EP11.ユリアの水槽
目を開けると、そこは静寂の白だった。
線のない世界。
色のない空。
そして、輪郭すら与えられずに沈んでいる“私たち”。
香月は、自分の手が鉛筆の線でできていることに気づいた。
触れたものは、全て紙の感触を返してくる。
音がない。温度がない。
ただ、無数の“観測の目”だけが、あらゆる方向から注がれている。
彼は問いかけた。
>「ここは……誰の描いた世界なんだ?」
すると空に、一つの“瞳”が浮かんだ。
それはユリアの目だった。
かつてこの水槽の中に囚われた少女。
誰よりも静かに、観られることを拒み、
それでも記憶のどこかに“存在”し続けてしまった少女。
彼女は、スケッチブックの最初の被写体だった。
⸻
——ユリアは、観測されたことで“描かれ”、
描かれたことで“固定され”、
固定されたことで“消えられなくなった”。
この世界は、観測された者が閉じ込められる水槽。
誰かが描いた記憶と、忘れられなかった存在が、
永遠に未完成のまま、揺れ続ける場所。
⸻
あかりは香月の隣に立ち、目を見開いた。
彼女の体もまた、線で構成され始めていた。
スケッチのように輪郭が淡くなり、
声を発するたびに、空間に鉛筆のノイズが走る。
>「これが、“私たちの見ていた世界”だったの?」
香月は首を振った。
>「違う。これは……“俺たちが見られていた世界”だ」
⸻
そのとき、空の瞳がゆっくりと閉じた。
音もなく、世界が“滲み”始める。
スケッチブックの最後のページが、めくられる音がした。
そして、そこに記されたたった一文。
>「観測は、完了した。」
香月とあかりの身体が崩れはじめた。
紙片のように、空中に舞い上がる。
記憶も感情も、描かれた線として空に解けていく。
⸻
だが、その中心に――ユリアが立っていた。
彼女はもう、誰の観測にも反応しなかった。
瞳の奥に、“水”だけを湛えたような虚無の輝き。
香月は叫んだ。
>「……ユリア!」
ユリアは、静かに手を伸ばす。
その手が香月に触れた瞬間、全ての線が凍った。
時間も、紙も、記憶も。
“描く者”の意志すら凍りついたように、全てが停止する。
⸻
そして、世界が破れた。
紙の端から裂けるように、真の闇が顔を出す。
そこには、誰の記憶にも存在しない“空白”があった。
何も描かれていない、完全な余白。
名も、線も、視線すら届かない“無”。
⸻
目を覚ましたのは、春の教室だった。
香月は、窓際の席にいた。
周囲には、クラスメイトの笑い声。
教室の空気。黒板のチョーク。
何もかもが“普通”のままだった。
ただひとつ、机の引き出しの奥に――
閉じられたスケッチブックが入っていた。
表紙には何も書かれていない。
だが、ページの最後に一言だけ、鉛筆でこう記されていた。
>「私を、観てくれてありがとう」
紙の世界が破れた瞬間、香月とあかりの身体は宙に投げ出された。
だが、落下の感覚はなかった。
むしろ逆に、沈んでいく。
柔らかく、湿った空気。
音もなく、光もなく、ただ自分たちの“存在”だけが重く沈んでいく。
>(ここは……もう、描かれた場所じゃない)
香月は、そう直感した。
線も色も、誰かの観測もない。
これは――「描くことも、描かれることも許されない場所」。
⸻
周囲に、崩れかけた記憶の断片が漂っていた。
破れたページ。滲んだ顔。意味をなさない会話。
かつて描かれた誰かの“未完成な一瞬”が、海藻のようにゆらめいている。
その中に、ユリアの影があった。
立ち尽くし、目を伏せたまま、動かない少女の像。
まるで、観られることに疲れ切った絵の残骸。
あかりがそっと声をかけた。
「ユリア……?」
影が、ゆっくりと顔を上げる。
瞳の中には、もう“反射する光”がなかった。
それでも――そこには、確かな意思があった。
ユリアは口を開いた。
