EP2.ユリアはここにいる
水の中に落ちる瞬間、何もかもが音を失った。
冷たさも熱さもなく、ただひたすらに、静寂だけがあった。
それはまるで、母胎の中に戻ったような感覚だった。
目を開けると、そこは——家だった。
いつものリビング。いつもの水槽。いつもの家具。
ただ、どこかが少しだけ違っていた。
時計が止まっている。
観葉植物が、逆さまに生えている。
額縁の中の写真の笑顔が、全部、こちらを見ている。
「……夢か?」
隼人が立ち上がろうとしたそのとき——
ソファに、ユリアが座っていた。
水に濡れたワンピース。黒髪は床に滴るほど長く垂れていた。
瞳の奥には、やはりあの底知れない“深さ”がある。
「おかえり、隼人くん」
その声は、耳ではなく、頭の中に直接響いてきた。
「ここは……どこだ?」
ユリアは微笑んだ。
「わたしの中よ。
ねえ……あなた、どうしてそんなに逃げたがるの?」
その瞬間、部屋の壁がざざぁ……と波打った。
まるで空気ではなく、水で満たされているかのように、すべてが揺れる。
テーブルの脚がにゅるりと伸び、天井から水が滴る。
テレビの画面には、何も映っていない“人の顔”が、ずっとこちらを見ている。
「ここは、あなたのための部屋なの。
水の中で、あなたとずっと一緒に暮らせるように」
「やめろ……!」
隼人が叫ぶと同時に、床の板がバキバキと割れた。
その隙間から、人の腕がにゅうっと伸びてくる。
白くて、細くて、指の先がふやけている。
何十本もの腕が、床下から這い出し、隼人の足首を掴んだ。
「……彼女たち、ね」
ユリアが言った。
「ここに来た“夫”たち、みんな、逃げられなかったの」
「何を言ってる……お前は……ユリアじゃない……」
「うん。咲子でもない。
でも、“わたし”なのよ。最初から、ずっとここにいたの」
その瞬間、リビングの壁がざばあっと崩れ、水が一気に流れ込んできた。
——そして、そこにいた。
“水槽のユリア”が、無数に。
床から、天井から、壁から、すべての方向に“彼女”が浮かんでいた。
笑っている者。泣いている者。歯を剥いている者。
そのすべてが、同じ顔。
ユリア。
あるいは、咲子。
あるいは、名前のない誰か。
そして、中央に浮かんだ一体が、隼人に言った。
「ねえ……あなた、いつから“こっち側”だったの?」
その問いに、答える声はなかった。
ただ、隼人の口元が——ゆっくりと笑った。
ここは本当に自分の家なのか?
リビングの時計は、あのときと同じ“23時41分”で止まったまま。
窓の外は真っ黒で、街灯も星もない。
まるでこの家が、世界から切り離された箱のようだった。
隼人は立ち上がり、水でぬかるんだ床を歩いた。
どこもかしこも、じっとりと濡れている。
ソファのクッション。リモコン。壁紙の隅。
水滴が垂れる音が、部屋のあちこちで響いていた。
——ぽとん、ぽとん。
——ちゃぷん。
それは“外”から聞こえる音ではなかった。
自分の鼓膜の内側から響いてくる音だった。
そのとき、ふと気づく。
指先がふやけている。
まるで、長時間湯に浸かっていたかのように、しわが寄り、感覚が鈍い。
「……俺は……まだ、沈んでるのか?」
小さく呟くと、誰かが答えた。
>「うん。ようやく“こっち側”に馴染んできたね」
振り返ると、ユリアがキッチンに立っていた。
だがその姿は、以前と微妙に違っていた。
首が少しだけ傾きすぎている。
肘が逆に曲がっている。
そして、目を一度も瞬きしていない。
「ねえ、隼人。お味噌汁、作ったの。飲んでくれる?」
差し出された味噌汁の椀から、湯気の代わりに泡が立ちのぼっている。
小さな、空気のない泡。
それはまるで、水中で誰かが“あえいだ”ときに出る泡のようだった。
隼人は椀を受け取ろうとして、手を止めた。
——その椀の中に、指輪が浮いていた。
見覚えのある、シルバーのペアリング。
咲子と付き合っていたころ、川辺で交わした約束の指輪。
「……これ……」
「沈めたでしょ? あなたの手で」
ユリアが微笑む。
「全部、水が覚えてるの。
