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偽典最終話『THE FINALE』

東城神詞の死に、彼の同僚達は一様に動揺していたが、中でもそれが顕著に現われたのは、普段、彼と仲が良かったとは決して言えない倉本奈那美であった。


先程までと比べ、明らかに動きが鈍い。


遠距離攻撃の照準は合わず、近距離の敵にも、うまくダメージを与えることが出来なくなっていた。


「あっ……」


気付いた時には遅い。Aシリーズの剣が彼女に向けて振りかざされている。


「あぶな……」


その剣は、御名神あずみがなんとか弾き飛ばし、倉本は一命を取り留めた。


「……御名神さ…」


ありがとう、そう言おうとした倉本に、御名神は言葉をかぶせる。


「死にたいの? 東城くんみたいに」


今まで聞いたことのない、低く威圧感のある声で淡々と問う御名神に、倉本は言葉が出ない。


「全員…生き残るって、約束したのに」


御名神は、憤っていた。もちろん、人一倍優しい彼女が東城の死を悲しまない訳はない。だが、その悲しみを今表に出せば、涙を流してしまえば、その悲しみのあまりに自分が戦闘不能になることを、無意識的に判っているのだ。

それを察した新堂が、倉本に言う。


「…倉本君、あずみの言う通りだ。この場で、これ以上の犠牲者を出す訳にはいかない」


「…わかって…います……」


冷静さを何とか取り戻した倉本は、彼女本来の高い戦闘能力を以て、敵を確実に倒してゆく。

その頃、東城神詞の死体の傍らに立ち、多数のAシリーズと膠着状態を続けていたサタンが、先程東城を手に掛けたその左手の鋭利な爪で、己れの右腕を切り裂いた。白い膚は死臭を放つ黒い血液に染まり、そしてその血液は瞬時に黒い霧となって彼らのいるSSH社ビルエントランスホールに充満していく。いや、エントランスホールは最上階まで吹き抜けになっているため、黒い霧は上へ、上へと侵食していく。


「…黒い霧?」


「………これは…」


黒い霧に触れたAシリーズが、次々にその動きを停止してゆく。


「何だ…?」


E-9スーツに身を包んだ新堂達には、何の異常もない。

黒い霧はビル全体にその死臭を拡げていた。生物には、何の害もない。ただ、1から9までの階級に関係なく全てのAシリーズにとって、その存在理由を根底から覆される状況であるのだった。

死臭はほんの一瞬で、空気の波にさらわれて薄まり、やがて消失する。

その正体に最初に気付いた新堂は、思わずその名を口に出していた。


「まさか…FDV666!?」


それらは間もなく…全てのAシリーズへの感染を確認されると共に、〈発病〉する。

それは、ミカエルをはじめとする全ての天使達…Aシリーズが藤守ミサヲの悪魔の帝国の支配下に入るということを意味する。

この世に君臨した支配者ミカエルに反旗を翻す二つの反乱軍に、明暗を分かたれる時が訪れた。

天使達は、天国より堕とされ、アンチマリアの…藤守ミサヲの手足となった。

黒い霧の完全に晴れる頃には、サタンと対峙していたAシリーズまでも、全てがサタンに統率され、新堂達に襲いかかってきた。

新堂らに、人間に残された最後の希望は、DWにすまう乙夏達だけであった。



新堂の耳元ではまだ、歪んだ賛美歌が、止まない。



☆   ★   ☆



サタンが彼の身を流れる黒色の血液…つまり〈FDV666〉を散布し、計画通り世界中の、全てのAシリーズ…いや、今日までの支配者ミカエルを含む全ての天使を藤守ミサヲが支配することが、ほぼ確実となった。


研究室内には十を越える数のディスプレイが設置され、その中のひとつが、FDV666が全てのAシリーズに感染、計画の次の段階に移れるようになったことを告げていた。 藤守は、少しのキー操作で、FDV666の〈発病〉を実行に移す。FVD666は、コンピューター・ウイルスでありながら、サタンの生体内で血球として生きている、新型のウイルスである。その血球は、体外に出るとAシリーズに感染する病原体となる。


