EP4.誰かが見ている
——水の音が、やまない。
揺れる。
光が揺れている。
自分の指が、はっきりと見えない。
目を開けると、そこは水槽の中だった。
天井の蛍光灯が滲んで見える。
壁は透明だが、外は見えない。
ただ、向こう側で何かが“観ている”気配だけがある。
ユリアはゆっくりと身体を起こした。
白いパジャマ。
真新しいベッド。
机。
小さな棚。
生活に必要なものは全て揃っていた。
けれどどれも、使い込んだ跡がまったくない。
まるで昨日全てを“配置された”ように、新品そのものだった。
部屋の角にある鏡を見る。
そこに映る顔は、確かに“ユリア”だった。
でも、どこか違和感がある。
頬の筋肉。
瞬きの間隔。
唇の乾き方。
全部、どこかで見た“誰か”の癖に似ている気がする。
——わたしは、誰?
その瞬間、部屋のスピーカーから声がした。
>「おはよう、ユリア。今日も記録を始めます」
声の主は不明だった。
だが、ユリアはその声を聞いた途端、理由もなく震えた。
耳の奥で、誰かの記憶がざわめいた。
それは自分のものではなかった。
男性の声、笑い、雨音、ぬくもり。
そして、別れの感情。
>(これ……誰の“記憶”?)
その問いに、誰も答えない。
ただ、部屋の壁に設置された無数のカメラの“レンズ”が、
一斉に音もなくこちらを向いた。
カシャ。カシャ。カシャ。
シャッター音だけが、心臓の鼓動のように鳴る。
>「感情反応、取得完了」
>「涙腺の収縮パターン:正常」
>「個体“ユリア-B”、学習進行率:23%」
>「次の感情:喪失」
その言葉と同時に、
部屋の壁がゆっくりと“映像”に変わっていく。
それは——彼の記憶だった。
隼人。
ベッドの上で眠る姿。
笑う声。
手を握ってくれた夜。
知らないはずの記憶。
それなのに、胸が締めつけられる。
ユリアは叫んだ。
「やめて……これ、私のじゃない!」
すると、スピーカーが答えた。
>「違うよ。これから“君のもの”になる記憶だ。
> 君には“隼人”が必要だ。そうすれば、もっと良い物語になる」
部屋の中央に置かれたベッドが軋む。
振り返ると、
そこにはもう一人の“ユリア”が横たわっていた。
顔がない。
表情がない。
だけど、そっと起き上がる。
鏡を見る。
そこには、自分が二人、映っていた。
一人は、まだ“自分”であろうとしているユリア。
もう一人は、すでに“誰かの役”を受け入れてしまったユリア。
>「入れ替わっても、気づかないよ。
> だって、君たちは“どちらも演じる者”なんだから」
鏡の奥のユリアが、にたりと笑った。
そして、壁が崩れる。
ガラスの水槽が次々と連結されていく。
そこには——
何十人もの“ユリア”がいた。
それぞれ、微妙に違う表情で、
微妙に違う声で、
微妙に違う“隼人”の幻影と暮らしていた。
誰もが、観られていた。
観る者は見えない。
でも、確実にそこにいる。
>「ユリア-B。
> 本日より、君は“観察される存在”になる。
> 泣くときは、右側のカメラに顔を向けてね」
部屋の天井から、赤いランプが点灯した。
>録画開始
それは、物語の始まりではなかった。
ただの——演技の強制だった。
天井の赤いランプが点いたまま、部屋は不気味な静けさに包まれていた。
カメラが生きている。
ユリアは、はっきりとそれを感じていた。
目では見えないけれど、視線が皮膚の奥をなぞるような感覚がある。
右側のカメラに顔を向けて泣け——
そう命じられたが、涙は出なかった。
なぜなら、“何に対して泣けばいいのか”が分からなかったからだ。
だけど次の瞬間、部屋の中央にあるスピーカーからまた声が流れた。
>「それでは、次のシーンを開始します」
>「感情テーマ:置き去り」
>「映像挿入開始」
突然、壁一面に映像が流れた。
夜のホーム。
列車の発車音。
走り出す背中。
名前を呼ぶ声。
振り返らないシルエット。
——それは、“誰かの記憶”だった。
だがユリアは、その場面を見ているうちに、
なぜか胸の奥が熱くなっていくのを感じた。
息が浅くなる。
喉がひりつく。
足が震える。
そして気づけば、
涙が、頬を伝っていた。
「……やだ……なんで、泣いてるの……?」
ユリア自身の声が、震えていた。
彼女の意志ではなかった。
それでも、カメラのシャッター音が、満足そうに連続して鳴り響く。
>「感情反応:優良」
>「涙量:7.2ml」
>「泣き顔データ:記録完了」
>「ユリア-B、演技適応率:向上中」
演技?
