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狂淵残歌  作者: 亞沖青斗
第一章 狂縁懺火
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七話

 燃え残ったこのブローチには、謎と答えがある。この世に唯一、実娘という私に託された母からの不思議な力が、絶対に隠されている。

 倉内は、母だけを獲物とせず私までも狙い定めていた恐れがある。それを知った母はあの日、自分を犠牲にして私を守ろうとしたに違いない。よもや誰も信じはしないだろう。父が海外から取り寄せプレゼントしたこのブローチには、敵を討つ魔力のようなものが秘められていたに違いない。ならば昨夜の超常現象にも繋がる。あの家を守る。母と過ごした家で私はずっと生きる。帰らなければ。

 冷え込む夜間、脈打つこの使命感が、ブローチの付いた左胸を、本体の色と同化するように熱くさせた。

 外出から帰宅してもまだ十九時にもなっていなかった。

 食欲も減退したままでもあったので私は軽食のみ摂ってから、今朝は見まいと避けていた和室の仏壇前へと座った。もちろん夢ではない。母の遺影は焦げ落ちていたことから、父が新たに別の写真を代用したようだった。

 私が生まれて間もない頃の相当古い写真。昨夜から挨拶程度の会話しかしていなかったけれど、仕事から帰宅したばかりの父はあの恐ろしい現象を前にして動転した様子もなく、それどころか冷静に対処を施した。娘としては誇らしかった。何があってもきっと守ってくれるのだと、母亡きあとも私が一人前になるまで寄り添ってくれるのだと、私も父を裏切ることなく母のように堅実かつ清らかな女性に育つのだと決意した。

 線香をあげて手を合わせ、それから庭に干していた洗濯物を取り込んでたたむ、その直中のこと。

「なによこれ」

 驚いて父のシャツから手を離してしまう。蛭が張り付いていた。それも数匹。物干し竿にハンガーで吊るしていたのに、どうやって着いたというのか皆目見当がつかない。庭で振り払ってから家に入る。

 そうして新しいスマートフォンをダイニングルームのテーブル面に置き、挙動の変化をじっと見つめて待った。

 十二月の夜は早く、建ち並ぶ住宅の隙間を走り過ぎる寒風の不気味な音が尾を引く。暇を持て余して移動した庭から仰ぐと、鎌のような鋭い三日月が澄んだ紺色空を切り裂いているようで身震いさせる。

 空絵と柏原くんは、私を残していったいどこに行ったの。寝室の窓辺から見下ろしても、私を呼ぶ悲鳴と燈は浮かばない。父もまだまだ仕事から帰ってこない。あの夏休みを前にして六人で集った勉強会も今はもう、青春らしい儚い思い出として懐かしいだけ。再集結するなんて夢のまた夢なんだろう。

「柏原くんが持って来てくれるケーキ、美味しかったなあ」

 冷蔵庫を開くとそこに瀟洒な模様で飾られた箱があるんじゃないかと、目を細めてしまう。「美味しそう」と、待ちきれないとばかりに垂涎を我慢し、喉を鳴らす母の表情。冷蔵庫を閉める。

 何か妙な違和感が走った。なんだろう。ちょうどその時、ダイニングテーブルに置きっ放しにしていたスマートフォンが震えた。恐る恐る手にとって覗き込んだ傷ひとつないディスプレイには、寂然とした家の空気に耐えきれそうにない私を歓喜させる名前が救いのように光っていた。

「もしもし、末成くん」

『夜遅くにごめん。あのさ、迷惑じゃなきゃ今からそっちに行こうと思うんだ。やっぱり心配だから。あんなことがあったし』

「本当に? 嬉しい。待ってる」

『じゃあ、自転車でかっ飛ばして行くから二十分くらいかかると思う。それまで家を出ないでくれ』

「わかった」

 通話中に彼の声を聞いた時も、通話を切ったあとも素直に熱くなる胸奥を実感した。末成くんとの関係性は、終わりを迎えたと覚悟していたから。五分足らずしてもう一度スマートフォンが鳴ったので、甘くなる気持ちを味わいながら、言い忘れたことでもあるのかと呼び出し画面も見ずに通話に出る。

「どうしたの?」

『中島、今だいじょうぶか』

 ごりごり、と例えるなら硬い物体が地面をこそぎ取りながら進む奇妙な雑音が混じる中から、あの冷静な声が耳に触れた。

「柏原くん、昨日はどうなったの? 今までどこにいたの? 空絵は? 錦山くんは? あの路地に落ちてた灰の山はなんだったの?」

 焦って質問責めにしてしまう自分を恥に感じながらも、捲し立ててしまう。

『錦山は焼かれて死んだ。灰の山は錦山だ。一瞬のことだった』

「うそ」

『僕と小波を逃がそうとして、一人で向かっていったんだ。どうしようもできなかった。準備もできていなくて、ただ逃げるしかできなかった。中島、あれは中島のお母さんで違いない』

「どうしたらいいの。わたしはどうしたらいい」

『実はいま中島の家の近くまで来ている。出てきてくれ。中島にだけ話したい大事なことがある。そこで全部を見る前に』

「わかったわ。すぐに行くね」

 錦山くんが死んだ。その事実からなる悲哀や驚愕より、「私にだけ話したい」という柏原くんの言葉に胸を膨らませ、尚且つ空絵がいないという現状が遥かに上回る劣情となってこの胸を激しく猛り昂らせた。

 柏原くんの隣に寄り添える自分を想像してしまい、そんな自分を嫌悪しているのに、末成くんからの電話より熱く甘くなる腹奥を否定したいのに、私はダウンジャケットを肩に引っ掛けるとすぐに玄関から家前の通路まで一直線に飛び出た。

 けれど、そこに求める柏原くんはいなかった。けれど、別の人がいた。

 夜空が塗り潰されるくらい濃い霧が辺り一帯を覆い尽くし、そこに物音は少しもなく、自分の呼吸音すら気配を失う隔絶された世界だった。周辺に並ぶ住宅の窓も真っ暗で、人影もないのに気配だけが。

「やあ中島さん、こんばんは」

 空間がぬるりと歪んだ。痩せこけた眼鏡の青年が、見覚えある白色のスマートフォンを道路奥に向けておそらく動画を撮影している。一瞬、彼の首から下が無いのかと驚いたが改めて見ると、顔と手だけ露出しているだけで、徐々に透明だった身体が浮かび上がってきた。右肩から先がない。その様は周囲の濃霧に溶け込む人外そのもの。

「錦山くん」

 ゾッとして呟いた私を少しも見ようとしない錦山くんの視線の先には、今もっとも脅威とする熱源が迫っていた。

「おかしいだろ? あのときの服はね、お化け屋敷で使ってたんだよ。都合がいいだろう? 俺はいつも、君をこうしていた。夢見ていた。俺のものにしたかったのに、勇気がなかった。だったのに、君が俺を嫌っていたから」

「それはどういう意味」

 昼間嗅いだガソリンの匂いが蔓延し、真夏日の直射日光より強烈な熱源が喘ぎ声と共に近寄り、火炎に包まれる怪物が眼前に。

 震えて動けない私の数メートル前には、空絵が描いた絵画と一分もくるいないあの奇怪な化物が立っていた。焼けただれてあらゆる箇所から体液を滴らせる倉内が、胸にしがみつく母の両太腿を腰付近に抱きかかえている。下半身の局部だけではなく、密着する身体前面同士が接合してしまっているようで、既に一つの物体となっていた。

「ああ、またあの時と同じだ」

 ぼそぼそと呟く錦山くんの姿がまた歪んだ。


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