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狂淵残歌  作者: 亞沖青斗
第三章 狂蜒慘家
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二十話

 三月末には勤める会社からの持ち株配当金が出るので、ちょっとした臨時収入にもなる。

 とはいえ──年下薄幸少女たちに余裕を見せたものの、私事もなかなか匆匆としていて、ジュエリーショップにて結婚指輪選び、披露宴の打ち合わせ、入籍後に移り住む賃貸アパートの契約、あとは新しく購入する家具の吟味、次には海外新婚旅行などで、とにかく物入りが続くので判断は慎重になるし、ゆえに預貯金の目減りは抑えたい。

 婚約者の彼とも、多少は意見や好みの食い違いはあれど、特に諍いなく話し合いを通じて一つ一つ問題を解決していた。こういう時こそ、つくづく切情する。夫婦へと至るお互いの相性は抜群であると。

 それから、こさむ日和もそろそろと過ぎ去り本日は二月の十八日。とうとう待ちに待った、妹と飯島理央の大学受験合格発表の時が訪れた。

 快晴でも気温は低い月曜日の朝、さっそくPCモニターに張り付きインターネット照会を行う妹と、その背から覗き込む両親と有給休暇中のわたしは、一様にそわそわと肩を揺らしていた。下唇をきつく噛み締め、震える指先で受験番号とパスワードを入力欄に打ち込む妹の様は、見ていられないくらい痛々しい。エンターボタンを押せば合否が確認できる最後の動作直前、皆が固唾を飲む音が静寂とするリビングルームに生じた。

「あ」妹が口元を抑える。

「おお」父が剥げた頭を抱える。

「いよっしゃあ」母が肥えた腹を揺らす。

「おめでとう、玲香」

 拍手喝采で称えた。漏れでた鼻水と涙で、起き抜けの顔面をぐしゃぐしゃにする玲香にしがみつかれる。モニターには間違いなく『合格』の二文字が表示されていた。

「明日か明後日には、入学手続きの書類が届くから。まずは、入学金の振り込みだったかな」

 経験者として記憶を紐解く。合格したからといっても気は抜けない。締め切り日までに滞りなく入学手続きを進めなくては、一年間の努力もいわゆる水の泡だ。そうしたところで、感極まる妹のスマートフォンが鳴った。誰からの報せか言うまでもない。一度自室に姿を消した玲香は、すぐに張り裂けんばかりの笑顔で舞い戻ってきた。

「理央も合格したって!」

 これで親友同士の二人は春から揃って、念願の美大生になれる。玲香の躍進も無論、理央のおかげだ。感謝は惜しみたくない。

「じゃあ、お祝いしなきゃね。わたしからもおめでとう、って伝えておいて。それから、明後日の夜にでも都合が良ければどこかお店に食べに行こうって言っておいて」

 ささやかではあるが協力した身として、自分のことのように喜ばしい。少しでもお祝いして、新生活を始める二人から瑞々しい幸福絶頂を分け与えてもらい、次はわたしの推進材にしようとの魂胆だった。

 ところが、当てが外れてしまった。合格発表から二日が経過したその日の夜、わたしと玲香は理央と待ち合わせする生パスタ専門店にて席を共にしていた。彼と何度か足を運んだおすすめの店で、金銭的に余裕がなかった彼女らなら、より楽しんでもらえるはず。艶めく白壁、大理石調の床、目に優しい観葉植物、清潔感溢れる磨き抜かれたガラステーブル、その内装すべてが裸電球から降り注ぐ純白色の控えめな調光にマッチしている。

 他愛ない会話を垂れ流し待つこと数分、ほどなくして到着した理央の顔を見て、わたしと玲香は祝いの言葉を失ってしまった。

「兄が失踪したんです」

 席に着くや一言目からそう溢した口元は、血が滲み擦りきれていた。大学卒業から就職に失敗し、それからというもの社会の落伍者となって部屋から出ようともしない飯島興毅が姿を眩ました日は、理央の合格発表日の翌日であったそうな。

「部屋には鍵がかかったままで、窓からも出られない高さの部屋です。靴も玄関にそのままで、どうやって外に出ていったのかもわからないんです」

 分譲マンション八階に住まう理央の兄が肥満体型という条件を汲んで、ベランダから脱出するとは考えにくい。それに伴い思い出される。飯島家の内情は、実に複雑。浪人中の理央に「ざまあみろ」と蔑んだ過去があるらしい妬み根性が深奥まではびこる兄の性格に欠落がある所以の出来なのか。