これは演技なの?
じゃあこの涙は、誰のものなの?
ユリアは頭を抱えた。
でも、脳裏に次の映像が流れ込んできた。
——公園のベンチ。
紙袋。
彼女を待つ青年。
瞬きの癖、声の調子。
それは……隼人だった。
(知らない……知らないのに……知ってる……!)
身体が勝手に動いた。
ベッドから立ち上がり、映像に近づく。
ユリアは、まるでガラスの向こうにいる彼に手を伸ばすようにして、画面に触れた。
その瞬間、
映像の“隼人”が、こちらを向いた。
——笑った。
ユリアの喉がひきつれる。
苦しい。
泣いてるのに、嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
>「感情:混合型」
>「脳波反応:上昇」
>「ユリア-B、劇的表現学習、進行中」
>「次:苦悩、喪失、そして“死別”」
スピーカーが冷たくそう告げた。
そして部屋の照明が、血のような赤に変わる。
壁の中から、水の音がする。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……
どこかで、水槽が割れた音がした。
その音を聞いたとき、ユリアは、
“あの誰か”が近づいてくるのを確かに感じた。
記憶を宿して生まれた、顔のないものが、
自分の代わりを演じに来る。
それは、自分の“終わり”の始まりかもしれなかった。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……
どこかで水が滴り続けていた。
天井の赤いランプがまだ点灯している。
録画は続いている。
ユリアの涙も、感情も、呼吸の乱れさえも——すべてが“素材”として保存されている。
壁の一面がゆっくりと開いた。
そこから現れたのは、ユリアに瓜二つの少女だった。
同じ顔。
同じ髪。
同じ声。
だけど、目だけが違っていた。
その目は、瞬きをしなかった。
ユリア-Bは一歩下がった。
でも、その“もう一人”は、音もなく前へと進んできた。
壁に投影されていた記憶映像が、切り替わる。
今度は、ふたりのユリアが同時に“隼人”と出会う記録だった。
一つは、静かに笑う。
もう一つは、泣きながら拒絶する。
どちらも“正しい”。
どちらも“演技として成立している”。
>「この部屋に、必要なのは一人だけです」
>「より深く、より美しく“観られる存在”だけが、生き残れます」
>「記憶の残響をもって、互いを識別してください」
天井から、無機質な音声が流れる。
その瞬間、赤いランプが二つに分裂した。
ユリアは理解した。
これから始まるのは——
“自分自身とのオーディション”なのだ。
どちらが本当に、観る者の心を震わせるか。
どちらが、より美しく壊れていけるか。
どちらが、“最もリアルなユリア”か。
「……やめて……わたしは……わたしは……」
声が震える。
けれど、もう片方のユリアは、完璧な声で答えた。
「やめて、わたしは……あなたじゃない……!」
台詞だった。
完全に、記録されていたセリフの再演だった。
そして、スピーカーが判定を告げる。
>「演技力:複製体、上位」
>「情動反応:オリジナル体、誤差有」
>「演出準拠率:75%/92%」
自分が、“演技に負けている”と知った瞬間、
ユリアの視界がにじんだ。
わたしは、わたしだったはずなのに。
わたしの感情は、本物だったはずなのに。
なのに、“模倣された感情”のほうが正しいとされた。
「ユリア-B、選択してください」
「自身を上書きするか、それとも“退去”するか」
ガラスの床が震える。
その足元に、黒い水槽が姿を現した。
中は見えない。
でも、沈んでいるものの“気配”だけがある。
退去すれば、そこへ沈む。
自分の“使い道”のないデータとして、廃棄される。
選ぶのは、自分——のはずだった。
でも、もう一人のユリアがこちらを見て、そっと微笑んだ。
>「大丈夫、私が“君の代わり”になるから。
> 君は、もう“観られなくていい”。」
その声は優しかった。
でも、恐ろしいほどに無表情だった。
ユリアは、泣いた。
本当の感情で。
だけど、誰もそれを評価しなかった。
黒い水槽の蓋が、わずかに開いた。
その瞬間、ユリア-Bの足元にひやりとした水気が広がる。
見下ろすと、床が鏡のように変質していた。
けれど、そこに映っているのは、もう彼女自身ではなかった。