だからね……あなたも、思い出さなくちゃいけないのよ」
そう言って、ユリアはゆっくりと頭を傾けて、こちらを覗き込んだ。
「ここで、私と暮らすって。
何度も、言ったじゃない。」
その瞬間——背後の水槽が割れた。
ガラスが音もなく砕け、水がどっとリビングに溢れる。
だが隼人の体は動かない。
重い。濡れている。身体の中に、水が入ってきている。
そして、気づいた。
水の中にいるのではない。
自分の中が、水で満たされていくのだ。
身体の奥で、水が膨らんでいく感覚。
肺の隙間、骨の間、脳の奥にまで、水が染み込んでいく。
喉の奥から、ぶくぶくと泡が上がる音がした。
「っ……あ……」
声にならない。
息ができているのかも、もはや分からない。
それでも隼人の視界だけは、やけに鮮明だった。
——目の前のユリアの姿が、ゆっくりと変化していく。
長い髪が、空間に逆らって漂い出す。
肌が、薄いガラスのように透け始める。
口元は笑ったままなのに、その目だけが——ずっと泣いていた。
「……咲子……?」
そう呟いた瞬間、視界がぐるりと反転した。
床が水面に、天井が湖底に変わる。
そして、あの夜の川辺が現れる。
冷たい水音、夏の草の匂い、虫の羽音。
草むらに立つ自分と、川岸に立つ——咲子。
「ねえ、隼人くん。これ、もう返すね」
咲子は言った。
その手のひらには、例のペアリングが乗っていた。
「待って。……それ、どうして……?」
だが、声は届かない。
“過去の自分”が、無言のまま歩き出す。
咲子が、川の中に入っていく。
水音が、だんだん遠ざかっていく。
>「大丈夫だよ。……すぐ戻るから」
その笑顔を最後に、咲子は水の中へ——
静かに沈んでいった。
そして、隼人は——見ていた。
助けようとしなかった。
声をかけようともしなかった。
そのまま、背を向けて歩き出した。
目を閉じて、耳をふさいで。
「……違う……」
隼人の喉から、くぐもった声が漏れた。
「違う、違う……違うんだ……俺は……」
水の中の咲子が、ゆっくりと目を開ける。
白く濁ったその瞳が、まっすぐ隼人を見つめた。
>「じゃあ、どうしてまだ、わたしの声が聞こえるの?」
次の瞬間、川の水が黒く濁り、視界が呑まれる。
聞こえるのは、水泡が弾ける音と、自分の鼓動だけ。
——どくん、どくん、どくん。
——ぶくぶく、ぶくぶく。
やがて、誰かの囁きが、水の奥から這い上がってきた。
「……ここでは、嘘は沈まないのよ」
水の中の音が、少しずつ“形”を持ち始めた。
始めは、泡の弾ける小さな音。
次に、それが言葉になり、囁きになり、笑い声へと変わった。
「……ここ、どこなんだ……」
隼人は口を開くが、声が水に溶けて消える。
代わりに、肌に絡みつくような冷たい感触が身体を撫でた。
水の中に“誰か”がいる。
確かに、すぐそばに、何人も——見えない者たちが蠢いている。
視界の端で、長い髪がゆらりと揺れた。
ふと振り返ると、そこに立っていたのは浴衣姿の少女だった。
顔がない。
目も鼻も口も、すべてが滲んで消えている。
だがその“何か”は、明らかに隼人を見ていた。
そして、その隣には——
隼人自身の姿があった。
水に沈んだ、自分。
まるで鏡のように、同じ顔、同じ服。
ただ、目だけが異様に黒く、底なしの空洞のようだった。
「おまえは……誰だ……」
問いかけた瞬間、その“もう一人の隼人”が笑った。
口が、耳の横まで裂けるように開いた。
>「——代わってやるよ。おまえの代わりに、上で暮らしてやる」
その言葉に、背筋が凍る。
水の中の影たちがざわめく。
歪んだ声が、四方八方から押し寄せてくる。
>「おかえりなさい」
>「もう戻れないよ」
>「今度は、ちゃんと愛してね」
>「こっちの世界のほうが、ずっと静かで楽だよ」
耳を塞ごうとしても、音は頭の内側から響いてくる。
逃げられない。
否応なく、この世界の“一部”にされていく。
ふと気づくと、水の底にテーブルと椅子があった。
その上に、湯呑と箸が置かれている。
まるで、夕食の準備がされているように。
そして、向かいの椅子に——ユリアが座っていた。