「兄は……滅多に部屋から出て来ないから、様子はわからなかったんですけど、部屋の中はゴミ袋とかでいっぱいになっていて臭くて入るのもできなくて。でも、お母さんの場合は、いなくなる直前だけ、ちょっとおかしかっていたんです。それと関係があるのかも」

 理央の母親が消えたその日も、靴や衣服、私物の類いは一切持ち出されず普段と状態が変わらなかったがために、直ぐに戻ってくるだろうと楽観視していたくらいで、けれどもやがて預貯金が消えていた実態を知った父親は浮気からの出奔を疑い怒り狂ったのだという。物に当たり、暴れ回り、喚き散らし、家の中は荒れ果てた。未だに母親からは連絡もない。そして、次は兄。

「お父さんは、お母さんが兄に接触して連れていったんじゃないか、って疑心暗鬼になっているんです」

「次は、理央ちゃんを連れていっちゃうと思って、お父さんは怖くなったのね。でも、殴るなんて」

「そうなんです。いくらなんでも、お父さんがわたしに暴力を奮うなんて今までなかった。おかしいんです。お母さんもいなくなる前、怖かった。浪人風情のお前も落伍者だろう、って怒鳴りつけて、顔が怖くて、目が血走って、わたしの髪の毛を掴んで引っ張って、何かにとり憑かれたみたいに怒っていて、その数日後にいなくなったんです。だから、わたし、お母さんを捜そうと思ってもできなかった。その前の日も、兄に罵倒を浴びせていたんです。たぶん、わたしのことも嫌になったからどっかに行ったんだな、って諦めていました」

 そんな家族離散騒動の発端が起こるまで、理央の母親は生真面目なうえ物静かな性格で、浪人生活に苦悩する理央に対しても責めるわけでもなくむしろ優しく寄り添っていたそうだ。どちらかというと、田舎に残している老いた両親の介護の対応をどうすべきかと今後の方針に悩んでいたくらいで、親戚を巻き込んだ責任の押しつけあいに辟易としていたらしい。溜まりに溜まったストレスが理性の壁を決壊させたのか。

 結婚後の出産から家族が形成されて時が経てば経つほど、新たな問題が大小関わらず波のように生み出され、そして解決には労力と経済力が必要になってくる。社会に出て、ベテランとなる人生の先輩方に結婚前からそれはよく言い聞かされてきたが、実際に他人の家庭の混沌たる内情を知ればその他大勢が経験している苦労からの助言も身に染みる。結婚生活へ理想がちな展望を描いていた自分が未熟であるのだと、少し気持ちが萎えてしまった。

「わたし、大学に行ってもいいんでしょうか」

 理央が目元をくしゃりと歪ませて、そんな悲嘆を押し出すので、我に返ったわたしは態度をあらためた。

「せっかく一年も苦労して受験合格したのに、そんなことで大学を諦めるなんてもったいないよ。人の家庭の事情に首を突っ込むなんて配慮が足りないみたいだけど、理央ちゃんのお母さんもお兄さんも心配なら警察に連絡するべきだし興信所とかで調査依頼だってできる。自分でなんとかしようとしても、無駄足になる恐れがあるわ。理央ちゃんのお父さんだって、逆に怪しむかもしれないから、今は目の前のことを一つ一つ順番に片付けていきましょう。意思をしっかり伝えるの。大学に進学して、ひとり暮らしの時に、もしお母さんやお兄さんから接触があったら、どんな話を聞かされても絶対に報告するってお父さんに約束してあげなさい」

「お父さんと相談します。でも」

 一時的に落ち着いた様子の理央は、それでもやはり傷ついた口元を押さえて杞憂を訴える。

「帰るのが怖い」

 今日も半ば逃げ出すようにして、外出してきたのだと言う。理央の父親が失意に落ちる気持ちもわかる。もっとも、自暴自棄となった父親と希望も失った状態で二人暮らしする理央を想像するだけで、我慢できないぐらい胸が苦しくなる。

 わたしたち金石姉妹に協力できることがあればいつでも要請して欲しい、そう励ますと、いよいよ涙を流して理央は咽び泣く。ありがとうございます、と何度も頭を下げて。

 この三人のただならぬ様子を遠巻きにして遠慮がちに眺めていた生パスタ屋スタッフに、わたしたちはようやく気づき、それから各々の好みとなる料理を注文した。気を取り直しての食事会が、このあと空気の落ちることなく流れて進んだ。