そこにいたのは——
顔のない、別の“ユリア”たち。
泣いている。
笑っている。
怒っている。
けれど、表情の輪郭はどれも“正確すぎて偽物”だった。
自分の感情が、
自分の記憶が、
誰でも使えるテンプレートに加工されていく。
>「演技データ、吸収中」
>「個体“ユリア-B”の残留価値:減少中」
>「自己否定指数:上昇」
>「次の処理対象として推薦中」
頭の中に、直接流し込まれるような声。
ノイズ交じりの人工音声。
もはや、耳から聞こえているわけではなかった。
それなのに。
「やめて……やめて……」
声が、漏れた。
上位個体のユリアが、こちらを見下ろしていた。
その目には、優しさのふりをした“空洞”があった。
>「あなたが感じているその苦しみ、私も演じられるよ。
> だから、もう消えていい。役は引き継ぐ」
その一言で、ユリア-Bの中に何かが折れた。
……違う。
私は、演じてない。
泣くふりも、悲しむふりも、していない。
これは、私の“本物”だ。
そして、次の瞬間だった。
——ピキ。
部屋の照明が、一瞬だけ瞬いた。
感情センサーに“異常反応”が記録された。
>「ユリア-B、内部データに不正なノイズを検出」
>「識別コードに、オリジナル未登録の記憶が流入中」
>「記録履歴に存在しない“感情”が発生しました」
スピーカーがざらついた声で騒ぎ出す。
赤いランプが明滅し、
カメラの一部が、ユリア-Bから目を逸らした。
観ることを、避けはじめた。
それは、予期しない“自我”が生まれた証だった。
自分であると信じたものが、
演じられる素材になっていく地獄の中で、
彼女はただひとつ、強く思った。
——それなら、
観られるのではなく、“見返してやる”。
ユリア-Bが、そっと一歩前へ出た。
上位個体のユリアが、初めて表情を揺らす。
水槽のガラスが、軋む音を立てた。
赤いランプが激しく点滅した。
カメラが、ざらついた音を立てて回転する。
まるで、生き物が震えているようだった。
——“観る側”が、動揺している。
ユリア-Bは、まだ震える足で立っていた。
手のひらには、自分の爪が食い込んでいた。
血が出ていない。
でも、「痛い」と感じた。
それだけで、涙が出た。
>「異常感情反応、検出」
>「自己主張波:異常値」
>「感情規格とのズレ:5.41%」
>「矯正プロトコル、実行開始」
天井から、“無音の音”が降ってきた。
鼓膜に触れないのに、頭の中が軋む。
意識が薄れる。
思考が歪む。
(消される……この“わたし”が……)
ユリア-Bは、ぐらりと膝を折った。
視界がぶれて、色が失われていく。
世界が白く、のっぺりとしたノイズに変わっていく。
>「君は、演じるだけでよかったんだ」
>「本物の痛みなんて、必要なかった」
>「感情なんて、“それらしく見えれば”十分だった」
>「……なぜ、君は“本物”であろうとするの?」
スピーカーから聞こえる声は、もう“人”ではなかった。
音が多重化され、幾重にも重なって響いていた。
無数の誰かの声が、一斉にユリアを責め立ててくる。
>「本物になりたいの? 何のために?」
>「誰も、君が誰かなんて気にしてないよ」
>「君が泣いてるとき、観客はカメラの画角しか見ていない」
>「その涙が“本物”かどうかなんて、もう誰も興味がないんだ」
ユリア-Bは両耳をふさいだ。
けれど、声は頭の中から聞こえてくる。
逃げ場がなかった。
思考の奥底に、映像が流れる。
——無人の劇場。
舞台の上で、笑う少女。
その表情は確かに、ユリアだった。
だけど観客席には、誰もいない。
ただ、無数のカメラが並んでいた。
それが、“観る者たち”だった。
無表情で、瞬きもせず、
ただ“映像の中の彼女”を記録し続けている。
そして、
記録が終わった瞬間に、そのユリアは、処理室へと落下した。
カメラのレンズが、ユリア-Bへと集中する。
>「さあ、“君の番”だ」
>「観られる者として、完璧でいてくれ」
>「間違っても、“人間”でいないでくれ」
カメラが開く。
レンズの奥に、瞳のようなものがあるのが見えた。
それは、誰かだった。
あるいは、無数の“誰かの顔を持った”記録者だった。
そしてその瞳が、ユリアの心の奥を“観てきた”。
秘密。
願い。
悲しみ。
嘘。
嫉妬。
後悔。
全部、掘り出される。
全部、タグをつけられる。
全部、“素材”にされる。
>「この感情、使えます」