「ご飯、冷めちゃうよ?」
微笑むその顔に、またしてもあの“深さ”がある。
水の中なのに、髪も服も揺れず、ただ静かにそこにいる。
隼人は、もう分かっていた。
ここは現実ではない。
けれど夢でもない。
忘れようとした過去と、閉じ込めようとした感情の、底の底。
ユリアは笑ったまま、食卓を指差す。
その皿の上に、赤黒く濁ったペアリングが載っていた。
どろりとした粘液に包まれ、まだ泡が立っている。
そして、その隣にもう一つ、見覚えのない物があった。
胎児のような、小さな人形。
>「この子、わたしたちの子供よ。……覚えてる?」
ユリアが、静かに囁いた。
隼人は、声も出せずに、その場に立ち尽くした。
「覚えてる……?」
ユリアの声は、泡の中からこぼれるように、耳の奥へ入り込んできた。
その言葉に隼人は首を振った。
否定したくて、拒絶したくて、ただそれしかできなかった。
「覚えてない、俺は……知らない、こんな……こんな子ども……!」
けれど、ユリアはただ笑っていた。
その笑みは“やさしい”のに、心の奥を凍らせるような冷たさがあった。
>「そっか。じゃあ、思い出させてあげるね」
次の瞬間、テーブルの上の“人形”が——目を開けた。
いや、それは人形ではなかった。
皮膚は半透明、髪のような繊維が頭部から水中に漂い、
腹部のあたりは裂けていた。
中から、濁った水と赤黒い泡がふつふつと湧いている。
その“なにか”が、泡の中で小さく、しかし確かに口を動かした。
>「……パパ」
ぞわり、と背骨を這い上がる冷気。
「やめろ……やめてくれ……やめろ……!」
逃げようとした瞬間、床から無数の“手”が現れた。
ふやけて、白く爪のはがれた手たちが、
ずるり、ずるりと隼人の足元に絡みつく。
腕、腰、首。
どこからともなく伸びてきたそれらが、ずぶずぶと自分の身体に入り込んでくる。
口の中に——指が、入ってくる。
「……っが……っ……!!」
吐き出そうとしても、声が出ない。
そのまま、背後からユリアがそっと抱きしめてきた。
「大丈夫……水の中にいれば、全部、流れていくから。
悲しいことも、苦しいことも、罪も全部……」
柔らかなその声と反対に、ユリアの腕は異常に長かった。
肘が逆に曲がり、指は五本以上ある。
その指のひとつひとつが、隼人の胸の中に、ずぶりずぶりと入ってくる。
「……っっ……!」
視界がゆがむ。
泡がはじける音。
心臓の鼓動が止まる音。
耳元で、誰かが囁いている。
「あとは、顔だけね」
隼人は、自分の顔が、剥がれていくのを感じた。
皮膚が水に溶け、骨がのぞき、目が外れ、口が裂ける。
水面に浮かぶ、もう一人の自分の顔。
——そいつが、笑っている。
「これでやっと、本物になれる」
隼人は、ようやく気づいた。
水に囚われていたのは、“彼女”じゃなかった。
本当は、自分の方だったのだ。
その瞬間、世界がひとつの泡となって、弾けた。
——ぱちん。
何かが切り替わるような音がして、世界が静かになった。
次に目を開けたとき、隼人はダイニングチェアに座っていた。
テーブルの上には夕食が並び、湯気がふわりと立ち上っている。
味噌汁の香り。焼き魚。ほうれん草のおひたし。
まるで、昨日と何ひとつ変わらない食卓。
「……?」
耳鳴りもない。泡の音も、ざわめきも、消えている。
濡れていたはずの床は乾いていて、あの“人形”も、指も、消えていた。
キッチンからユリアの声がする。
「ねえ、早く食べないと冷めちゃうよ」
振り向くと、そこには以前と変わらないユリアの姿があった。
明るい色のエプロン、柔らかな笑み。
どこからどう見ても、“日常”だった。
けれど。
隼人の中に、何も残っていなかった。
記憶が、感情が、反射が、どこかで“沈んで”いる。
右手を見た。
指が1本、増えていた。
左手には、結婚指輪が2つはまっていた。
テーブルの奥、壁の時計が刻む時刻は、23時41分。
——また、止まっている。
「……なあ、ユリア」
隼人は、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は……“ほんとうに俺”か?」
