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EP3.顔のない日々

 朝が来る。

 陽の光が差し込むリビング。

 目玉焼きの香り、テレビのニュース、ユリアの笑い声。

 すべてが“完璧”な、朝だった。


 ただし、それはガラスの向こうでの話だ。


 隼人は、水槽の中から、それを見ていた。


 透明な水の向こう。

 あの小さな生活空間の中で、ユリアと“誰か”が夫婦として暮らしている。


 それは、自分と同じ顔をした「隼人」だった。


 だが、隼人にはわかる。

 あれは、自分ではない。


 ■


 水槽の中にいる。

 声は出せない。

 動くこともできない。

 ただ、視界だけがある。


 その視界に映る日常は、完璧であるほど恐ろしかった。


 食卓に座るユリア。

 新聞を読む偽の隼人。

 夜になれば互いの体温を確かめ合うようにベッドへ潜り、

 「おやすみ」と微笑み合う。


 その間じゅう、ユリアは一度も、水槽を見ない。


 まるでそこに何もないかのように。

 ただのインテリアのように。


 だが、隼人は知っている。


 “あのユリアもまた、本物ではない”。


 彼女の指の関節は一節多い。

 朝になるたび、爪の色が違う。

 笑ったときの口元に、時折、もう一つの口が動く気配がある。


 ——そう。

 ここにいるのは、「隼人」と「ユリア」ではない。


 隼人の顔をした“誰か”と、ユリアの皮をかぶった“何か”が

 “現実のふり”をして暮らしている。


 ■


 水槽の中から見ていると、時折、異変が起きる。


 テレビの画面に、顔のない自分が映る。

 鏡の中に、自分の頭が沈んでいる。

 夜中、照明が揺れた瞬間、ユリアの首が180度回る。


 だが、偽の隼人は笑う。


 「不思議な夢を見たんだ。

  水槽の中で、もう一人の俺が沈んでたって」


 ユリアは笑って答える。


 「……うん。あれ、本当に夢だったのかしら?」


 ——そして二人は、

 同時に、水槽のこちらを見た。


 その顔に、目はなかった。


 ただ、何も描かれていない皮膚の平面がこちらを向いて、

 ゆっくりと歪んだ口だけが、開いた。


「ねえ、そこにいる“あなた”。

次は、あなたの夢の番よ」


 水槽の中に、ぶくぶくと泡が浮かぶ。


 その泡のひとつひとつに、

 過去の隼人の顔が浮かんでいた。


 泣いている隼人。

 笑っている隼人。

 叫んでいる隼人。

 泡となり、割れて、消える。


 でも——


 水槽の中の隼人は、消えなかった。


 だからまだ、終わっていない。


 ——時間が進まない。


 水槽の中では、秒針の音も、夜と朝の切り替わりも、何も感じられない。

 けれど、向こう側の世界は流れている。


 ユリアと“もう一人の隼人”は、今日も食卓を囲んでいる。

 テレビからはニュースキャスターの声。

 カーテンの隙間からは、現実の朝日が差し込んでいる。


 でも。


 彼らの動きが、ほんのわずかに“繰り返されている”。


 スプーンを落とす角度。

 ユリアが笑うタイミング。

 「お味噌、ちょっと薄かったね」の台詞。


 ——昨日も、同じだった。

 ——その前の日も、同じだった。


 “日常”が、ループしている。


 それに気づいた瞬間、隼人は初めて、

 水の中で笑いそうになった。


 >(なんだ、こいつら……ただの“記録映像”か……?)


 そう思った瞬間だった。


 ユリアが、こちらを見た。


 その顔のまま。

 笑顔のまま。

 スプーンを手にしたまま、ピタリと静止して、水槽を見た。


 目が合った。


 ——いや、“目があるように感じただけ”だった。


 その顔には、やはり目がなかった。


 ただの皮膚の上に、笑みだけが張りついている。


 だが、その“視線”は、確かにこちらを捕らえていた。


 そして、次の瞬間。


 部屋全体の時が止まった。


 テレビが静止し、カーテンの揺れが止まり、空気が硬直する。

 そして、偽の隼人もまた、ゆっくりと首だけを水槽の方へ向ける。


 まるで、記録映像の中の人間たちが、“観察されている”ことに気づいた瞬間のように。


 ふたりは、同時に言った。


「……見てるの、わかってるよ」


 隼人の全身に、水とは別の震えが走った。


 どうして……?