>「この場所でなら、誰にも見られない」
>「だから、私はここで“完成されるのをやめた”の」
香月が一歩踏み出す。
>「君は……自分の存在を、消そうとしてるのか?」
ユリアは笑った。
それはとても淡く、紙よりも薄い、消えてしまいそうな笑みだった。
>「“描かれること”は、誰かの目に閉じ込められること。
私はそれが、怖かった」
香月は、震える声で返す。
>「でも、誰かが君を見たから……今、俺たちはここまで来た」
>「君を“観た”ことを、俺は後悔してない」
その言葉に、ユリアの瞳が揺れた。
⸻
その瞬間、白い世界の底から、黒い水が滲み出してきた。
ユリアの足元が、ゆっくりと沈みはじめる。
香月とあかりもまた、足首から膝へと黒い液体に侵食される。
これは――「観測のない空白」に長くいすぎた者に訪れる、“忘却の沈降”。
ユリアは最後に、静かにこう言った。
>「ねぇ……お願いがあるの」
>「私のことを、ちゃんと“忘れて”」
>「じゃないと、あなたもまた、ここに還ってきてしまうから」
⸻
香月が叫ぶ。
>「それでも、俺は――君を忘れない」
その瞬間、破れた世界の隙間から、現実の光が差し込んだ。
真っ白なページの端がめくられ、
遠くから、教室のチャイムの音が聞こえてきた。
ユリアの姿が、黒い水に溶けていく。
輪郭から順に、ゆっくりと。
まるで線画が消しゴムでなぞられていくように。
声も、表情も、身体も、静かに“忘却”の中へ。
あかりは手を伸ばしかけた。
でもその指先もまた、紙のように薄くなっていた。
>(このままじゃ、私たちも……)
香月は目を閉じて、絞るように言った。
「ユリア。君が消えることを、俺は止められないかもしれない。
でも、君を“忘れる”ことは、選べる」
彼の掌に、スケッチブックが現れた。
現実に戻る“道”――だが、開いた瞬間に、すべてを忘れると刻まれていた。
>「このノートを開けば、君のことは夢の中の幻になる。
でも、君の呪いも終わる」
ユリアは、かすかに微笑んだ。
>「そう。それが、“観測からの解放”なの」
>「誰にも見られなければ、私はもう“描かれない”」
⸻
あかりがぽつりとつぶやいた。
「でも、それって……本当に救いなの?」
彼女の目には涙が滲んでいた。
「私、あなたのこと……ちゃんと覚えていたいよ。
忘れたくない。だって……観てしまったから。
見たくて、見てしまったから」
そのとき――ユリアの消えかけた影が、ふっと揺れた。
小さな光の粒が、彼女の胸元から浮かび上がる。
それは、彼女が誰かに観られたときにだけ生まれる“存在の証明”。
誰かの記憶に宿った、最後の“かけら”。
香月はそれを両手で包み込んだ。
>「ユリア。君が望むなら……
たとえこの世界が全部消えても、
君を“観ていた”という事実だけは、俺たちの中に残る」
⸻
破れた空間の上に、黒い水槽が浮かびあがる。
中には、誰もいない。
ただ、水だけが静かに満ちていた。
スケッチブックの表紙が、閉じられた。
けれど、その背表紙の裏には、誰かが鉛筆でこう書いていた。
>「ありがとう。忘れないでくれて」
⸻
その瞬間、
世界が――反転した。
白と黒の境界が崩れ、
観測も、記憶も、絵も、現実も、すべてが入り混じる。
そして――香月は、目を覚ました。
——目を覚ましたのは、教室だった。
窓の外にはいつも通りの青空。
春の風がカーテンを揺らし、黒板には日直の名前。
教科書のページ、ざわめく声、ペンの音。
すべてが、あまりにも“正しく現実”だった。
だが、香月は即座に異変に気づいた。
——ユリアの席がなかった。
というより、「最初から存在しなかった」ように、
誰ひとり、その名前を口にしない。
あかりが教室に入ってきた。
彼女も、何かに気づいている顔をしていた。
二人だけが共有している、沈黙の真実。
