一話
子供が泣いている。当然だろう。私ですら血の気が引きかけた。
悪ふざけが過ぎる。駆けつけた教頭から叱責を受ける男子生徒は、目から鼻から口から耳から挙句の果てに割れ裂けた腹部からも大量の血肉を踊り出させる仮装のまま、泣き叫ぶ少女に平謝りしていた。
「んなもん、お化け屋敷でやれ」
「不謹慎過ぎるだろ」
周りからも失笑をかっている。そう指摘された所以は、三ヶ月前のお盆時期にそのグロテスクな衣装と相違ないと巷で噂される怪事件が、ここからそう遠くない場所で実際に発生したからだ。警察機関ですら他殺とも自殺とも断定つかぬ男性の変死体が、ワゴン車の中から発見されたそうで、その死に様があまりにも惨たらしく異質であったことから未解決でもあり尚且つ詳細も報道されず終いなのだが、御多分に漏れず目撃者あたりから広まったらしい。
被害者の男の名前は忘れた。日本屈指の名門大学生で、生前はとてつもない美青年ともてはやされていたとか。
そんなことはどうでもよくて、気分を台無しにされて胸がざらつく。夏休みも明け、大学受験へ向けての勉強ペースに拍車がかかり、切磋琢磨する日々が続いて今は十一月の半ばとなる秋愁の暮れ真っ只中、薄褪せた水色空には太陽光の明度も控えめで、季節模様らしい広範囲からなる鱗雲に覆い飾られていた。入学して三度目となる西高の学園祭もそろそろ佳境へと突入する十五時前、十八年間の人生観が覆される悪夢がこのあと巻き起こるなど知る由もなく、順風満帆となる心境のもと途切れぬ人の群れを避けながらもなお私の足取りは速く屋内運動場へと向かっていた。
「さっきのお化け屋敷、あのタイミングで来るかあ、って感じ。絶妙。やっば、まだ鳥肌。顔面に赤い幼虫みたいのくっついてて、ぎゃーってなった」
「わかるわかる。てか、あれさ錦山でしょ絶対。存在感の無さを生かしてるって感じ」
学校関係者は勿論、近隣住民の来客もあって賑わいは好調。皆が一様に笑顔で、このイベントの感想などを持ち合い語らっている。
「共感性を求める、なんて周りに媚びた考え方が前から嫌いでね。結局のところ、わかるわかる、って簡単な感想を言ってもらえれば自分に表現力があると勘違いしちまう。つまんないんだよそういうの。社会ピラミッドの底辺の自分だからこそ、下層の大幅を占めてる弱者の気持ちを理解してるんだとか、そんな低俗な言動ばかりが氾濫してる。もっと別の形で鬱憤をあらわすべきじゃないか。たとえば憤怒だ」
あれは春頃だったか、誰も求めてもいないのに最近の風潮を知ったかぶったかのような、ひときわ達観した口ぶりで講釈垂れる錦山恵斗の得意気な顔を思い出した。
「知ってるか。脳波の中でも憤怒は特別なんだ。爆発的な力を発揮できる。英雄にも大悪人にもなれる。社会性っていう殻を破る熱源があるんだ。逆にいえば、それだけ激しいエネルギーは、数ある人間の感情の中でも憤怒しかない。世界は昨日と違う。俺はでも憤怒なんかに惑わされねえよ。いつも冷静だ」
錦山くんの水を向ける魂胆があからさま過ぎる発言のせいで、決まり悪い空気が流れるさなか、絶妙な返しで状況を着地させたのは案の定、普段から陽気なあの人だった。
「わかるよ。故意的に狙った共感性なんて陳腐だ。それに引き換え、空絵の絵はちょっと違う。憤怒みたいに表に出せは社会性を問われる感情は、だからみんな隠しているわけだろう。だから、別の形で表現するんだろう。写真と違って万人に共通して潜んでいる、認めたくないもの、知られてはいけないもの、見せると忌避されるもの、そういう奥底に溜め込んでいて出したいけど出せない、みんな目を背けたい揺るぎない現実を完膚なきにまで叩き出して眼前に迫る。そんな迫力がある絵なんだよ」