 水槽の中にいる自分を、認識できるはずがない。

 ここは“こちら側”。あれは“向こう側”。


 なのに——


 >「そこにいるの、“あなた”でしょ?」


 声が、水の中へと入り込んできた。


 割れないはずのガラスが、音もなく外から指で叩かれた。


 コン……コン……。


 ユリアが、笑っていた。


 目のない顔で、

 自分の中に誰かが入っているように、ゆっくりと口を動かす。


「ねえ……“次”、欲しいのはどんな顔?」


 その問いに、隼人は気づいてしまった。


 ——この水槽は、

 “次の顔”を選ぶための檻だった。


 そして、自分はもう、“見ている”だけでは済まされない。


 「次、欲しいのは……どんな顔?」


 その問いかけに、水槽の内側がわずかに震えた。

 まるで“反応した”かのように。


 隼人の視界が、ふっと暗くなった。


 ——次の瞬間、水槽の外の光景が、変わっていた。


 リビングは変わらない。

 だが、テレビは砂嵐。

 壁に掛けられた時計が、文字盤の代わりに歯が並んでいる。

 カチカチと秒針が回るたびに、歯がカチリと噛み合う音がした。


 ユリアは、いない。


 代わりに、ソファに三人の人影が並んでいた。


 一人は、隼人の中学時代の親友・中沢。

 一人は、昔付き合っていた女・野坂。

 そしてもう一人は——顔のない、自分自身だった。


 いや、“自分”に見えるだけだった。


 三人とも、顔をこちらに向けていた。


 目がない。

 鼻がない。

 口が、ひとつだけ、横に裂けるように開いていた。


 その口が、同時に言った。


「どの顔がほしい?」


 隼人は言葉を失った。

 でも、理解した。


 ——ここは、選ぶ場所なのだ。


 水槽の中の者は、“次”を決める。

 自分の代わりに現実を歩く“顔”を、誰のものにするか。

 それが、水槽の役割。


 そして、選ばれた顔は、現実に出て行き、

 ユリアと“日常”を演じる。

 それが、永遠に繰り返されてきた。


 自分も、かつて誰かに選ばれたのだ。


 「……俺は……」


 口が、勝手に動いた。

 水の中でも、声が届く。


 「……誰の顔を、選んだ?」


 すると、リビングの奥の壁が裂けた。


 内側から、

 自分の母親の顔が、のっぺりと浮かび上がった。


 血の通っていない肌。

 乾いた笑み。

 そして、眼球のない目が、こちらを見た。


 >「——“あなた”だったわよ、隼人。

 > わたしは、あなたを選んだの。

 > ……だから、あなたも、選ばなきゃ」


 ずるり、と顔が壁から剥がれ落ち、床を這いはじめる。


 その瞬間、背後の水が熱を持ち、

 無数の“泡”が一斉に浮かびはじめた。


 その泡のひとつひとつに、

 顔が浮かんでいた。


 泣いているもの。

 笑っているもの。

 絶叫しているもの。

 何もないもの。


 選べ、と言っている。


 誰を、現実に送り出すか。


 誰を、“ユリア”の隣に立たせるか。


 その選択が、次の“日常”を作る。


 そして、選ばれなかった顔は——

 永遠にここで、沈み続ける。


 ——選べ。


 泡のひとつひとつに浮かぶ“顔”たちが、静かに語りかけてくる。


 声がするわけではない。

 目があった瞬間に、直接頭に流れ込んでくる。


「おまえが助けなかったのは、俺だった」

「おまえのせいで沈んだ」

「おまえの代わりに、生きていたかった」

「おまえは、選ばれてなかったはずだ」


 どの顔も、誰かに似ていた。

 だが“確実に知らない”顔ばかりだった。

 それが、いちばん怖かった。


 ——これは、どこかで自分が忘れた人たちだ。


 水辺で見かけた子供。

 深夜の交差点で目が合った浮浪者。

 川沿いのアパートで耳にした悲鳴。

 助けなかった。振り向かなかった。忘れた。


 彼らは、ずっとここにいた。


 そして今、

 そのうちの一人を、現実に送り返せと言っている。


 >「さあ、選んで」


 水槽の外。

 部屋の壁という壁が、すべて“顔”に変わっていた。


 目がぎっしり詰まっている。

 額に、頬に、首筋に。

 そこら中の皮膚に、ぎらぎらと濡れた“眼”が埋め込まれている。


 ——選ばないという選択肢は、ない。


 だってそのとき、隼人の胸の中から、もう一つの“顔”が生えてきた。


 皮膚を割って現れたのは、自分の子供の顔だった。

 産んだ覚えのない。育てた記憶もない。

 でも、どこかで知っている気がする、

 ありえない“息子”の顔。


 「……パパ、ぼくも、出たいよ」


 無垢な声。濁りのない瞳。


 けれどその瞳の奥に、

 飢えた“誰か”の影がうごめいていた。


 >「パパ、ちゃんと選ばないと、ユリアが、また壊れるよ」


 そう言った瞬間、

 水槽の外にいた“ユリア”がバリバリと音を立てて裂けた。


 皮膚が剥がれ、骨が捻じれ、

 その中から、笑いながら拍手する無数の子供たちが飛び出してくる。


 ——顔が、ない。

 けれど、全員が隼人を知っていた。


 >「あのとき、おぼえてくれてたら」

 >「あのとき、逃げずに見ててくれたら」

 >「ねえ、まだ“選ばない”の?」


 水槽の水が、突然、黒く変色した。


 泡が消え、光も消え、

 ただ、黒い水の中に浮かぶのは——


 “自分自身の顔”だった。


 何百も。何千も。


 怒っている顔。

 泣いている顔。

 喰らいついてくる顔。

 そして、笑っている、自分の顔。


 >「隼人、おかえり。

 > こんどは、どの顔になりたい?」


 答えなければ、永遠に沈む。

 答えれば、“次”が始まる。


 それでも、選べというのか?


 どの顔も——

 もう、“隼人”ではなかった。


 黒い水の中で、隼人はゆっくりと手を伸ばした。

 意志ではない。

 反射のようなものだった。

 それは“選ばされる”というよりも、**“選ばせられている”**動きだった。


 ——このまま沈んでしまうくらいなら。

 ——せめて、自分ではない“誰か”を。


 そう思った。


 指先が、ひとつの泡に触れる。

 その泡の中の顔は、ひどく幼かった。

 10歳くらいの少年。無表情。

 だがその目だけが、ひどく澄んでいた。


 「……おまえで、いいのか?」


 隼人が問いかけた声に、

 少年の顔がほんの少し、笑った気がした。


 ——そのとき、世界が割れた。


 バリィィィィン!!