ユリアは、笑ったまま答える。
「大丈夫よ。だって、ここではみんな“隼人”なんだもの」
ぞくり、と背骨が震えた。
「……なに、言って……」
そのとき、リビングの奥に置かれた水槽が音もなく光を放った。
ざらついたガラスの奥に、顔が浮かんでいる。
一つ。二つ。三つ。
——全部、“隼人”の顔だった。
目を見開いて沈んでいる者。
水草に絡まれて動かない者。
笑っている者。
そしてその中の一人が、水槽の内側から手を振った。
>「おかえり、“俺”」
その声が響いた瞬間、隼人の視界が再び歪む。
水面が揺れ、部屋が波打つ。
椅子の脚が床に沈みはじめ、味噌汁の表面に指先が浮かび上がる。
スプーンを取ろうとした手が、自分の手ではない。
皮膚が薄く透けていた。
指が、ふやけていた。
「……いやだ……」
口に出した言葉は、水泡の音にかき消された。
ユリアは笑ったまま、箸を差し出してくる。
「さあ、食べて。これが“こっち”の最初のごはんよ」
その瞬間、隼人の目の前に置かれた皿の中で、
魚の代わりに、自分の顔が焼かれていた。
——にたり、と、笑っていた。
焼かれた“顔”が、皿の上でじゅうじゅうと音を立てていた。
鼻から脂がしたたり、唇の皮が焦げ、歯の隙間から自分の名を呼ぶ声が漏れている。
>「はやと……はやと……」
誰の声でもない。自分の口が、自分の名を呼んでいた。
「……やめろ……やめてくれ……!」
隼人は椅子を蹴って立ち上がろうとする。
だが腰が動かない。
脚も。肩も。
まるで椅子と一体化しているかのように、関節が床に縫い付けられていた。
ユリアがすぐ目の前に立っていた。
手には箸。
笑顔は、もう“笑顔”ではなかった。
頬が裂け、目の奥には瞳がいくつも重なって揺れている。
「隼人くん、ご飯のときは立っちゃダメでしょう?」
やさしく言って、箸を突き刺してきた。
ぐしゃり。
焼けた顔の頬肉を箸で切り裂き、それを隼人の口に押し当てる。
「熱いから、ふうふうするね」
ユリアは、自分の顔を食べさせながら笑っていた。
そのとき、隼人の背中で“もう一つの口”が開いた。
骨の間から、どろりと歯が生え、裂けた皮膚の奥に、別の喉が蠢く。
そして、自分自身が喋り出す。
>「……うまいよ。もっとちょうだい」
言葉が勝手に喉を滑る。
脳と関係なく、舌が動き、笑う。
気づけば右手が自分の目をえぐり、左手は箸を持っていた。
——誰が、誰を喰っている?
——誰が、本物の隼人なのか?
目の前のユリアが言う。
「ねえ、あのとき助けなかったのは、
“罪”じゃなくて、選択だったんだよね?」
壁の時計が、急に音を立てて動き出した。
カチカチカチカチ……と秒針が異常な速さで回転し、
その中心から黒い水が流れ出す。
天井の隙間、コンセントの穴、照明のふち、
あらゆる“出口”から水があふれ、世界がまた沈み始める。
その中で、ユリアは両手を広げて言った。
「よかったね、隼人くん。
これでまた、最初から始められるよ」
水面が首まで迫る。
視界が歪む。
焼かれた“顔”が水の中で笑いながら言う。
>「おかえり。……まだ、全部食べ終わってないよ?」
そして——
隼人は、自分の舌を噛み切った。
だが味があった。
熱くて、しょっぱくて、よく知っている味だった。
——咲子の血の味。
世界が崩れる直前、聞こえたのは、子供の泣き声だった。
泣き声が、水の中で響いている。
くぐもった、細くて高い、幼児のような声。
耳の奥に張りつき、泡の中を這いずりながら、隼人の意識をじわじわと濁らせていく。
「……どこだ……誰だ……誰が、泣いてる……」
声にならない言葉を吐くと、口の中から水と髪の毛がこぼれた。
苦い。ぬるい。臭い。
それは、生きている人間の体液の味だった。
目を開けると、そこは……部屋だった。
子供部屋。
木製のベビーベッド、小さなぬいぐるみ、天井から吊るされたモビール。
水の中なのに揺れている。
カラン……カラン……と音を立てながら。
ベビーベッドの中に“何か”がいる。
隼人は、近づいた。
