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EP1.静かな水音

 ぽとん……ぽとん……。


 台所の蛇口を閉め忘れたかと思い、隼人は椅子から立ち上がった。

 けれど、台所は乾いている。蛇口もしっかり締まっていた。

 それなのに——どこかで、水音がする。


 ——ぽとん。ぽとん。

 まるで心臓の音のように、ゆっくりと、確かに。


 気づけば、リビングが異様に静まり返っていた。テレビの電源は切れていて、さっきまで妻がかけていた音楽も止まっている。

 耳の奥に残っているのは、あの水音だけ。


 隼人は眉をひそめ、視線をゆっくりと右へ向けた。

 ——その瞬間、全身の毛穴が開くような悪寒が走った。


 水槽の中に、ユリアがいた。


 正確には、水槽の中で笑っていた。


 リビングの壁際に置かれた大型のアクアリウム。元々は隼人の趣味で、観賞用の熱帯魚を飼っていた水槽だ。だが今、そこに魚の姿はなく、代わりに、ユリアの全身が沈んでいた。


 長い髪が水中でゆらゆらと揺れ、薄く開いた瞼の奥から、黒い瞳が隼人をまっすぐに見つめている。

 その唇は、まるで笑っているようにわずかに吊り上がっていた。


 呼吸も、身動ぎ(みじろぎ)もない。

 けれど、確かに生きているように見えた。

 隼人は声を出そうとしたが、喉が固まって出てこない。


 水槽の中のユリアが、かすかに首を傾けた。

 それは「ただいま」とでも言っているかのようだった。


 「……ユリア?」


 ようやく絞り出した声は、自分でも分からないほど震えていた。


 返事はない。ただ、水音だけが続いている。

 ぽとん。ぽとん。ぽとん。


 視界の隅で、水槽の下に水溜まりが広がっていくのが見えた。

 まるで、ユリアの体から染み出しているかのように、濁った水がじわじわと床に染みていく。


 隼人はようやく体を動かし、水槽に駆け寄った。

 その瞬間、水槽の中のユリアが、目を見開いた。


 ぶくぶく、と泡が上がる。

 口が、ゆっくりと開かれていく。


 そして、耳の奥で確かに聞こえた。


 >「……たすけて」


 次の瞬間、隼人の視界は真っ黒になった。


 ——気がつくと、隼人はリビングの床に倒れていた。


 頭が重い。瞼の裏に、まだ水槽の中のユリアの“目”が焼きついている。

 壁時計を見ると、たった数分しか経っていないようだが、全身は冷たい汗でぐっしょり濡れていた。


 「夢……か?」


 口にしてみても、答えは返ってこない。

 隼人は震える腕をついて、ゆっくりと身体を起こす。

 恐る恐る顔を上げ、水槽を見た。


 そこには——何もいなかった。


 ただの、いつも通りの水槽。

 底には白い小石が敷き詰められ、オレンジ色のグッピーが数匹、静かに泳いでいるだけ。

 水面も穏やかで、滴る音など微塵もない。


 けれど。


 水槽の下のフローリングは、濡れていた。


 明らかに水が溢れたような、滲むような水痕。

 その先には、ぽたり、ぽたりと今も音を立てる水たまりがある。

 だが、水槽自体にひびや破損は見当たらない。


 「……なあ、ユリア?」


 隼人は自分の声がひどく震えていることに気づいた。


 キッチンの方で、カチャリと食器の音がした。


 「……?」


 首を巡らせると、そこにはエプロン姿のユリアが立っていた。

 何もなかったような顔で、茶碗を洗っている。


 「……あれ、どうしたの? 顔、真っ青よ?」


 振り返ったユリアは、いつも通りの優しい笑みを浮かべている。

 水槽の中で沈んでいた“あの顔”とは明らかに違う。


 隼人は言葉を失い、口元に手を当てた。


 「……さっき……水槽の中に……」


 「え?」


 「……お前が……いたんだ。水槽の中に……沈んで……」


 ユリアは一瞬だけ、手を止めた。


