EP10.空白の標本
ユリアが姿を消してから、ちょうど三日が経った。
誰も彼女を探していない。
家族も、学校も、連絡してこない。
ただ、“ユリア”という情報が、誰の中からも消えていた。
その部屋に足を踏み入れたのは、図書委員の香月だった。
>「あれ、ここ……誰か住んでたよな?」
窓際の机。
スケッチブック。
空の水槽。
カーテンの隙間から差す光が、どこか水に似たゆらめきを見せている。
香月は、置きっぱなしになっていたスケッチブックに手を伸ばした。
>(やめたほうがいい)
どこかで、そう思った。
でも、ページは自然と開いた。
——真っ白なページ。
そこには何も描かれていなかった。
はずだった。
だが、光の角度が変わったとき。
紙の繊維に沿って、薄く浮かび上がった影が見えた。
人のような形。
正面を向いた女の子。
髪が長くて、どこか――香月が昔、図書室でよく見かけていた女子に似ていた。
>「……これ、誰?」
香月はページをめくろうとした。
が、その瞬間、スケッチブックが「じわっ」と濡れたような感触を返した。
指先がひんやりとして、次のページに貼りついた。
>(水……?)
否。
それは“水に似た何か”だった。
匂いはしない。色もない。
だが、確かに“濡れて”いた。
——ページの端に、小さな文字が書かれていた。
>「この標本は観測中です。触れないでください」
その文字は、鉛筆の芯で書かれたものではなかった。
彫り込まれていた。
紙の奥に。
いや、“現実のレイヤーの下層”に、何かが刻まれていた。
香月の視線が、部屋の隅に吸い寄せられる。
——誰もいないはずの空間。
でも、そこに確かにあった。
誰かがこちらを“観ている”という、ありえない実感。
彼は立ち上がり、振り返ろうとした。
が、その瞬間。
手にしていたスケッチブックが「ばさっ」と開いた。
風は吹いていない。
けれどページがひとりでにめくられ、止まった。
そこに描かれていたのは、香月自身だった。
——スケッチの中の彼が、今まさに顔をあげようとしていた。
香月は恐怖で凍りついた。
目の端で、部屋の奥に水槽が見えた気がした。
空だったはずのガラスの中。
今、ほんのわずかに水が張られ、
その底に、何かが沈んでいる。
誰かの髪。
誰かの影。
誰かの、描かれたままの“視線”。
香月は、ページに描かれた自分を見下ろしたまま、動けなくなっていた。
スケッチの中の“香月”は、ページの中心に座っていた。
姿勢は今の自分と同じ。
着ている服も同じ。
だが、顔だけが塗りつぶされていた。
鉛筆で何度も往復して黒く塗りつぶされたその部分だけ、
紙が凹んでいる。
香月は、スケッチブックを閉じようと手を伸ばした。
——が、指先にぴたりと、何かぬめりのある感触が張りついた。
見ると、ページの縁から、薄い水のような液体がにじんでいる。
けれど、それは濡れているのではない。
絵の中から“実体が滲み出してきている”ようだった。
香月の背筋が凍った。
視界の端で、部屋の空気が揺らぐ。
まるで水中に沈んでいくように、重力が曖昧になっていく。
——ぐらっ。
足元が沈む感覚。
次の瞬間、香月の意識が、ゆっくりと沈んでいった。
⸻
どこか暗い水底のような場所。
視界が霞み、上も下もわからない。
香月は“誰か”に手を引かれていた。
ぬるりとした手。
冷たいはずなのに、じわじわと体温を奪っていく掌。
その“誰か”は、振り向いた。
——顔がなかった。
頭部は、黒い鉛筆の塗り潰しで構成されていた。
それでも、香月はその存在に“見られている”と直感した。
>「……香月くん」
>「次は、君の番だよね」
声が水を通して響いた。
その声は、かすかにユリアのものに似ていた。
⸻
香月は、叫び声とともに目を覚ました。
教室の机の上だった。
誰もいない放課後。
夕日が差し込むなか、ただひとり置き去りにされたように眠っていた。
息が浅く、手のひらが汗で濡れていた。
——夢?
