EP1.静かな水音
ぽとん……ぽとん……。
台所の蛇口を閉め忘れたかと思い、隼人は椅子から立ち上がった。
けれど、台所は乾いている。蛇口もしっかり締まっていた。
それなのに——どこかで、水音がする。
——ぽとん。ぽとん。
まるで心臓の音のように、ゆっくりと、確かに。
気づけば、リビングが異様に静まり返っていた。テレビの電源は切れていて、さっきまで妻がかけていた音楽も止まっている。
耳の奥に残っているのは、あの水音だけ。
隼人は眉をひそめ、視線をゆっくりと右へ向けた。
——その瞬間、全身の毛穴が開くような悪寒が走った。
水槽の中に、ユリアがいた。
正確には、水槽の中で笑っていた。
リビングの壁際に置かれた大型のアクアリウム。元々は隼人の趣味で、観賞用の熱帯魚を飼っていた水槽だ。だが今、そこに魚の姿はなく、代わりに、ユリアの全身が沈んでいた。
長い髪が水中でゆらゆらと揺れ、薄く開いた瞼の奥から、黒い瞳が隼人をまっすぐに見つめている。
その唇は、まるで笑っているようにわずかに吊り上がっていた。
呼吸も、身動ぎもない。
けれど、確かに生きているように見えた。
隼人は声を出そうとしたが、喉が固まって出てこない。
水槽の中のユリアが、かすかに首を傾けた。
それは「ただいま」とでも言っているかのようだった。
「……ユリア?」
ようやく絞り出した声は、自分でも分からないほど震えていた。
返事はない。ただ、水音だけが続いている。
ぽとん。ぽとん。ぽとん。
視界の隅で、水槽の下に水溜まりが広がっていくのが見えた。
まるで、ユリアの体から染み出しているかのように、濁った水がじわじわと床に染みていく。
隼人はようやく体を動かし、水槽に駆け寄った。
その瞬間、水槽の中のユリアが、目を見開いた。
ぶくぶく、と泡が上がる。
口が、ゆっくりと開かれていく。
そして、耳の奥で確かに聞こえた。
>「……たすけて」
次の瞬間、隼人の視界は真っ黒になった。
——気がつくと、隼人はリビングの床に倒れていた。
頭が重い。瞼の裏に、まだ水槽の中のユリアの“目”が焼きついている。
壁時計を見ると、たった数分しか経っていないようだが、全身は冷たい汗でぐっしょり濡れていた。
「夢……か?」
口にしてみても、答えは返ってこない。
隼人は震える腕をついて、ゆっくりと身体を起こす。
恐る恐る顔を上げ、水槽を見た。
そこには——何もいなかった。
ただの、いつも通りの水槽。
底には白い小石が敷き詰められ、オレンジ色のグッピーが数匹、静かに泳いでいるだけ。
水面も穏やかで、滴る音など微塵もない。
けれど。
水槽の下のフローリングは、濡れていた。
明らかに水が溢れたような、滲むような水痕。
その先には、ぽたり、ぽたりと今も音を立てる水たまりがある。
だが、水槽自体にひびや破損は見当たらない。
「……なあ、ユリア?」
隼人は自分の声がひどく震えていることに気づいた。
キッチンの方で、カチャリと食器の音がした。
「……?」
首を巡らせると、そこにはエプロン姿のユリアが立っていた。
何もなかったような顔で、茶碗を洗っている。
「……あれ、どうしたの? 顔、真っ青よ?」
振り返ったユリアは、いつも通りの優しい笑みを浮かべている。
水槽の中で沈んでいた“あの顔”とは明らかに違う。
隼人は言葉を失い、口元に手を当てた。
「……さっき……水槽の中に……」
「え?」
「……お前が……いたんだ。水槽の中に……沈んで……」
ユリアは一瞬だけ、手を止めた。
そのまま数秒、瞬きもせず、じっとこちらを見ていた。
