Epilogue.観測されない世界で
大学の図書館の窓辺で、香月はページをめくっていた。
時間は夕方。誰もいない閲覧席。
論文の山を前にしながら、彼はふと筆を止めた。
あれから、もう五年が経っていた。
あかりとは今も連絡を取っている。
彼女は地方の美術大学に進学し、今はギャラリーで働いているらしい。
「見えないものを描きたいんだ」
そう言っていた。
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香月はポケットから、小さな手帳を取り出す。
中には数年前のスケッチが挟まれていた。
旧図書室の椅子、白紙のスケッチブック、指で描いたような目の絵――
そして、記憶の中の“彼女”の姿。
顔はない。輪郭だけ。
けれど、それがなぜか“確かに知っている誰か”に見える。
ふと、ページの隅に、見覚えのない落書きがあった。
鉛筆の細い線。小さな瞳。
>「観られていないものだけが、本当に自由になれるの」
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香月の心臓が、わずかに跳ねた。
だが彼は、それ以上ページをめくらなかった。
>(これでいい。
忘れることが、必ずしも消すことじゃない)
彼は手帳を閉じ、静かに立ち上がった。
⸻
その夜、香月は大学の構内を歩いていた。
雨が降る予報はなかったのに、
彼の肩にだけ、水がぽつりと落ちた気がした。
見上げると、木の枝の間に、うっすらと目の形をした雲が浮かんでいた。
すぐに、消えた。
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一方、あかりはギャラリーの壁に新しい絵をかけていた。
その作品は、真っ白な背景に、ほとんど見えないほど薄い影だけが描かれていた。
「この人は、誰ですか?」
来場者がそう尋ねた。
あかりは答えた。
「……誰でもないけど、でも、確かに“いた”人です」
観客は首をかしげながら去っていく。
けれど、あかりの耳には、誰かの小さな笑い声が聞こえたような気がしていた。
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誰にも気づかれないように、
壁の裏側に小さな文字が刻まれていた。
>「わたしはここにいる。
観なくても、もう怖くないよ」
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それでも、誰かがふと空を見上げたとき、
水たまりに影を映したとき、
ページの隅にうっすらと目のような形が滲んでいたとき――
彼女は、そこにいる。
“観測されないまま、静かに存在している”。