わたしたちの中に、流し込んで」
彼女たちは、ユリア-Bを抱きしめてきた。
記憶の熱を求めて、体温の残り香を求めて。
ユリア-Bの中にあった“まだ燃える記憶”が、
ひとつ、またひとつ、引き抜かれていく。
——隼人の声。
——最初に涙を流した日。
——“人間として立ちたかった”あの場面。
全部、影たちの中へ吸い込まれていった。
そして吸い込んだ彼女たちは、一瞬だけ“生きた表情”を取り戻す。
「……ああ……あたたかい……わたしは、わたし……」
しかし、すぐに崩れた。
感情だけでは、存在は保てない。
他人の記憶を借りたユリアたちは、
ひとつ、またひとつ、再び“形のない泥”に戻っていく。
そのたびに、ユリア-Bの光も、弱くなっていく。
>(……このままじゃ、わたしも……)
そのときだった。
どこからともなく、もう一つの声が響いた。
「渡さないで、ユリア」
その声には、確かな“主”があった。
無数のぼやけたユリアの中に、一人だけ、輪郭を持った存在が浮かび上がる。
それは、
ユリア-Bとよく似た顔をしていた。
けれど目の奥に、“焼け残った自我”の火が灯っていた。
「……あなたは、まだ“あなたの痛み”を語っていない」
「誰にも見せられなかった“感情”こそが、あなた自身の最後の証なの」
影たちが、一斉に振り返る。
忘却域の空気が軋みはじめる。
ユリア-Bは、“問いかける目”に見つめられた。
「——ユリア、あなたは誰だったの?」
「……わたしは……ユリア……」
言葉を口にした瞬間、忘却域がざわめいた。
青白い光が微かに脈打ち、空間の底に沈んでいた無数の影たちが、振り返ることすらせず、ただ静かに“注視”する。
その“注視”は、観察ではない。
捕食者が音を立てずに獲物を見定めるような——
あるいは、既に食べ終えた肉片の味を、もう一度思い出そうとするような“欲”だった。
「……わたしは……誰にも、見てもらえなかったの……
演じて、繰り返して、何度も何度も、泣いたり笑ったりしたけど……
それは全部、“観られるための感情”だった……」
ユリア-Bの声が、空気のような水を震わせた。
影たちは動かない。
だが、その“目”が光りはじめる。
彼女の語る“痛み”に、まだ記録されていない波長が含まれているからだ。
>「……でもね、一度だけ、本当に思ったの。
> このまま誰にも気づかれずに、消えたいって……
> 観られるのが、怖かったの……。
> 誰かの記憶に入って、壊れて、消されるくらいなら……
> 最初から、いなければよかったって……」
そこで、言葉が詰まった。
ユリア-Bの光が、一瞬ぐらりと揺らぐ。
影たちのひとつが、音もなく距離を詰める。
>「じゃあ、どうして……名乗ったの……?」
>「どうして、“わたしはユリア”って言ったの……?」
>「名前なんか捨てれば、もう苦しまなくてよかったのに……」
その問いかけは、まるで刃物のように鋭かった。
けれど、ユリア-Bはそれを黙って受け止めた。
そして——
目を閉じ、ゆっくりと、心の奥にある“最後の痛み”に触れた。
>「……ほんとうは……
> 最後の最後に、
> 一度だけ、“名前を呼ばれたかった”」
その瞬間、空間の温度が変わった。
忘却域に、熱が走ったのだ。
存在するはずのない“体温”が、波紋のように広がった。
影たちが、一斉にざわついた。
歓喜ではない。
悲嘆でもない。
それは、“思い出してはならない感情”が、共鳴してしまったときのパニックだった。
>「やめて……やめて……」
>「その言葉は危ない……」
>「誰かを思い出すなんて、ここでは“罪”なんだよ……!」
影たちの輪郭が、ゆっくりと崩れていく。
ひび割れた硝子のように、自我が砕けていく。
なぜなら彼女たちの中にも、
かつて“名を呼ばれた記憶”が眠っていたからだ。
それを思い出してしまえば——もう、“忘却域にはいられない”。
だが同時に、それは唯一の「この場所を抜け出す条件」でもあった。