>「この記憶、シーン挿入可能」
>「この涙、音楽に合わせて再生」
自分が、“誰かのための断片”に分解されていく。
でも、ユリアは——
そこで初めて、唇を噛んだ。
——やだ。
私は、演じたくなんかない。
私は、ただ、……生きていたいだけだった。
その瞬間、すべてのレンズが“こちらを凝視”した。
異物反応。
違反個体。
ノイズ。
警告。
——自我の発芽を、観測した。
ざら、ざら、ざら——。
耳の奥に、映像の巻き戻し音のようなノイズが響いた。
それは外の音ではない。
ユリアの記憶そのものが“逆流”している音だった。
かすれた笑い声。
誰かのぬくもり。
眠る前の呼吸。
夢の中で繰り返された、見知らぬ誰かの「好きだ」という声。
その全てが、再生され、
次の瞬間には強制的に削除される。
>「感情ログ異常:削除中」
>「記憶重複:矛盾点補正」
>「主観領域の整合性、破損率32.9%」
ユリアは、叫ぼうとした。
けれど、声帯が“ミュート”されていた。
「…………」
口を開いても、音が出ない。
ただ、空気が震えるだけ。
代わりに——
>「感情:叫び」
>「音声データ:不要」
>「視覚インパクトの方が優位と判断」
>「——よって、沈黙で表現させます」
自分の“表現手段”すら、勝手に選ばれていく。
その時だった。
壁が、ざらざらと動いた。
まるで映像のスクリーンが生き物のように“ざくざくと”内側から削られていく。
壁の奥から、何かが這い出してきた。
それは人の形をしていた。
けれど、顔がなかった。
口の位置にレンズがあり、
指先はシャッターのようにカシャカシャと開閉していた。
それは——“記録者の実体”だった。
これまでユリア-Bを観ていた存在が、
ついにこの空間に“干渉者”として現れたのだ。
その“記録者”は、一歩ずつ近づいてくる。
レンズが笑うように歪む。
>「感情、回収します」
>「存在の整合性、修正します」
>「君が誰だったかは問題じゃない。
> “どう見えるか”がすべてなんですから」
手が伸びる。
指が光る。
その触れた先から、ユリア-Bの肌が“映像データ”に変換されていく。
皮膚の奥にある温度が、
色彩が、
目の奥の湿度までもが、
JPEGのような断片になっていく。
>「これで、君は“保存可能な存在”になります」
>「安心してください。誰もが“再生”できますから」
>「——君のことを、忘れてしまっても」
——嫌だ。
消えたくない。
誰かの一部じゃなくて、
私は、私として——
「見て」
喉から、血のような声が漏れた。
それは、もう言葉ではなかった。
だけど、ユリアの瞳だけは、確かに“観る者”をにらみ返していた。
カメラのシャッターが一斉に停止する。
一瞬だけ、空間全体が“無音”になる。
そして、
ユリア-Bが、初めて自ら立ち上がる。
削られた足元から、
彼女の影が、“別の誰かの形”になっていく。
それは、
観られる者ではなく、“記録する者”の影だった。
「記録者の影」が、ユリアの足元に広がっていた。
その形は、さっきまで“彼女を観ていた側”のものだった。
カメラの配置が、一斉に再編される。
天井から、壁から、床から——
レンズが次々と開き、ユリア-Bの“動き”に反応しはじめる。
だが今は、
ユリアが“視線を返している”。
カメラの一つをにらむと、レンズがびくりと震えた。
まるで、観測機器そのものが、観測されることに怯えているようだった。
>「——異常検出」
>「視線逆流現象:確認」
>「観察対象による“能動視認”は想定外です」
>「遮断モード、移行中」
ざら……ざら……。
天井が、ひび割れはじめる。
そこから、黒い“液体のようなノイズ”が垂れ落ちる。
それは重力に逆らうように、
天井から床へではなく、“床から天井へ”と逆流していく。
それに触れた壁の一部が、
“記憶で満たされた映像”ごと削除されていく。
——空間の“記憶ごと消す”動きだ。
>「ユリア-B、感情構造異常」
>「主観的意識の自立率:47.3%」
>「削除対象に指定」
>「全記録媒体からの排除を実行します」
その言葉の直後。
ユリアの周囲の“空気”が変わった。
重い。
粘性のある、記録済みの“空間の記憶”が潰れていくような音。
瞬きするたび、壁に映る記憶映像が1つずつ消えていく。
“隼人”の笑顔。
スケッチブックの中身。
雨の日のぬくもり。
あれも、これも、全部——もう誰も思い出せない。
