空白の狭間で
•••どこだ、ここは。
意識が浮上した瞬間、クロスは自分がどこにいるのか理解できなかった。
目を開けたはずなのに、周囲は光も影もなく、上下も左右も感じられない。
ただ、深い霧の中にひとり漂っているかのような感覚だけがあった。
耳を澄ませても音はしない。呼吸の音すら、自分のものなのかも怪しいほどだ。
その瞬間、既視感が胸を突く。
•••ここは、あの時と同じ場所だ。
神を名乗った存在と出会った、あの空虚な世界。
だが前回と違った。
今回は、その存在がクロスの思考の中に直接声を響かせるのではなく、視界の奥•••遠くの闇の中から、輪郭がゆっくりと現れた。
白銀の衣を纏い、性別も年齢もわからない。目を凝らしても顔の造作が曖昧で、見ているだけで意識が滑り落ちそうになる。
人間とは思えない、だが恐ろしくも不思議と嫌悪感のない存在が、クロスの前に立っていた。
「……前は姿を現さなかったな」
クロスが口を開くと、かすかに声が空間に響く。だが、その声は相手の耳に届いたのかさえわからない。
存在は、柔らかく微笑んだような、そうでないような気配を見せて答えた。
「前は、お前がまだ夢と現の境に立っていたからだ。今回は違う。お前が……“選んだ道の果て”に踏み出したから、姿を示した」
「選んだ道の果て……?」
問い返すクロスに、存在はゆっくりと歩み寄りながら、淡々とした声を響かせる。
「代行者の“信奉者”を討ったな。あれは予想以上だ。……ひょっとすれば、お前は代行者そのものを止めるかもしれない。もっとも、止められないかもしれないが」
代行者。
初めて聞く言葉ではない。だが、その実態はいまだ掴めない。
クロスは眉を寄せ、まっすぐにその存在を見据える。
「代行者ってやつの名前は?」
しばしの沈黙。空気が静かに揺らぎ、存在が低く名を告げた。
「……“ヴァルミュール・エリュシオン”。それが、かつて私の代行者であった者の名だ」
その音が空間を震わせた瞬間、クロスの背筋を冷たいものが駆け上がった。
名前を聞いただけなのに、何か巨大で抗えないものが、どこかで息を潜めているような感覚があった。
「で、そのヴァルミュールの“信奉者”ってのが、あの黒装束どもってわけか?」
問いかけると、存在は静かに頷いた。
「黒装束…お前たちがそう呼ぶ者たち。彼らは、ヴァルミュールが地上に堕ち、力を失った後に集めた者たちだ」
「じゃあ……あいつら、魔物を操ってたのも?」
「ヴァルミュールが授けた術によるものだ。人間でありながら魔物の群れを統率できるのは、その加護のため」
「加護って、……あれのどこが加護なんだ。村ひとつ潰しておいて」
クロスは苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「そもそも、あいつらはヴァルミュールの“何”なんだ? ただの部下か?」
「彼らは手足であり、道具だ。……だが、彼ら自身はヴァルミュールの“本当の目的”を知らないだろう」
クロスは口を引き結ぶ。
「その計画ってのは何だ?」
「……今は知る必要はない」
即答だった。淡々としているが、その響きは拒絶を含んでいる。
「信奉者たち自身も、おそらく知らないだろう。ただ、彼らは皆、力を欲し、世界に絶望し、代行者の掲げる“目的”を信じずとも、その恩恵を受けている。だから動く。それだけのことだ」
「……教える気はないんですか?」
「お前にとっては、まだ無意味だ。今のお前にはただ、“進むか、退くか”だけを選べばいい」
クロスは舌打ちしそうになったが、飲み込んだ。こいつに苛立っても仕方がない•••そう悟っているからだ。
「じゃあ、もう一つだけ教えてくれ。俺の視界領域は……お前からもらった力なのか?」
その問いに、存在は初めて、興味を持ったようにクロスを見た。
「魔法の力と、魔力の器は私が与えた。だが、その視界領域は……お前が元から持っていた力が、この世界で変異しただけだ」
クロスは一瞬言葉を失った。
「じゃあ、これは異質な力じゃないのか?」
「それは、私にもわからない」
「……お前がわからない?」
「興味がないからな」
あまりに即答で、クロスはしばし呆気に取られた。
「……確かに、神ならそう言うだろうな」
ため息混じりに吐き出しつつも、どこか納得してしまう自分がいた。
その上で、クロスは一歩前に出る。
「じゃあ、どう使えばいい? この力を、どう扱えばいい?」
存在は、わずかに首を傾けた。
「お前は“意味”を求めるのか。ならば、一つだけ教えよう」
クロスが息を飲む。
「その力は、選び取った行動と覚悟の総和でしかない。どれだけ技を磨こうと、どれだけ力を注ごうと……“何のために使うか”を見失えば、その力はお前を蝕む」
クロスは黙った。言葉を探す間もなく、存在がさらに一歩踏み込む。
「お前は他の人間にはない力を得た。……その上で、お前は何を行う?」
その問いに、クロスは迷わなかった。
「俺の力は……助けてもらった、大切な人たちを護るために使う」
「ふむ」
「力を欲しがる奴らや、奪うために戦う奴らのためにじゃない。俺の剣も、この視界領域も……俺が守りたいもののためだけに振るう」
存在は、口元をわずかに緩めたように見えた。
「ならば、その意志が変わらないことを祈るとしよう」
その声が響くと同時に、世界が遠ざかり始める。
クロスの足元から崩れ落ちるように、空虚な空間が消えていく。意識が沈み、深い眠りに引きずり込まれる。
最後に耳にしたのは、存在の、淡い囁きだった。
「目覚めた時、お前がどんな顔をしているか……楽しみにしている」
そして、クロスの意識は闇に沈んだ。




