血と影の戦場③
・・・世界が緩やかに回り始めている。
クロスは剣を握り、深く息を吸った。
呼吸が、自分だけ異なる時の流れにいるかのように整う。
耳に届く音はすべて低く引き延ばされ、ブラッドウルフの咆哮も、仲間の息遣いも、重たい波のように沈んで聞こえた。
(……やっぱり周囲の動きが遅い。でも、俺が速いんじゃない。世界が遅く、俺はただその事が“分かる”だけ……)
目の前には、十二体のブラッドウルフ。
赤く光る瞳が、緩慢な軌跡を描いて空を滑る。
どの獣がどの方向から飛びかかってくるのか・・・意識するまでもなく“わかる”。
「……行くぞ」
呟きと同時に、一歩、地を踏んだ。
最初の一匹が、飛びかかる瞬間。
クロスは肩を半歩ずらし、刃をわずかに傾ける。
ウルフの首筋が、勝手に剣の軌道へと滑り込み、鈍い感触と共に赤黒い血を撒き散らして倒れた。
残り十一。
続く二匹目は、回り込む軌跡が“見えた”。
クロスは半身を反転させ、剣を一閃。
ほとんど踏み込まずに、首筋をなぞるように刃が走り、ウルフの体が崩れ落ちる。
(……動きに無駄がない。いや、無駄を考える前に、身体が勝手に“答え”を知っている……)
残り十。
魔力を留めた両腕、両脚、そして体幹の五つの“充電箱”が、かすかに軋むような感覚を伝える。
力を抑えているはずなのに、全身が異常な集中で熱を帯びていく。
ウルフが四体同時に迫る。
赤い軌跡が網のようにクロスの視界に広がった。
刃を斜めに構え、腰を沈めて一気に回転・・・刃が二体の胴を裂き、返す一閃で三体目の前脚を断つ。
残る一体の顎は、体をわずかに捻ってかわし、その隙に心臓を貫いた。
(残り……六体。)
汗が背筋を伝う。
呼吸は乱れていないのに、内臓が重く軋むような不快感だけが増していく。
この“領域”が、普通の人間の感覚や限界を超えているのだと、身体が告げていた。
六体が慎重に距離を取り始める。
群れとしての知性が、目の前の存在が危険だと理解したのだ。
赤い瞳が揃ってクロスを睨む。
「……怖気づいたか?」
吐き捨てると同時に、クロスは地を蹴った。
一匹が横合いから飛びかかる。
その軌道が始まる前から、クロスの剣がそこを走っていた。
ウルフが断末魔をあげて倒れる。
残り五体。
二匹が左右から同時に迫る。
クロスは一歩前へ。左腕で柄を支え、剣を滑らせるように振る。
左の獣の腹を裂き、そのまま半身を捻って右の獣の喉を掠める。
二体の悲鳴がほぼ同時に途切れ、血飛沫が飛んだ。
残り三体。
クロスは呼吸を整え、血で濡れた剣を軽く払った。
視界はまだ“遅い”。
だが、五つの充電箱のうち二つが、ひどく鈍く痺れるような感覚を放っている。
(……この状態、長くは保てない。早く終わらせるしかない。)
その赤い瞳を睨み返しながら、クロスは最後の決着へと身構えた。
その頃・・・別の場所では、グラハムとフロレアが緑褐色の巨体、鋭い鎌を持つデス・マンティスと死闘を繰り広げていた。
四体いた巨昆虫は、一体が既に地に伏し、もう一体も深い傷を負っている。
だが、2体の個体は健在で、二人の前で鎌を交差させて威嚇した。
「数が減っても、こいつら厄介ね……!」
フロレアは弓を構え、魔力で風を纏わせる。
「火で炙れば甲殻は脆いが……この距離じゃお前が巻き込まれる!」
グラハムが火球を手のひらに集めながら声を上げた。
「じゃあ、私が脚を止める。あなたはタイミングを合わせて!」
「了解だ!」
フロレアが矢を放つ。風を纏った矢がマンティスの脚を裂き、動きを止める。
同時にグラハムが火球を投げつけ、甲殻を焦がし、体勢を崩させた。
「一体、落とす!」
グラハムが《フレイムランス》を放つと、デス・マンティスの胴を焼き貫く。
体液を撒き散らしながら巨体が倒れた。
残る二体のうち、一体は既に傷だらけ。
しかし、最後の一体はまるで怒りを爆発させるように甲高い音を立て、鎌を交差させて突進してくる。
しかし、次の瞬間、傷ついたデス・マンティスの鎌が横から襲いかかる。
フロレアは咄嗟に身を低くし、矢を放ちながら転がるように距離を取った。
「ちょっと! この動き、連携してくるなんて聞いてないんだけど!」
「愚痴は後だ! ほら来るぞ!俺が囮になる! お前は脚を狙え!」
グラハムが火球を片手に前へ飛び出す。
鎌が閃く瞬間、矢が飛んだ。
マンティスの右脚が断たれ、バランスを崩す。
その隙を突き、グラハムの《ファイアバースト》が炸裂し、マンティスを爆風で弾き飛ばした。
残り一体。
二人は肩で息をしつつ、最後の巨体を睨みつけた。
背後では、グレイスがなおダークオーガと渡り合い、バルスがブラッドゴブリン五体と死闘を繰り広げている。
戦場は、まだ終わりを告げてはいなかった。