そう思った矢先、ポケットの中に違和感を覚えた。
取り出すと、それは一枚の紙片だった。
白黒のスケッチ。
そこには、香月が教室で寝ている姿が――寸分違わず描かれていた。
裏には、細い文字でこう書かれていた。
>「観測標本:No.2」
>「覚醒前記録、取得済み」
香月は、紙片をそっと机の中に押し込んだ。
>(悪い夢を見たんだ。そうだ、きっと……)
そう思いたかった。
だが、その瞬間だった。
教室の時計が、「カチ、カチ、カチ」と異様に響いた。
静まり返った空間の中で、それだけがやけに大きく、まるで耳の奥に直接刻まれるように。
時間は――止まっていた。
時計の針は、17時26分で止まったまま、音だけが進んでいた。
秒針は動かないのに、「カチカチ」という音は鳴り続ける。
視線を逸らすと、廊下の掲示板が見えた。
そこに貼られているポスターの文字が、微かに――揺れていた。
「保健委員会のお知らせ」
のはずが、見るたびに文字の一部が、微妙に変わる。
「保険……」
「保見……」
「保、……標本?」
香月は思わず目をこすった。
だが、こすった直後、ポスターの紙が一瞬だけ、スケッチの紙の質感に見えた。
ざらりとした、鉛筆の擦れ跡。
輪郭をはみ出さない、人工的な影。
そして何よりもおかしいのは――
そのポスターに、“自分が立っている今の教室”の様子が描かれていたことだった。
香月は、凍りついた。
ポスターの中に、小さな黒い点がある。
それはまるで“監視カメラのレンズ”のようだった。
だがここにカメラはない。
ポスターが、“観ている”のだ。
>(また……観測? 俺が、見られてる?)
意識すればするほど、教室の風景に違和感が増していく。
机の影が、同じ角度でしか伸びていない。
壁の時計が、時間に関係なく「影」を持っている。
窓から差す光が、夕方のはずなのに、水面の反射のように揺れている。
香月は、急いで鞄を手に取った。
この場所にいてはいけない。
早く帰るべきだ。
だが、ドアノブに手をかけた瞬間――
誰もいないはずの教室の後ろの窓ガラスに、“もう一つの背中”が映った。
自分のものではない。
でも、自分とよく似た制服と髪型をしていた。
振り返ると、そこには誰もいなかった。
だがガラスの中には、まだ“それ”がいた。
香月は見てしまった。
スケッチのように輪郭が崩れかけた、ユリアの影が――教室の中に、確かに存在していた。
ただし、それはもう人ではなかった。
描かれかけ、破りかけ、修正されかけたまま、
永遠に未完成なまま保存された存在。
香月が小さく呟いた。
>「……なんで……ユリア……?」
ユリアの姿は、もう声に反応しない。
ただ、観測する目だけをこちらに向けて――そのまま、ふっと消えた。
次の瞬間、机の上に一冊のスケッチブックが置かれていた。
——開かれていた。
その最初のページに描かれていたのは、
放課後の教室で立ち尽くす“香月”の姿だった。
開かれたスケッチブックの最初のページ。
そこに描かれていた“自分”を見た瞬間、香月は本能的に背筋を冷たくした。
それは、あまりにも今の自分と“一致”していた。
立っている位置、体の角度、手の動き。
違うのは――目だけだった。
スケッチの中の“香月”の目は、くり抜かれていた。
瞳の部分だけ、円く削られ、
そこに紙の下層が露出していた。
>(描いた誰かが……俺の“視覚”だけを奪ってる?)
ページを閉じようと手を伸ばした。
しかしそのとき、紙の下から「じわっ」と水が滲み出てきた。
紙の質感が変わる。
どろどろとした墨のような黒が、線の隙間を浸していく。
香月の足元が冷たい。
教室の床はいつの間にか、水槽の底のような感触を持ちはじめていた。
コツ……
コツ……
誰かの足音が、教室の外から近づいてくる。
廊下は無人のはずだ。
それでも足音は、香月の名前を知っているかのように、迷いなく近づいてくる。
>(来る……!)
