湿地の凶兆
朝靄が湿地を包むなか、クロスたちは村の北東に広がる葦原へと足を踏み入れていた。
空は薄曇り。ぬかるんだ足場と水音、時折聞こえる虫の羽音が不快に耳をつく。
「やっぱり湿地って、気が抜けねぇな……」
ジークが肩をすくめながらも、しっかりと杖を構えて前を見据える。セラが地面に膝をつき、泥の沈み方や草の乱れを観察して言った。
「このあたり……昨日、足跡があった場所です。単独で動いている個体が近くにいるはずですわ」
「……いた」
クロスが低く声を発すると同時に、茂みの向こうで“ぴちゃり”と水が跳ねた。そこからヌルリと現れたのは、体長1メートル弱のフロッグシェード。ぬめる濃緑の体表に、暗赤色の双眸がギラついていた。
「距離、十歩。行けるか?」
「はい、問題ありません」
セラがうなずき、魔力を練る。
「我が前に、揺るがぬ壁を――《シールド》!」
淡い光が展開され、飛び出したフロッグシェードが跳ね返される。
「――凍てつく雫よ、我が敵を撃て――《フロストショット》!」
クロスが即座に魔弾を放ち、敵の左肩に命中。命中箇所から凍るが広がりは小さく、動きが鈍らせる程度だった。
「ジーク、援護!」
「熱よ、弾けろ――《ファイアショット》!」
しかし、ジークの火弾はぬるりと皮膚で弾かれ、焦げ跡を残すに留まった。
「くっ……効いてねぇ……!」
「火は通りにくいって、昨日の時点で分かってましたでしょ?」
セラの声にジークが肩をすくめた。
「わかってても、打たねぇと慣れねぇって!」
その間に、クロスは短く息を吐き、足を一歩滑らせるように前へ出る。
「斬る!」
氷の粒が散るような斬撃で、動きの鈍ったフロッグシェードの首元に剣を滑らせた。
水音と共に、魔物が泥に沈む。
「……おかしいですね。普通なら、こちらが仕掛けた瞬間に逃げようとするはずなのに、今の個体……はっきりと殺気がありました」
セラが眉をひそめる。
「魔物の気質が変わってる……?」
テオが呟くと、クロスは静かに頷いた。
「わからないが、油断できないのは確かだ」
その後、さらに3回の戦闘――単独、単独、そして2体同時――が続いた。
最後の戦闘ではテオが正面からの跳躍攻撃を受け止めて押し切られ、左腕を痛めてしまった。
「ぐっ……!」
「癒えよ、痛みの源よ――《ライトヒール》!」
セラの魔法で痛みは治まったが、まだ無理はできない状態だった。
「大丈夫、俺ならまだ動ける……!」
「……ですが、今無理をすれば明日がありません。ここで撤退しますわ」
セラの静かながらも決然とした声に、テオは渋々頷いた。
⸻
夕方前、村に戻るとちょうど村の入口に3人組の冒険者が到着していた。
「おいおい、まさかここで会うとはな」
先頭の男が笑いながらテオに歩み寄ってくる。背は高く、背中に大剣を背負っていた。
「ボルド!」
「元気そうだな、テオ。お前が来てるとは聞いてなかったぜ」
「お前こそ。ギルドからの緊急依頼?」
「ああ。急に呼ばれてよ。で、来てみりゃフロッグシェードの異常繁殖だとよ」
テオとボルドは気安い口調で話し合い、ジークたちに紹介する。
「こっちはナシュ。双剣使いだ」
「ども、よろしく」
「で、こっちはリリィ。土魔法と障壁が得意な魔法使い」
リリィは軽く会釈しながら口を開く。
「湿地にいた個体、妙に殺気立ってました。1体だけだったけど、妙に素早くて、斬り返しが鋭かったです」
「うちも同じだったよ……火も通らねぇし、手応えが違う」
ジークが苦い顔で言うと、ボルドが顎をさすりながら頷いた。
「どうもおかしいよな。改めて情報整理して共同行動を決めたほうが良さそうだな」
「ええ、夕食後に集まりましょう」
セラの提案に、皆が頷いた。
その夜、宿『水辺亭』では、討伐状況の情報共有が行われた。
――セラは確信していた。
(……今回のフロッグシェード、明らかに“何か”がおかしい)
湿地の空気が、ただ湿っているだけではない不穏さを帯びていた。