 そのまま数秒、瞬きもせず、じっとこちらを見ていた。

 目の奥が、ほんの僅かに揺れた気がした。

 ——まるで、水の表面に波紋が広がるように。


 だが、すぐに笑って言った。


 「やだなあ、そんな怖いこと言わないで。私、ずっとキッチンにいたわよ?」


 そう言って、水の音を立てながら再び食器を洗い始める。

 その音が——妙に耳につく。

 水をすくう音、流れる音、沈む音。

 水槽で聞いた音と、そっくりだ。


 「……なあ、ユリア……」


 「なに?」


 振り返った彼女の頬に、一筋の水滴が流れていた。

 洗い物をしていたからだろうか。それとも——


 「……なんでもない」


 隼人は答えられなかった。


 ただその夜、シャワーを浴びたとき。

 頭を洗っている最中、目を閉じた暗闇の中で——


 すぐ後ろに誰かが立っている気配が、はっきりとした。


 そして、耳元で、微かに泡立つような声が囁いた。


「——わたし、ずっと、ここにいたの」


 その夜、隼人は眠れなかった。


 寝室のベッドに横たわっても、瞼を閉じるとすぐに思い出す。

 あの、笑ったまま水に沈んでいたユリアの顔。

 あれは夢だったのか? それとも——


 枕元に寝息はない。ユリアはまだ起きているのかと隼人は思い、隣を見た。

 だが、そこには誰もいなかった。


 真っ白なシーツが、ほんの少しだけ湿っている。


 「……え?」


 指先で触れると、冷たい。まるで誰かが、濡れたままそこに横たわっていたような。

 嫌な汗が額を伝う。


 ユリアは、リビングにいた。


 真っ暗な部屋の中、ソファに腰掛け、テレビもつけずにただ水槽を見つめていた。

 闇に浮かぶその横顔は、異様に静かで、無表情だった。


 隼人が声をかけようとしたそのとき——


 水槽の中から、バチャン、と何かが跳ねる音がした。


 反射的に視線を向ける。

 だが、水槽の中には何も変わったものは見えない。魚たちは大人しく泳いでいる。


 「今の音……」


 隼人がそう言いかけた時、ユリアが振り返った。


 その顔は、笑っていなかった。

 いつもの柔らかな微笑みではなく、どこか、抜け落ちたような表情だった。

 焦点の合わない目で、まるで彼が“誰なのか”を忘れてしまったようなまなざし。


 「……ねえ、隼人」


 掠れた声で、ユリアが言う。


 「水の中って、静かで、気持ちいいのね」


 その言葉に、背筋が凍る。

 ユリアは、まるでそれを経験したことがある人間のように言った。


 「……なに、言ってるんだよ」


 隼人が問い返すと、ユリアはゆっくりと瞬きし、口元だけで笑った。


 「——私、見ちゃったの。底に沈んでたの。もう一人の私を」


 そのとき、隼人の耳にまたぽとんと水音が届いた。


 振り返る。水槽の中——

 魚たちの間に、髪のようなものがふわりと漂っていた。


 次の瞬間、照明がパチンと切れ、部屋は闇に沈んだ。


 闇の中、ただ水の音だけが響く。


 ぽとん、ぽとん、ぽとん。


 それはまるで、部屋中に染み渡っていくような音だった。


 照明が落ちたのは、一瞬のことだった。


 パチッという音と共に、再び部屋が淡く照らされる。

 だが、隼人の体はまだ硬直していた。

 足元から、じっとりと冷たいものが這い上がってくるような感覚。全身が水に濡れているかのような、不快な錯覚。


 「……ブレーカーか?」


 そう思って立ち上がろうとしたときだった。


 水槽が、揺れていた。


 静かに、だが確かに。

 中の水が、内側から叩かれるように“波打って”いた。

 水面には泡がぷくぷくと浮かび、魚たちは怯えたように端へ逃げている。


 「……ユリア?」


 振り返る。

 だが、さっきまでソファに座っていたはずのユリアが、いない。


 その瞬間、背後の水槽がバシャッと跳ねた。