香月はとっさに、スケッチブックを閉じようとした。
だが、その手に引っかかったのは――破れかけたページの断端だった。
そこには、まだ“何か”が描かれていた。
鉛筆の走り書きのような、判読できない線。
だが目を凝らすと、わずかに読めた。
>「やぶらないで。まだ、描いてる」
その瞬間、香月の背後の黒板が音もなく落ちた。
反射的に振り返る。
だがそこには、黒板ではなく――巨大なガラス面があった。
まるで水槽のような透明な壁。
香月の姿が、そこにぼんやりと映っていた。
だが鏡像の中の“香月”は、一瞬、別の動きをした。
実際の香月は動いていないのに、ガラスの中の彼だけが、ゆっくりと口を開いた。
>「きみは……もう、“外”には戻れないよ」
映像の中の“自分”が微笑む。
その顔は、ユリアと混ざっていた。
頬の線、まつ毛の濃さ、唇の歪み方。
それは、かつてスケッチされたユリアの残像と、香月自身の輪郭が混合された、“誰でもない誰か”の顔だった。
⸻
その夜。
香月はようやく自宅に戻った。
だが、玄関の鏡に映った自分の顔に、奇妙な違和感を覚えた。
輪郭が……少しだけ、鉛筆で引かれたような硬さを持っていた。
肌の色が……わずかに、紙のように反射しない白になっていた。
瞳が……ほんの一瞬、自分の動きとズレて動いたように見えた。
>(誰かが……描いてる)
胸の奥に、強烈な不安が広がった。
そして、机の上に置かれていたスケッチブックが、勝手にページをめくった。
次に描かれていたのは、
“ベッドに横たわる香月”の姿だった。
その絵の中の香月は、既に――目が閉じられていた。
夜。
香月は机の前に座っていた。
目の前には、静かに開いたままのスケッチブック。
ページは、自動で開いたまま止まっている。
「ベッドに横たわる香月」のページ。
だが、それはまだ未完成だった。
目を閉じた自分の輪郭が、薄く、途切れ途切れに描かれている。
背景はまだ塗りかけで、線も荒い。
まるで、描き手が迷っているかのように。
香月は、机の引き出しからカッターナイフを取り出した。
>(破こう。これを……破けば、終わる)
スケッチブックの紙に刃を当てた瞬間、
部屋の蛍光灯が「パチン」と消えた。
真っ暗。
何の前触れもなく、闇が落ちた。
香月は息を止めた。
目が慣れるまでの数秒間が、異常に長く感じられる。
闇のなかで、誰かの息遣いが聞こえた。
ゆっくりと。
浅く。
だが、確かに“すぐ隣”に。
ナイフを握る手が震える。
だが――そのとき、スケッチブックのページが勝手にめくれはじめた。
ぱさっ……ぱさっ……
風のない部屋で、ページだけがどんどん開かれていく。
やがて止まった先には、新たなスケッチが現れていた。
——それは、ユリアの顔だった。
けれど、よく見ると違和感があった。
その顔は、香月が記憶していたユリアではなかった。
笑い方が違う。目の形も。
そして何より、その“ユリア”は――香月と似ていた。
頬の輪郭、眉の形、骨格。
>(俺を、描いてる……? ユリアを、通して?)
その瞬間、スケッチブックの“ユリア”が口を開いた。
——絵の中の存在が、喋った。
>「完成するのが、こわい?」
>「なら、描かれなくなればいい。観られない存在になれば、自由になれるよ」
香月は呆然とする。
>「でもね」
>「そのとき、君自身も、誰からも思い出されなくなる。」
ナイフを持つ手が止まる。
破れば、逃れられる。
けれどその代わりに、自分が“誰にも知られなくなる”。
名前も。
記憶も。
存在した痕跡すら――消える。
香月は震えながら、絵のユリアに問うた。
>「……それでも、生きていられるのか?」
絵の中のユリアは、静かに笑った。
>「“存在”と“観測”は、べつのものだよ」
>「君が“本当に見たい”ものだけを、もう一度だけ描いてみて」
次の瞬間、香月の目の前に、空白のページが現れた。
鉛筆は、勝手に机の上に転がっていた。
香月の手が、ゆっくりとそれを握る。
香月は鉛筆を手に取った。
目の前には、何も描かれていないページ。
けれどそれは、ただの紙ではなかった。
まるで水面のように、ほんの少しだけ揺れている。
——何を描く?
——どうすれば、逃れられる?
脳裏に浮かぶのは、かつて図書室で見かけたユリアの姿。
静かにスケッチしていた背中。
誰にも話しかけず、でも確かにこの世界に存在していた少女。
>(俺は……あのとき、彼女を“見ていた”。)
誰も彼女に話しかけない中で、
自分だけが彼女を見つめていたことに、いまさら気づく。
>(あの視線が、彼女を“観測”してしまったのか?)