 水槽の外側、現実の空間が裂け、

 床が、天井が、空気が、まるでガラスのように砕け散った。


 代わりに現れたのは、一面の水の原野。


 どこまでも黒く、静かで、死んだような水面。

 その中央に、ひとつの椅子が浮いていた。


 椅子には、隼人が座っていた。


 ——“選ばれた隼人”。


 いや、あれは……さっきの“少年の顔”だった。

 だが、身体は隼人。

 動きも、癖も、笑い方も、隼人そのものだった。


 >「——これで、交代成立だね」


 少年の顔の“隼人”が言った。


 水面がざわめく。


 そこに、ユリアが現れた。


 赤いワンピース。濡れた髪。目のない顔。


 ただ、今回のユリアは、

 首から上が三つに分かれていた。


 一つは泣いていた。

 一つは怒っていた。

 一つは、笑っていた。


 「……どのユリアが、好き?」


 水面に問われた隼人は、答えられない。

 けれど、“選ばれた隼人”は、すぐに答えた。


 >「——どれでもいいよ。もう、顔なんて必要ないから」


 そう言って、

 自分の顔を、ゆっくり剥がし始めた。


 皮膚がぺりぺりとめくれ、筋肉が赤く現れ、

 その下から——もうひとつの顔がのぞいた。


 それは……ユリアの顔だった。


 女の顔。

 目がある。笑っている。

 でも、その笑みは、完全に隼人のものだった。


 >「だって、こうすればずっと一緒でしょ?」


 水槽の中。

 選んだはずの隼人は、動けない。


 泡の中で、別の“顔”たちが、囁いてくる。


 >「ねえ、気づいてた? 最初に選んだ“あなた”が、ユリアだったことに」


 そして、最後に残った泡が割れる。


 その中から浮かび上がったのは、

 **目も口も鼻もない“顔の原型”**だった。


 それが、すうっと隼人に近づいてくる。


 >「さあ……次は、“あなたの皮”が必要なの」


 背後から、手のひらが伸びる。


 冷たい、濡れた手。


 それが、ゆっくりと——隼人の首に触れた。


 濡れた手が、隼人の首に触れた瞬間——

 心臓の音が、ぴたりと止まった。


 音のない世界。

 黒く濁った水の中。

 けれど、手のひらから伝わる“温度”だけが異常に熱かった。


 ゆっくりと、何かが首を這い上がってくる。


 皮膚の内側に指が入り、骨の裏側を撫でていく。

 喉仏の奥で、声ではない“何か”が笑った。


(ねえ、“君の意志”って本当にあったと思う?)


