怒られ三昧と魔法の基本
朝――いや、もう午前も遅くなった頃。
宿の女将、マリアは掃除のついでに、まだ降りてこないクロスの様子を見に、二階の廊下を歩いていた。
「あの子……珍しく寝坊かい?」
コンコン、と扉を叩いても応答がない。
不安になり、そっと扉を開けると、そこには机にもたれかかるように突っ伏したクロスの姿があった。
「クロス!」
慌てて駆け寄ると、息はある。だが顔は青白くかった。
マリアは眉をひそめ、机の上にあった水の入ったコップを見て、すぐに察する。
「まさか……魔法の使い過ぎ? はぁ~~~……」
クロスが目を覚ましたのは、それからさらに一時間ほど経ったころだった。
すっかり昼を過ぎていた。
「う、うぅ……頭が……重い……」
寝台の上で目を覚ましたクロスは、隣で腕を組んで立っていたマリアの姿に気づき、飛び起きようとした。
「お、おかみさ――」
「動くんじゃないよ!!」
怒声が飛んだ。
普段は優しいマリアの顔が、雷を落としたように険しい。
「若い子が無理するのは悪いことじゃないさ。でもね、あんた! 魔力を枯らして倒れるほどってのは、命を削ってるってことだよ!? バカなことしてるんじゃないよ!!」
「す、すみません……」
「昨日の晩、あんた、何度魔法使った? 十回? 二十回? 魔力枯渇は命に関わる。命があるのは奇跡だよ!」
クロスは顔を青くしてうつむくしかなかった。
確かに、昨夜は気持ちが舞い上がって、限界もわからず魔法を繰り返した。それが“危険”だという自覚は、まったくなかった。
「わたしにはよくわからないけど、命が惜しいなら、ちゃんと学びな!」
マリアはそう言い残して、部屋を出ていった。
少し遅れて体調が戻り始めたクロスは、顔を洗い、フラフラしながらもギルド支部へと向かった。
時計代わりの鐘はもう昼下がりを告げている。
受付のリサが眉をひそめて待ち構えていた。
「クロスさん。随分と遅いじゃないですか」
「あ、リサさん……すみません、ちょっと体調が……」
「ゴルさんに代わって、今日の雑用仕事をキャンセルしたのは私です。」
「本当に、申し訳ありません」
「……いったい何があったんですか?」
クロスが罪悪感を感じ訳を話すと、リサは溜息をついた。
「初心者が魔法を連発なんて、無謀すぎです。最低限の基礎、ちゃんと学んでください。魔法は便利だけど、命取りにもなるんですから」
「……はい」
「グレイ教官が書庫にいます。行ってきてください」
言われるがままに2階の書庫に行くと、そこにはグレイ教官が、資料の整理を行っていた。
「こんな時間に珍しいな、坊主。」
「はい……」
クロスは正直に何があったかをグレイに話した。
グレイはため息をつきながら、
「まあ、最初は誰でも浮かれるもんだ。俺も魔法が“できた”時の喜びは俺も覚えてる。だが、だからこそ――」
グレイの声が、ぐっと厳しくなる。
「魔法の基本ってやつを叩き込んでおく。耳の穴かっぽじって聞けよ。お前はまだ初心者だ。初心者は、“詠唱”が絶対条件なんだよ」
「詠唱、ですか……?」
「そうだ。魔法というのは、内なる魔力を、外界に“イメージ通り”に作用させる行為だ。そして人間の意識は曖昧だ。だから、言葉を介することで魔力の流れを安定させるんだ」
クロスは自分の氷魔法の発動を思い出す。確かに、言葉にはしていなかった。ただ“凍れ”と願っていただけだった。
「あの時は、偶然イメージがハマっただけだ。たまたまな。……だが、それに甘えたら成長はない。初心者のうちは、決まった“詠唱”で魔力を流すこと。これが魔法の基本だ」
グレイは本棚から一冊の古びた手帳のようなものを取り出して渡した。
「そこに、初歩の氷魔法の詠唱が書いてある。“凍らせる”という単純な魔法だが、これを暗記し、唱えながら魔力を流せ。お前の体に染み込ませるんだ」
クロスは手帳を開き、そこに書かれた文を読み上げる。
『冷たき精よ、我が手に宿り、触れるものを凍てつかせよ』
「このくらいの詠唱なら、中級になれば短縮できるし、上級になれば無詠唱で発動できる。ただし――」
グレイの目が鋭くなった。
「順序を飛ばすな。魔法には段階がある。飛び級なんて幻想にすぎん。中級者は“短縮詠唱”、上級者になってようやく“無詠唱”が可能になる。段階をすっ飛ばせば、命を落とす」
「……はい」
クロスはその言葉を、胸に刻んだ。
氷魔法が使えたことは、確かに喜びだった。だが、それに浮かれて命を軽んじるような真似は、もう二度としないと誓った。
「しっかり学べ、クロス。お前に才能があるのは確かだが、この世界は才能だけで生き残れるほど甘くねぇぞ」
「ありがとうございます、教官……」
クロスは深々と頭を下げた。
まだ始まったばかりの冒険者の道。
一歩一歩、確実に進むために、今、自分が学ばなければならないことは山ほどある。
けれど――それが、成長への第一歩だ。