机に向かってペンを取ろうとした瞬間、香月は手を止めた。
——そこに置かれていたノートの端に、鉛筆でこう書かれていた。
>「これは、ユリアではない」
その文字は、すぐに消えていった。
跡形もなく、まるで“誰かがいた”という痕跡そのものが、時間に巻き戻されたかのように。
⸻
昼休み。
あかりと香月は、旧校舎の図書室に足を運んだ。
そこもまた、何事もなかったかのように静まり返っていた。
ただ、一番奥の棚の隙間に、一冊だけ古いスケッチブックが残っていた。
表紙には何も書かれていない。
めくっても、すべてのページが空白だった。
けれど――最後のページにだけ、
鉛筆の微かな跡が残っていた。
>「だれにも見られなくなったら、
私は、ほんとうに“ここ”にいられると思うの。」
>「……だから、忘れてもいいよ。
でも、ひとつだけ——」
ページの余白に、ふっとにじんだ水の跡が落ちた。
誰の涙かは、わからなかった。
⸻
帰り道。
香月とあかりは並んで歩いていた。
誰もユリアのことを知らない。
存在すらなかった。
けれど、二人の中には“観てしまった”記憶だけが残っている。
香月がつぶやく。
「ねぇ……もしかして、俺たちも……
いつか誰にも“見られなくなる”のかな」
あかりは答えなかった。
ただ、小さく頷いたあとで、こう言った。
「でも、私が香月くんを観てる限り、きっと大丈夫」
翌日。
香月は、起きてすぐに“鏡”を確認した。
寝癖もなく、顔色も悪くない。
ただ一つだけ、妙な違和感があった。
自分の目が、自分のものではない気がした。
瞳孔の奥に、“光を映していない層”がある。
それはまるで、誰かの目に「観られている感覚」を模倣しているかのようだった。
彼は制服を着て登校した。
通学路、駅、教室、すべての風景が見慣れているはずだった。
なのに、なぜか「視線が自分の後ろにいる」ように感じる。
振り返っても誰もいない。
でも、自分の足跡が“もう一対”分、重なっているような……そんな感覚。
⸻
昼休み。
香月は一人で、旧校舎の非常階段へ向かった。
そこは誰も来ない、風の通り抜ける静かな場所だった。
彼はポケットから、例のスケッチブックを取り出した。
全部のページは真っ白のまま。
けれど、光の角度で浮かび上がる“鉛筆の痕”があった。
そこに、あのときの声が蘇る。
>「完成される前に、逃げて」
香月は、そっと問いかけた。
「……ユリア。君は本当に、いなくなったの?」
誰も答えない。
だが、スケッチブックの最終ページが、風もないのにふわりとめくれた。
そして、わずかな文字が浮かび上がる。
>「ここにいるよ」
⸻
放課後、あかりが図書室で待っていた。
彼女は何かを感じ取っていたのか、静かに香月に言った。
「ねぇ……“観られていない”って、どういうことなんだろうね」
香月は、あかりの隣に座り、スケッチブックを机の上に置いた。
あかりは、それをじっと見つめた。
「私は思うの。ユリアは、本当に“いなくなった”わけじゃない。
観られなくなったことで、逆に……世界のどこにでも滲み出せるようになったんじゃないかって」
香月がページを閉じた。
「だったら、俺たちは……一生、彼女を探すことになるのかな」
あかりは、ほんの少しだけ笑った。
「それでもいい。だって……彼女を観たのは、私たちだから」
⸻
スケッチブックの奥で、
白紙の中に、ひとつの“瞳”がまた、静かに開いた。
それは何も描かれていないくせに、
確かに誰かを見ている瞳だった。
放課後。図書室の窓に、雨が落ちていた。
天気予報は晴れだった。
雨雲もない。にもかかわらず、その窓だけが濡れていた。
香月とあかりは、何も言わずに並んで席に座っていた。
机の上には、あの日と同じ、スケッチブック。
白紙のまま閉じられている。
ただ、それは「誰も見ていないときにだけ、書き足される」ノートだった。