 水が数滴、顔にかかった。

 生ぬるく、ぬめりを帯びた水。


 嫌な感触を拭おうとして、隼人はふと、自分の手の甲に何かが貼りついていることに気づく。


 見れば、それは髪の毛だった。

 濡れた長い髪が、手にからまりついている。


 「っ……!」


 慌てて振り払うが、それはまるで生き物のようにぬるりと肌を這い、絡みつこうとしてきた。


 ——そのとき、背後から、声がした。


 >「……どうして、見ちゃったの?」


 振り向いた先にいたのは、ユリアだった。


 だが——顔が、違っていた。


 まるで水の中に長く沈んでいたかのように、皮膚は白くふやけ、唇は紫がかっていた。

 それでも彼女は笑っていた。にやりと、裂けるように。


 目が合った瞬間、ユリアは首を傾けた。


 >「あのね、もう一人、私がいるの」


 そう言って、彼女は水槽の中を指差した。


 隼人は恐る恐る振り返る。


 ——そこに、もう一人のユリアがいた。


 同じ顔、同じ髪、同じエプロン姿。

 ただしこちらは、目を閉じ、静かに沈んでいる。

 まるで、最初に見た“ユリア”そのものだった。


 「こっちが、本物なのよ」


 背後のユリアがそう囁いた。


 次の瞬間、水槽の中のユリアが、ぱちりと目を開けた。


 ぱちり——という音が、確かに聞こえた気がした。


 水槽の中で眠っていた“ユリア”が、目を開けた。


 白目の部分は濁り、虹彩はまるで水面の反射のようにきらきらと揺れている。

 そのまま、ふわりと髪をたなびかせながら水中で手を動かし、ガラス越しに隼人の方へ顔を向けた。


 ——笑っている。

 口を、ゆっくり、ゆっくり開きながら。


 けれどその笑みは、どこか“造られた笑顔”だった。

 筋肉の動きがどこかぎこちなく、まるで水の中で動くことに慣れていない異物のようだった。


 背後にいた“もう一人のユリア”が、ぽつりと呟く。


 「ねえ……隼人は、どっちの私が好き?」


 その問いかけに、喉が固まり、声が出ない。


 目の前の水槽では、もう一人のユリアがガラス越しに手を当てていた。

 その手は細くて白くて、でも爪がほんの少し剥がれている。

 血の色も、薄く滲んでいる。


 「どうして……こんな……」


 ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。


 ユリアは笑う。水槽の外にいるほうの、乾いたその笑み。


 「……忘れたの? あなたが沈めたんだよ」


 隼人の心臓が跳ねた。


 「なにを……言ってるんだ……」


 「咲子。覚えてるでしょ?あの川のこと。あの夜のこと。

 あなたは私の手を……離したの」


 「やめろ……!」


 「だから、代わりに“ユリア”が来たの。ね?優しかったでしょ、私」


 水槽の中のユリアが、にやりと口を裂いた。


 「でも、もう限界。水の底って、寂しいのよ。

 やっぱり、あなたも一緒に来てくれなきゃ——ねえ、隼人」


 ユリアの指が、水槽のフタをそっと開ける。


 その瞬間、水の中のユリアがぐっと手を伸ばし、ガラスを叩いた。


 バンッ、バンッ、バンッ!


 水槽が揺れる。水がこぼれる。

 部屋中に、水音があふれる。


 そして——


 水槽のガラスが、ひび割れた。


 そこから、生臭い水と共に、青白い手が突き出された。


 バリッ——!


 水槽の正面ガラスに、蜘蛛の巣のようなひびが走った。


 ひび割れの中心から伸びた指先は、青白くふやけていて、まるで死後何日も経った遺体のようだった。

 その手がガラスを押し、めきりと音を立ててひびが広がる。


 「やめろ……!」


 隼人は叫びながら、後ずさった。

 だが、足が水に滑って転びそうになる。

 床一面に広がっていたはずの水たまりは、もう膝のあたりまで来ていた。


 いつの間に——こんな量の水が?