香月は、ページの中心に一本の線を引いた。
——スッ。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
鉛筆の線が、空間を切り裂いたように、
音が途切れ、空気が重くなり、視界がほんの一瞬“揺れた”。
線を引くたびに、世界の“下”にあるものが浮き出してくる感覚。
香月は、輪郭を描いた。
ユリアの顔のようであり、
でも、どこか自分自身にも似た誰かの顔。
目を描こうとしたとき――手が止まった。
視線を感じた。
振り向くと、窓の外。
真っ暗な夜のガラスに、“ユリアの目”だけが浮かんでいた。
白目もなく、瞳だけが暗闇にぽつんと光る。
その目が、香月の手元を見ていた。
>「描いてはだめ」
>「また、誰かを巻き込む」
声が、紙の下から滲んで聞こえてきた。
香月は震えた手で、筆を止めた。
>(これは……罠なのか? 描いた瞬間、“次の観測対象”が決まる?)
でも、もし何も描かなければ――
今度は自分が、完成されてしまう。
ページの端に、小さな文字が滲んだ。
>「“空白”こそが、一番美しい」
>「それを観た者は、永遠に目を離せない」
鉛筆の芯が折れた。
香月は立ち上がり、スケッチブックを閉じようとした。
だが、ページが勝手に捲られる。
一ページ、一ページ、まるでフィルムのように。
そして最後のページに、誰も描いていないはずの“現在の香月の顔”が現れた。
目を開いている。
こちらを、じっと見返してくる。
——香月の顔は、もう完全に“紙の質感”になっていた。
香月は、ゆっくりと後ずさった。
最後のページに描かれていた“自分の顔”は、
たしかに現実の彼と同じ表情をしていた。
ただ――その紙の中の“顔”だけが、わずかに笑っていた。
>(あれは……俺じゃない。俺を模した、“完成形”だ)
スケッチブックの周囲の空間が、波打っている。
まるで部屋全体が、水槽のような透明な壁で囲まれていく感覚。
音は鈍くなり、重力が不均衡に傾き、床の質感が変わる。
カサ……カサ……
足元で音がした。
見下ろすと、自分の足元に紙片の人影が現れていた。
薄い紙の影。
まるで、香月自身の“型抜き”のような白い人影。
それは、香月の動きと完全に一致している。
だが、数秒だけ遅れて、まるで録画のように反応している。
そして、その影の中央に、小さな“目”が開いた。
瞳孔のない、灰色の円。
>「観測を……終了するには、“次”が必要だ」
香月の背後で、声がした。
振り返ると、ユリアの影がいた。
スケッチのように輪郭が揺らいでいて、現実のどこにも“焦点が合っていない”存在。
ユリアは静かに言った。
>「私も、誰かの目に映っていた。だから、描かれた」
>「君も今、観測されている」
>「でもね、次に“誰か”を差し出せば、君は完成しない」
香月は、言葉を失った。
スケッチブックの上に、新しいページが一枚だけ現れる。
そこには、まだ何も描かれていない。
——でも、その紙の端に、一人の名前がすでに滲んでいた。
>「夏井あかり」
クラスメイトの名前だった。
香月と同じ委員会に所属していた、静かな少女。
人目を避けるように、図書室でノートを開いていた子。
>「観測の対象が移れば、君は解放される」
>「ただし……その瞬間から、彼女は“描かれはじめる”」
香月は、鉛筆を握ったまま動けなくなった。
――自分が“観た”というだけで、誰かをこの世界に引きずり込んでしまう。
それを防ぐには、自分が完成されるか、誰かに引き継ぐしかない。
スケッチブックのページが、風もないのにパラパラと揺れる。
そして、香月の足元の影が、勝手に“描くような手の動き”をしはじめた。
香月は、つぶやくように言った。
>「……俺は、描かない」
>「誰かを、“観た”まま終わらせたりしない」
だがその言葉を聞いたユリアは、笑った。
>「君が選ばなくても……“影”が選ぶのよ」
香月の背後、壁に映る彼の影が、ゆっくりと独立し始めていた。
肩がずれ、髪が揺れ、目だけがゆっくりと動いて――
その視線の先には、クラスの集合写真。
そして、そこに写っている夏井あかり。
影が、勝手に動いていた。
香月が静止しているにも関わらず、壁に映った彼の影は、ゆっくりと腕を動かし始めていた。