あとは、ウイルスの進行を待つだけだ。実際には、待つ程の時間はかからない。


一秒ごとにそのウイルスは〈症状〉を進行させる。


最初の一秒で、感染した全てのAシリーズは、その永久原子を書き換えられる。この時点で、彼らはミカエルら七大天使にとっての敵となり、藤守にとっての兵士となる。

次の一秒で、Aシリーズは七大天使に対して同時ハッキングを行なう。いかに天使達といえど、幾千もの同時ハッキングに対して対抗し得る情報処理能力はない。

栄光の天使達が、次々と、天界から堕ちてゆく。


〈ラグエル、堕天〉


〈ウリエル、堕天〉


〈ラファエル、堕天〉


ディスプレイはめまぐるしく切り替わり、堕ちていく大天使達の名を連ねてゆく。


〈レミエル、堕天〉


〈サカラエル、堕天〉


〈ガブリエル、堕天〉


そして、ディスプレイは藤守ミサヲに、汝は王なりと告げる。


〈ミカエル、堕天〉


その文字を確認すると、さして興味もなさそうに彼女は他のディスプレイに視線を移した。そこには、SSH社での、サタンと彼に従う多くのAシリーズ、それに新堂達DWチームの姿があった。

黒い霧は晴れ、双子のようによく似た二人の男の、一人は威風堂々と立ち、一人はその足元で死体となって居るのも、よく見える。


「魔王……彼の最初の使命は、父親を殺すことだった」


真枝神曲の、独白ともつかぬ言葉に、藤守は淡々と言葉を返した。


「彼はそれを果たし、そして第二の使命も果たしたわ」


「彼の第一の使命………それは結局、君自身の迷いを断つために過ぎないんだね。藤守……」


真枝は、東城神詞の死体の映像に目を向けたまま動かない藤守ミサヲに、幻滅のニュアンスを込めた皮肉として、その言葉を贈った。


「私がそんな感傷にひたる女に見えるなら、あなたの近眼もだいぶ進行したんじゃなくて? 眼鏡の買い替えをお薦めするわ」


振り返って真枝に悠然とした微笑を向けた女は、言葉を続ける。

化粧気の無い顔はしかし薄闇の中で透ける白い膚を持ち、微笑んだその目は右目よりも左目をより細め、ディスプレイからの薄明るい蒼い光が、美しいアシメトリィをさらに際立たせていた。


