旅立ちへの決意
ギルドでの訓練と報告を終えたクロスは、暮れかけた空を見上げながら、いつもの宿へと向かった。村に馴染んだ道、聞き慣れた子どもたちの笑い声。数か月前には想像もできなかった「日常」がそこにあった。
宿に入ると、マリアが帳簿に目を通しながらクロスに気づき、笑顔で出迎える。
「おかえり。今日も元気そうでなにより」
クロスは小さく頷くと、少し表情を引き締めて口を開いた。
「……マリアさん。俺、四日後に村を出ます」
マリアの手が止まった。目を見開いたが、すぐにふっと優しく笑った。
「そう……やっぱり、そうなるのね」
「驚きましたか?」
「驚いたわよ。でもね、いつかはこんな日が来るって、分かってた。だって、あんたは“旅立つための子”だもの」
その後ろから、小柄な少女――マリアの娘ティナが顔を出した。十五歳になるティナは、クロスにとって妹のような存在だった。
「そっか……クロス、お兄ちゃん。いなくなるんだね……」
唇を噛みしめるティナの瞳が潤んでいた。クロスは言葉を詰まらせたが、マリアがティナの肩に手を置いて微笑む。
「泣くんじゃないよ、ティナ。旅立てるのは、それだけ力をつけたってことなんだから。これは、いいことなんだよ」
ティナはこくりとうなずき、袖で目を拭った。
「……がんばってね。クロスお兄ちゃん」
クロスは微笑み返し、「ありがとう」とだけ答えた。
食後、クロスは部屋に戻り、荷物の整理を始めた。まだ必要最低限の装備しかないが、それでもこの村での日々が少しずつ彼を形づくっていたことを実感していた。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
(ラグスティアまでは一日半。あそこまでは、アミナ村から戻る冒険者たちと一緒に行ける。問題はその先――)
クロスは、マルコのことを思い出した。あの男に助けられ、この世界で最初に「生きるための力」を教えてもらった恩人だ。
マルコが拠点にしている都市――西部最大級の商業都市。
エルディア王国の西側に位置する交易都市で、北のノルヴァン連邦や西のザイガル帝国との国境も近い活気ある街。クロスの命を救ってくれた恩人・マルコが拠点にしている場所だった。
そこまではラグスティアから五日ほどかかると聞く。距離にしては大したことはない。だが、「一人前になってから返しに来い」と言われたあの言葉が、今も胸の奥に重く残っていた。
(本当に、今の俺は“一人前”って言えるのか?)
冒険者として、ようやく9級になったばかり。7級になってからでも遅くはないかもしれない。せめてそのくらいの実力は欲しい。それが“返す”という行為に見合う、最低限の誠意だと感じていた。
そう考えながら、もう一つ最近頭を離れない問いがある。
それはブラッドゴブリンとの戦いである。
――あの戦いの前までは、スライムやゴブリンにすら、恐怖心があった。
殺気を向けられるだけで、全身が強張り、足がすくんだ。剣を握る手が震えることもあった。
だが――ブラッドゴブリンに重傷を負わされたあの戦いを経て、復帰してからの自分はどうだろうか。
確かに、死の淵に立たされいるはずなのに――それ以降の自分には、あの“身体が萎縮するような恐怖心”が、不思議と湧いてこなかった。
(……おかしいよな。本来なら、トラウマになるような戦いだったはずなのに)
むしろ、魔物の動きが以前よりも明確に見えるようになり、気配も鋭敏に察知できるようになった。人のように魔物の“意志”すら感じる瞬間がある。
それが、“神と呼べと言った存在”に与えられた力によるものだとするならば――
(魔法だけじゃない。きっと、何かが俺の中で“変わって”しまったんだ)
この世界でしか生きられない体に、魂に、なってしまったのかもしれない。地球にいた頃の価値観が、だんだん霞んでいくのを、クロスはどこかで怖がっていた。
だが同時に、思う。
(それでも――俺は、この世界で生きる)
“神”が言ったように、この世界は「代行者」によって歪められている。
自分がそれを変えられるのか、それとも見届けるだけなのかはまだ分からない。だが、いずれは関わることになる――そんな予感があった。
だからこそ、自分の持つ力を恐れず、見つめ、向き合う必要がある。
「力は誇るものではなく、試されるもの」
それは、“神”の言葉であり、そして師匠が教えてくれた「殺人剣」と「活人剣」の本質でもある。
クロスはベッドに腰を下ろし、剣を膝に置いて目を閉じた。
この力が、誰かを救うために使えるのならば。自分が“正しく”ある限り、この剣を振るう意味はある。
「マルコさん……あなたの言った“自分の足で立て”って言葉、やっと分かってきたかもしれません」
一人の人間が、世界の真実と己の運命に向き合う決意を固めた夜。
その旅立ちは、もうすぐだった。