 その囁きが、脳内をかき回す。

 隼人は、答えられなかった。


 選んだはずだった。

 少年の顔。

 誰でもなかった、救いのような存在。


 だが——


 あれは“用意されていた”ものだった。


 自分が見せられた“候補”たち。

 その中に、自分が選ばないはずの顔は、ひとつもなかった。


 全ては、**自分が選ぶしかない“配置”**になっていた。

 思考の揺らぎも、罪悪感も、逃避も、計算されていた。


 つまり——最初から、“選ぶ”という行為すらなかった。


 >「君が動くように、僕が組んだ水槽だよ」


 声がした。

 目の前に現れたのは、少年の顔をした“隼人”。

 いや、もう少年ですらない。

 そこに浮かんでいたのは、“誰かに見せたい隼人”の理想像だった。


 眉の角度、笑い方、声色、全てが“よくできすぎている”。


 >「ありがとう。君が選んでくれたおかげで、僕は“ここ”に出られる。

 > でも、君は気づいてなかったよね。君がここに来たのも、僕が選んだからなんだ」


 隼人は凍りついた。


 >「そう。最初にこの水槽で“顔”を選んだのは、僕。

 > そしてそのとき、君の顔を選んだ。

 > ねえ、それって……なんて素敵な偶然だったと思わない?」


 目の前で、自分の顔をした“少年”が、歪んだ笑みを浮かべた。


 その目が、まるでユリアの目に似ていた。


 「……ユリア……おまえも、最初から……?」


 問いかけた声に、背後から優しい手が触れた。

 振り返ると、ユリアがいた。


 目のない顔。

 でも、そこには確かに“愛しさ”の気配があった。


 >「うん。だって……ここは、私たちで作った家族なんだもの」


 その言葉と同時に、周囲の水がぐにゃりと変形した。


 リビング。

 ベッドルーム。

 食卓。

 水槽の中に、日常の空間が再構成されていく。


 でもそこには——


 すべて“顔のない人形”たちが暮らしていた。


 誰かがコーヒーを淹れ、

 誰かが笑い、

 誰かがテレビの前で欠伸をしていた。


 誰もが“役割”だけを持っていた。


 そして隼人の身体にも、ゆっくりと“顔の膜”が貼りついていく。


 目の代わりに曇ったガラス。

 口の代わりに開いた裂け目。

 鼻のない滑らかな顔。


 それはもう、“隼人”ではなかった。


 >「ようこそ、“顔のない日々”へ。

 > 君も今日から、“誰かのふり”をして生きてね」


 “顔”を貼られた隼人は、歩きはじめた。


 どこへ行くのかは、わからない。

 けれど、誰かが決めたルートを、なぞるように足が動く。

 寝室を通り、風の吹かない廊下を抜け、

 白く塗りつぶされたドアの前で立ち止まる。


 そのとき、ふと気づいた。


 ——音が、ない。


 足音も、息の音も、服の擦れる気配すらない。

 まるで、自分が存在していないような感覚だった。


 隼人は、そっとドアノブを握る。


 冷たい。

 けれど、それは“冷たい”という記憶でしかない。

 皮膚の感覚が、もう曖昧になっている。


 カチャリ。


 ドアが開いた。


 その瞬間、世界が反転した。


 目の前に広がったのは、家の中ではなかった。


 水槽の裏側だった。


 無数の配線、管、ガラスの板。

 冷却システム、音声フィルター、感覚フィードバックの制御機。

 そのすべてに、隼人の名前が刻まれていた。


 >【対象番号:HYT-04】

 >【顔型データ:ユリア初期選択モデル】

 >【役割:観察者→交代→背景】


 思わず後ずさる。

 振り返ると、さっきまでの部屋が——消えていた。


 そこには、巨大な水槽群が並んでいた。


 数えきれないほどの“日常”が、ガラス越しに回っている。


 カップル。

 親子。

 学生と教師。

 兄妹。

 すべてが、それっぽく“暮らしている”。


 けれど、よく見ると——


 誰の顔も、正しくなかった。


 鼻の位置がずれている。

 口が開いたまま閉じない。

 片目しか動いていない。


 それでも、笑っている。

 「いただきます」

 「いってきます」

 「好きだよ」

 台詞だけが、空っぽの声で繰り返されていた。


 >(これが……“日常”の正体……?)


 思考が崩れていく。

 言葉が意味を失っていく。

 だがそのとき、奥の水槽から誰かがこちらを見た。


 それは——本当のユリアだった。


 ガラスの中。

 囚われたまま、傷だらけの身体で、

 助けを求めるように、手を伸ばしていた。


 目はあった。

 たしかに、ユリアだった。

 でも、その隣には——


 何百もの“ユリアの顔をしたもの”が、重なっていた。


 笑うユリア。

 泣くユリア。

 怒るユリア。

 そして、まばたきせずこちらを睨むユリア。


 >「みないで……みないで……」


 本物のユリアが、かすかに口を動かす。


 >「……“あれ”は、見ると、戻れないから……」


 その瞬間、

 視界の端で、“何か”がゆっくりこちらを向いた。


 それは、顔ではなかった。

 頭のない影。

 ただの、形だけの肉塊。


 だが、その“なにか”が——

 明確に、「隼人」としてこちらを見た。


 >(これが……“本物の俺”?)


 違う。

 でも、そうでしかない。


 “それ”が動いた。

 ぐにゃりと、水槽を割って。

 這い寄ってくる。

 顔も名前もない、“役割にすらなれなかった存在”。


 逃げなきゃ。

 でも、足が動かない。


 なぜなら——


 もう“隼人”という役も、奪われていたから。


 “それ”が、近づいてくる。


 顔のない肉の塊。

 這う音も、呼吸もないのに、存在だけが濃く充満している。


 逃げなければ、と隼人は思った。

 けれど、その「思い」が頭の中で空回りしているだけで、

 肉体は何一つ、反応してくれなかった。


 腕も、脚も、感覚がない。

 目も、いつの間にか“視る”という機能を失っている。


 ただ、“それ”だけが、確実に近づいてくる感覚だけがある。


 どくん。


 水槽のガラスが、心臓の鼓動に合わせて脈打ち始めた。


 どくん。


 水の中に、見たことのない風景が浮かびあがる。


 ——教室。

 ——病室。

 ——小さな台所。

 ——見覚えのない家族写真。


 どれも“自分”の記憶のはずなのに、

 どこか、細部が噛み合わない。


 母の顔が違う。

 恋人の声が違う。

 自分の名前が「隼人」ではなかった気がする。


 ——本当に、自分は「隼人」だったのか?