目の奥が、ほんの僅かに揺れた気がした。
——まるで、水の表面に波紋が広がるように。
だが、すぐに笑って言った。
「やだなあ、そんな怖いこと言わないで。私、ずっとキッチンにいたわよ?」
そう言って、水の音を立てながら再び食器を洗い始める。
その音が——妙に耳につく。
水をすくう音、流れる音、沈む音。
水槽で聞いた音と、そっくりだ。
「……なあ、ユリア……」
「なに?」
振り返った彼女の頬に、一筋の水滴が流れていた。
洗い物をしていたからだろうか。それとも——
「……なんでもない」
隼人は答えられなかった。
ただその夜、シャワーを浴びたとき。
頭を洗っている最中、目を閉じた暗闇の中で——
すぐ後ろに誰かが立っている気配が、はっきりとした。
そして、耳元で、微かに泡立つような声が囁いた。
「——わたし、ずっと、ここにいたの」
その夜、隼人は眠れなかった。
寝室のベッドに横たわっても、瞼を閉じるとすぐに思い出す。
あの、笑ったまま水に沈んでいたユリアの顔。
あれは夢だったのか? それとも——
枕元に寝息はない。ユリアはまだ起きているのかと隼人は思い、隣を見た。
だが、そこには誰もいなかった。
真っ白なシーツが、ほんの少しだけ湿っている。
「……え?」
指先で触れると、冷たい。まるで誰かが、濡れたままそこに横たわっていたような。
嫌な汗が額を伝う。
ユリアは、リビングにいた。
真っ暗な部屋の中、ソファに腰掛け、テレビもつけずにただ水槽を見つめていた。
闇に浮かぶその横顔は、異様に静かで、無表情だった。
隼人が声をかけようとしたそのとき——
水槽の中から、バチャン、と何かが跳ねる音がした。
反射的に視線を向ける。
だが、水槽の中には何も変わったものは見えない。魚たちは大人しく泳いでいる。
「今の音……」
隼人がそう言いかけた時、ユリアが振り返った。
その顔は、笑っていなかった。
いつもの柔らかな微笑みではなく、どこか、抜け落ちたような表情だった。
焦点の合わない目で、まるで彼が“誰なのか”を忘れてしまったようなまなざし。
「……ねえ、隼人」
掠れた声で、ユリアが言う。
「水の中って、静かで、気持ちいいのね」
その言葉に、背筋が凍る。
ユリアは、まるでそれを経験したことがある人間のように言った。
「……なに、言ってるんだよ」
隼人が問い返すと、ユリアはゆっくりと瞬きし、口元だけで笑った。
「——私、見ちゃったの。底に沈んでたの。もう一人の私を」
そのとき、隼人の耳にまたぽとんと水音が届いた。
振り返る。水槽の中——
魚たちの間に、髪のようなものがふわりと漂っていた。
次の瞬間、照明がパチンと切れ、部屋は闇に沈んだ。
闇の中、ただ水の音だけが響く。
ぽとん、ぽとん、ぽとん。
それはまるで、部屋中に染み渡っていくような音だった。
照明が落ちたのは、一瞬のことだった。
パチッという音と共に、再び部屋が淡く照らされる。
だが、隼人の体はまだ硬直していた。
足元から、じっとりと冷たいものが這い上がってくるような感覚。全身が水に濡れているかのような、不快な錯覚。
「……ブレーカーか?」
そう思って立ち上がろうとしたときだった。
水槽が、揺れていた。
静かに、だが確かに。
中の水が、内側から叩かれるように“波打って”いた。
水面には泡がぷくぷくと浮かび、魚たちは怯えたように端へ逃げている。
「……ユリア?」
振り返る。
だが、さっきまでソファに座っていたはずのユリアが、いない。
その瞬間、背後の水槽がバシャッと跳ねた。
水が数滴、顔にかかった。