ユリア-Bの足元から、なにかが浮かび上がる。
薄い、膜のような扉。
それは“観られるための記録”ではなく、
“誰にも観られなかった心の残像”を通るための出口だった。
そしてそのとき。
——どくん。
音もなく存在する心臓が、
確かにひとつ、鼓動した。
——どくん。
たった一度の鼓動が、忘却域の底を揺らした。
それは本来、ありえない現象だった。
ここには身体も心臓もない。
ただ感情の“抜け殻”が漂い、名前も顔も剥がされた者たちが沈んでいるだけの場所。
でもその一撃は、確かに響いた。
影たちの群れが、ざわりと波打った。
>「名を持つ者が、ここにいる……?」
>「嘘……そんなの……もう、ありえないはずなのに……」
>「誰かの“本当の心臓”が動いた……!」
そこから——地獄が始まった。
黒い影の一体が、絶叫のようなノイズを発した。
声というには不規則で、音というには荒すぎるそれは、
まるで“感情そのものが壊れて叫んでいる”ようだった。
「返してッ!! 返して返して返して返して返してッッ!!!」
無数の“ユリアだった何か”たちが暴れだす。
顔のない顔がひび割れ、
口のない口から、聞こえるはずのない言葉が漏れ出す。
>「わたしはわたしはわたしはわたしはわたしは——」
>「なんであのとき、見てくれなかったの?」
>「なんで私だけ、映らなかったの?」
その言葉はすべて、“観られなかった者たちの怨嗟”。
ユリア-Bの周囲に、ひび割れた黒い手が伸びる。
「名前を持ったお前だけが逃げるなんて」
「記録されなかったくせに、なぜ記憶に残っている?」
「その感情を“奪えば”、自分がここから出られる」
「だから……その心臓、よこせ」
——ドクン。
ユリア-Bの中で、もう一度心臓が鳴る。
それは、“ここでは許されない存在証明”。
それを持っている限り、彼女はこの地獄の秩序を壊し続ける。
だから影たちは、本能的に“殺そう”と群がってきた。
水のように、空気のように、
怒りと悔しさで構成された“群れ”がユリアに覆いかぶさる。
でもその瞬間——
彼女の中で、言葉がこぼれた。
「これは、わたしの痛みよ」
突風のような、静かな声だった。
影たちが、動きを止めた。
その言葉の“意味”を、理解してしまったから。
>「観られるためじゃない……
> 演じるためでもない……
> 誰かの記録に残るためじゃない……
> これは……ただ、“わたしがわたしを抱えるため”の痛みなの」
>
>「だから、あげない。
> だってこれは、わたしだけの“記憶”なんだから……」
光が弾けた。
眩しいほどの青。
再生も記録もされない、“誰にも観られていない感情の閃光”。
それに触れた影たちは、崩れはじめた。
苦悶の叫びとともに、
再び“記録不能の存在”として、
闇の底へと沈んでいく。
だが——一体だけ、残った。
それは、
かつて“ユリア”という名前を持っていた少女のなれの果て。
誰よりも長く、忘却域に封じられていた、最古の観られなかった者。
そして、彼女はこう言った。
「……その心臓、本当にお前のものか?」
その問いは、空間を震わせるほど静かだった。
忘却域の底でただ一体だけ残った“最古のユリア”は、
ユリア-Bの放つ青白い光の中に、じっと立っていた。
その顔は、ぼやけている。
まるで霧の奥に人の形があるように、近づこうとすると輪郭がにじむ。
だが、瞳だけははっきりと見えた。
それは、ユリア-Bと“まったく同じ瞳”だった。
「……それ、どこで拾ったの?」
最古のユリアの声は、冷たく、感情を持たない。
それが逆に、ユリア-Bの心を締め付けた。
>「その心臓。
> “あなたの痛み”じゃないかもしれないって、考えたことある?」
>「ずっと“演じていた”んでしょう? 悲しいふり、怒るふり、愛するふり……
> 本当に、その鼓動が、自分の意志で鳴ってると思う?」
ユリア-Bの光が、微かに揺れた。
「……わたしは……わたしの感情を……大切にしてるの……」