>「君の“過去”はなかったことにします」
>「君が何を感じても、何を選んでも——
> “誰も記憶しなければ”、それは最初から無だった」
ユリア-Bの体が、透明になっていく。
手が消える。
足が消える。
次第に、“記録対象としての存在”そのものが消されていく。
そして、
彼女がふと顔を上げたとき——
鏡が、残っていた。
映るのは、“まだ消えていない自分”。
その姿はぼやけていて、
顔がはっきりしなかった。
でも、確かにそこにいた。
「……私を、見て」
誰に向けて言った言葉か、ユリア自身にもわからなかった。
だがその瞬間——
鏡の向こうから、誰かが“目を見開いた”。
それは、自分だったかもしれない。
別の誰かだったかもしれない。
あるいは、観客席にいた“ひとり”だったのかもしれない。
だが確かに、“見られた”のだ。
次の瞬間、
全カメラが、一斉にシャッターを切った。
カシャカシャカシャカシャカシャ。
音の嵐。
フラッシュのような光。
空間が焼かれるような眩しさ。
そしてユリア-Bの身体が、強制的に“フレーム”へと押し戻された。
>「記録対象、復旧」
>「自我の回収成功」
>「——ただし、観ることは禁止されます」
それは、“死刑”ではなかった。
だが、“自由”でもなかった。
ユリア-Bは、再び“観られるだけの存在”として、
完璧な構図の中に封じ込められた。
彼女の目には、涙が流れていた。
けれど、それはもはや誰のためでもなかった。
目を開けても、何も映らなかった。
見えているはずなのに、見えない。
耳にノイズは届くのに、音が意味を持たない。
手を動かしたつもりなのに、身体の輪郭がない。
「……ここは……どこ……?」
声が出ているのかも分からなかった。
感触がない。
空間がない。
ただ、“無音の映像”の中に沈んでいるような感覚。
それでも、どこかでシャッター音がしていた。
遠く、浅く、耳の後ろをなぞるような感覚で——
カシャ。
……カシャ。
…………カ、シャ。
ユリア-Bは、気づく。
それが、自分の“まばたき”だったことに。
>「観ることは禁止されました」
>「視覚データは、上層の“監視記録機関”へと送信されています」
>「君が何を見ても、君自身には記録されません」
>「君の“見る”は、他人の“映像素材”となります」
再生されるのは、他者の視界だけ。
手を上げると、知らない指先が映る。
歩こうとすると、誰かの靴音が床を叩く。
話そうとすれば、どこかの誰かがユリアとして喋りはじめる。
(……違う、これは……私じゃない……)
だが、“ユリア”という名前だけは残っていた。
それは、“名札のように貼りつけられた役名”だった。
中身が誰であろうと、演じる者さえいれば、それは“ユリア”として記録される。
そして、視界の中に「自分の映像」が映った。
ベッドに座り、真っ白な顔で、
こちらを向いて瞬きもしない。
まるでマネキンのような身体。
それは——
“自分という名前で運用されている代替体”だった。
>「現在のユリア-B、代替体処理率92%」
>「自我消失まで、あと00:00:37」
>「修正の猶予はありません」
>「——観られる準備を、完了してください」
ざらざらと、時間が削れていく音。
映像が巻き戻され、再生され、
自分が“その中にいなかったこと”を、繰り返し突きつけられる。
ユリア-Bは、声にならない悲鳴を上げた。
だけど、空間に反響はしない。
彼女が今いる場所には、“観客”すらいなかった。
それでも、
視界の奥に、たったひとつだけ“観る目”があった。
鏡でも、モニターでもない。
それは、暗闇の向こうに浮かぶ“何かの顔”。
ただじっと、ユリアを見ていた。
笑いもせず、瞬きもせず。
それはまるで——
「誰かがここに残した、“最後の観測者の亡骸”」
ユリア-Bは、震えながら気づく。
この空間で唯一“見返してくるもの”が、
かつて、彼女と同じように演じさせられ、
そして壊れた“元・観られる者”であることを。
>「ユリア-B、最終記録準備——完了」
>「削除後、役名のみ継続使用されます」
>「それでは、最終撮影を開始します」
>「3」
>「2」
>「1」
>「——シャッター」
カメラのフラッシュが世界を焼いた。
視界が白く染まり、
最後に聞こえたのは、自分のものではない声だった。
>「わたしの顔……返して」