幼少期から長い時間を共にしていたとなればまあそう珍しくもないだろうが、それでも熱の込められた称賛と解釈がふと頭を過ぎる。
店番の交代が遅れたため、焦りが呼吸を早くさせている。そう言い訳したいくらい、心臓の動きがアップテンポへ傾いていた。誰もが耳にしたことがある人気のポップミュージックメドレーが至る場所で高揚感を助長させ、かくいう私も心なしか刻むリズムに歩調を併せている節があった。
「うおっと」
「あ、なのは。末成くんの出番もうすぐ。あと、二十分」
様々な小道具で色鮮やかに装飾されている一階のリノリウム廊下を進み曲がった直後、律儀に私を呼びに来てくれた友人と衝突しそうになった。息も切れ切れと震えるその細い指で、手首を掴まれる。多くの来客も同様で、メインイベントとなる会場へ流れる人混みの中で足を止めるわけにもいかず、彼女と一緒に歩みを再開させた。清らかな白衣、糊の利いた緋袴、足袋の組み合わせがよく似合う黒髪ショートボブの巫女姿をした同年代の小動物系リス顔女子が、華奢な体型に似合わず強い力で私の手を引いていく。
「なんか焦げ臭い」ぼそりと、彼女が呟く。
「ほら、たこ焼きじゃない」
窓外から見える校庭でも手作りの簡素な屋台が並び建ち、生徒たちの競り合う大声が客を引き込もうとする。逆にコスプレ喫茶なんてありふれたサービスも潮時だったのだろうか、空絵はそのままの着衣で脱け出て来たようで、元が良いだけに周囲の目を惹くくらい可愛らしい。軽く辺りを見回してから言う。
「ねえ、空絵。かしわばらくんは? さっきまで一緒にいたよね」
「ああちょっとね、なんか眠いから帰るって」
「なによそれ」
意味がわからない。冗談で返す気も起こらなかった。高校三年生の思い出として刻むべきこの大盛況を博す学園祭で、どこに眠くなる要素があるというのだろうか。しかも、帰るって。元々、何を考えているかよくわからない性格でもあったので、そんな理不尽な行動をとっても今となっては何ら不思議でもないのだけれど。
「せめて親友の晴れ姿くらいは、ひと目でも見て帰ればいいのに」と、思わずぼやいてしまう。
「美術部でもいっつもそうだったから」
私に後頭部を向け、ごった返す観客を勇ましく掻き分けながら進んでいく小波空絵もまた少し風変わりな人で、真面目で大人しそうな雰囲気とは裏腹にこの通り、行動は思い切っていて活発であったりする。
「今さらだけど、すごい人の量。空絵はこういうの苦手?」
「そんなことはないよ。お祭は好き。いろんなものが集まってくるしね。ほんとすごい量」と意味有りげに空絵が振り返った先はお化け屋敷。「錦山くんも午前中は手伝っていたみたいだけど、当番の時間が終わったら帰っちゃったんだって。こわーい顔してね。本物でも出たのかな。ほら、あそこにいるのも本物じゃない」
窓外の誰もいない別棟校舎屋上を指差しひそかに笑うという、たまに悪ふざけが過ぎるそんな彼女と友人関係が形成されたのは、実のところ三学年に入ってのゴールデンウィーク前から、とあるグループで受験勉強を共におこなうようになってからだった。空絵の幼馴染みである唐笠和正という男が、勉強会グループを結成したので私も参加するようになったまでだが、それも夏休み明けから呆気なく解散している。そうなった原因の一つが、彼女への猜疑心を掻き立てて止まない。
「唐笠くん、まだ実家から帰ってこないんだよね。なにも訊いてないの? 今日来れるか訊いてみるって言ってたよね」
「さあ、知らない」
いとも平然と追及をあしらう空絵は離島出身で、高校に入学してからも同郷の唐笠和正と共に学生寮暮らしだった。学校内でも何かと二人一緒にいるため公然とした恋仲のようであったのに、事実上の交際は二人ともが否定していた。