 >「君が“隼人”を名乗ったのは、“役割”を与えられたからだよ」


 頭の中に、声が落ちてくる。


 さっきの、“選ばれた少年”。

 いや、もはや区別も意味をなしていない。


 >「君が“自分の顔”だと思っていたもの。

 > それはね、“私たち”が用意した、ただの衣装なんだ」


 笑い声が響いた。

 自分のものにそっくりな、しかし冷たい声。


 その声に合わせて、

 水槽の壁が、一枚ずつ剥がれていく。


 ガラスではなく、

 “記憶”が、剥がされていた。


 初めて恋をした記憶。

 夏祭りの夜の風景。

 父の葬式の黒い傘。

 全部、剥がれていく。


 そして最後に残ったのは——

 何もない白い部屋だった。


 そこにひとり、裸で立つ自分。

 鏡があった。

 映っているのは、顔のない自分だった。


 >「これが、ほんとうの“君”だよ」


 声がしたとき、

 “それ”がついに、隼人の真後ろに立っていた。


 皮膚の感触。

 心音の模倣。

 そして、まるで自分自身をなぞるような手の動き。


 そっと、耳元でささやかれた。


 >「今度は、君が“誰かの隼人”になってね」


 その瞬間、世界が、裏返った。


 ■


 朝が来た。

 リビングに日が差す。

 ユリアが台所で笑っている。


 「隼人、起きて。朝ご飯できたよ」


 目を開ける。

 自分の手を見る。

 “いつも通りの朝”だ。


 けれど、隼人は気づいた。


 ユリアの顔が、昨日と違う。


 そして、自分の顔も——

 どこかで見たことがある“他人の顔”だった。


 「隼人、朝ごはん冷めちゃうよー」


 ユリアの声が、台所から響いた。


 隼人は、ベッドの中で瞬きを繰り返す。

 まぶたの裏にまだ残るのは、水の中の感覚だった。


 けれど目を開けた今、そこにあるのは“穏やかな朝”だ。


 木漏れ日。

 コーヒーの香り。

 ユリアの笑い声。


 ——なのに。


 心臓だけが、冷たいままだった。


 動いてはいるのに、温度がない。

 血が巡っているはずなのに、“自分ではない何か”が身体を借りているような違和感。


 立ち上がる。

 床の冷たさが、足に馴染まない。

 鏡を見る。

 そこに映っているのは——“見知らぬ男”。


 だがその顔が、ユリアに向かって笑ったとき、確信した。


 >「……ああ。これが、俺なんだな」


 声は自然だった。

 仕草も、会話も、すべて“隼人”として成立していた。


 でも、“本当の隼人”はもう、どこにもいない。


 食卓につく。

 ユリアが焼いた卵が、以前と同じ味をしていた。

 でも、その黄身の中心に、小さな気泡が一つだけ浮かんでいた。


 それを見た瞬間、全身が水の中に沈んだような錯覚に襲われた。


 >(ここは……どこだ?)


 天井が滲んで見える。

 壁紙がゆっくりと剥がれ、ガラスの奥に水面が揺れている。


 >(これは、夢か? 現実か?

 > それとも——“水槽の中のシミュレーション”か?)


 「……どうしたの?」


 ユリアが、不思議そうに隼人を覗き込む。

 その笑顔は完璧だった。

 けれど、彼女の右目だけが、一瞬だけぐるりと回転して戻った。


 それは幻かもしれなかった。

 いや、もしかしたら——“水槽の外側から覗いていた目”だったのかもしれない。


 >「ユリア……俺たちって、いつからここに住んでたっけ?」


 ふと、問いかけた。

 その瞬間、部屋の空気が一変した。


 換気扇の音が止まり、冷蔵庫のブーンという低音も消える。

 外の鳥のさえずりも、すべてが録音を止めたように沈黙する。


 ユリアは微笑んだまま、答えた。


 >「なに言ってるの、隼人。

 > “最初から”ここにいたじゃない。

 > ……わたしたち、ずっと前から、この水槽の中よ?」


 瞬間、空気が爆ぜた。


 壁の奥から、無数の“隼人の顔”が滲み出す。

 冷蔵庫の扉に、目が浮かび、口が開き、笑う。


 >「いってきます」「いってきます」「いってきます」


 同じ声が、四方八方から重なって響く。


 振り返ると、テレビ画面の中の隼人も、同じ顔で笑っていた。

 カーテンの影からも、玄関の鏡からも、“隼人”がこちらを見ていた。


 そして気づく。


 ——この世界には、“隼人”しか存在していない。


 ユリアも、壁も、家具も、

 すべてが「隼人が信じたい日常」を演じていた。


 自分だけがこの世界の中心。

 でも同時に、“自分自身がこの世界の檻”になっていた。


 >(だったら、俺は……いつから、俺だったんだ?)


 その問いに答える声は、もうなかった。

 ただ、微笑むユリアの顔が、ゆっくりと剥がれていく。


 その下から現れたのは——


 隼人の顔だった。


 ユリアの顔が、隼人の顔になった。


 肌の質感も、まばたきの癖も、喉の奥で響く笑い方も、

 すべてが“完璧に”隼人だった。

 ただ、ひとつだけ違っていた。


 ——その顔は、笑い続けていた。


 どれだけ時間が経っても、表情が変わらない。

 口角が微妙に震えているのに、笑いが止まらない。


 「……ユリア?」


 隼人が声をかけると、顔を変えた“彼女”は、首をかしげた。


 >「ユリアって……誰のこと?」


 それは問い返しているのではなく、

 本当に知らない人の名前を聞いたときの反応だった。


 ——ガタン。


 背後で音がした。

 振り返ると、自分がもう一人、立っていた。


 パジャマ姿のまま、

 スリッパを履き、同じ表情で、こちらを見ていた。


 その“もう一人の隼人”は、

 おもむろにポケットからスマートフォンを取り出すと、

 テーブルの上にそれを置いた。


 画面には、「隼人、起きて」という通知。


 誰からの通知かは、表示されていない。

 ただ、その文字を見た瞬間、隼人の中で何かが崩れ落ちた。


 ——これが“目覚めの合図”だったのか?


 目覚めた先にあるのが夢で、

 眠っていた時間が現実だったなら。

 今まで生きてきた“隼人”という存在は、誰のものだった?