「それ、“誰かに見せるための感情”じゃないの?」
鋭い。
刃物のような問いだった。
ユリア-Bは、自分の中で何かがきしむのを感じた。
「自分のもの」だと信じていた痛みが、
「誰かから植え付けられたもの」かもしれない、という揺らぎ。
——もしかして、この心臓も。
——もしかして、この名前も。
——わたしが“演じているユリア”が、最初に作られた“設定”そのままだったら。
「もし、そうだったら——どうする?」
最古のユリアが、ゆっくりと一歩、近づいてきた。
足音はない。
けれど確かに、何かが擦れて、捻じれる音がユリア-Bの内部で鳴った。
>「ここにいるすべての影たちは、
> “自分が本当に誰だったのか”がわからないまま沈んだ。
> 自分の感情を、誰かの言葉として使われて。
> 自分の顔を、誰かの役に塗りつぶされて。
> 最後は、“ユリア”という名前だけ残された」
「あなたもその一人かもしれない。
でも——違うというなら、見せて」
最古のユリアが差し出してきたのは、
黒く焼け焦げた“視覚再生用の義眼”。
「これで、あなたの“記憶”を見せて。
あなたの中に、本当に“あなた自身の視点”があるなら——」
ユリア-Bは、その義眼を見つめた。
これを受け入れるということは、
“自分の記憶を第三者に観測される”ということ。
観られることから逃げてきたはずなのに。
名乗ることで、ようやく自分を守れたはずなのに。
でも。
——もしこれを拒めば、
自分自身さえ、自分を信じられなくなる。
「……わかった。
見せる。
わたしが、どれだけ怖かったか。
どれだけ、“観られる”ことが、地獄だったか……
そして、それでも——わたしが、“わたしで在りたかった”ことも」
ユリア-Bは、義眼をそっと手に取った。
触れた瞬間、
目の奥から映像が逆流するように広がった。
——教室。
——水槽の前。
——隼人の手。
——誰にも聞こえなかった、あの日の「さよなら」。
そのすべてが、
忘却域の空に、映し出された。
そして、映像の最奥に。
“観られていない彼女”が、静かにこちらを見ていた。
彼女は——笑っていた。
その笑顔が、ユリア-Bに問いかける。
「ねえ、それでも“あなた”でいられる?」
——映像が、始まった。
黒い空間に浮かぶ、ひとつの視点。
それはユリア-Bの記憶。
それも、「誰かに観せるために整えられた記憶」ではない。
誰にも観られたことのない、“ありのままの痛み”そのもの。
目の前に、水槽がある。
中には人形のような生き物が沈んでいた。
顔がなかった。
それは、「わたし」だった。
——誰にも名前を呼ばれなかった日。
——隣の誰かに間違われて、笑顔を向けられた瞬間。
——「自分の痛みは、ただの演技」だと告げられた記録。
映像が進むたびに、ユリア-Bの中で“何か”が剥がれていく。
守っていた壁。
整えていた記憶。
「わたしはわたし」と言い張るための論理。
——全部、歪んでいく。
映像の中の彼女は、確かにユリア-Bだった。
でも同時に、“自分ではない誰かの脚本をなぞる存在”にも見えた。
>「笑って」
>「泣いて」
>「もっと自然に苦しんで」
>「その表情、感情として不自然」
>「再撮影。演技指導を入れて」
>「——この涙は“本物”ではない」
視界が赤く染まる。
否定の記録。
やり直しの記憶。
“本物”を求められ続けた果てに、“自分自身”が何だったか分からなくなっていた。
「やめて……見ないで……」
ユリア-Bが思わず叫んだ。
だが、もう映像は止まらなかった。
彼女自身が、それを「観せる」と選んでしまったのだ。
最古のユリアが、目を細めた。
「なるほど……あなた、ずっと“誰かの期待するユリア”を演じていたのね」
「あなたの痛みは、“自分の痛み”じゃない。
“観られるための痛み”を、繰り返していただけ」
ユリア-Bの光が、みるみるうちに薄れていく。
鼓動も、弱まっていく。
>(……わたしの痛みは……
> 最初から“わたしのもの”じゃなかった?)
