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狂淵残歌  作者: 亞沖青斗
第一章 狂縁懺火
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六話

 正気を失いそうな騒動、いや、未だかつて現実とは思えないおぞましい現象を目の当たりにしたあとの住宅街道路を、父が運転する車で駆け抜けたけれども、本当に空絵と柏原くん、そして錦山くんが化け物に遭遇したとは思えないほど静謐としていて、とても信じられなかった。

「このあたりに錦山くんの家があるらしい」

 無言を保っていた父が、後部座席に並んで座る私と末成くんにそう声をかけてきた場所とは、住宅の隙間を利用してつくられた小さな三角公園があり、私の家から見下ろせる丘陵地形の麓に位置していた。日曜日は休日である父も、以前までうちで集っていた勉強会メンバー六人全員の名前と顔を把握している。しかし、私でも知らない錦山くんの家の場所を、なぜ父が知っているのか、消沈とする車内でそれを尋ねる気概も起こらなかった。

 入り組んだ小道を徐行する乗用車が大通りに出る残り百メートルとしたところで、ぼんやり外の景色を眺めていた私はサイドガラス向こうの光景に目を見張る。路肩の用水路脇にこんもりと盛り上がる灰らしき砂塵の山があった。通り過ぎる僅か数秒間足らずで灰と認識した理由は、細い白煙が漂っていたから。恐ろしくなり顔を戻すと、狭いルームミラーに写る父の視線と衝突する。

「お父さん」

 ハンドルを握る父は返事もしない。それから、国道に出て深夜も営業しているセルフガソリンスタンドを経由し、末成くんを無事に家へ送り届けた。車から降りた彼は、玄関口で私へ振り向いたあとしばらく迷った挙句こう口にした。

「なあ、なのはは、本当はカッシーのことが好きなんじゃないのか」

 咄嗟に否定できなかった。

「明日は行かない。じゃあ」

 胸を刺すような面持ちだった。悲嘆を精一杯堪えている、そんな萎んだ背中を留めようにも弁解が思い浮かばない。父が待つ乗用車を背にしてしばらく動けなかった。

 熱誠を持って応えてくれた彼に詫びるべきだった。いろんなものを失った夜だった。

 父と二人で帰宅すると、再発の恐れがないと不思議に実感して久しぶりの安眠に着いた。そして、今がある。

 一夜明けて学校にも行かずに洗濯物干しや掃除に明け暮れ、夕刻になってから私が訪れた場所とは、国道沿いに位置するとある店先だった。なお、三段跳びメインに尽力した陸上部を引退して、はや四ヶ月。走り込みもせずに勉強ばかりに時間を費やし身体はなまりきっていたため、ジョギングがてらの外出もちょっと憶測が甘かったらしく、なかなか息切れが鎮まらない。

「新しいスマホを買ってきなさい」と普段と変わらず早朝から出勤する父にお金を手渡されたあと、独り家に取り残された私は、新しく購入してきたスマートフォンにてクラスメートにある事柄を尋ねた。

 錦山くんは相変わらず登校していない。同じく空絵と柏原くんの二人までも、学校に来ていない。

 電話もない。電話してもつながらない。相談できる人も、頼れる人も、内情を知る友人までも忽然と消えてしまった。そうなると、再び忍び寄る夜が恐ろしくて仕方がなかった。末成くんも宣言した通り、来ることはないだろう。

 私ひとりでもできることがないかと、かえって胆が座り行動に出た末である。黒色の毛糸で緻密に編み込んだお気に入りトップスの左胸には赤色のブローチが留まり、こんな情けない娘に勇気をくれていた。

 そろそろ藍空へと染まりゆく十七時前、風も無く冷気があちらこちらと足元に滞留する条件はこの場でも同じで、石油類の匂いが蓄積する敷地には給油を求める車がひっきりなしに出入りする。

 端から遠回りに抜け、ガソリンスタンドの従業員が待機する事務所に「すみません、こんにちは」と、躊躇しながら踏み入った。

 屋内には事務仕事中だった様子の年配男性と、そばかすだらけの身軽そうな大学生くらいの青年だけで、なおユニフォームとなるツナギ姿の二人は、車も所有していない私のような十代女子の参上に不思議そうな顔を見合わせていた。

「あの、突然ですみません。ちょっとお訊きしたいことがあるんですが」

「ええ、なんでしょう」

 しゃがれているけど明るく言う年配男性は胸元に『責任者』の表記カードがあって名は三橋博信、静観する青年は『研修中』の文字があった。深呼吸のあと私は、所長らしき三橋さんの反応を恐れつつ、本題へと入る前に一つの前置きを口にした。

「私、中島といいます。中島なのはです」

 それを耳にした彼は、あからさまに狼狽してデスクから立ち上がる。

「もしかして、倉内のことでしょうか」

 アルバイトを始めたばかりで事情も知らないと思われる青年のスタッフに席を外させた所長の三橋さんは丁寧な態度で、緊張する私に丸椅子をすすめてくれた。

 いずれこの日が来るだろうと、彼は予期していたのかもしれない。母を襲って強姦と心中自殺を強行した倉内のアルバイト先であったガソリンスタンドで何度も利用はしていたが、事件のあと私が訪れることもまずなかった。三橋さんとはある程度面識はあっても、顔を付きわせての対話は初めてとなる。

