思い出
時が経つにつれて、優花の心に生まれた痛みは少しずつ和らいでいた。しかし、翔太の存在は、彼女の中で常にどこか特別な場所を占めていた。翔太を失ったその喪失感は、何度も彼女を襲い、時折、夜が深まると一人で涙を流すこともあった。それでも、健太の優しさと共に過ごす時間が、彼女にとっての救いとなっていた。
ある日の午後、健太と優花は街を歩いていた。秋風が木々を揺らし、黄色や赤に染まった葉が風に舞っていた。優花はふと、翔太との思い出が蘇るのを感じた。特にこの季節になると、翔太がよく言っていた言葉が頭の中で響く。
「優花、秋の夕焼けは一番美しいんだ。あの空を一緒に見ようって約束したの、覚えてる?」
翔太は夕焼けを眺めるのが好きだった。特に、秋の澄んだ空が彼の好きなシーズンだった。彼と見た夕焼けは今も鮮明に覚えている。それは、まるで彼の存在そのもののように、温かく、でもどこか儚い色合いだった。
「どうしたの?」健太が声をかけた。優花が立ち止まって、遠くを見つめていることに気づいたのだ。
「ごめん、なんでもないの。ただ、ちょっと思い出してただけ…」優花は健太に笑顔を見せたが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「翔太のこと?」健太は少し不安そうに尋ねた。彼も翔太の存在が優花にとってどれほど大きなものかを知っている。そして、その存在が二人の関係に微妙な影を落としていることも感じていた。
優花は少し迷ったが、正直に頷いた。「うん…翔太がよく言ってたんだ、秋の夕焼けが一番綺麗だって。それを一緒に見に行こうって約束してたのに…結局、叶わなかった。」
「そっか…」健太はその言葉に一瞬言葉を失ったが、すぐに笑顔を浮かべて続けた。「でも、俺と一緒に見るのはダメかな?」
優花は驚いて健太を見つめた。健太の提案は、彼女にとって予想外のものだった。そして、その言葉に対してどう反応すればいいのか分からなかった。
「翔太との約束は、君にとって大切なものだったんだろう。でも、その思い出を大切にしながら、今を生きることも大事だと思うんだ。」健太は優花に向かって優しく言った。その言葉には、翔太への嫉妬や競争心は一切なく、ただ優花の幸せを願う気持ちが込められていた。
「健太…ありがとう。」優花は、その言葉に少しだけ救われた気持ちになった。翔太との思い出を忘れることなく、今を大切にする。そういう生き方もあるのかもしれない、と彼女は思い始めていた。
その夜、優花は健太に誘われて、夕焼けを見るために丘へ向かうことになった。丘の頂上に到着すると、空はすでにオレンジ色に染まり、夕日の光が優しく地面を照らしていた。
「ここ、綺麗だね…」優花はつぶやいた。翔太と一緒に見たかった景色が、今目の前に広がっている。しかし、その隣にいるのは翔太ではなく、健太だった。
「うん。翔太もきっと、この夕焼けを見て喜んでいると思うよ。」健太は少し遠くを見つめながら静かに言った。彼の言葉には、翔太へのリスペクトが込められていた。健太は、翔太が優花にとってかけがえのない存在であることを理解し、その存在を受け入れようとしていた。
夕焼けが少しずつ沈んでいくにつれて、優花の心の中にある迷いもまた、静かに沈んでいった。翔太への思いは変わらないが、それと同時に、健太との時間もまた、彼女にとって新しい大切なものであることを感じ始めていた。
「健太、あなたがいてくれて、本当に良かった。」優花は健太の方を向き、心から感謝の言葉を伝えた。「あなたがいなかったら、きっと私は前に進むことができなかったと思う。」
健太は微笑みながら優花の手を取った。「俺はいつでも君のそばにいるよ。どんな時でも。」
その瞬間、優花は健太の手の温かさを感じ、胸の中に小さな希望が灯るのを感じた。翔太との思い出を大切にしながらも、彼女は新しい未来に向かって歩み出すことができるかもしれない、と少しだけ思えた。しかし、その夜、優花が自分の部屋に戻った瞬間、すべてが急に重くのしかかってきた。健太と一緒に見た夕焼けの温かさが、部屋の静寂の中で一気に消え去り、代わりに冷たく暗い現実が押し寄せてきた。翔太はもういない。この事実はどれだけ時が経とうとも変わらない。そして、優花がどれほど心の中で彼を抱え続けても、二度と翔太と同じ空を見上げることはできない。