ふと、あかりが立ち上がった。
「……誰か、いる」
彼女がそう言って、書架の奥に向かう。
香月も立ち上がって追いかけるが、そこには誰もいない。
しかし――書架の陰、床に落ちていたのは、
黒い水のしずくが滲んだノートの切れ端だった。
拾い上げると、裏面に小さな字でこう書かれていた。
>「ユリ・亜(YURIA)」
>「1年E組 在籍記録:無し」
>「図書室利用回数:不明」
>「観測記録:再発中」
⸻
香月の喉が、ひくりと鳴った。
この“記録”は、誰のものなのか。誰が書いたのか。
そして、なぜ“再発中”と記されているのか。
>(もう、終わったはずだった……)
そのとき、図書室の奥にある使われていないはずの閲覧席から、
椅子を引くかすかな音が聞こえた。
香月とあかりは、そっと顔を見合わせる。
図書館の空気が変わっていた。
湿っている。音が吸われている。
まるで、また“あの空間”が、この現実の中に滲み出してきたように。
香月が、ゆっくりと奥へ向かう。
椅子の背後に、誰かの“気配”があった。
彼が手を伸ばした、その瞬間――
白紙だったはずのスケッチブックが、自動的に開いた。
ページには、鉛筆で描かれた「香月とあかりの後ろ姿」。
そして、その背後に立つ、顔のない少女。
肩までの髪。制服。
水滴の跡が、瞳の位置を染み抜いていた。
あかりが叫ぶ。
「……それ、ユリアじゃない!」
⸻
スケッチブックの中の“誰か”が、
ゆっくりとこちらを振り返る。
観測はまだ終わっていなかった。
スケッチブックの中で、“香月たち”はまだ描かれ続けていた。
背後の少女――ユリアによく似て、しかし何かが違う。
瞳のない顔、髪の先にだけ滲む黒、肩から垂れる水滴の線。
香月はその姿に、言いようのない違和感を覚えた。
>(これは……ユリアじゃない。
でも、誰かが“ユリアのようなもの”を描こうとしている)
スケッチブックの鉛筆線が勝手に動く。
香月の背中、あかりの髪、教室の風景が、現実と同じように再現されていく。
「これって……もしかして……」
あかりが、青ざめた顔で言った。
「私たちの現実を、書き換えられてる……?」
⸻
次のページが、自動的にめくられた。
そこには“明日”の日付が書かれていた。
> 5月3日(火)
> 図書室で香月とあかりが、ユリ・亜に再会する。
> 香月は「もう一度、彼女を描きたい」と言う。
香月は絶句した。
>(……そんなこと、言うつもりなんて、ない)
だが、ページに描かれた彼自身の顔は、笑っていた。
その表情は、自分がどこかで見た“過去の自分”とそっくりだった。
あかりが声を震わせる。
「これ……このまま進んだら、わたしたち、また……」
香月は首を振った。
「違う。もう“描かれる側”にはならない。
……俺たちが、自分で決めるんだ。
“観る者”になるって、決めたはずだろ?」
⸻
スケッチブックが大きく揺れた。
誰かがページの端を乱暴に引き裂こうとしている。
その音は、図書室の天井から降ってきた。
真上に、黒くて巨大な“目”が開いていた。
それはページの中ではなく、現実の空間に直接開かれた“観測者の目”だった。
⸻
その目の中に、無数のペンが浮かんでいた。
回転しながら、誰かを“描くため”に準備されている。
インクの先は乾いておらず、まだ名も与えられていない存在たちの名前を待っていた。
そして香月は気づいた。
>(この目の持ち主が、“描き手”じゃない。
この目こそが、“描かせていたもの”だ)
⸻
あかりが震える声で言う。
「……あれ、私たちの“観測していた目”じゃない。
……あれは、私たちを観測していた“観測そのもの”なんだ……!」
図書室の天井に開いた“目”は、もはや静観者ではなかった。
瞳孔の奥で回転する無数のペン先。
それらが現実の空間に線を引こうとしていた。