「東城神詞は、二人もいらない。ただそれだけよ。方舟に乗って救われるのは、より救う価値のある方……ただの人間である〈父親〉の方は、もう用済みなの」


冷酷さを込めたその言葉と裏腹に、彼女の微笑が、歪む。眉根を寄せ、唇を噛んで、内部から込み上げる何かを抑制しようとする。


「生憎、眼鏡は最近買い替えたばかりでね…。藤守、君が本当に救いたかったのは、今君が用済みと言った、〈父親〉の方の…オリジナルの東城神詞のはずだ」


「……馬…鹿……言わない…で」


とぎれとぎれに、しかしまだ強さを保とうとする否定の言葉。

それを受け、真枝は冷淡に、じゃあ、と続ける。


「今、君は何故泣いている?」


かつて、PPTという小さな地方出版社にいた頃も、SSH技術開発部三課にいた頃も見たことの無かったその女の涙に、真枝は今、直面していた。


「本当に、君は迷いを断ち切ることが出来たのか?」


「私は……始めから迷ってなど居ないわ」


俯いた藤守に、真枝は来訪の目的を告げる。


「藤守、私は、君を殺しに来たのだよ」


「無駄なことよ…その前に……私の手足となったAシリーズ達か…それともこの研究室のセキュリティ・システムが…あなたを殺すわ…」


構わないよ、と真枝はかぶりを振った。


「世界の支配者になるつもりはないからな。私は、ただ……」


分厚い眼鏡の奥の瞳が、涙を拭って再び女王に成り切ろうとする女を捕らえる。


「尊氏の敵討ちがしたいだけさ……」


「……東城神詞のエイリアス…その架空の存在の、それも、始めから設定されていた運命の為に、此処に来たというの…?」


「君が〈母親〉という名を持つのも意外なことだったが……私も、これでも尊氏と信濃の父親なのでね…君のことを、許すことが出来ない」


あらかじめ運命付けられた、計算ずくの消滅だったとしても、だ。

彼はそう付け加え、懐から拳銃を取り出すと、藤守に銃口を向けた。

しかし、死ぬのは彼女ではない。引き金に指を掛けた瞬間、真枝は死ぬ。女王たる藤守ミサヲを守護するセキュリティ・システムが作動するためである。

そしてそれを予期しながらも、引き金を引くことを選択する真枝は、尚、喋り続けている。


「それにしても、なんという皮肉な敵討ちだろう。私は、尊氏が消滅する前に、彼の敵を討つ為に出掛けている。その上、敵に直面してこうして銃口を向けていようとも、死ぬのは私の方なのだからな」


「そこまで判っているなら、手榴弾でも爆弾でも持ってくれば、私も殺せたでしょうに。そうすれば、少しは貴方の死も報われたわ」


その言葉に、真枝は苦笑する。


「君と心中なんて、私はごめんだな」


「私もよ」


これから死に逝く真枝に、藤守は餞を送る。


「貴方の娘、強い子ね。片割れを失くして、貴方も居なくて、それでも戦おうとしている」


常にDWを映しているディスプレイに、信濃とゴーレムの姿があった。その一瞬、真枝は藤守から眼を離した。

といっても、彼女は特に動いた様子もなく、銃口を向けられたまま椅子に座っているだけだ。


「信濃は…いつか君達の悪魔の帝国と戦おうとするだろう。せいぜい気を付けることだな。君が愛し、そして殺した彼の死を、無駄なものにしない為にも」


「……そうね」


言われて、藤守は微笑み、別れを告げる。


「さようなら。真枝神曲」


真枝によって、引き金が引かれた。


死んだ。


真枝ではなく、藤守が。

胸に銃弾を受けて。

真枝は、生きている。

彼の脳が、事実をゆっくりと受け入れる。 先刻、彼が眼を離した一瞬の隙に、彼女はセキュリティを解除したのに違いない。

自分を殺させるために。



ディスプレイにはSSH社ビル内の戦いの様子が映し出されている。なにか置き去りにされたような感覚を抱いて茫然とする真枝を無視して、世界は無情に、平然と時を刻んでゆく。


「哀れだな…君も、彼も……無駄死にじゃないか」



☆   ★   ☆



藤守ミサヲがサタンを産んだ研究室には、彼女が椅子に座ったまま死んでいて、少し離れた処で真枝神曲が茫然として立ち尽くしている。

その研究室に向かって、ひとつ、足音が近づいて来る。


『私は……死んだはず…』


それに気付いたのは、藤守ミサヲだった。 自分が既に死体となっていることを知りながらも、何故かその意識は足音に気付いていた。


『夢を…見てるのかしら……』


足音はドアの前で一旦止まり、勢い良くドアが開け放たれる。

心臓を撃ち抜かれた身体は、動くはずもない。だが、その目は来訪者をとらえた。


『……サタン…………?』


「いいザマじゃねえか、ミサヲ」


『……違う……神詞……』


自分より先に死んだはずの…彼女がサタンに殺させたはずの、東城神詞だった。

邪魔だ馬鹿、と毒づきながら真枝の脇を通り、椅子に座って天井を仰いで死んでいる彼女の頬に手を触れる。


「長かったぜ、藤守技術開発部三課課長。お前がいなくなってからの二年……」


東城は、かつて彼女がその職に就いていた時には一度も口にしなかったその肩書きで彼女を呼び、生命活動の完全に停止したはずの、しかし何故か意識を持った藤守ミサヲの唇に、己れの唇を重ねた。