生ぬるく、ぬめりを帯びた水。
嫌な感触を拭おうとして、隼人はふと、自分の手の甲に何かが貼りついていることに気づく。
見れば、それは髪の毛だった。
濡れた長い髪が、手にからまりついている。
「っ……!」
慌てて振り払うが、それはまるで生き物のようにぬるりと肌を這い、絡みつこうとしてきた。
——そのとき、背後から、声がした。
>「……どうして、見ちゃったの?」
振り向いた先にいたのは、ユリアだった。
だが——顔が、違っていた。
まるで水の中に長く沈んでいたかのように、皮膚は白くふやけ、唇は紫がかっていた。
それでも彼女は笑っていた。にやりと、裂けるように。
目が合った瞬間、ユリアは首を傾けた。
>「あのね、もう一人、私がいるの」
そう言って、彼女は水槽の中を指差した。
隼人は恐る恐る振り返る。
——そこに、もう一人のユリアがいた。
同じ顔、同じ髪、同じエプロン姿。
ただしこちらは、目を閉じ、静かに沈んでいる。
まるで、最初に見た“ユリア”そのものだった。
「こっちが、本物なのよ」
背後のユリアがそう囁いた。
次の瞬間、水槽の中のユリアが、ぱちりと目を開けた。
ぱちり——という音が、確かに聞こえた気がした。
水槽の中で眠っていた“ユリア”が、目を開けた。
白目の部分は濁り、虹彩はまるで水面の反射のようにきらきらと揺れている。
そのまま、ふわりと髪をたなびかせながら水中で手を動かし、ガラス越しに隼人の方へ顔を向けた。
——笑っている。
口を、ゆっくり、ゆっくり開きながら。
けれどその笑みは、どこか“造られた笑顔”だった。
筋肉の動きがどこかぎこちなく、まるで水の中で動くことに慣れていない異物のようだった。
背後にいた“もう一人のユリア”が、ぽつりと呟く。
「ねえ……隼人は、どっちの私が好き?」
その問いかけに、喉が固まり、声が出ない。
目の前の水槽では、もう一人のユリアがガラス越しに手を当てていた。
その手は細くて白くて、でも爪がほんの少し剥がれている。
血の色も、薄く滲んでいる。
「どうして……こんな……」
ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
ユリアは笑う。水槽の外にいるほうの、乾いたその笑み。
「……忘れたの? あなたが沈めたんだよ」
隼人の心臓が跳ねた。
「なにを……言ってるんだ……」
「咲子。覚えてるでしょ?あの川のこと。あの夜のこと。
あなたは私の手を……離したの」
「やめろ……!」
「だから、代わりに“ユリア”が来たの。ね?優しかったでしょ、私」
水槽の中のユリアが、にやりと口を裂いた。
「でも、もう限界。水の底って、寂しいのよ。
やっぱり、あなたも一緒に来てくれなきゃ——ねえ、隼人」
ユリアの指が、水槽のフタをそっと開ける。
その瞬間、水の中のユリアがぐっと手を伸ばし、ガラスを叩いた。
バンッ、バンッ、バンッ!
水槽が揺れる。水がこぼれる。
部屋中に、水音があふれる。
そして——
水槽のガラスが、ひび割れた。
そこから、生臭い水と共に、青白い手が突き出された。
バリッ——!
水槽の正面ガラスに、蜘蛛の巣のようなひびが走った。
ひび割れの中心から伸びた指先は、青白くふやけていて、まるで死後何日も経った遺体のようだった。
その手がガラスを押し、めきりと音を立ててひびが広がる。
「やめろ……!」
隼人は叫びながら、後ずさった。
だが、足が水に滑って転びそうになる。
床一面に広がっていたはずの水たまりは、もう膝のあたりまで来ていた。
いつの間に——こんな量の水が?