「うちの後輩にさ、末成陽河って男の子がいたの。柏原くんの友達で、超気さくで裏表がなくてね。今年の受験どうだったのかなって気になってるんだけど、理央しらない?」

「私は知らないなあ。末成くん、玲香のお気に入りだったもんね。美術部の後輩が末成くんのクラスメイトだったとき、いろんなところで助けられたって言ってた。性格が最高なんだって」

「男気溢れてるんだよね。去年の学園祭、ライブ観たかったなあ。それどころじゃなかったけど。てか理央、末成くん狙ってるんじゃない? 理央が狙ってたら、わたし敵わないんだけど」

「そんなことはないよ」

 ややあって、少食の理央が皿上のペスカトーレを半分ほど残した状態で、お手洗いへと席を立つ。わたしたち姉妹が完食しかけていても戻ってこないので少々心配になり、満席テーブルの狭間を通り抜けて最奥の端に位置するレストルームへと向かった。

 すると、ちょうど席に戻る理央とすれ違いになった。父親か、或いは失踪の母親から連絡でも入ったのではないかと懸念していたのだけれど、口元をハンカチで抑えて恥ずかしげに微笑むところを見ると、特にこれといって変わったことが発生したわけでもないようだ。だから詮索するのも野暮であると考え、詳細は問わず、わたしはそのまま女子トイレ前の洗面台にある鏡で軽くメイクのチェックをおこなった。

「ん?」

 ふと眼下の白陶器製手洗い台に違和感を持って眼球を傾けた。次の瞬間には大きく息を呑まされる。

 径数センチの小さな排水口から、蠢く赤い何かが這い出て来ようとしていた。顔を近づけ更に検分し、ゾッと血の気が落ちる。ミミズかと思ったけれど違う。

 蛭じゃないのかこれは。どうしてこんなところに。瀟洒な内装と洗練された清潔な雰囲気が売りで、大人の女性から特に支持が高い生パスタ店にまるで不釣り合いな生物がひそかに蠢いている。その現実が飲み込みきれず、ひどい嘔吐感に苛まれた。思わず膝を屈して蹲ってしまう。スタッフが気づいて慌てて駆け寄り、それから説明ののちにすぐさま駆除されたが、どれだけ謝罪されようとも、とても食事を続けられる気分にはならなかった。

「どうしたのお姉ちゃん? 顔面真っ青。化粧直し、失敗?」

 軽く笑う妹と理央に心配させたくなかったので、なんでもないよ、と道化師風に無理矢理をおどけて誤魔化す。それでも、重く侵されてしまった胸奥が晴れることはなかった。結局、あの身の毛もよだつ光景が頭から離れないまま祝宴はお開きとなり、車で最寄り駅に送り届けたあと、改札口奥へと消えていく理央の背中を見送るときも悪寒は絶えなかった。

 その翌朝のことである。まだ意識も冴えきらず布団の中で縮こまる、そんなわたしの部屋に飛び込んできた玲香が血相を変えてこうまくし立てた。

「理央のお父さんが、入学金の振り込みを拒否してるって!」

 まさか、交渉は決裂してしまったのか。寝ぼけ眼を擦って眼鏡をかけてから、ベッド脇で立ち尽くす自失とした玲香を見上げる。

「しかも、保護者サイン欄にも名前を描いてくれないみたいで、もう諦めるしかないのかな、って理央また泣いてた。これじゃあんまりだよ」

「電話、変われる? わたしが話しを聞くわ」

 手を差し伸べスマートフォンを求めるも、繰り返しかぶりを振られる。

「さっきから通話がつながらないの。男の人の怒鳴り声が聴こえて、通話が切れて、それから何回電話しても繋がらないし、メッセージにも返信がないし。どうしたらいいんだろう」

「他には? 他に何か言っていなかった? 手伝って欲しいこととか」

「もうダメだって。やっぱり、何かおかしいって。お父さんも、自分の身体も、何かおかしくなってるって。変な青い光が部屋の中で見えるとか、意味がわかんない。入学手続き締め切りまであと三日しかないんだよ。どうしよう」

 布団から這い出たわたしは、ぐずる玲香を宥め、とにかく理央からの連絡を待つよう指示した。他人の家庭の事情に土足で踏み入るような不躾な真似はせぬ、と一線を敷いてはいたが、仮に暴力が再発したならば決して静観はしていられない。そして、懊悩しつつもなんとか仕事を終えたその日の夕方、立て続けにいっそう驚くべき事態がこの金石家を揺るがした。

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