黒き森から来たるもの
森の奥に、奇妙な静けさがあった。
空気が張りつめ、虫の声さえも消えたその瞬間、リオンの叫びが空を切った。
「来るぞッ! 構えろ!」
その声と同時に、木々の間から影が次々と現れた。
ゴブリン――目を爛々と光らせ、棍棒や粗雑な刃物を振り上げ、数十体が獣のような速さで駆けてくる。
「沼地へ入ったぞ! 狙えッ!」
ハンスが叫び、セルスと共に弓を構える。風を切って放たれた矢が、ぬかるみに足を取られたゴブリンの肩、胸、喉を貫いた。
一体、また一体と、転倒し、声を上げる間もなく沈んでいく。
「さすが、狩人組……!」
クロスはその一部始終を目にしていた。沼地の地形と弓の連携は、狙い通りに機能している。
その沼地化した間では、氷の罠が効果を発揮していた。クロスが直前に張った氷の床――見えづらく、踏めば確実に滑る仕掛け。
それに足を取られたゴブリンが、盛大に転倒する。
「今だ!」
ミトが叫び、鋭く踏み込みながら転んだゴブリンの首を断ち切った。
フリーダの大剣が横薙ぎに振るわれ、氷床の上で立ち上がろうとした敵を一掃する。
「動きが鈍いわね。こんな奴ら、私一人でも十分よ!」
ミトが不敵に笑う。
「調子に乗るな、まだ序盤だ」
ラグナが冷静に言い返しながら、滑ったゴブリンを短剣で正確に突き刺す。
クロスは氷の罠の前で、剣を構えて立っていた。目の前に転倒したゴブリンに向けて踏み込み、脇腹を突く。
(……魔法を使うまでもない。今は剣で十分対応できる)
何体かの敵を倒しながらも、クロスの意識は常に周囲の戦況を探っていた。冒険者たちは連携を取りつつ、戦線を押し上げていく。
開戦直後の戦況は、はっきりと“優位”に傾いていた。
しかし――その雰囲気が一変したのは、突如として森の奥から、異様な気配が満ちた瞬間だった。
「……ッ、何だ……あれは……」
ガイルの声に、全員が一斉に注目する。
森の影から、赤黒い皮膚の大柄なゴブリンが現れた。
通常のゴブリンの倍はあろうかという体躯、筋肉質な腕、鋭く光る爪。
そして何より、その眼が獲物を見下ろす捕食者の光を宿していた。
「……ブラッドゴブリン……!」
ナタリーが叫んだ。
ただ強いだけの存在ではない。統率力を持ち、知能も高く、時に“指揮官”として群れを導く凶悪な上位種。
「シャーマンもいるッ!」
リオンの叫びに、皆の視線が再び森へと向く。
続いて現れたのは、背中に骨の装飾を付けた瘦せたゴブリン――魔法を使う、ゴブリンシャーマンだった。
その直後、シャーマンは杖を振り上げ、低く唸るような声で詠唱を始めた。
「グォル・ミグラ・ラザ」
閃光のように赤く輝いた魔力が、一直線に放たれた。
「避けろッ!」
ベルクが叫ぶと同時に、炎の球が前衛のミトたちのすぐ近くに炸裂。
地面がえぐれ、炎が巻き上がり、熱波が襲いかかった。
「くっ……!」
ミトが顔を覆い、少し後退する。
しかし、ロイが腕に軽い火傷を負ってしまった。彼は直ぐ治療薬を腕に半分かけ、残りを飲み干した。腕の火傷はすぐに修復されるが、陣形は一瞬、崩れかけた。
「支援魔法じゃない、攻撃もしてくるタイプか……!」
リオンが息を呑む。
さらにシャーマンは、両手を高く掲げ、別の呪文を唱え始めた。
「グリル・ブァ=ドゥロ」
淡く輝く赤い魔力が、周囲のゴブリンたちに降り注いだ。
それはまるで、戦士への祝福のような煌めき――
「バフ魔法!? 動きが……!」
ラグナが警告を発するまでもなく、ゴブリンたちの動きが一変した。
「ギギギャアア!」
まるで狂戦士のように、彼らは吠えながら突進してくる。
動きが速く、重く、ただでさえ厄介だったゴブリンたちが、バフによって“強化された敵兵”へと変貌を遂げたのだ。
「陣形を維持しろ! 崩されるな!」
ナタリーが怒鳴る。
「フリーダ、クロス、ロイ、援護に回れ!」
「了解!」
フリーダが大剣を構え直し、突進してくるゴブリンを一撃で叩き伏せた。
クロスも剣を構え、迫りくる敵に立ち向かう。
「フッ!」
ゴブリンの動きをよく見て低く腰を落とし、踏み込み斜めに剣を振る。氷で滑ってバランスを崩したゴブリンの腹部に一閃。
血が飛び、地面に転がる。だが、倒れてもなお立ち上がろうとするゴブリンの目には、燃えるような狂気が宿っていた。
(……バフで耐久力も上がってる?)
そう感じさせるほど、ゴブリンたちは不屈だった。
「……シャーマンの魔法で動きも力も強化されてる。まずいな……」
ゼルスが低く呟きながら、土魔法でゴブリンの足元を隆起させ、動きを封じる。
そんな冒険者たちの戸惑いを見て、
ブラッドゴブリンが雄叫びを上げる。
「ギィエェエエェエアアアアアァアア!!」
その咆哮は鼓膜を震わせ、地を這うような響きと共に、ゴブリンたち全体に“命令”を与えたようだった。
さっきまで無秩序に動いていたゴブリンたちが、整然とした隊列に近い形で動き始める。
「あれが“指揮”……!」
クロスは唾を飲み込む。
さっきまでの“雑兵の群れ”が、“軍勢”に変貌した。
恐るべきは、ブラッドゴブリンの指揮能力と、シャーマンの魔法による補助。
まるで用意された布陣のように、ゴブリンたちはこちらの陣形を崩しにかかる動きを見せ始めた。
「クロス、ミト、フリーダ、ロイはゴブリンの数を減らして!」
ナタリーの指示が響く。
「ベルク、リオン、マルダ! ブラッドゴブリンを引き受けて!」
「了解!」
「任せろ!」
ベルクは鋭く返事をし、大剣を振り上げて前に出た。リオンは槍を構え、背筋を伸ばす。マルダは既に獲物を狩る目をしていた。
「シャーマンは私とガイル、ゼルスでやる!」
「お任せください」
「了解!」
クロスは剣を構え直し、視線を前方の氷上に転倒しているゴブリンへ戻す。
(まだ、俺が魔法を使う時じゃない。今は剣で、仲間の背中を守るんだ)
矢の放たれる音、剣戟の音、そして……静かに訪れる“嵐”の気配。
戦いの本番は、まだ始まったばかりだった。