リビングの床は、まるで浅い湖の底のように歪み、家具の足元も水に浸っている。
水面には髪の毛や小さな泡が浮かび、空気が重く濁っていた。
「ユリア……お前……違うだろ、ユリアじゃない……!」
目の前で、もう一人の“ユリア”がゆっくりと水槽から身を乗り出してくる。
異常に長く伸びた黒髪が、水を滴らせながら床に垂れる。
口元はひたすらに笑っている。
目は、ずっと隼人だけを見ていた。
「——見てしまったものは、戻れないのよ、隼人」
ユリアの声は水の中から聞こえるように、こもって響いた。
そのとき、後ろから誰かに手首を掴まれた。
「っ……!」
振り向くと、そこには“もう一人のユリア”——さっきまでソファに座っていたはずの妻が立っていた。
「大丈夫……私が守ってあげる。ほら、来て……」
だがその手は、あまりにも冷たく、ふやけていて、
爪が一部、剥がれていた。
「お前も……“そっち側”なのか……?」
問いかけると、ユリアはゆっくりと頷いた。
「うん……でも、大丈夫。水の中は、ね……静かで優しいの。何も、思い出さなくていい場所よ」
次の瞬間、背後で水槽が砕けた。
激しい音とともに、リビングに大量の水が流れ込む。
その濁流の中で、隼人は転倒し、頭を強く打った。
視界がぐらりと傾き、天井が揺れ、泡のように白い光がちらつく。
遠ざかっていく意識の中、ユリアがそっと耳元で囁いた。
「次は……あなたの番ね、隼人」
その声はやさしく、懐かしくて、でも確かに死んだ咲子の声だった。
——静かだった。
水音も、砕けたガラスの破片も、ユリアの声も、すべてが遠のいていた。
どこかでぽつり、と滴る音がしたが、それもすぐに消えた。
隼人は、自分が床に倒れていることに気づいた。
目を開けても、視界はぼやけ、水と光が混ざり合っている。
冷たいはずの床が、今は温かく感じる。いや、それとも……水の中なのか?
呼吸ができていることが不思議だった。
ぼんやりと天井を見上げると、そこには波紋が揺れていた。
——天井に、水面がある?
まるで空間が上下逆転したような錯覚。
ユラユラと揺れるその天井の“水面”の向こうに、誰かの顔が見えた。
女だった。
長い髪を垂らし、伏せた目をゆっくりと持ち上げてこちらを見る。
それは——
咲子だった。
死んだはずの、川に沈んだあの夜の咲子。
だが彼女の目には、恨みも怒りもなかった。
ただ、どこか哀しげな眼差しで、口を動かす。
声は届かない。水の膜の向こうで、咲子はこう言っていた。
>「——おぼえてる?」
思わず手を伸ばす。
その指先が、天井の“水面”に触れた瞬間——
ズブッ
という感触とともに、腕が天井へ“沈んだ”。
ありえない。天井が“水面”になっている。
いや、違う。部屋全体が、反転しているのか?
意識がぐるりと回転するような目眩。
引きずり込まれるようにして、隼人の腕は、肩まで水に呑まれていく。
「やめろ……やめろ……!」
叫ぶが、声は水に溶けていく。
背後で、ユリア——“もう一人のユリア”が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
バシャ……バシャ……と水を踏みしめる足音。
部屋の中なのに、まるで湖の底を歩いてくるような、異常な音。
ユリアは、すぐ背後に立った。
そして、優しく囁いた。
「ねえ、隼人。
向こう側に来れば、全部忘れられるのよ」
その声は甘くて、温かくて、
あの日、プロポーズのときに彼女が言ったあの言葉と同じ響きだった。
「私が、全部受け止めてあげるから……」
次の瞬間、天井の水面が破れ、隼人の身体を丸ごと飲み込んだ。
意識が、沈んでいく。
まるで深海の底へと引きずり込まれるように、隼人の身体は重力から解放され、ゆっくりと水の中へ落ちていった。
耳は塞がり、鼓膜を圧迫するような沈黙が広がる。
——暗い。
いや、違う。目の前には、水槽の中と同じ景色が広がっていた。
水草がゆらゆらと揺れ、小石がちらつき、何匹かの魚が横切る。
水中なのに息ができる。声は出ないが、意識はある。
そして、目の前に——
“ユリア”がいた。
いや、ユリアなのか?