ゆっくりと、水の抵抗を感じながら。
ベッドの中——
寝かされていたのは、皮膚のない赤子だった。
目がない。
口は開いている。
手足は細く、骨が透けていた。
そして、その顔は……隼人の顔だった。
「……やあ、パパ」
笑った。
赤子が、自分の声で喋った。
その瞬間、背後の壁一面に“目”が開いた。
無数の目。
人間のものとは思えない、黒く濁った、縦に裂けた瞳孔。
そのすべてが、隼人をじっと見つめている。
ユリアの声が響く。
>「ねえ、あなた。
> “死んでなかったのは誰?”って、ずっと訊いてたよね。
> ……でも違うの。
> “まだ生きてたのが、間違い”だったのよ」
壁の目が一斉に瞬きした。
パチン。パチン。パチンパチンパチンパチン。
空間が、ぐにゃりと音を立てて崩れはじめる。
天井から水が落ちる。床から腕が出る。
鏡には、笑う“隼人たち”が押し合いへし合い、こちらに向かって手を振っている。
「いやだ……やめろ、やめろ……ッ!!」
逃げようとしたそのとき——
子供の泣き声が、ぴたりと止んだ。
振り返ると、ベビーベッドは空だった。
赤子はいない。ぬいぐるみも沈んでいる。
ただ、その中央にぽつんと置かれていたのは——
隼人の顔だった。
皮膚を剥がれた、肉塊のような顔。
でも、口だけが、ゆっくりと笑っていた。
>「今度こそ、忘れられるね。
> もう、思い出さなくていいから」
そう言って、顔は音もなく水中に沈んでいった。
そして、次の瞬間。
ユリアが、隼人の背後からそっと耳元に囁いた。
>「あなた、“こっち側”に戻ってきてくれて、本当によかった」
その声で——隼人の瞳孔が、縦に裂けた。
ユリアの囁き声が耳から染み込んだ瞬間——
世界が、静かにひっくり返った。
視界が裏返り、上下左右が崩れ、音が波のように押し寄せてくる。
天井が床になる。水面が空になる。
自分の輪郭が、ぐにゃりと溶けていく感覚に、隼人は声すら出せなかった。
——泡が、脳の中で弾けている。
目を閉じても、瞼の裏で誰かの顔が笑っている。
目を開けると、空間のすべてが、自分の顔を映している。
冷蔵庫の扉。テレビの画面。水槽の中の水。
どこを見ても、“隼人”がいる。
だが、それはもう自分ではなかった。
ひとつひとつの“隼人”が、好き勝手に喋っている。
「咲子は溺れて当然だ」
「ユリアは誰でもよかった」
「“正しい選択”をしただけだ」
「ねえ、もう一度沈もうよ」
「君の目の奥に、僕がいるよ」
耳を塞ごうとした手が、水に溶けていた。
指先が骨から崩れ、皮膚がはがれ、
神経が剥き出しのまま水の中を漂っていく。
痛みはない。ただ、生ぬるい快感だけがあった。
「…………っ、やめろ」
隼人は口を開いた。
声にならないはずの言葉が、泡ではなく、“耳”から漏れた。
自分の口が消えていたのだ。
代わりに、左右の耳が笑っていた。
「だいじょうぶ。怖くないよ」
「こっちのほうが静かだもの」
——カタン。
音がした。
見ると、リビングの椅子に“何か”が座っている。
顔のない女だった。
頭部は滑らかな肌で覆われていて、目も鼻も口もなかった。
けれど、笑っているのがわかった。
女は、胸を裂いた。
じゅぶ、と音がして、胸骨のあたりから一対の顔が飛び出してきた。
一つは咲子。
一つはユリア。
どちらも、隼人を見て微笑んでいた。
>「——ねえ、どっちが本物だと思う?」
隼人は答えられない。
答えられるはずがない。
なぜなら——自分の顔も、その中にあったからだ。
第三の顔。
胸の奥、もっと深い場所に、口だけの“隼人”が沈んでいた。
歯だけが、カチカチと鳴っている。
>「……助けてって、言えばよかった?」
問われているのか、自問しているのか、それすらも曖昧だった。
ユリアの声が、再び水底から響いた。
「もう、あなたは“水のかたち”になったのよ。
誰かの姿じゃなくて、“誰でもないもの”に」
その瞬間、隼人の身体が——完全に透明になった。
骨も、血も、肉も、声も、名前も——
すべて、水になった。
——水になった。
それは比喩ではなかった。