 リビングの床は、まるで浅い湖の底のように歪み、家具の足元も水に浸っている。

 水面には髪の毛や小さな泡が浮かび、空気が重く濁っていた。


 「ユリア……お前……違うだろ、ユリアじゃない……!」


 目の前で、もう一人の“ユリア”がゆっくりと水槽から身を乗り出してくる。

 異常に長く伸びた黒髪が、水を滴らせながら床に垂れる。


 口元はひたすらに笑っている。

 目は、ずっと隼人だけを見ていた。


 「——見てしまったものは、戻れないのよ、隼人」


 ユリアの声は水の中から聞こえるように、こもって響いた。


 そのとき、後ろから誰かに手首を掴まれた。


 「っ……!」


 振り向くと、そこには“もう一人のユリア”——さっきまでソファに座っていたはずの妻が立っていた。


 「大丈夫……私が守ってあげる。ほら、来て……」


 だがその手は、あまりにも冷たく、ふやけていて、

 爪が一部、剥がれていた。


 「お前も……“そっち側”なのか……?」


 問いかけると、ユリアはゆっくりと頷いた。


 「うん……でも、大丈夫。水の中は、ね……静かで優しいの。何も、思い出さなくていい場所よ」


 次の瞬間、背後で水槽が砕けた。


 激しい音とともに、リビングに大量の水が流れ込む。


 その濁流の中で、隼人は転倒し、頭を強く打った。

 視界がぐらりと傾き、天井が揺れ、泡のように白い光がちらつく。


 遠ざかっていく意識の中、ユリアがそっと耳元で囁いた。


「次は……あなたの番ね、隼人」


 その声はやさしく、懐かしくて、でも確かに死んだ咲子の声だった。


 ——静かだった。


 水音も、砕けたガラスの破片も、ユリアの声も、すべてが遠のいていた。

 どこかでぽつり、と滴る音がしたが、それもすぐに消えた。


 隼人は、自分が床に倒れていることに気づいた。

 目を開けても、視界はぼやけ、水と光が混ざり合っている。

 冷たいはずの床が、今は温かく感じる。いや、それとも……水の中なのか?


 呼吸ができていることが不思議だった。


 ぼんやりと天井を見上げると、そこには波紋が揺れていた。


 ——天井に、水面がある?


 まるで空間が上下逆転したような錯覚。

 ユラユラと揺れるその天井の“水面”の向こうに、誰かの顔が見えた。


 女だった。

 長い髪を垂らし、伏せた目をゆっくりと持ち上げてこちらを見る。


 それは——

 咲子だった。


 死んだはずの、川に沈んだあの夜の咲子。


 だが彼女の目には、恨みも怒りもなかった。

 ただ、どこか哀しげな眼差しで、口を動かす。


 声は届かない。水の膜の向こうで、咲子はこう言っていた。


 >「——おぼえてる?」


 思わず手を伸ばす。

 その指先が、天井の“水面”に触れた瞬間——


 ズブッ


 という感触とともに、腕が天井へ“沈んだ”。


 ありえない。天井が“水面”になっている。

 いや、違う。部屋全体が、反転しているのか?


 意識がぐるりと回転するような目眩。

 引きずり込まれるようにして、隼人の腕は、肩まで水に呑まれていく。


 「やめろ……やめろ……!」


 叫ぶが、声は水に溶けていく。

 背後で、ユリア——“もう一人のユリア”が、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 バシャ……バシャ……と水を踏みしめる足音。

 部屋の中なのに、まるで湖の底を歩いてくるような、異常な音。


 ユリアは、すぐ背後に立った。


 そして、優しく囁いた。


「ねえ、隼人。

向こう側に来れば、全部忘れられるのよ」


 その声は甘くて、温かくて、

 あの日、プロポーズのときに彼女が言ったあの言葉と同じ響きだった。


「私が、全部受け止めてあげるから……」


 次の瞬間、天井の水面が破れ、隼人の身体を丸ごと飲み込んだ。


 意識が、沈んでいく。


 まるで深海の底へと引きずり込まれるように、隼人の身体は重力から解放され、ゆっくりと水の中へ落ちていった。

 耳は塞がり、鼓膜を圧迫するような沈黙が広がる。


 ——暗い。

 いや、違う。目の前には、水槽の中と同じ景色が広がっていた。


 水草がゆらゆらと揺れ、小石がちらつき、何匹かの魚が横切る。

 水中なのに息ができる。声は出ないが、意識はある。

 そして、目の前に——


 “ユリア”がいた。


 いや、ユリアなのか?