咲子なのか? それとも——
女は水中でふわりと身を翻し、白いワンピースの裾をなびかせながら、隼人に向かって泳いできた。
髪が揺れ、顔が近づく。
その瞳は、まるで鏡のようだった。
——自分の姿が、そこに映っていた。
次の瞬間、彼女の口がゆっくりと開いた。
「……どうして、私を置いていったの?」
その声は、水の中でもはっきりと聞こえた。
まるで脳内に直接響いてくるような、低く湿った響き。
隼人は身を引こうとしたが、足が動かない。
気づけば、腰のあたりまで何かぬるりとした“水草のようなもの”が絡みついていた。
いや、それは髪の毛だった。
水の底から無数の腕と髪が伸びてきて、彼を引き止めている。
>「あなたが沈めたの。だから、あなたも沈んで」
女がそう囁くと、水の中の空気が一変した。
辺りの景色がぐにゃりと歪み、床のない部屋が広がる。
そこには、かつての自分の部屋、大学のキャンパス、川辺、ダム、そして——あの夜の橋がすべて、重なり合っていた。
そして、そこに——
咲子が立っていた。
濡れたワンピース、傷だらけの腕、口元に張りついたような笑み。
「おかえり、隼人くん」
その言葉で、世界がぐらりと揺れた。
視界が真っ白になり、耳元で泡がはじけるような音がする。
——そして、隼人は、息を呑んだ。
次の瞬間、彼は自宅のリビングに立っていた。
水も、ガラスの破片も、崩れた水槽も、跡形もない。
床は乾いていて、テレビには夜のニュースが映っている。
ユリアが、キッチンから顔を出して言った。
「お風呂、沸いてるよ」
笑顔だった。
いつも通りの、優しいユリアの顔。
……ただし、彼女の髪の先が、濡れていた。
湯気の立つ風呂場から、微かに水音が響いていた。
ぽちゃん、……ちゃぷん。
たったそれだけの音が、なぜか異様に耳に残る。
隼人は無意識にユリアの後ろ姿を見つめていた。
キッチンの照明の下で立つその背中は、間違いなく“妻”のものだった。
けれど、ほんの一瞬、その輪郭が水に揺らめくように歪んで見えた。
「……ユリア」
声をかけると、彼女はくるりと振り返った。
「うん?」
柔らかい笑顔。けれど——
目の奥に、どこか“深さ”があった。
光を吸い込むような、底の見えない井戸のような瞳。
「さっき……」
言いかけて、隼人は言葉を飲み込んだ。
何を見たのか、自分でもはっきりしない。
夢? 幻覚? あるいは、記憶のねじれ?
「……いや、なんでもない」
ユリアは微笑んだまま、湯呑をテーブルに置いた。
その湯呑から、一滴の水がこぼれた。
テーブルに落ちた水は、ふつうなら丸く広がるはずだった。
だが——その水滴は、まるで“意志を持っているかのように”スッと細く伸び、
隼人の方へ向かって滑っていった。
ぞくりと背筋が冷える。
「ねえ、隼人くん」
ユリアが言う。
その声は優しいのに、どこか底冷えのする響きが混じっていた。
「あなた、最近ちょっと変よ?……水の夢とか、見てない?」
隼人は思わず、息を止めた。
夢の話など、一言もしていない。
水槽のことも、咲子のことも——
「……見てないよ」
そう答えるのが精一杯だった。
ユリアはにこりと笑った。
>「よかった。
> ……じゃあ、あの子が来る前に、ちゃんと眠っておいてね」
その言葉に、喉の奥が引き攣った。
「あの子」とは誰のことだ。
咲子か?水槽の中にいた、もう一人のユリアか?
それとも——まだ見ぬ、別の“水の中の住人”か?
問い返す前に、ユリアはふらりと浴室へ向かっていった。
その背中が消えていくまでの数秒間、隼人は一歩も動けなかった。
そして気づいた。
床に残されたユリアの足跡。
それは、濡れていた。
まるで、すでに風呂に入ったあとだったかのように。
あるいは、ずっと“水の中にいた”かのように——。
浴室のドアが、カチリと閉まる音がした。
湯気がふわりと漏れ出し、隼人のいるリビングまで微かに湿った空気が漂ってくる。
その温度と湿度が、妙に“水槽の中”と似ていた。
いや、それは気のせいかもしれない。だが——
ぽとん。
また、水の音がした。
どこだ?風呂場か?台所か?それとも……
隼人は恐る恐る顔を上げ、水槽の方を見た。
水は穏やかに澄んでいて、グッピーたちが静かに泳いでいる。
だが、その中央に——何か白いものが沈んでいるのが見えた。
小さな、小瓶だった。
「……え?」
こんなもの、見覚えがない。
今朝までは確かに、何もなかったはずだ。
隼人は無意識に立ち上がり、水槽に近づいた。
水面を覗き込むと、小瓶の中に紙切れのようなものが詰められているのが見える。
文字が……書かれている?