まるで見えない鉛筆を持っているように、
何かを“描き写す”しぐさを繰り返している。
その指先が宙に描いた線は、空間に残ることはなかった。
だが、香月にはわかった。
>(……あれは、あかりを描こうとしてる)
「やめろ」と言おうとした。
でも声が出ない。
喉の奥に、何かが張り付いたような圧迫感。
口を動かすたびに、カリ……カリ……と紙を削るような音だけが鳴る。
香月の視界が、ぼやけた。
頭の奥で、誰かの記憶が混ざり込んでくる。
⸻
——図書室の静寂。
本棚の影でひとりノートを開く、あかりの姿。
ふとした瞬間、こちらを見た瞳。
話しかけなかった、あの日の自分。
それでも、
確かに“彼女を観てしまった”。
⸻
香月の手元で、スケッチブックがパタリと閉じた。
その表紙に、新たな文字が浮かび上がっていた。
>「No.3:観測候補——ナツイ アカリ」
香月は息を呑んだ。
すぐにスマートフォンを手に取り、あかりに連絡を取ろうとする。
しかし――
あかりの連絡先が、端末から消えていた。
検索しても出ない。
メッセージ履歴すら空白。
まるで、最初から“存在していなかった”かのように。
だが、それでも香月の記憶には残っている。
>(このままだと……彼女まで“描かれる”)
そのとき、机の上のノートが勝手に開いた。
——あかりが残していた、読書感想文のコピーだった。
だが、本文の文字はすべて掠れ、
ページの余白にこう書かれていた。
>「見ないで」
>「私は、“完成したくない”」
⸻
一方その頃。
夜の図書室。
本棚の奥で、あかりは立ち尽くしていた。
彼女の影だけが、床にべったりと広がっていた。
照明の方向に関係なく、影は“前に”伸びていた。
机の上に置かれた一冊のスケッチブックが、ゆっくりと開く。
誰もいないはずのそのページに――
「次は、あなた」と記されていた。
誰かに見られている気がしていた。
夏井あかりは、静まり返った夜の図書室でページをめくる手を止めた。
本の文字が、妙に浮き上がって見える。
かと思えば、次の瞬間には掠れ、かすかな鉛筆の跡のような線が混じる。
>(……目が疲れてるだけ。そう、自分に言い聞かせて)
けれど、違和感は積み重なっていた。
本棚の間を歩くとき、視界の端で自分の影が先に動くこと。
ノートの余白に、自分が書いていない線画が増えていること。
教室での机の配置が、微妙に“昨日と違う”こと。
——そしてなにより、
「名前を呼ばれる回数」が減っていた。
朝の出席でも、先生は一瞬、あかりの名前に詰まった。
クラスメイトがこちらに視線を向ける回数も、明らかに減っていた。
>(忘れられてる? いいえ、違う……“描き換えられてる”)
そんな感覚が、胸の奥に澱のように沈んでいた。
⸻
ふと机の上に置いたノートが、風もないのにページをめくる。
開かれたのは――誰も描いていないはずの、スケッチ。
そこには、あかり自身が描かれていた。
上からの視点。
図書室の中で、ページをめくる自分の姿。
>(見られてる……どこから? 誰に?)
あかりは身を固くした。
周囲を見回す。誰もいない。
でも、わかる。
“この世界のどこかに、カメラではない“視線”がある。”
⸻
そのとき、
机の下から、誰かの声が響いた。
それは、紙をこすり合わせるような音にまじって、
かすれた声でこう言った。
>「次のページを、見ないで」
あかりは凍りついた。
だが、目を逸らすことができない。
ノートのページは、勝手に一枚めくられていた。
そこに描かれていたのは――“あかりの顔”。
ただし、それは未完成だった。
口元と鼻筋はあるが、目が塗り潰されていない。
そして、ページの端に、鉛筆で震えるようにこう書かれていた。
>「完成される前に、逃げて」
その瞬間、図書室の蛍光灯が“ぱちん”と弾けたように消えた。
音もなく、暗闇がすべてを包み込む。
あかりは咄嗟にノートを閉じ、立ち上がる。
だがその足元には、自分と同じ姿をした“影”が、もうひとり分広がっていた。
その影は、あかりと逆の動きをしていた。
あかりが後ずさると、影は一歩、前へと進んだ。
>(これは、“誰かの模写”……? 私が、複製されようとしてる?)