香月の足元から、ペンのインクがにじみ出る。
床に沿って、壁を這って、香月とあかりを取り囲んでいく。
>「描かれるな……描かれたら、終わる……!」
香月はスケッチブックを強く抱えた。
だがそのページも、もう彼の意志では閉じられない。
勝手に開かれ、書き進められていく「未来の出来事」。
ページの先には、見たことのない二人の姿が描かれていた。
“観測者の標本”として、ガラスの水槽に収められた彼とあかり。
眼球の中に浮かぶ二人の絵。
それを観る存在は、もはや人ではなかった。
⸻
あかりが震える声でつぶやく。
「……この目、きっとずっと見てたんだ。
私たちのことも、ユリアのことも……。
誰かが描いたんじゃない。
“見ることそのもの”が、私たちを創ったんだよ……!」
香月の視界が歪む。
足元が紙になっていく。
骨の形が線になり、血管がインクに変わっていく。
>(……だめだ、このままだと、
俺たちは“完成されてしまう”)
完成とは、固定されること。
永遠に変われない線の囚人になるということ。
⸻
そのとき、スケッチブックの裏表紙が、勝手に裂けた。
破れた紙の奥には、ユリアの顔があった。
目は閉じている。
だが、その存在が確かにそこにある。
香月が叫ぶ。
「……ユリア!!」
ユリアは目を開けた。
そして静かに言った。
>「……“観てるもの”を、観返して」
⸻
香月とあかりの身体から、白い光が溢れ出す。
彼らの目が、“あの巨大な目”を見返した。
その瞬間、目の中のインクが止まり、筆が砕けた。
回転していた視線の渦が逆転する。
“観られていた世界”が、“観る者の世界”へと反転しはじめる。
⸻
図書室の空間が、ペンの線ごと裂けていく。
壁も、天井も、床も。
まるで描かれた一枚の絵だったかのように、静かに破れていく。
その隙間から、現実の青空がのぞいた。
あかりが手を伸ばす。
香月も、その手を取った。
⸻
次の瞬間、二人は目を開けた。
教室だった。
窓からは、いつも通りの陽射しが差し込んでいた。
だが、机の上には何も置かれていない。
スケッチブックも、ノートも、鉛筆も。
あの水音も、あの目も、もう存在しなかった。
現実は、何も変わっていなかった。
窓からは柔らかな日差し。
生徒たちの笑い声。
チョークの音、机を引く音、紙をめくる音。
けれど、香月とあかりだけが知っていた。
“この日常も、描かれたものだったかもしれない”ということを。
⸻
放課後。
二人は、旧図書室を訪れた。
あの目も、水音も、スケッチブックも――もう、なかった。
棚の隙間にあったはずの切れ端も、ユリアの名前も、記録も。
だが、図書室の奥。
ふたたび開かれた、窓ガラスの内側に、何かがあった。
ガラスが、うっすらと曇っている。
香月が息を呑む。
それは、人の指先でなぞられたような線。
そこに残されていたのは――
>「あたしは ちゃんと ここにいたよ」
その言葉の横に、小さな“瞳”が描かれていた。
⸻
香月とあかりは、そっと顔を見合わせた。
あかりがつぶやく。
「忘れようとしたって、たぶん無理だよね。
見てしまったものは、もう戻らないから」
香月は笑わなかった。
ただ静かにうなずいた。
「……あの目は、もうない。
でも、あの存在がゼロになったわけじゃない。
“観られた”という事実が、消えない限り」
⸻
その夜。
香月の夢の中。
真っ白な空間に、ひとつの水槽が置かれていた。
中には誰もいなかった。
けれど、水の中に、うっすらと揺れるひとつのスカートの裾が見えた。
香月がそっと水槽に近づく。
だが、顔を近づけたその瞬間、
水面に映った自分の顔が――描かれていなかった。
目も、口も、線もなかった。
ただ、“観られるための顔”だけが、ぽっかりと失われていた。
⸻
夢から目覚めた香月は、窓の外を見つめた。