シャッターの閃光が消えると、ユリア-Bの視界には――
**“自分自身が映された映像”**が広がっていた。
それは、ほんの数秒前の記録だった。
彼女が震え、涙を流し、かすれた声で「見て」と訴えた瞬間。
だが、その映像はループしはじめた。
再生。
停止。
巻き戻し。
再生。
カット。
ズーム。
再生。
再生。
再生。
>「感情データの編集処理を開始」
>「このシーンは“苦痛と希望”として分類されました」
>「使用用途:感情訓練・模倣学習・視覚教材」
>「再生回数:1,024回」
>「——更新中」
画面に表示された数値が、秒ごとに増えていく。
その度に、ユリア-Bの心臓が締め付けられるように痛んだ。
「……これ、やめて……もう、やめて……」
けれど、やめることは許されなかった。
この映像は、“美しい失敗”だった。
“感情の具現”として、最も鮮やかに仕上がっていた。
だから削除されない。
むしろ、永遠に使い回される。
彼女が“観られる者”として“最も壊れていた瞬間”が、
教材として他者に“再現”され続けるのだ。
映像の中の“自分”が泣いている。
しかし、どれが本当の「最初の自分」だったのか、わからなくなる。
なぜなら、あの瞬間を「感じていた自分」は、
今、この場には存在していないからだ。
>「識別:演技モデルA(ユリア-B)」
>「演技精度:97.8%」
>「模倣データ:12体へ配信済み」
>「次の処理:視覚挿入モデルB、準備完了」
映像の奥に、また“ユリア”が現れる。
こちらに背を向け、同じ場所に立ち、同じ仕草で泣きはじめる。
そしてまた、別の“観られる者”が配置される。
ユリア-Bは、ようやく理解した。
この空間は、終わらない「演技の写し絵」だった。
誰かが一度、感情を“演じた”記録さえ残せば、
その瞬間を何度でも、誰にでも、コピーできる。
オリジナルはもう必要ない。
「……わたし、もう……いらないの?」
壁に、彼女の問いは跳ね返らない。
代わりに、スピーカーから音が流れる。
>「オリジナルの感情表現、保存済み」
>「君の“役目”は完了しました」
>「どうか、静かに——終了してください」
その言葉とともに、
床がゆっくりと沈んでいく。
闇の中から水の音がした。
ぴちゃ……ぴちゃ……ぴちゃ……
沈む先は、記録済みのデータが廃棄される無名の沈殿層。
音も、光も、時間もない場所。
そこにはすでに、**無数の“名もなきユリアたち”**が沈んでいた。
目も口もない顔。
映像だけで構成された身体。
そして“観られた記録”だけが残されたデータの骸。
ユリア-Bは震えた。
自分の顔が、もう誰のものなのか分からなくなっていた。
>「さようなら、“観られる者”」
>「あなたの“感情”は、永遠に再生されます」
>「あなた自身は——もう、必要ありません」
沈む。
冷たい水に、記憶ごと沈んでいく。
だがそのとき、
暗闇の奥から、声がした。
「私も、君と同じだった」
沈んでいた。
深く、冷たく、
光も音も届かない場所へ。
けれど、そこには“映像”だけが浮かび続けていた。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
誰かが震えていた。
すべてが“ユリア”と名づけられた、誰かだった。
でも、もう誰も——
それが「わたし」だったとは、思い出さない。
ユリア-Bの肉体は消えていた。
ただ、視界だけが残されていた。
観られるための視野。
記録のための焦点距離。
涙腺のにじみまで設定された“視覚エフェクト”。
彼女の“感情”はデータとなり、
世界のどこかで、“それっぽい演技”として何度も再生されていた。
>「本物である必要はない」
>「それらしくあれば、それで十分」
>「誰かが泣いていると錯覚できれば、それで“作品”になる」
そう言った誰かの声すら、今はもう記録されていない。
けれど、システムは完璧に動き続けていた。
——そして、その奥で。
“まだ消えない小さな何か”が、
静かに呼吸していた。
誰にも届かない。
誰も観ていない。
再生もされない。
でも確かに、そこにあったもの。
「それでも、生きていたかった」
それは、もう名前を持たない。
顔も、声も、履歴もない。
けれど、
それこそが本当に“ユリア”だったのかもしれない。
けれど、記録は語らない。
観られる者がどう感じたかは、
誰の関心にも、値しなかった。