唐笠くんは容姿も冴えていて性格も明るく、更に人脈構築にも積極的なリーダーシップ系男子で、いわゆる『イケてる男子』の類に属するため、強い勢力に惹かれる脳みそ温かい系女生徒からは、頻繁に井戸端会議の引き合いに出されていた。存在感も濃く、その場にいるだけで空気が華やぐ。それだけに、言うに失礼だけれど性質的に目立たない空絵は、唐笠くんと不釣り合いとまで揶揄されることがあった。幼馴染み関係が羨ましい、なんて感じで皮肉気に。私個人としてならどちらかというと唐笠くんの印象は、体裁上の人当たりを意識する十代らしい十代、と思うのみで人としても異性としてもなんだか眇眇としていてあまり魅力的には感じなかった。その唐笠くんが夏休み明け、突如にして学校へ来なくなった。噂によれば、退寮して実家に戻っているらしい。
「ねえ、空絵。唐笠くん、新聞部で活動してたじゃん。三年前くらいに四国のどっかであったとかいう未解決の変死体事件を調べてる、って言ってなかった」
「それが?」
「この夏休みにあった変死体事件と、その三年前にあった事件の遺体というか、死に方が似てる気がしない」
空絵がせせら笑う。「だから、それが?」
「いや、別に」
そして、空絵は周囲の疑心とする目を歯牙にも掛けない様子で、なんと柏原幸秀なる男子生徒に乗り換えたかの如く行動を共にするようになった。柏原くんとは、空絵と美術部に在籍していた愛嬌薄い寡黙な男子生徒で、一見は平凡そのもののようでいて、けれど一度あいまみえばその異彩な佇まいに惹き込まれてしまう。
「ねえ、柏原くんとなんかあったの。もしかして、それ関係で帰っちゃったの。それとももう付き合ってる?」
ようやく辿り着いた屋内運動場の雑踏の中で小声にして訊くと、彼女は少し驚いてから口元に笑みを忍ばせた。
「この学園祭でカッシーに告白されて、わたしが断ったってこと? あの人がそんなことするわけないじゃない」
「まあ、確かに」
曖昧に濁しているだけで、明確な答えではない。空絵が逆にその特別な関係を、柏原くんに求めたとまで否定していない。
追及するにも観客の密度はどんどん高まり、それどころではなくなる。
結局つまるところ、男女六人で組織された勉強グループはゴールデンウィーク前から四ヶ月ももたず解散になってしまったわけだけれど、もっとも原因はこの大事な時期に不登校となった唐笠くんだけではなく、実は私にもあった。
「お化け屋敷、空絵は行ってみた?」
「行ったよ。錦山くんは幽霊役やってた。あのお化け屋敷で、一番怖かったんじゃないかな。工夫されてたよ。なるほど、あの人らしいなって思った」
「あの人が幽霊役で、しかも一番印象に残るなんて皮肉なもんね」
「なのはは、あんまり好きじゃなかったもんね。なんでか、錦山くんは可能性を信じていたみたいだけど」
思わず失笑してしまった。「気づいてたんだ」
隙間もないほど大勢の観客で密集した屋内運動場の中央部を確保した私は空絵と並び、先ほどの軋轢ある話題も忘れて次に始まる催し物へ期待を膨らませる。晩秋の時期でも熱気溢れるこの場で、少々の鬱憤をため込みながら待つこと二十分、照明が消えて薄暗闇に落ちると同時にざわめきがおさまった。
『みんなー! お待ちかねの最終ライブイベントだあー! 盛り上がっていくぞー!』
いよいよ開始のアナウンスがなされる。ステージの幕が次第に上がるにつれ、内側からの強い光が漏れ出て主役を輝かせようとしていた。どっと湧き上がる歓声と叫喚、地鳴りがこの加熱でこもり立つ空間を揺るがせる。スポットライトに照らされる五名男子のバンドグループが姿を現し、間も無くドラムからのカウント合図で躍動感あふれるオリジナル曲が開始される。