「警察にも質問されたとは思うんですけど、私は父親から倉内のことを詳しく教えてもらっていなくて。倉内は、どんな人でしたか」

「あんなことをする人間にはとても思えなかったよ」

 事件からこの一ヶ月足らずで、もう何度も重ねていろいろな人に説明したはず。淀みない口調で返ってきた。

「倉内は接客に向いている明るい性格で声も出るし、真面目だし、みんなが嫌がる夕方からのシフトにも積極的に手を上げて入ってくれた。爽やかで女にモテそうだったし、そんな陰湿なストーカー行為をするなんてとても考えられなかったよ」

 けどね、と頭髪の薄くなった頭を掻きながら三橋さんは繋げる。

「そういう人間のほうが裏で何やってるかわかんない、って警察は言うしさ」

「そういう人間?」

「人当たりが良いし、器用で、目端も利くような、一見はできた人間は、自分の悪事を疑われないように、本当にうまく隠してるんだと。映画とかでもサイコパスだとか演じてる役者とかいるだろうけど、あんな誇張されてなくてもっと自然に溶け込んでる」

 一瞬、今も行方知らずである唐笠和正の笑顔が頭を過った。空絵のことも。

「身近な人でも、わからないんですか」

「少なくとも、俺にはちっともわからなかった。倉内の家族だって知らなかったんじゃないかな。倉内の彼女だって」

「倉内には、彼女がいた?」

 思わず声高くなってしまう。

「いたよ。写真も見た」

 信じられなかった。思わず詰問するような尖った態度で前に出、三橋さんからの言葉の真偽を確かめてしまう。

「その、あんまり若いお嬢さんには言いたくはないんだけどね」言い淀む三橋さんが再び頭を掻いて、眉間にしわ寄せる。

「いいです。言ってください」

「倉内はいつも平日の十六時入りから二十時終わりのシフトだったんだよ。で、だいたい来たらなんつーかその、うちはガソリンの匂いがこうキツいから近づくと余計に目立つんだよね」

「もしかして、女のにおいが?」

 三橋さんは不道徳感に押し潰されそうなしかめっ面で「うん、まあそう」と肯定した。「甘い香水みたいなね。よく他のバイト仲間にからかわれてて。昼間っから何やってんだお前はよ、みたいに。倉内は、なんだか勝ち誇ったみたいな自慢気な態度で笑ってたけど。その時は、若いなあ、くらいにしか思わなかった」

「その彼女さんの住所ってわかりますか。話を聞けませんかね」

「いやあ、さすがに知らないねえ。あんなことがあったあとだし、警察からも多少なにかしらの聴取もあったんじゃないかな。周りの反応だってあるから、大学だってまだ続けてるか怪しいもんだよ」

「でも、そんな彼女と頻繁に肉体交渉している人が、ストーカーなんかしますかね」

「だから、わからないんだよね。俺も人間不信みたいになりかけたくらいだよ。悪魔みたいなやつだってね。もしかしたら、獲物を付け狙うみたいな、狂った快楽精神を持ってたのかもしれない。普通の人間の皮を被った悪魔だよ。きっと、うちからガソリンを持ち出したんだ。巻き添えにして自殺するなんて狂ってるよ」

「悪魔ですか」

 私が言ったが最後、押しつぶすような沈黙が落ちた。丸椅子からゆっくりと立ち上がると、三橋さんの口から安堵と受け取れる嘆息が漏れ出た。

「お忙しいところ、ありがとうございました」

「ああ、俺も君のお母さんの顔は覚えてる。上品で物腰が上品な今どき珍しい淑女だった。だから、事件を知ったあと、本当に苦しかった。罪も無い人が、あんなひどい犯罪の被害に遭うなんて」

 一礼してその場を立ち去る。走って家に帰る途中、にわか吹き出た蓋然性ある推理が組み上がり、気持ち悪くなってしまった。

 三橋さんは知っている。知っていて警察には言わなかったのだろうか。倉内の彼女とやらに配慮したのだろうか。

 倉内がアルバイト前に立ち寄っていたのは、彼女の場所などではない。倉内が私の母を強姦していたのは、事件があった一度きりではない。私や父が気づかないもっと以前から、倉内は母しかいないあの家に何度も繰り返して執拗に押し入り強姦に及び、それから「家族や周りにバラすぞ」と脅していたのではないか。生前の母は、父に気づいて欲しいとせめて願って、ストーカーをされていると打ち明けたのではないか。

 母もまた淑女のふりをして、悪魔に落とされる自分の秘密を隠していたのではないか。昨夜、ガレージの屋上から聴こえた空絵と柏原くんの会話を思い出す。

 事件があった日の一度だけじゃなかったってわけね。ガレージの屋上によじ登って、屋根伝いに寝室の窓までたどり着いたんじゃないか。

 たどり着く。アスファルト地面を踏む速度が徐々に上がる私の推理も、たどり着く。父と私にひた隠す地獄の日々から逃れるため、母みずから火を放ったのではないのか。あの母が耐えられるはずがない。

 苦しみと共に命を絶ち、終わりにしようとしたんだ。だから、化物になって私を呼んでいる。他でもない、私と父が立ち向かわなければならない。苦しみを理解してあげなければならない。倉内から切り離してあげなくてはならない。そして、死してなお彷徨う母へ心から伝えなければないない。

 いつまでも、愛する私の母であると。

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