氷と棘の決着
夜のフェルナ村は、燃え盛る家屋の赤い光に染まっていた。
崩れ落ちた壁の影が、ゆらゆらと揺れている。
地面には血が混じった水溜まりが広がり、焦げた木材と鉄の匂いが鼻を刺した。
その中心、広場の一角で・・・クロスは立っていた。
対峙する相手は、もはや「人間」とは呼べない存在。
それは、かつてのダリオだった。
赤黒い皮膚が筋肉の上に張りつき、背中からは無数の棘が骨のように突き出している。
腕は常人の倍近い太さに肥大化し、指先には鉤爪が光る。
顔は崩れ、裂けた口からは異常に伸びた牙が覗いていた。
その目・・・血のように赤い双眸が、月光を反射して妖しく輝いている。
「――――――グルルルルッ!」
低く、地を這うような咆哮が、夜気を震わせる。
砂と瓦礫が震動で跳ね上がった。
クロスは、片手剣を握り直し、深い息を吐いた。
足元の血と泥を踏みしめながら、わずかに膝を曲げ、腰を落とす。
(……もう、人間じゃない。ただの怪物だ。だが……ここで倒さなければ、村人も、仲間も……誰も助からない)
胸の奥で焦燥が渦巻く。
だが、クロスは一度、目を閉じ、魔力を全身に巡らせた。
そして・・・世界の速さを切り離す。
視界領域、発動。
空気が水の中のように重くなり、時間が粘つくように遅れる。
炎の火の粉が、漂う雪のように、ゆっくりと舞って見える。
世界の輪郭が静かになり、目の前の異形の一挙一動が、透けるように「読める」。
(……動きが見える。だが、相手は速い……一瞬の油断が、死だ)
ダリオが突進してきた。
巨体が地面を抉り、土煙が上がる。
その一歩ごとに、地面が小さく震えた。
棘だらけの腕が薙ぎ払われ、瓦礫が宙を舞う。
クロスは半歩、滑るように後方へ退き、同時に側面へ円を描くように動く。
視界領域の中で、迫る爪の軌跡を完璧に見極め、最小限の動きで躱した。
反撃。
クロスはダリオの脇腹へ剣を突き立てる・・・が、
ガギィィィンッ!
甲高い音が響き、刃が弾かれた。
皮膚はまるで鋼鉄のように硬く、刃は浅く表面を裂いただけ。
衝撃が手に響き、指がかすかに痺れる。
(……やはり斬れない。俺の剣じゃ、この装甲は通らない……!)
その瞬間、ダリオの背中の棘が鞭のようにしなり、地面を叩いた。
砕けた石片が弾丸のように飛び、クロスの頬をかすめる。
「……チッ!」
頬から血が滲み、夜風に冷たくなった。
ダリオが獣のような声を上げ、地面を蹴る。
巨体が跳躍し、上空から両腕を広げて降りかかってくる。
棘の生えた腕が、夜空を切り裂いた。
クロスは視界領域の中で、その軌道を読む。
足を止めず、円を描くようにステップで回避。
着地の瞬間、反動で露出した首筋を狙い、剣を斜めに振り抜く。
シャリッとわずかに血が飛んだ。
だが、それも表面を削っただけだ。致命には至らない。
ダリオの赤い目がぎょろりと動き、クロスを捕捉する。
裂けた口をさらに大きく開き、咆哮を上げた。
「――――グアアアアアアアアアアッ!!」
その叫びと同時に、背中の棘が次々と射出される。
瓦礫と空気を裂いて飛んでくる骨の槍。
クロスは身を伏せ、横転し、肩先をかすめる一本をやり過ごした。
背後で、民家の壁が串刺しになり、粉砕される。
(……このままじゃジリ貧だ。斬れない。耐久戦になれば、いずれ……)
剣を握る手をわずかに下げ、クロスは深く息を吐いた。
魔力を左手へ集中させる。
(……斬れないなら、凍らせて砕くしかない。これしかない……!)
息が白く凍り、周囲の空気が冷えていく。
青白い光が、左手の指先に集まり始めた。
「冷たき精よ……我が手に宿り……触れるものを凍てつかせよ――」
周囲の空気が、炎の熱気を押し返して冷え込む。
瓦礫の表面に霜が走り、白い粒が舞った。
《アイスタッチ》
青白い光が弾け、左手に氷の膜が広がった。
ダリオが再び突進する。
その口からは獣の唾液が垂れ、牙がギラリと光る。
爪がクロスの胴を薙ぎ払おうと振り下ろされ―・・・
クロスは視界領域の中で、動きを“読む”。
右腕の振りがわずかに遅い・・・そこが唯一の隙。
地面を蹴り、ダリオの腕に飛びつく。
左手を、その赤黒い皮膚へと押し当てた。
「――凍れッ!」
瞬間、冷気が一気に走った。
白い霜が、ダリオの腕から肩、胸、そして背中へと広がっていく。
赤黒い肉体が硬直し、ギシギシと音を立てた。
「――――ガァ、アアアアアアアアアアッ!!」
濁った悲鳴が夜を震わせる。
巨体が暴れ、地面が砕ける。だが、氷は止まらない。
クロスは全身の魔力を、左手へと注ぎ込む。
視界領域は消え、世界の速度が戻った・・・だが、止めを刺すため、迷わなかった。
「……これで終わりだッ!!」
クロスは右手の剣を振り上げ、凍りついた胸部へと全力で叩き込む。
ガキィィィィィィィィィィィンッ!
氷が砕け、内部の肉体ごと粉砕される。
ダリオの叫びが途切れ、巨体が崩れ落ちた。
砕けた氷片と血が夜空に散り、炎の光に照らされて青白く光った。
クロスは剣を地面に突き立て、荒い息を吐いた。
魔力をほぼ使い切り、視界が揺れる。
だが・・・まだ、立っている。
足元には、動かなくなった異形の残骸。
それは、かつてダリオだったものの成れの果てだった。
夜風が吹き、氷片と灰を運ぶ。
戦場に、静寂が訪れた。
「……ダリオ……」
クロスは低く呟き、目を閉じた。
遠くから、グレイスたちの足音が響く。
だが、クロスは動かず、夜空を仰いでいた。
燃え残る炎の光が、赤と青の二色で彼を照らしていた。