「行こうぜ、ミサヲ」


ディスプレイに映し出される、現実の喧騒には、東城は見向きもしない。


「エスコートしてやるよ。地獄まで、な」


斯くして、この研究室で、彼ら二人の物語は終わる。安っぽいロマンチシズムと血に彩られた、最後まで素直になれなかった者達の、夢物語として。



☆   ★   ☆



Aシリーズの動きに、変化が生じた、と気付いたのは、妙崎建だった。


「新堂主任……Aシリーズの統率が乱れた、そんな感じがしませんか?」


「……言われてみればそうだな…」


戦いを続けながらも、その理由を模索すると、ひとつの考えに思い至る。納得しかねる答えだが、それ以外にそれらしい理由が思いつかないのも確かだった。


「…あくまで推測だが、藤守ミサヲが死んだのかも知れない」


〈FDV666〉は、Aシリーズを藤守ミサヲの支配下におくウィルスだった。あくまでも、ミサヲの支配下だ。Aシリーズにとって、彼女の息子たるサタンの統率は、サタンの上にミサヲが存在するからこそ絶対的なものだったのである。

もしも仮にミサヲが死亡したとすると、Aシリーズは統率者を失い、誰の指示を仰ぐべきか判らなくなっているという可能性がある。二者択一……ミカエルか、サタンか。どちらを統率者とするか。

おそらくは、ミカエルが再びAシリーズの統率者となる確率が高い。

そう、新堂は考える。

そしてそれは現実となった。

一体のAシリーズが、サタンに攻撃を仕掛けたのである。


「……再び…ミカエルが王となったか」


新堂はそう呟き、サタンの足元に倒れたままの、かつて東城神詞であった死体をみて、彼を殺させた、藤守ミサヲを想った。


『……王となることよりも…ミカエルの支配からの脱出よりも…東城の後を追うことを選んだか……』


彼女は、一度は世界の殆どを手中におさめながらも、それを放棄した。自らの安息を求め、死に逃げたとも言えるであろう。

Aシリーズの襲撃を受け、サタンが一時退却を決意し、黒い翼を広げる。

と同時に、彼を中心にに大きな斥力がかかり、Aシリーズは粉砕されながら壁に叩きつけられた。新堂達も、E-9スーツに守られて怪我はないものの、スーツごと壁際に追いやられていた。

いつの間にか、サタンの姿は無い。

一瞬で無数のAシリーズを壊滅させたサタンの戦闘…というより殲滅能力にぞっとしながらも、藤守亡き今、自分達の敵はミカエルであることを、新堂は痛感していた。



☆   ★   ☆



『ねえ、陽洸君とQZLちゃんの意識が戻ったみたいよ』


凪喪憂子というナビゲーターの言葉を聞いて、乙夏=モードニスは居ても立っても居られなくなり、ICUの前に行った。無論、乙夏がその室内に入れるわけはないのだが、勝手に身体が自分の病室を出ていたのだ。


『彼女の…名前………』


ICU前の通路の壁にもたれ、QZL-BMWLの本当の名を考える。


「乙夏=モードニス…」


彼の名を呼ぶ少女の声に反応して横を向くと、声の主の少女と共に、少年の姿があった。声だけでは判らなかったが、その陶器で出来た人形のような端麗な二人の容姿は、一瞬で記憶を喚起するには十分であった。今日は二人とも制服ではないが、やはり真っ黒な服を着ている彼らを見て、乙夏は伊達甲斐造のバンドのライブに訪れる客の服装を連想する。

もっとも、少女の隣に立つ少年は、昨日乙夏の出会った少年ではない。姿形は同じであるが、少年…真枝・J=尊氏は、昨日の内に消滅している。現実世界の東城神詞のエイリアスたる尊氏は、東城の死と同時にDWゲーム内から消えてしまったのだ。今、尊氏として少女…真枝・H=信濃の傍らに立つ彼は、尊氏の臍帯を体内に取り込み、尊氏の肉体を得たPPT社のアンドロイド〈ゴーレム〉である。

乙夏は気付いていないが、〈ゴーレム〉の方は、乙夏との面識がある。数日前、要石で乙夏の友人、伊達甲斐造の姿で二体のAシリーズを指揮し、乙夏に攻撃させた張本人、それが彼だからだ。


「昨日の言葉…訂正するわ」


四つの漆黒の瞳が、乙夏を見つめる。先に口を開いたのは、少年の方だ。


「聖母は堕天使のしかばねを得て、反聖母となり、魔王は産み落とされた」


「天国であり悪魔の巣窟である場所が、救世主を手招く……という訳で、行くわよ。ついてきて頂戴」


尊大な少女の言葉に乙夏は、え、と戸惑いを露にする。


「ここに居る聖母…QZL-BMWLは、昏睡状態から醒めはしたけれど、それはまだ聖母としての覚醒ではない。あなたが彼女の本当の名前を、彼女に教えてあげない限り、何も変わらない…私達の側から変えることは出来ないのよ」