彼は手を伸ばしかけた——そのとき。
背後の風呂場から、笑い声が聞こえた。
女の声。高くもなく、低くもなく、だが、どこか濡れたような響き。
ユリアの声……なのか?
「……ユリア?」
返事はない。
だが、笑い声はまだ続いている。
だんだんと、何かを「誰かと話しているような」声が混じり始める。
会話している。誰と?
隼人は水槽から離れ、ゆっくりと風呂場へ向かった。
足元には、いくつもの濡れた足跡が続いている。
それはユリアのものと——もうひとつ、小さな足跡。
子供の足跡のようだった。
鼓動が早くなる。
浴室の前で立ち止まり、ドアに耳を寄せる。
——チャプン。
——くすくす。
笑っている。二人分。確かに。
「ユリア、誰かいるのか?」
尋ねた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
返事はなかった。
ただ、ドアの向こうから、やがてこんな声がした。
「大丈夫……この子ね、もうすぐ“あなたに似てくる”んだって」
隼人は、凍りついた。
言葉の意味も、声の主も曖昧なまま、彼の手は浴室のドアノブへと伸びていた。
だが、そのノブは——びしょ濡れだった。
そして、ドアの下の隙間から、髪の毛のようなものが、一筋、ゆっくりと這い出してきた。
——赤い水が、足元を満たしていく。
壁のひび割れから流れ出すそれは、水というにはどろりとしていた。
まるで血のように、ねっとりとした温度と重さがある。
「……ユリア、出て……」
隼人の声は震えていた。
しかしユリアは、湯船の中でゆっくりと立ち上がった。
湯を滴らせながら、静かに、髪を濡らしたまま。
……そして隼人は、その身体に異変を見た。
——腹が、わずかに膨らんでいる。
その輪郭は不自然なほど滑らかで、
皮膚の下で“何か”がうごめいているように見えた。
「……赤ちゃん、できたの」
ユリアは囁いた。
その声は、どこか別の誰かの声に似ていた。
咲子。
あの夜、川に沈んだ——助けられなかった、彼女の。
「……そんなはず、ない」
隼人は後退りながら、何度も首を振った。
ユリアはゆっくりと、両手でその腹を撫でながら言った。
「ねえ……この子の心音、聞いてみる?」
その瞬間、浴室の照明がバチンと切れた。
暗闇。
耳元で——水の中から鼓動のような音が聞こえる。
ごん、ごん、ごん、ごん。
水槽で魚が死ぬ前、静かに跳ねるような、鈍い音。
それは、隼人の耳元ではなく、頭の内側から響いていた。
——ごん、ごん、ごん。
誰かが、どこかでノックしている。
どこだ。
どこからだ。
——ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん。
早くなっていく。強くなっていく。
気づいた。自分の腹からだ。
腹の内側から、“何か”が叩いている。
「やだ……やだ……なんだよ、これ……」
叫ぶように浴室から飛び出し、床に転がる。
がたがたと震える隼人の耳元で、声がした。
リビングの水槽から——あの、静かだったはずの水槽から。
「……ようこそ、こちらへ」
顔を上げた。
そこには、自分の顔が水面に浮かんでいた。
目を見開き、笑っていた。
隼人と、まったく同じ顔。
——いや、違う。
それは“こちら側”の隼人ではなかった。
水槽の中の“隼人”が、唇を動かす。
「——中は、あたたかいよ」
次の瞬間、水槽のガラスが音もなく砕け、大量の水がリビングを満たした。
冷たくない。
温かい水。
まるで子宮の中のような、濁った、静かな水。
意識が溶ける。
足元が崩れ、視界が歪み、世界が水に沈む。
最後に聞こえたのは、ユリアの声だった。
「……ねえ、隼人。
おかえりなさい」