湿地の予兆
ラグスティアの朝は陽差しこそ柔らかいが、湿気を含んだ空気が夏の気配を知らせていた。
クロスがこの町に来てからもう直ぐ3ヶ月。いつものようにギルドへと足を運んだクロスたち4人は、掲示板へ向かおうとしたところで、受付嬢のセリアに声をかけられた。
「クロスさんたち、おはようございます。……ちょうどよかった、緊急依頼が回ってきていて、お願いしたいのですが」
「緊急依頼?」
クロスが眉をひそめると、セリアは手元の帳簿をめくり、内容を確認しながら説明を始めた。
「場所はラグスティアから南方、片道半日ほどの距離にある《エルネ村》です。湖と小川に囲まれた水辺の村で、魚や淡水貝の漁が盛んなところですね」
「ああ、市場に出回ってる干し魚や貝はあの村のものだったか」
テオが補足するように言うと、ジークが頷いた。
「ただ今年は、水位の変化と気温の上昇で湿地に生息する魔物が増えていて……中でも《フロッグシェード》の数が異常に多く、また異常行動が確認されているそうです」
セリアの説明に、4人の顔が引き締まる。
《フロッグシェード》――毒性を持ち、跳躍力と奇襲性に優れた中型魔物。数が増えれば危険度は跳ね上がる。
「ラグスティアのギルドとしても看過できないため、今回は“緊急依頼”として該当地域の9級以上の冒険者に回していこうと決定しました。すぐに動けるパーティが少ないので、できれば引き受けていただけませんか?」
セリアの眼差しは真剣だった。クロスたちはすぐに顔を見合わせ、うなずき合う。
「わかりました。引き受けましょう。ただし……」
クロスは視線を上げてセリアを見た。
「魔物の数によっては一泊になる可能性もありますね?」
「はい。その可能性が高いです。村には宿がひとつありますので、泊まることは可能です」
「なら、今日は準備して明日の朝に出発します」
「ありがとうございます。では、こちらが正式な緊急依頼書です」
セリアから書類を受け取り、4人はギルドを後にした。
⸻
翌朝――。
クロスたちはまだ朝靄の残るうちにラグスティアを出発した。荷物は軽装だが、水辺での戦闘を見越して滑り止め付きの靴や予備の着替えを携行している。
「そろそろ昇格してもいいと思うんだけどな……」
ジークがぼやいた。
「早く上がりたいのは同じだけどさ、焦っても仕方ないよ。まだまだやることあるしな」
テオが肩をすくめる。
「地道にやってりゃ、いずれ評価されるさ。今は一つずつこなすしかない」
クロスが淡々と答える。常に周囲の気配を感じ取りながらの移動――それが今では習慣になっていた。
「……セラ、前方の草むら」
「小型動物。脅威はないわ」
このやり取りも、既に日常のものとなっていた。雑談を交えながらも、彼らの視線は常に周囲を捉えていた。
昼を過ぎてしばらくすると、遠くに水面の輝きが見えてきた。
エルネ村――湖と小川に囲まれた静かな村が視界に入ったのは、夕方を少し前にした頃だった。
村の入り口には小さな見張り小屋があり、そこを通って中央の集会所兼村長宅へと向かう。建物は年季の入った木造だが、整った作りで生活の安定が伺える。
ギルドの緊急依頼書を見せると、村長は安堵したように肩を落とした。
「よく来てくれました。正直なところ……今回は数が多すぎて、村の者たちだけでは手が回らなくてな。湿地に踏み込めるのは限られてるし、近づいただけで襲いかかってくるんです。普通の《フロッグシェード》よりも、どうも気性が荒くなっている」
村長から出没地点や過去の目撃情報を受け取り、4人は日没前に湿地周辺の地形と足場、遮蔽物の確認を行った。
既に数体の《フロッグシェード》の足跡や粘液の痕が見つかっており、戦闘は明日朝からとなる見込みだった。
夕暮れと共に村の宿へと向かう。
『水辺亭』という小さな看板の掲げられた宿に入ると、白髪の優しい女将が迎えてくれた。
「よう来たねぇ……若い冒険者たちかい? フロッグシェード退治とは大変だねえ」
女将の名はミランダといった。
「ただねぇ、あんたたちも気をつけとくれ。今年のあいつら、何だか様子がおかしいんだよ。村の若い衆が一人、近づいた途端に飛びかかられて、運よく命は助かったけど、ひどい毒にやられてね……」
「……毒の強さも変わってるってことですか?」
セラが尋ねると、女将は苦々しい顔で頷いた。
「気性が荒いってだけじゃなく、動きが鋭い。狩られるより狩る気で来る。今までとは違うって、みんな口を揃えて言ってるよ」
その言葉を噛み締めながら、クロスたちは部屋に案内され、装備や道具の点検を入念に行った。
翌朝――
ここエルネ村で、今までと少し違う戦いが始まる――