 咲子なのか? それとも——


 女は水中でふわりと身を翻し、白いワンピースの裾をなびかせながら、隼人に向かって泳いできた。

 髪が揺れ、顔が近づく。

 その瞳は、まるで鏡のようだった。


 ——自分の姿が、そこに映っていた。


 次の瞬間、彼女の口がゆっくりと開いた。


「……どうして、私を置いていったの?」


 その声は、水の中でもはっきりと聞こえた。

 まるで脳内に直接響いてくるような、低く湿った響き。


 隼人は身を引こうとしたが、足が動かない。

 気づけば、腰のあたりまで何かぬるりとした“水草のようなもの”が絡みついていた。


 いや、それは髪の毛だった。


 水の底から無数の腕と髪が伸びてきて、彼を引き止めている。


 >「あなたが沈めたの。だから、あなたも沈んで」


 女がそう囁くと、水の中の空気が一変した。


 辺りの景色がぐにゃりと歪み、床のない部屋が広がる。

 そこには、かつての自分の部屋、大学のキャンパス、川辺、ダム、そして——あの夜の橋がすべて、重なり合っていた。


 そして、そこに——

 咲子が立っていた。


 濡れたワンピース、傷だらけの腕、口元に張りついたような笑み。


 「おかえり、隼人くん」


 その言葉で、世界がぐらりと揺れた。

 視界が真っ白になり、耳元で泡がはじけるような音がする。


 ——そして、隼人は、息を呑んだ。


 次の瞬間、彼は自宅のリビングに立っていた。


 水も、ガラスの破片も、崩れた水槽も、跡形もない。

 床は乾いていて、テレビには夜のニュースが映っている。


 ユリアが、キッチンから顔を出して言った。


 「お風呂、沸いてるよ」


 笑顔だった。

 いつも通りの、優しいユリアの顔。


 ……ただし、彼女の髪の先が、濡れていた。


 湯気の立つ風呂場から、微かに水音が響いていた。


 ぽちゃん、……ちゃぷん。

 たったそれだけの音が、なぜか異様に耳に残る。


 隼人は無意識にユリアの後ろ姿を見つめていた。

 キッチンの照明の下で立つその背中は、間違いなく“妻”のものだった。

 けれど、ほんの一瞬、その輪郭が水に揺らめくように歪んで見えた。


 「……ユリア」


 声をかけると、彼女はくるりと振り返った。


 「うん?」


 柔らかい笑顔。けれど——

 目の奥に、どこか“深さ”があった。

 光を吸い込むような、底の見えない井戸のような瞳。


 「さっき……」


 言いかけて、隼人は言葉を飲み込んだ。

 何を見たのか、自分でもはっきりしない。

 夢? 幻覚? あるいは、記憶のねじれ?


 「……いや、なんでもない」


 ユリアは微笑んだまま、湯呑をテーブルに置いた。


 その湯呑から、一滴の水がこぼれた。

 テーブルに落ちた水は、ふつうなら丸く広がるはずだった。

 だが——その水滴は、まるで“意志を持っているかのように”スッと細く伸び、

 隼人の方へ向かって滑っていった。


 ぞくりと背筋が冷える。


 「ねえ、隼人くん」


 ユリアが言う。

 その声は優しいのに、どこか底冷えのする響きが混じっていた。


 「あなた、最近ちょっと変よ?……水の夢とか、見てない?」


 隼人は思わず、息を止めた。


 夢の話など、一言もしていない。

 水槽のことも、咲子のことも——


 「……見てないよ」


 そう答えるのが精一杯だった。


 ユリアはにこりと笑った。


 >「よかった。

 > ……じゃあ、あの子が来る前に、ちゃんと眠っておいてね」


 その言葉に、喉の奥が引き攣った。

 「あの子」とは誰のことだ。

 咲子か?水槽の中にいた、もう一人のユリアか?

 それとも——まだ見ぬ、別の“水の中の住人”か?


 問い返す前に、ユリアはふらりと浴室へ向かっていった。


 その背中が消えていくまでの数秒間、隼人は一歩も動けなかった。


 そして気づいた。


 床に残されたユリアの足跡。

 それは、濡れていた。


 まるで、すでに風呂に入ったあとだったかのように。

 あるいは、ずっと“水の中にいた”かのように——。


 浴室のドアが、カチリと閉まる音がした。


 湯気がふわりと漏れ出し、隼人のいるリビングまで微かに湿った空気が漂ってくる。

 その温度と湿度が、妙に“水槽の中”と似ていた。

 いや、それは気のせいかもしれない。だが——


 ぽとん。


 また、水の音がした。


 どこだ?風呂場か?台所か?それとも……


 隼人は恐る恐る顔を上げ、水槽の方を見た。

 水は穏やかに澄んでいて、グッピーたちが静かに泳いでいる。

 だが、その中央に——何か白いものが沈んでいるのが見えた。


 小さな、小瓶だった。


 「……え?」


 こんなもの、見覚えがない。

 今朝までは確かに、何もなかったはずだ。


 隼人は無意識に立ち上がり、水槽に近づいた。

 水面を覗き込むと、小瓶の中に紙切れのようなものが詰められているのが見える。


 文字が……書かれている?