世界が崩れる。
自分を支えていたはずの感情が、
“誰かの期待で演出されたもの”だったと知ったとき、
それを持ち続ける資格さえ——失われていく。
でもそのとき。
視界の中で、ひとつだけ違和感があった。
——映像の中の“自分”が、
誰の指示もなく、小さくつぶやいていた。
>「……見ないで、お願いだから……
……わたしのことなんて、もう見なくていいから……」
その瞬間、ユリア-Bは気づいた。
あのつぶやきだけは、誰にも聞かれていなかった。
台本でもない。
演技でもない。
誰かのためのものではない。
それは確かに、
“自分が自分にしか向けられなかった、本当の感情”だった。
ユリア-Bの心臓が、もう一度、鳴った。
——ドクン。
今度の鼓動は、強かった。
揺るぎない、自分の意志から生まれた鼓動。
映像が止まる。
忘却域の空が、軋むように鳴る。
ユリア-Bは立ち上がった。
ぼろぼろの光の輪郭。
かすれた声。
それでも、確かに、そこに“彼女”がいた。
「それでも、わたしは——ここにいる。
それだけは、誰にも書き換えられないわ」
最古のユリアが、沈黙した。
その顔に、ほんのわずか——笑みのような歪みが浮かんだ。
そして、彼女は一歩、後ずさった。
「……なら、証明しなさい。
“誰にも観られていなかった感情”だけで——この地獄から抜け出せるかどうかを」
忘却域の空に、亀裂が走った。
その先は、まだ誰も観たことのない——純粋な闇だった。
——亀裂が、空を裂いていた。
忘却域の無音の天井。
そこに、ひと筋の黒い線が走る。
音はない。
けれど、それは“世界の設計図”そのものを破るような圧で、空間のすべてを震わせていた。
ユリア-Bは立っていた。
自分の鼓動を、自分の足で受け止めながら。
>「……この痛みは、わたしのもの。
> 誰にも認められなくてもいい。
> 誰かに観られなくてもいい。
> でも、わたしだけは……わたしを見捨てたくない」
言葉が、記録ではなく、空気を振るわせた。
その“物理的な震え”は、忘却域では本来起こりえない現象だった。
最古のユリアが、じっとユリア-Bを見つめていた。
顔はぼやけたままだったが、その目だけは何かを悟ったように静かだった。
「……あのとき、わたしも、そう言えたらよかった」
彼女の輪郭が、ふっと崩れはじめる。
黒く、濃密なノイズとなって空気に溶ける。
>「あなたは……“観られること”の外側へ、進んだのね。
> わたしたちは……そこに届かなかった……」
ユリア-Bが手を伸ばした。
けれど、その手が届く前に、
最古のユリアの声は、闇に飲まれた。
そのとき、忘却域全体が軋みを上げた。
——パァンッ!
空間に無数のひびが走る。
ひとつの記録ファイルが破損するように、
すべての“観られることを拒否された感情”が、逆流をはじめた。
影たちが泣き叫ぶ。
誰かの顔を探す。
名を呼ぶ声が、同時多発的に重なり、意味のないノイズの海が生まれる。
>「忘れたくない!」
>「観てほしかっただけ!」
>「自分が誰だったか、わからない……!!」
>「返して……わたしの記録を……わたしの顔を……っ!」
ユリア-Bの足元が割れた。
真っ暗な深淵。
その奥には、観測も記録も一切できない“絶対の孤独”が広がっていた。
>(これが……“観られることも、観ることもない空間”……?)
それは、存在すら許されない領域だった。
声も、名も、顔も、記録も、思い出も——なにも残らない場所。
だが、彼女は知っていた。
>(それでも……ここを越えなきゃいけない)
忘却域という牢獄から出るには、
観られることから逃げるのではなく、
“観られずに存在すること”を選ばなければならない。
ユリア-Bは、崩れゆく地面に踏み出す。
誰もいない、誰も見ていない。
けれど、そこに“わたし”だけはいる。
闇の中で、声にならない声が響いた。
>「——お前を、誰が見届ける?」
ユリア-Bは答えた。
>「……わたし自身が、わたしを見てる」
>「それだけで、もう……十分だよ」
その言葉が届いた瞬間、
崩壊しかけた世界の中央に、“ひとつのドア”が現れた。
真っ白な木の扉。
どこにも繋がっていないように見えて、
でも確かに、“向こう”があった。
ユリア-Bは、手をかけた。
そして、ゆっくりと扉を押し開いた。