ベッドに倒れ込むようにして横たわり、優花は無意識にスマホを手に取った。翔太との過去のメッセージが残ったままのトーク履歴を開いた。彼との会話は、まるで昨日のことのように鮮明に残っている。どのメッセージも優しく、どこか気の利いた翔太らしい言葉が並んでいた。
「優花、今日は何してる?」 「今度、二人で海を見に行こうね。」
たった数行のメッセージなのに、その一つ一つがまるで剣のように優花の心に突き刺さる。彼がもうこの世界にはいないという現実が、その言葉の重みを倍増させていた。涙が頬を伝い、スマホの画面にぽつぽつと落ちる。優花は翔太との最後のやり取りを思い出し、さらに涙をこらえることができなかった。
最後に翔太と交わした言葉。それは、彼が亡くなる直前のものだった。
「ごめん、今日は行けなくなっちゃった。でもまた今度埋め合わせするから。約束。」
翔太の「約束」という言葉が、優花の心の奥底で重く響く。あの日、翔太と一緒に行く予定だった場所に結局一人で行くことになり、そこで彼がもうこの世にはいないことを知った瞬間の衝撃。今でも鮮明に覚えている。あの日、翔太はどこにもいなかった。彼との約束は、永遠に果たされることはなかったのだ。
「翔太…なんでこんなに早くいなくなっちゃったの…」
優花は静かに呟きながら、再び涙を流した。彼がいない世界でどうやって前に進むのか、その答えが見つからないまま、時だけが過ぎていく。健太と一緒にいるときは、少しだけ前を向ける気がするけれど、翔太への想いを抱き続ける自分が、健太に対して罪悪感を抱いてしまう。
翔太は、自分がいなくなった後のことを考えていただろうか。彼が優花を残してこの世を去るなんて、予想もしなかっただろう。それなのに、優花は今、この苦しみと向き合わなければならない。
夜が更けていく中で、優花はベッドに横たわり、天井を見つめながら様々な思いが頭をよぎっていった。翔太の笑顔、優しく触れてくれた手、彼と過ごした日々の一つ一つが、彼女の心に鮮明に蘇ってくる。だが、その思い出がどれほど愛おしくても、現実には戻ってこないという事実が、優花をますます深い悲しみに追いやる。
彼女はふと、翔太がよく話していた夢のことを思い出した。翔太はいつも「大人になったら一緒に旅行しよう」と言っていた。日本中、いろんな場所に行って、二人で新しい景色を見るんだと、まるで子供のように夢を語っていた翔太の姿が、目に浮かんだ。
「もう、あなたとその夢を叶えることはできないんだね…」優花は呟いた。その言葉を口に出すことで、現実を再び痛感する。叶わなかった夢。それが今、優花の胸に重くのしかかる。
翔太と過ごしたあの夏の日々。青く澄み渡った空の下で、二人で歩いた道。何度も笑い合った瞬間。彼の温かさが恋しくて、どうしようもない気持ちで優花は涙をこぼし続けた。
「翔太、今でもあなたのことを探してるよ。どこにいるの?もう一度だけでもいいから、あなたに会いたいよ…」
その言葉が空虚な部屋の中で反響する。翔太にもう一度だけ会いたいという思いは、日を追うごとに強くなっていた。しかし、その願いが叶うことはないことも、優花は痛いほど分かっていた。
涙が枯れるまで泣いた後、優花はようやく深い眠りに落ちた。夢の中で、翔太が優しく笑いかけてくる。その笑顔は、あの日と同じまま、優花に語りかけるようだった。
「大丈夫、優花。君は一人じゃないよ。僕はいつも君のそばにいるから。」
翔太の声が優花の耳元で囁くように聞こえた。その声に安心感を覚え、優花はさらに深い眠りへと引き込まれていった。夢の中でさえ、翔太は彼女を包み込む存在であり続けた。
翌朝、優花はまだ涙の痕が残る顔で目を覚ました。目の前に広がる現実は変わらず、翔太がいないという事実もまたそのままだった。しかし、心の奥底で少しだけ違う感覚があった。それは、翔太が優花に残した「前を向いてほしい」という願いが、少しずつ彼女の中で形になりつつあるということだった。
翔太を忘れることは決してできない。でも、翔太が残してくれた思い出を胸に抱きながら、少しずつでも前に進むことができるかもしれない。優花はそう自分に言い聞かせた。
その日から、優花は自分の中で一つの小さな決意を固めていった。翔太の思い出を胸に抱きながらも、自分自身の新しい人生を歩み始めるということ。そして、翔太が残した言葉を胸に、いつか彼が望んでいたように、本当の笑顔を取り戻せる日が来ると信じて…。