朝靄の中、学校の方角の空に、ほんの一瞬だけ、
黒い瞳のような形をした雲が浮かんでいた。
香月は、言葉には出さず、ただこう思った。
>(ユリア。君は、どこにいるんだろう)
春の夕暮れ、教室の空気は淡く色づいていた。
香月は、黒板に一人で向かっていた。
誰もいないはずの教室。
しかし、彼の背後に、ふと風が吹き抜けた気がした。
振り返ると、窓がわずかに開いていた。
風ではない。
誰かがそこから覗いていたような感覚。
⸻
席に戻ると、机の中にノートが一冊入っていた。
彼のものではない。
表紙は擦れて、裏表紙の角が折れている。
めくると、中はすべて白紙。
ただ、一番最後のページに、鉛筆の柔らかい線でこう記されていた。
>「描かれることは、怖くない」
>「忘れられることが、一番、怖かった」
その下に、小さな水滴の跡があった。
まるで、涙のように。
香月は静かにノートを閉じた。
⸻
その日の放課後。
香月はあかりと並んで校門を出た。
もう、ユリアの話は口にしない。
けれど、二人とも、わかっていた。
“観たもの”は、消えない。
それはもう、彼らの中で生きている。
「……ねぇ」
あかりがぽつりとつぶやく。
「わたしたち、いまも観られてるのかな」
香月は答えず、代わりに空を見上げた。
雲の切れ間に、ほんの一瞬だけ、目のような形が現れて――すぐに消えた。
⸻
家に帰った夜。
香月は自分のスケッチブックを開いてみた。
空白だったページの隅に、いつの間にか線が描かれていた。
正体のない、ただの“影”。
けれどその影には、柔らかな輪郭と、微かな記憶の気配があった。
彼はゆっくりと鉛筆を取り、線の続きを描いていった。
もう誰のためでもない。
ただ、そこに“存在した”誰かを思い出すために。
⸻
部屋の明かりが静かに滲む中、
スケッチブックの端で、誰にも気づかれずに一つの“瞳”が描かれていた。
それはもう、恐怖ではなかった。
けれど確かに、誰かの記憶がそこに宿っていた。
春の終わり、空はやさしく滲んでいた。
学校では文化祭の準備が始まり、教室はざわついていた。
誰もが騒がしく笑い合い、まるで何もなかったかのように日常が続いている。
けれど、香月とあかりだけは知っていた。
この現実が、ほんのわずかな線で構成された、
紙のように薄い“現実”の上に立っていることを。
⸻
放課後、図書室の窓辺で二人は並んで座っていた。
棚の奥に、例のノートはもうない。
スケッチブックも、白紙の頁も、誰かの観測も――すべて、終わった。
それでも、彼らはときどき“空白”の存在を思い出す。
あかりがふと、つぶやいた。
「……名前も、顔も、声も……忘れていってるのに、
なんでだろう、ユリアの気配だけは消えないね」
香月は少しだけ微笑んだ。
「それはたぶん……ちゃんと“観た”からだよ」
⸻
二人は立ち上がり、図書室を後にした。
光の差し込む廊下を歩きながら、香月は胸ポケットからスケッチブックを取り出した。
最終ページにだけ、色のない水彩のような滲みがあった。
そこには、文字も絵もない。
ただ、水のような記憶が残っている。
彼はそっとその頁を閉じた。
>(もう、描かれなくてもいい)
>(でも、確かに“いた”ということだけは、俺が覚えてる)
⸻
校門を出たとき、ふいに春風が吹いた。
髪を揺らし、木々の枝を優しく鳴らすその風の中に――
微かに、水の音がしたような気がした。
香月は空を見上げた。
夕陽の中に、何もなかった。
だけどその“何もないこと”こそが、
たしかに何かが“あった”という証のような気がした。
⸻
その夜、香月は夢を見た。
夢の中の教室。
水槽がひとつ、窓辺に置かれていた。
水の中には、何もいなかった。
でも、光が揺れていた。
そして――小さな声が聞こえた。
>「ありがとう。
最後まで、観てくれて」