 目の前の“もう一人の自分”が、静かに告げる。


 >「君は、覚えてるフリをしていただけだよ。

 > 本当は最初から、“ここ”にはいなかったくせに」


 言葉が、音ではなく、皮膚を通して染み込んでくる。


 「じゃあ俺は……誰なんだ……?」


 やっとの思いで発した声に、

 背後のユリアの“隼人の顔”が、ゆっくりと割れた。


 中から現れたのは、“ユリアの顔”ではなかった。


 それは、観客の顔だった。


 何十もの目があった。

 ひとつの口が、観ていたことを告げる。


 >「ずっと見てたよ。

 > “隼人”という役を、君がどれだけ上手に演じるかを」


 部屋の壁が、観客席に変わる。

 ソファの中からも、観ていた顔が現れる。

 テレビ、食器棚、床、すべてが“隼人の劇”の舞台装置だった。


 >「だから……次は“君が観る番”だね」


 部屋が反転した。


 隼人は、透明なガラスの向こう側にいた。


 外では、“別の隼人”が暮らしている。


 朝ごはんを食べ、笑い、

 ユリアとキスをし、出かける支度をしていた。


 その様子を、隼人はガラス越しに眺める。


 手を伸ばす。

 声を出そうとする。

 でも、水の音しか響かない。


 そのとき、ガラスの向こうの“もう一人の自分”が、ふと足を止めた。


 こちらを見た。


 にやり、と笑った。


 >「……じゃあ、見ててね。“俺の人生”」


 ガラスが、静かに閉じられた。


 そして、背後の暗闇から、

 “次の観客の声”が囁く。


 >「次は、どの顔にする?」


 ガラスの中。

 隼人は、声も出せず、ただ“生活する自分”を眺めていた。

 もう、何日目かもわからない。


 時計はある。

 けれど、針は進まない。

 針が、こちらを見ていた。


 ある夜、部屋の明かりが落ちた。

 ガラスの外は真っ暗なのに、なぜかこちら側だけがぼんやりと照らされている。


 静かだ。


 冷蔵庫の音も、エアコンの風も、

 虫の羽音さえ存在しない。


 それでも、どこかで“ぴちゃり”と水が落ちる音だけが響いていた。


 繰り返し、等間隔で、まるで心音の代わりのように。


 ぴちゃり。

 ぴちゃり。


 ふと、視界の隅が揺れた。


 何かが、壁から“生えて”いた。


 いや、最初からあったのだろう。

 気づかなかっただけで、壁の模様のように馴染んでいた。

 それが今、ゆっくりと“こちらを向いた”。


 人の顔だった。


 目だけが、異様に縦に長い。

 鼻がない。

 口が、閉じられていない。

 喉が、ない。


 だが確かに“見て”いる。

 ——ずっと、最初から、見られていた。


 部屋の四隅。

 天井のシミ。

 床の節目。

 全部、“顔”だった。


 ぴちゃり。


 天井から、水滴が落ちる。

 それが隼人の肩を濡らす。


 ——見上げてはいけない。


 そう思った。

 でも、身体は勝手に視線を向ける。


 そこにあったのは、自分の顔だった。


 逆さまの、泣き顔。

 眼窩からは黒い水がこぼれていた。

 口はひらき、喉の奥から細い糸が垂れていた。


 その糸は、隼人の胸へと伸びていた。


 心臓に、直接繋がっていた。


 >(これは……誰の“感情”なんだ?)