尊敬する母からの厳しい言い付けもあってライブハウスなんかに足を運んだことが生涯で一度も無い私からすれば、ボーカル兼ギターを演奏する男性の美声に抵抗もできず酔いしれてしまい、それがとてつもなく刺激的かつ甘美で、だから周りの勢いある高揚感に包まれ流されるまま雄叫びを上げて猛り狂っていた。
炎のように、燃えて、燃えて、燃えて──セミロングの黒髪を振り乱す私より、はるかに背の低い空絵も同様にショートボブを上下に揺らして可愛らしくぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「末成くーん!」
彼の名を叫ぶ女生徒の声が何処から聴こえてきた。腹奥からの噴き出る怒り任せに負けじと声を張り上げる。
「こっちこっち、すえなりようがー!」
この場の隅々まで活力を与えるあのステージに向かい、私は両腕を滅茶苦茶に振り回し存在のアピールをしていた。彼に対してではなく、周りの観客に対してだ。
「俺はお前を愛してるぞー! なかじまなのはー!」
歌の僅かな合間、汗まみれのボーカル男性が、握りしめるマイクに放った言葉は、完璧な既成事実の周知だった。わっと視線が集中する。慎みもなく勝ち誇った自分の笑みは、この顔に満面と広がっていただろう。逆に普段から慎み深い母の顔が、頭の中を過ぎってほんの少しだけ冷静にさせられた、のも束の間、休憩も挟まず立て続けに演奏される次の曲に興奮が爆発する。
音楽は詳しくない。それでも、彼の指先が奏でる激しく繊細なギターの弦音は胸奥をとろけさせて、彼の太陽のように明るい笑顔は、私の脳を焼いた。だから、喉を枯らすほどに、あられもなく叫び狂っていた。
「末成くーん! 最高ー! 私も大好きよー!」
数多集う観衆の頭を縫って、ステージ上で歌い狂う彼と目が合った。血液も意識も沸騰していたのだと思う。
末成陽河、彼とは同じ勉強グループの一人として友人となり、それまではあまり冴えない男子生徒という印象だったけれど、夏休みの花火大会で告白されたことがきっかけに了諾し交際へと発展した。今、彼は輝いている。
私の選択は間違っていない。垢抜けたなんて生ぬるいくらいに魅力的に変貌して、大勢からこれほどないくらい褒め称えられて、かねてより入念に準備していたこの大舞台を派手に盛り上げている。そんな末成くんは勘が鋭いのか、それとも虚言なのか、今になって私にだけひそかにこう伝える。
俺は小波がカッシーをどう見ていたか、もっと前から気づいていたけどな。
ちょっと信じられなかった。
ふとどこかで、母の声がした。私の名を呼ぶ悲鳴のような、燃えるような、助けを呼ぶような叫び。空耳だろう、この極めて騒々しい状況なら幻聴もありうる。幻聴などではなく歌う末成くんのことなら知っている。
少しでもわたしに相応しくなれるよう外見に磨きをかけていたことも、同じ大学へと進学できるように努力邁進していたことも、優しくて暖かな性格からなる対応を誰かれ構わず振りまかないだけで以前から保有していたことも、音楽の練習だって勉強と同時進行なのにこの日のため弛まず磨きかけていたことも、そんな熱い想いを向けてくれていたことも。
だから、その成果あって末成くんはここぞと輝き放っている。
もっとも、それでも末成くんは、柏原くんを凌駕できない。狂って狂って誤魔化して、叫んで叫んで揉み消して、跳んで跳んで吹き消して──そして、知能も小さな罪悪感も大渦の中にのみこまれていく。
そのとき、誰かが叫んだ。
「火事だ!」