『怪しい者ではない』と吐かす者が怪しくない筈などない
外からの大きな音に、リリアンは作業を中断し、振り向く。
そこにはとても細く顔色の悪い男性が腰を抜かしていた。
「「……!」」
(タッチェル博士……!!)
顔の左側に見える刺青のような術式と、それを隠すかのような長めの無造作な黒髪。
まず間違いない──が、それよりも。
「だ大丈夫ですか?!」
明らかに転んだ様子。
咄嗟にそう声を掛けたが、そもそも『なんか変な奴がいる!』とビックリして転んだのかもしれなかった。
「あのっ、わた……いや僕は怪しい者では決して! ほらっ許可証! お怪我はありませんか?!」
わたわたと立ち上がりながら身振り手振りで『不審者ではないです』アピールをしつつ、ベネディクトの方へ近付く。
そして、床に座り込んだままのベネディクトの斜め前にしゃがみこんだ。
予め聞いていた内容が『寝食をせずに死にかける』だけに、リリアンはベネディクトを本気で心配しているが、果たしてこの状況は『当たらずとも遠からず』というか、『当たっているけど遠い』というべきか。
(ぼうっとしている……!)
しかもほのかに顔が赤い……ような気がして、リリアンは『熱があるのかもしれない』という、とても安直な結論付けをした。
(女の子が! しかも可愛い! 『大丈夫』だと!? ……ニコラスじゃない!!)
ベネディクトは絶賛混乱中。
先日から殆ど寝ていない彼は、服こそソコソコちゃんとしているが、その実寝起きでもある。
『寝食を忘れる』の『食』はさておき『寝』は流石に集中力が著しく高まった時のみなので、力尽きて寝落ちはあるあるパターン。
何気にカルヴィンの言葉が堪えたらしく、ベネディクトは『さっさと功績を挙げねば』とそれを繰り返していたのだ。
堪えた割に、重要な部分が全く響いていないという、この残念さ。
しかしそんな寝てないベネディクト脳の回路も、ようやくマトモに機能しだしていた。
至近距離で、実に心配そうに女の子(※しかも可愛い)が見ている。
どう考えてもおかしい。
(……はっ、 殿下の仕業か!!)
この部屋に自分以外で誰かを入れられるとしたら、やっぱりニコラスとカルヴィンの二択しかなく、ニコラスは流石に勝手にそんなことをしない。
疑いをかけるまでもなく、それが答えだが、解答に辿り着くまで非常に時間がかかったと言っていい。
しかし未だ、経緯は不明。
「ちょっと失礼しますね」
「……ッ!?」
それを問う(だけの冷静さを取り戻す)より先に、リリアンの細い指先が黒髪をそっと分けながら額に触れる。
「○♯♭●□▲★※!!」
ベネディクトは一瞬激しく身じろぎ、そのまま固まった。
(女の子が僕に触れっ…………!?)
服からか肌からかは知らねど、彼女が動く度ふわりと微かに香る、柔らかな甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
それにより、ベネディクトは気付いた。
自分が風呂に入ったのは先一昨日──学園に向かう前のことだということに。
なんなら汗とか脂とかあんまり出ないタイプなのをいいことに、服もずっとそのままだ。
汚れてはいないが、臭うかもしれない。
「──!!」
「あっ、タッチェル博士?!」
我に返ったベネディクトは、その体勢のまま変な虫のようにカサカサと勢い良く後ずさると、そのまま開いていた仮眠室へと戻り扉を閉めた。
妙な動きに少し驚いたものの、思いの外健康そうではある。
なので、リリアンは『具合が悪い』という先程までの考えをあらためることにした。
(これは……もしかして、なにも聞いてらっしゃらない?)
『もしかして』と思いつつも、『やっぱり』という納得感もひしひし。
挨拶をすべきか迷いつつ、一応は扉を叩いてみたが返事はない。
転移陣から退出勤する、という話は聞いていたが『もしや中で儚くなっているのでは』と心配になったリリアンは恐る恐るノブを回した。
扉は施錠されておらずアッサリ開いたものの、ベネディクトはいないようだ。
(…………ま、いっか。 無事みたいだし)
それに安堵したので、とりあえず仕事を進めることにした。
なにしろ、時間は有限なので。
「お疲れ様~、わぁ結構進んだね?!」
定時の17時になり、ニコラスがやってきた。
しかし、若干キリが悪い。
「あの、もう少しだけやっていっていいですか?」
「えっ? こっちはありがたいけど……大丈夫? 無理しないでね」
「あとコレだけですから大丈夫です、そんなにかからないと思うので!」
確かに仕分けた分を纏める分が数束残っているだけのようなので、ニコラスは了承し部屋を出る。
「お疲れ様でした、明日も宜しくお願いします!」
リリアンの元気な声に見送られて。
──ニコラスはこの時、ウッカリある事を彼女に説明することを忘れてしまっていたのだ。