 涙が、止まらない。

 けれど、自分の感情ではない。

 誰かが、自分を通じて泣いている。

 それは、何百人分もの“泣きたい誰か”だった。


 ドン、と何かがぶつかる音がした。


 視線を戻すと、ガラスの外に無数の“自分”が立っていた。


 スーツ姿の自分。

 制服姿の自分。

 小学生の頃の自分。

 白髪の老人になった自分。

 首のない自分。

 そして、顔だけが異様に膨らんだ自分。


 彼らは、笑っていた。

 笑いながら、ガラスを指で叩いている。


 ドン。ドン。ドン。


 その振動で、水槽が揺れる。


 >「でておいで」

 >「こっちにおいで」

 >「ほんとうの顔、返してあげる」


 声は、すべて“自分”の声だった。


 けれど、その声の奥に、別の誰かがいた。


 その“誰か”が、ガラスの向こうで言った。


 >「——君はまだ、自分の顔を見てないよね?」


 その瞬間、床が割れた。


 暗闇の底から、“誰かの首”がにゅるりと這い出てきた。


 それはユリアでも、自分でもない。

 でも、どこかで見たことのある顔だった。


 否。思い出してはいけない。

 それは“誰の顔にもなれる顔”だった。


 だからこそ、誰でもない。

 そして一度見れば、もう自分ではいられない。


 その“顔”が、ゆっくりと口を開いた。


 >「今度は、君がなってあげて。

 > みんなの“代わり”に」


 隼人の顔が、音もなく剥がれた。


 ――音が、しない。


 それは、静寂という意味ではなかった。

 音が“失われた”のだ。

 世界から、音という概念そのものが剥ぎ取られた。


 自分の顔が剥がれ落ちた瞬間から、

 何かが崩れはじめていた。


 まず、耳がふさがるような感覚。

 次に、肌の感覚が消え、

 そして最後に、“時間”の感覚が消えた。


 気づけば、隼人はどこかに立っていた。


 場所は……“部屋”のはずだった。


 けれど、壁がない。

 天井もない。

 ただ、どこまでも鏡張りの空間だった。


 鏡。

 鏡。

 鏡。


 そのすべてが、“顔のない自分”を映していた。


 頭はある。

 身体もある。

 だが、“顔”だけが曖昧で、滲んで、

 観る角度によって別人になっていた。


 ――誰かが、こちらを見ている。


 鏡の奥から。

 まばたきのない目が、こちらを見ている。


 その目は、どこかで見た目だった。

 いや、“あの水槽の中のユリア”がしていた、あの目。


 見上げる。


 鏡の天井が、にわかに割れた。


 そこから、巨大な“顔”が落ちてきた。


 それは自分の顔だった。

 だが、違った。

 それは“誰でもなれる顔”の、巨大な原型。


 目が無数についている。

 口はなく、ただの裂け目が横に広がっている。

 肌には無数の“観察記録”が刻まれていた。


 >【隼人-A】

 >【観察日:継続中】

 >【顔定着率:32%】

 >【個体分類:代替型/演技済】


 読めてしまう。

 鏡を通じて、それは脳に直接焼きついてくる。


 そして、音のない世界に、

 ひとつだけ音が生まれた。


 「カシャ」という、シャッターの音。


 視界が一瞬白く光り、

 どこかで“写真を撮られた”感覚が身体に走る。


 見渡す。

 鏡の中のすべての“顔のない隼人”が、

 同時に、同じ角度で笑った。


 そして、ひとつの“スクリーン”が現れた。


 その中には、観客たちが映っている。


 暗闇の劇場。

 無数の座席。

 ひとつひとつに、人間の顔をつけた“何か”が座っていた。


 彼らは無表情で、ただ、隼人を観ている。


 >「演目:顔のない日々」

 >「主役:君」

 >「幕間:終了」

 >「次幕:崩壊」


 その文字が、脳内に焼き付くと同時に——

 鏡がすべて砕けた。


 破片が空中を舞う中、

 隼人の身体もまた、ひとつずつ剥がれていく。


 皮膚。

 筋肉。

 骨。

 声。

 名前。

 自分という概念そのもの。


 ——でも、誰かが拍手をしていた。


 最後に残ったのは、ひとつの問いだった。


 >「ねえ、観てる君も……そろそろ“顔”を返してくれる?」


 鏡の破片は、音もなく床に落ちた。


 だが、割れたはずの破片は砕けず、

 ひとつひとつがそれぞれの“世界”を映していた。


 教室で笑う子供。

 雨の中、傘を差して泣く誰か。

 電車の中でうつむくスーツ姿の男。

 そして——水槽の中、顔のない自分を見つめる“観客”。


 隼人は、鏡の破片の中央に立っていた。


 もう、足の感覚がない。

 身体の境界が曖昧になっている。

 皮膚と空気の間に“膜”があるような違和感。


 ——否、違う。


 空気の側が、自分の皮膚になってきている。


 ふと、誰かの視線を感じた。


 視線の方を見ると、

 そこには見知らぬ“女性”が立っていた。


 ……いや、その顔には、かつての“自分の顔”が貼り付けられていた。


 女の目は真っすぐこちらを見ていた。

 その奥にあったのは、「次はあなたの番よ」という、無言の命令。


 そして、背後から声がした。


 >「君、いい“素材”だね」

 >「感情の溜まりが均質だ。表情筋の癖も面白い」

 >「これなら、何人分でも流せる」


 その声に振り向いた瞬間、

 隼人の頭の上からパネルのようなものが下りてきた。


 金属のような質感。

 だが、冷たくない。


 脳が、何かの装置と接続されていく感覚。

 痛みはない。

 ただ、自分の“記憶”が次々と再生されていく。


 ——少年期。

 ——初恋。

 ——祖母の死。

 ——ユリアと過ごした日々。


 どれも、自分のもののはずだった。


 なのに、それらが“誰かのもの”として記録されていく。


 映像。

 音声。

 嗅覚データ。

 心拍数の変化。

 すべてが、“新しい誰か”の人格生成用素材として保存されていく。


 >(俺は……媒体に、されてる……)


 そう思ったとき、

 目の前のスクリーンに、新たな通知が浮かぶ。


 >【新規個体生成:ユリア-B】

 >【記憶転写元:HYT-04】

 >【役割:愛する者/拒絶する者】

 >【配置水槽:No.29】


 映像が切り替わる。


 その水槽の中には、少女の姿をした“ユリア”が立っていた。

 けれど、彼女の顔には“今の隼人”の面影が混ざっていた。


 目の動き。

 笑い方。

 そして、涙のこぼし方。


 ユリア-Bが、ガラスのこちら側を見た。


 ——視線が合った。

 だが、そこにいたのはもう、隼人ではなかった。


 誰かの感情の集合体。

 誰かの人生の端材。

 そして、次の“物語の主演”を作るための素材袋。


 声がまた、上から降ってくる。


 >「顔を失ったら、誰の物語にもなれるんだ。

 > 君はもう、“語られる側”に戻れないよ」


 >「だって君は今、語るための装置なんだから」


 ——カタ。カタ。


 どこかで、回転音がしていた。

 スライドフィルムを切り替えるような、乾いた機械音。


 気づくと、隼人は列に並ばされていた。


 前にも後ろにも、人の形をしたものが並んでいる。

 だが、誰の顔もなかった。


 髪も、表情も、性別の区別もない。

 ただ、全員が“今か、次か”を待っていた。


 前の人間が、ひとりずつ“ブース”に入っていく。

 音はないが、何かが中で起きていることはわかる。

 なぜなら——


 出てきたものは、もう“人間ではなかった”からだ。


 映像の断片。

 言葉の音。

 感情の波形。

 それらが切り分けられ、形にならない記録媒体として、

 冷たいプレートの上に並べられていた。


 そのたびに、どこかで拍手が聞こえる。

 演技が上手だった者への、静かな称賛。


 自分の番が来る。


 “ブース”の扉が開いた。


 中は、病院のような白い部屋だった。

 でも、空気が異常に重い。

 まるで、空気分子ひとつひとつに他人の記憶が染み込んでいるようだった。


 >「名前は?」と誰かが尋ねた。


 口を開こうとする。

 けれど、声がない。


 ——そもそも、名前ってなんだ?