 彼は手を伸ばしかけた——そのとき。


 背後の風呂場から、笑い声が聞こえた。


 女の声。高くもなく、低くもなく、だが、どこか濡れたような響き。


 ユリアの声……なのか?


 「……ユリア?」


 返事はない。

 だが、笑い声はまだ続いている。

 だんだんと、何かを「誰かと話しているような」声が混じり始める。


 会話している。誰と?


 隼人は水槽から離れ、ゆっくりと風呂場へ向かった。

 足元には、いくつもの濡れた足跡が続いている。

 それはユリアのものと——もうひとつ、小さな足跡。


 子供の足跡のようだった。


 鼓動が早くなる。

 浴室の前で立ち止まり、ドアに耳を寄せる。


 ——チャプン。

 ——くすくす。


 笑っている。二人分。確かに。


 「ユリア、誰かいるのか?」


 尋ねた声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 返事はなかった。

 ただ、ドアの向こうから、やがてこんな声がした。


「大丈夫……この子ね、もうすぐ“あなたに似てくる”んだって」


 隼人は、凍りついた。


 言葉の意味も、声の主も曖昧なまま、彼の手は浴室のドアノブへと伸びていた。

 だが、そのノブは——びしょ濡れだった。


 そして、ドアの下の隙間から、髪の毛のようなものが、一筋、ゆっくりと這い出してきた。


 ——赤い水が、足元を満たしていく。


 壁のひび割れから流れ出すそれは、水というにはどろりとしていた。

 まるで血のように、ねっとりとした温度と重さがある。


 「……ユリア、出て……」


 隼人の声は震えていた。


 しかしユリアは、湯船の中でゆっくりと立ち上がった。

 湯を滴らせながら、静かに、髪を濡らしたまま。

 ……そして隼人は、その身体に異変を見た。


 ——腹が、わずかに膨らんでいる。


 その輪郭は不自然なほど滑らかで、

 皮膚の下で“何か”がうごめいているように見えた。


 「……赤ちゃん、できたの」


 ユリアは囁いた。

 その声は、どこか別の誰かの声に似ていた。

 咲子。

 あの夜、川に沈んだ——助けられなかった、彼女の。


 「……そんなはず、ない」


 隼人は後退りながら、何度も首を振った。


 ユリアはゆっくりと、両手でその腹を撫でながら言った。


「ねえ……この子の心音、聞いてみる?」


 その瞬間、浴室の照明がバチンと切れた。


 暗闇。

 耳元で——水の中から鼓動のような音が聞こえる。


 ごん、ごん、ごん、ごん。


 水槽で魚が死ぬ前、静かに跳ねるような、鈍い音。

 それは、隼人の耳元ではなく、頭の内側から響いていた。


 ——ごん、ごん、ごん。


 誰かが、どこかでノックしている。

 どこだ。

 どこからだ。


 ——ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん。


 早くなっていく。強くなっていく。


 気づいた。自分の腹からだ。


 腹の内側から、“何か”が叩いている。


 「やだ……やだ……なんだよ、これ……」


 叫ぶように浴室から飛び出し、床に転がる。

 がたがたと震える隼人の耳元で、声がした。


 リビングの水槽から——あの、静かだったはずの水槽から。


「……ようこそ、こちらへ」


 顔を上げた。


 そこには、自分の顔が水面に浮かんでいた。


 目を見開き、笑っていた。

 隼人と、まったく同じ顔。


 ——いや、違う。

 それは“こちら側”の隼人ではなかった。


 水槽の中の“隼人”が、唇を動かす。


「——中は、あたたかいよ」


 次の瞬間、水槽のガラスが音もなく砕け、大量の水がリビングを満たした。


 冷たくない。

 温かい水。

 まるで子宮の中のような、濁った、静かな水。


 意識が溶ける。

 足元が崩れ、視界が歪み、世界が水に沈む。


 最後に聞こえたのは、ユリアの声だった。


「……ねえ、隼人。

おかえりなさい」


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