背後から、何かがノートの中に吸い込まれていく音が聞こえた。
ページとページの間から、空気が引き裂かれるような異音。
引力のない世界に、身体の一部がゆっくりと“紙面”に取り込まれようとしていた。
図書室の闇の中で、あかりは震えていた。
“自分と逆の動きをする影”は、まるで試すように、彼女の一歩先を歩んでいく。
ページの上では、自分の名前が刻まれていた。
誰かに観られている、誰かが“描こうとしている”という感覚が、今や確信に変わっていた。
と、そのとき。
携帯が震えた。
画面には、香月陽翔の名前が表示されていた。
>(なぜ……)
でも、救われたような気がした。
彼だけは、自分の“異常”に気づいている。
彼だけは、まだ“現実に立っている”存在なのではないかと。
あかりは通話ボタンを押した。
「……香月くん?」
受話器越しの声は、かすかに震えていた。
>「あかり……君、今どこにいる?」
「図書室。でも、たぶん……普通の図書室じゃない」
言葉を交わすごとに、二人の空間が“重なっていく”のを、あかりは感じた。
背後の空気が少しずつ色を失っていく。
机の輪郭が、スケッチの線のようにゆらめきはじめる。
香月の声が、紙を擦る音に混ざっていく。
>「……今すぐそこを出て。君は“描かれている”……! でも、まだ完成してないんだ」
「私……動くと、影が先に動くの。
私の意思よりも、影のほうが“本当の私”みたいに、先回りして……」
香月が言った。
>「それ、俺にも起きた。君も“対象”になってる」
>「でも、まだ“誰かに完成される前”なら……抜け出せるかもしれない」
あかりの足元で、ページがめくれた。
図書室の床一面が、紙でできた海のように波打ち始めた。
その紙の中央には、あかりの影が“見下ろした視点”で描かれていた。
目のない顔。
動き出す線。
そして、そこに添えられた言葉。
>「香月も、描かれてる。」
「香月くん……スケッチブックの中に、あなたの“顔”があったの。もう……あれ、あなたなの?」
香月の声が一瞬、途切れた。
>「それでも、俺は……君を助けたいって思ってる。
もし、それすら“描かれてること”だとしても――選びたいんだ。自分で」
その言葉に、あかりは黙ったまま、ゆっくり頷いた。
ただし、それは――すでにスケッチブックの中で描かれていた一場面だったかもしれない。
⸻
その瞬間、図書室の天井に開いた“黒い穴”から、
鉛筆のように尖った影が、ゆっくりと下りてくる。
それは、香月が以前に見た“紙のユリア”と同じ構造をしていた。
輪郭は未完成。
表情は貼りつけたような笑顔。
足音はないのに、確実に近づいてくる“描かれた存在”。
あかりは、電話を切った。
目の前のページに、ひとつだけ文字を書き残す。
「私、完成したくない」
そして、スケッチブックを閉じ――
その場から消えた。
香月の手の中で、通話が切れたスマートフォンが震えを止めた。
それは、通信が途絶えたのではない。
相手が、“紙の向こう側”に消えたのだと、彼は直感していた。
あかりはもう、あの世界に取り込まれてしまった。
ページの中。描かれた線の中。
「完成される前に逃げて」と訴えながら、それでも自ら残った。
>(今度は俺が、観測し返す番だ)
香月はスケッチブックの最初のページをめくった。
そこには、かつて描かれた“ユリア”がいた。
だがその輪郭は、もうユリアではなかった。
目の位置が香月自身に似てきている。
笑い方が、あかりに似ている。
それは、「観測されてきた者たち」が“上書きされた”結果。
>(描かれるとは、消えることだ)
>(観られるとは、壊されることだ)
香月はページの間に指を滑らせた。
すると、ほんの一瞬、紙の間から“冷たい空気”が流れてきた。
その風の中に、声が混じる。
>「カズキくん」
>「あなたは、どんな絵になりたいの?」
それはユリアの声であり、
あかりの声であり、
かつて描かれた者たちの“残響”だった。
香月は静かに息を吸い込み、最後のページを開いた。
そこに、小さな扉のような構造が描かれていた。
紙でできたその扉の“ノブ”に、彼は自分の指を重ねた。
ほんのわずかに、ページが沈んだ。
世界が、歪んだ。
⸻
目の前に広がるのは、
スケッチブックの中の、もうひとつの世界。
空は白紙。
建物の輪郭は鉛筆線。
人影たちは、未完成の“存在未満”としてぼやけている。
その中に、ひとつだけ色のあるものがあった。
——夏井あかり。
制服姿のまま、誰にも見られないまま、ひとり佇んでいる少女。
彼女は香月に気づき、目を見開いた。
だがその顔は、すでに「一部が塗り終わっていた」。
頬の輪郭、髪の線、瞳の反射。
誰かが“描き続けている”最中だった。
香月は叫ぶように手を伸ばす。
>「あかり!」
彼女が振り返ったそのとき――
空から、無数の“鉛筆”が降ってきた。
黒く、鋭く、滑らかに。
彼らを“完全な絵”にするための描線の雨が始まった。