鯨がかかり糸が切れてない場合、どちらが被害に遭うかなど言うまでもない
リリアンは卒倒した。
なんの比喩でもなく、卒倒した。
そのお陰で馬鹿な計画が公の下に晒されずに済んだのは、実に幸いであったと言える。
既に公に色々晒されている身とはいえ、だからこそこれ以上はご勘弁願いたいので。
だが先程やらかしたのは消えぬ事実。
勿論、リリアンは頭を抱えた。
(あわわわわ……殿下に不敬な振る舞いをしてしまったわ……!)
しかも保健室にいるということは、運ばれているわけで。運んだのは別の人にしても、延長に殿下へのやらかしがあることには変わりない。
謝罪とお礼をしに行かねばならないが、恐ろし過ぎてもう。『なんであんなことしたんだ』と悔やめど、後の祭りである。
急いで寮に戻ったリリアンは、謝罪とお礼の手紙を書き、寮の事務員のところへ向かった。
「エスコット様。 貴重なお時間を割いて頂き、深く感謝致します」
考えた末、リリアンは殿下の婚約者である、ロレンシア・エスコット公爵令嬢に目通り願った。
同じ寮ではあるが、ロレンシアの部屋は特別室である。侍女もいるし、会うためには然るべき手続きがいる。
幸い許可された為、今に至る。
「セラー男爵令嬢……だったかしら? それで、なんの御用?」
ビクビクしつつもなんとか学園で学んだ淑女力を駆使したリリアンは、通された部屋の優美な猫脚ソファに浅く腰を掛ける。
丁寧に挨拶した後でなるべく簡潔に事の経緯を述べ、謝罪とお礼の手紙を認めたので渡して欲しい旨を伝えた。
「大変な不敬を働き、挙句にお世話をお掛けしてしまいまして。 謝罪とお礼をすべきですが、なにぶん私如きでは頭を下げるくらいしかできません。 その為に殿下の御前をウロチョロするのも却って煩わせるだけかと」
「それで手紙を……でも何故私に?」
「妙な手紙と誤解されることも懸念しまして、殿下や殿下の側近の方に渡すのは憚られました。 諸々考えた結果、婚約者であらせられるエスコット様に中身の確認も含めてお願いするのが一番いいのでは、と。 お手数をお掛けすることの申し訳なさはあるのですが、他に方法も思い浮かばず……」
そう──この件にロレンシアは全く関係ないのだが『出会いのきっかけを作った』と思われて一番不味いのがこの人であることは間違いない。
行動が事実なだけに。
事実は事実だが、概ね保身の為である。
保身という行動前提が覆る王子様なんて、婚約者がいようがいまいが完全にノーサンキューだ。
第二王子殿下の恋愛対象に自分がなるなどとは露ほども思っていないが、王宮勤めだって充分に有り得ないし、なにしろぶつかることへのリスクが高すぎる。
高位貴族子息など所詮は貴族の令息であり、しかもまだ学生……だが王子様は、存在そのものが違うのだ。
なのでリリアンにとっても、やっぱりこれは事故でしかない。
そんな保身力高めのリリアンが『誤解されないようにしなければ』尚且つ『謝罪しなければ』と考えた場合、この方法を思い付くのは自然な流れ。
なにしろロレンシアに頼み、更に手紙をあらためて貰うことで、多少図々しくても誤解への懸念だけは払拭されるのだ。
それになにより、できればもう王子殿下には会いたくないのである。
謝罪はすべきだが、手紙で終わらせたい。
「あら。 学園での些事、そんなに不敬だなんだと言う程のことでもなくてよ?」
鉄壁で冷たく感じる程に優雅な淑女の微笑みを湛えていたロレンシアだが、リリアンの言動への様子見もあったのだろう。
少し呆れた感じと共に、表情が和らぐ。
「うふふ、色々考えて気を回してくれたのね。 良いでしょう、お預かりしますわ。 仰った通り中身も確認し次第、殿下にお渡ししましょう」
「あ、ありがとうございます!」
貴族らしい振る舞いはそこまでできずとも、きちんと弁え配慮しようとしたのは正解だったようだ。
リリアンは安堵した。
──しかし、それは一瞬だけ。
「実は既に殿下から経緯を伺っておりましたの。だからてっきり殿下との出会いを期待した輩かと疑っていたわ、ごめんなさいね」
「ソソソソンナ! 滅相モゴザイマセン!!」
(ああああぁぁぁっぶなぁぁぁぁ!!)
まさか、既に殿下からロレンシアへ報告がいっていたとは思わなんだ。
間一髪、ギリギリセーフ。
「倒れたそうですが、お身体はもうよろしくて?」
「ええ。 あの時はぶつかったのが王子殿下と知り、あまりの失態へのショックに気を失っただけですので……」
身体を気遣われたついでに『王子様など恐ろしくて無理』という事実をさりげなくアピっておくと、ロレンシアは「まあ」と愛らしくコロコロ笑う。
リリアンはロレンシアに心から礼を述べ、侍女にもしっかりと頭を下げてから特別室を辞した。
当初の問題はまだ一向に解決していないが、目の前の危機は去った。
『曲がり角ドン』は危険だ。
もう迂闊な真似はやめよう──と、いたく反省しながら。
しかし実のところ、目の前の危機すらまだ去っていなかったのである。
「セラー嬢、ちょっと……」
「? はい……」
翌日リリアンは、教師づてに第二王子殿下に呼び出しを食らったのだ。