 それを思い出そうとした瞬間、

 脳が焼けるような痛みに襲われた。


 名前。

 名前。

 名前。


 脳内に、何十通りもの「隼人」が浮かぶ。

 そのすべてが、“別人”として保存されていた。


 >【隼人-A】:教師型

 >【隼人-B】:兄型

 >【隼人-C】:恋人型(ユリア-01に使用済)

 >【隼人-D】:孤独型(記憶破損中)


 ——じゃあ、今ここにいる“自分”は?


 回答が来た。


 >【隼人-E】:素材待機中。処理対象。


 その言葉が、機械音声で読み上げられる。


 天井から下りてきたのは、

 顔を削り取るような装置だった。


 静かに、冷たく、躊躇なく、

 その刃は「表情」を切り取りにかかる。


 眉毛の動き。

 頬の張り。

 涙の流れ方。

 口角の動き。


 “感情という肉”が、切り取られていく。


 そして、その背後の壁には、誰かの声が流れる。


 >「ユリア、好きだよ」

 >「死なないで、お願い」

 >「……俺のこと、覚えててくれる?」


 すべて、隼人がかつて発した言葉だった。

 けれど今、それは“感情を演じる素材”として分類されていた。


 >「はい、感情片『喪失願望』——採取完了」

 >「感情片『依存と恐怖』——ノイズ有り。再処理」

 >「声帯模倣データ『優しさ』——上質」


 ——俺は、もう、俺じゃない。


 そう気づいた瞬間、

 最後に残っていた“記憶”までもが、スクリーンに映し出された。


 それは、ユリアが笑っていた夜だった。

 小さな部屋。

 静かな湯気。

 「ねえ、隼人。今だけは、全部忘れてくれていいよ」という声。


 ——忘れたくなかったのに。


 その記憶だけは。

 その言葉だけは。

 でも今、そのシーンもまた、


 >【使用用途:ユリア-Bの初期学習エピソード】

 >【タグ:幸福幻想】

 >【再生可能回数:無制限】


 とラベルを貼られ、他人の記憶の一部としてアップロードされた。


 顔がない自分が、鏡に映った。


 だが、そこに浮かんだ“無表情な器”の影が、

 ほんの一瞬、涙を流したように見えた。


 静かだった。


 処理室を出た隼人の身体には、もう皮膚の名残さえなかった。

 歩いているはずなのに、足音がしない。

 息をしているのに、肺の動きがない。


 感情は、すでに“切り取られた”。

 記憶は、他人の学習データに回されていった。

 声は、他人のセリフとして配布された。


 それでも、何かだけが残っていた。


 それは執着ではなかった。

 恨みでも、悲しみでもない。


 ただ、一枚の断片的な“記憶の亡骸”。


 ——ユリアの背中。

 ——名前を呼ばれた感触。

 ——雨の日に差し出された傘の音。


 誰のものだったのか。

 もう自分だったのかさえ、わからない。


 けれど、それは隼人にとって最後の“輪郭”だった。


 そして、システムが言う。


 >【記憶片-A41:処理対象外。残留検知】

 >【補完作業開始】

 >【対象ユリア-Bへの転送準備中】


 そのとき、目の前に小さなガラスの水槽が現れた。

 中には、うつむく“ユリア-B”が座っていた。


 静かだった。

 何も知らないその顔が、

 これから誰かの恋人にされ、誰かの妹にされ、誰かの記憶に縛られていくと知っていた。


 それが、たった今、自分が歩んだ道だったから。


 ——ならば、せめて。


 隼人は、最後に残った“記憶片”を自ら差し出した。

 水槽のガラスに触れる。

 手は、もう指の形をしていない。

 ただの光の塊になっていた。


 そして、ユリア-Bがこちらを見た。


 その瞬間、彼女の顔がほんの一瞬だけ、泣きそうに歪んだ。


 目の奥。

 それは、かつてのユリアの目だった。


 ほんの一秒。

 けれど、それだけでよかった。


 隼人は、笑った。


 感情を奪われた顔で。

 記憶を抜かれた身体で。

 名前すら失った器として。


 それでも、笑うことだけはできた。


 >「ありがとう、ユリア。これで……君は、俺を“忘れられる”」


 そして、隼人という存在は——

 “誰の物語でもない光”になって、音もなく溶けていった。


 スクリーンに、文字が浮かぶ。


 >【記憶補完完了】

 >【個体ユリア-B:感情発芽確認】

 >【新規演目:水槽のユリア 第四幕、開始】


 観客席の奥で、誰かが拍手をした。


 けれど、それはもう、

 誰のための拍手でもなかった。

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