隼人は、もう“形”を持っていなかった。
皮膚の感覚も、骨の重みも、声の震えも、すべてが溶けていた。
けれど、意識だけが、まだ残っていた。
考えることができた。
思い出すことができた。
そして、感じることが——できてしまった。
まわりに、誰かがいる。
名も、顔も、形も持たない“同じものたち”が、近くに集まっている。
触れ合っている。混ざり合っている。
そのひとつひとつに、かすかに記憶があった。
——川で泣いていた女の子。
——ダムの底で眠っていた男の子。
——溺れて消えた、見知らぬ老婆。
——赤ん坊の声で、何度も「ママ」と呼び続ける泡。
彼らは皆、かつて“誰か”だった。
今は、ただの水。
記憶のかけらと、声にならない叫びと、冷たい静けさ。
それだけが、ここには充満していた。
「や……だ……」
意識の中で、隼人はつぶやいた。
その言葉に、無数の泡が反応する。
水の中に漂っていた“目”が、一斉にこちらを向いた。
——何千、何万もの“目”。
どれも、笑っていた。
>「やだ、って言っても。
> もう、あなたは**“ここ”の一部**になっちゃったのよ」
声がした。
また、ユリアだ。
だが、もう彼女の姿はなかった。
その声は、水そのものから滲み出ている。
音ではなく、湿度として伝わる声。
>「ねえ、ねえ隼人。
> あなたってば、ほんとに“形”にこだわるのね。
> でもね、もう、そんなの必要ないのよ」
そう言った瞬間——
無数の“隼人”が現れた。
水面に顔を出した“自分”たちが、笑っている。
手を振るもの。歯を剥いて笑うもの。
泣きながら、首をかきむしるもの。
そのすべてが、「隼人」を名乗っている。
そして、全員が同時にこう言った。
>「ねえ、“本物の隼人”って、どれ?」
その瞬間、世界が砕けた。
——水の底が、抜けた。
どこまでも落ちていく。
形のない自分が、底のない奈落へと吸い込まれていく。
その間じゅう、耳の中でユリアの声が繰り返していた。
>「でも大丈夫よ。
> 本物なんて、最初からいなかったんだから」
そして、落下の最後に聞こえたのは——
“地上から聞こえる、呼びかけの声”だった。
>「……隼人……? ……聞こえる……?」
——呼びかけが、聞こえた。
「隼人……?」
声の主はわからない。
けれど確かに、“水の外”からだった。
懐かしい響き。人の声。
地上の、乾いた、温かな音。
隼人は、もがいた。
形のない自分をかき集めるように、思考のかけらを水の中でかき混ぜながら、
必死に「戻らなければ」と思った。
——まだ、帰れる。
——誰かが呼んでくれている。
——俺はまだ、ここに“いる”。
そう信じて、浮かび上がろうとした。
水が重くなる。
重力が倍になる。
無数の“手”が水底から伸び、透明な足を掴もうとする。
それでも、進んだ。
音が遠くなる。
それでも、進んだ。
そして——
光が見えた。
まばゆい、白く輝く穴が、真上にぽっかりと開いていた。
そこに向かって、隼人は手を伸ばした。
——指が、現実に触れた。
そう思った瞬間、
その“穴”の向こうから、別の“隼人”が覗き込んできた。
笑っていた。
目を見開いて、真っ白な歯をむき出しにして。
指を振っていた。
>「……見つけた」
そして、“そいつ”が言った。
>「もう、お前は上がらなくていいよ。
> 俺が代わりに“上”で生きるから」
隼人は、息を飲んだ。
次の瞬間、その穴がバタンと閉じられた。
闇が戻る。
重力が戻る。
水が、また自分の中へ入り込んでくる。
——視界の中に、ぽつんと浮かぶ“水槽”。
そこには、ユリアがいた。
リビング。
日常。
微笑んで、誰かと話している。
隣にいるのは——
“もうひとりの隼人”だった。
ユリアが笑った。
そして、その顔をこちらに向けた。
でも、目が、なかった。
黒くくぼんだ空洞から、ぽたりと水が垂れていた。
ユリアの口が、ゆっくりと開いた。
>「——ねえ、“あなた”って、だれ?」
その声が、水の中に響きわたり、
隼人の全てが、静かに崩れ落ちた。
終わりではなく、“ここ”が始まりだった。