三話
勉強がまったく頭に入らない。自失感に支配された脳細胞は、母亡きいま私が担当するようになった夕飯の献立以外、考えられないくらい形骸化していた。足下から吹きすさぶ寒風が紺色のスカートの裾を翻し、それを咄嗟に押さえてようやく自分がいま高校の制服姿だったと思い出す。予備校終わりの帰宅ついでに母直伝ハンバーグをつくるために必要な食材を買い出し、日が暮れてせいぜい街路灯の光だけが頼りの住宅道路を自転車で無気力に突き進む。
ここしばらく、どうもこうも母の顔と声が頭から離れず、ペダルを回転させるだけの単純な動きでも注意が散漫になっていた。板垣塀、ブロック塀、フェンス塀、またブロック塀、石垣塀、ブロック塀、視界に映る情報を言語化するシンプルな作業。そんな中、ようやく辺り一帯の異変に気づいた。音が無い。自転車を停止させ、見渡す限り人影もない。濃い霧までもが立ち込めていた。
「なに?」
危機感なくぼんやりと洩らした自分の声だけが、いやに誇張されて聴こえた。狭い空間で反響するような。前方で何かが動いた。数メートル先くらいか、目を凝らすも誰もおらず、けれど、照らされる靄の一部がゆらゆらと蠢いている。ハンドルを握ったままの私は、固唾を飲み込んでいた。滞留する霧が、その部分だけ避けているみたいで、目に見えない物体が紛れもなくそこにいると報せている。
気温がぐんと下がって、自分の吐き出す息が白くなっていた。見られている。誰かがいる。
「だれ?」
母の死が原因で、精神面が疲労消耗し感覚が麻痺していたのかもしれない。恐怖心はあっても、探求心が上回る。恐る恐る尋ねる。
「もしかして、お母さん?」
それは答えず、私から遠ざかろうとしていた。
「待って」
思わず呼び止める。夢のような奇妙な白濁した景色で、声は響かず地に落ちてしまう。
「ふふふ、大好きよ」
母の声だった。
優しく愛でる母の声。私は涙目になり、求めて追いかけた。自転車を押して角を複数回に渡って曲がった先には、自宅からはそう遠くもないのに普段は通らない景色が広がっていて、先ほどより狭い道が伸びるその奥も視界不明瞭で追う足を躊躇させた。それでも、もう一度だけ母に会えると信じて切望してしまい、震える両足を踏み出し続けた。得体の知れない物体の下には、よく見ると人型の影が灯りに照らされ白靄のアスファルト面に伸びていた。
「お母さんよね?」
速度が上がる。心拍数が上がる。呼吸が乱れる。期待まで膨らみ夢中になる私は、自転車とスーパーの買い物袋を放り出して必死に追いかけた。
「お母さん、待ってよ、お母さんお母さん」
待ってくれない。
「抱きしめてよ。いるんでしょ?」
「ふふふ、大好きよ」
また母の声。間違いなく母の声。それが続く。
「本当に、狂おしいくらい。世界であなたが一番好きよ」
「私も、私も、大好き」
濃霧の中、私はいつの間にか小さな公園の敷地内に足を踏み入れていた。三角形の公園で、遊具は錆びたブランコ、幼児でも扱い易い小さな滑り台と、パンダとキリンの絵がペイントされた一人乗りシーソーだけ。
「ふふふ、大好きよ」
ほら、また聴こえた。「お母さん」
「ふふふ、大好きよ」
「ねえ、どこにいるの?」
「ふふふ、大好きよ本当に、狂おしいくらい。世界であなたが一番好きよ」
キィ、とパンダ柄のシーソーが揺れた。霧も答えるように揺らぐ。
「そこにいるんでしょ?」
近づいて手を伸ばすと確かな手触りがあった。人の肌の温もりが、ひらに伝わる。
「私も、今でも大好き」
その時、手首を強く掴まれた。
「え?」
正面から突き飛ばされ、背中から地面に倒れ込んだ。
「え?」
履いていた制服のスカートの中に、人の手が滑り込んできて内腿を鷲掴みにされた。
「え?」
私の股の間に割り込んできたのは、目には見えないけど明らかに人の膝だった。地面に落ちた影がそう教える。背を着けて押し倒された私より遥かに重い人の身体が、強引に覆い被さってくる。制服の衣服を、下着があらわになる胸元までたくしあげられていた。形見のブローチが目の前で、混乱する私を見ているようだった。スカートの中の指が気味悪くまさぐり出す。血の気が引いて、口を開けたまま声がひとつも出ない。唇をねとり、と舐められた。ひぃっ、と自分とは思えない悲鳴が喉奥から絞り出る。くくく、と下品な含み笑いと荒い吐息が混ざり、間近から注がれる。ガチャガチャ、と下腹部で微かな金属音がして、それを瞬時に想像してしまい恐怖で凍りつく。
その時、ごとん、白色の物体が私の顔の横で跳ねた。
「え?」
どこかで見たスマートフォンだった。
ちっ、と舌打ちが眼前で弾け、白色のスマートフォンが、拐われたみたいにあっさりと消えてしまう。左胸を鷲掴みにされ、下着が今にも剥ぎ取られようとする。
「助けて、誰か、おか、おとうさん、たす」
水分を失った喉から、からくも音に出して助けを請う。赤いブローチへと。
「誰かたすけて、おかされる!」
ボン、眼前で何かが応えた。ガスコンロが作動するような空気の揺れが起こったかと思う、と視認できなかった人型の何かが、燃える手首を抑えて叫び声を出す。
突き飛ばして燃える炎が遠ざかる。三角公園からも逃げる。息も絶え絶え、がむしゃらに手足を振り回し、方向感覚のみを頼りに来た道へと走り狂う。
「邪魔するなぁ!」
遠く果てから夜空に響いた怒声は、心臓を縮み上がらせた。その時には濃霧も消え、自転車を回収し自宅へと向かって公園から遠く離れていたのだと思う。自宅に帰ると、案の定、父はまだ仕事から帰っていなかった。
家中の戸締まりをくまなく確認してから、シャワー室で入念に身体を洗い流し、和室の仏壇前で毛布を被り、母の遺影に向かって一心不乱に、助けて助けて、と繰り返す、情けないあなたの娘。
「お母さん、怖いよ」
それでも、悪寒は止まらない。