それは、自分が人間に創られ、干渉されて生きる架空の者であることを知る少女の…その干渉の末に大切な者を失わされた彼女の、強い意志の言葉だった。

そして、対する乙夏は、まだ、知らない。自分が、DWの中にしか居られぬ、架空の者であることを。


「なあ……ひょっとして、あんたらもゲームのテストプレイヤー……?」


その一言に、信濃は、乙夏がまだ〈知らない〉ことを知る。

一瞬、彼女はその長い睫毛を伏せた。


「………ええ。そういう設定の、DWゲームの登場人物よ」


乙夏には、彼女の言葉の意味がうまく伝わらない。彼女に代わって、尊氏の姿をした〈ゴーレム〉がその残酷な言葉を告げた。


「おれも、信濃も、あんたも……皆、このDWの他の登場人物と同じく、架空の者だということだ」



☆   ★   ☆



自分達はどこからきたのだろう。

その疑問を胸に抱き、それを解きあかすべく奔走する双子の兄妹。それが、〈H=信濃〉と〈J=尊氏〉の〈初期設定〉だった。

しかしその新堂真による設定は、真枝神曲によるハッキング、データの書き換え、更に真枝本人のDWゲームへの介入によって、全く違ったものとなり、双子がDWに及ぼす影響にも変化が生じた。

真枝神曲は、双子を自らの息子と娘という立場へと書き換え、真枝という姓を与えた。年齢的に実の親子とするには少々無理があるので、戸籍上の親子にすぎないのであるが。 そして、二人の十三歳の誕生日に、父親である彼は双子に、重大な告白をした、という設定を、付け加えた。



神曲は、双子に告げたのだ。



彼らの生きる世界が現実世界をデジタル化した複製…架空の世界であることを。その世界が、何者かに創造され操作され支配されているということを。


それを知った日から、双子は心密かに、創造者からの独立を夢見た。

そして世界は覚醒し…やがて、聖母を覚醒させる段階へと進んでいく。



☆   ★   ☆



研究室で、既に永遠の眠りについている母の姿を眼にし、サタンは、戸惑いを隠せずに居た。

そして、見知らぬ男が立っていた。


「君の母親は死んだよ…魔王。君は、今や、完全に孤独だ。指示を仰ぐ母も居なければ、率いるべき軍も無い」


この男が母を殺したのだろう、サタンはそう悟った。しかし、寂寥感や空虚感は感じるものの、その胸に怒りは沸いてこなかった。母の死顔の安らかなことが、そうさせたのかもしれない。

どこかで、この男に心を許した。


「……世界は、この先どうなる? 俺は母上と俺が統治するはずだった未来しか知らない。だが、母上亡き今、その未来は実現しえないだろう」


サタンの問いに、男は答えた。


「戦いの末に……人間が天使から統治の権限を勝ち取るか、天使が今までのように人間を支配下に置くか……どちらかだろうな」


それから、暫らくは双方黙った。

研究室の十を越えるディスプレイが、現実とDWをそれぞれに映し出している。そこに映るのは、天使の支配から逃れる為に決死の覚悟で戦う人間達の姿だ。


「人間がこの世から天使どもを一掃する様を、ぜひともこの眼で見てみたいものだな」


サタンは一つのディスプレイを見ながらそう言って、左眼を細めて、にやりと笑った。


「…彼らと……人間と共に……戦うということかい?」


「誤解するな。俺はただ……傲慢な天使どもをこの世界から消し去りたいだけだ」


その素直ではない物言いが、東城にも藤守にもそっくりだ、と男-真枝神曲-は思ったが、それは口には出さず、理由はどうあれ心強いよ、と微笑を浮かべるに留まった。


「君に行って欲しい場所が、二ヶ所有る。そこに居る者に、伝言を届けてほしいのだよ」



☆   ★   ☆



自分の存在が〈架空〉だという双子の言葉に、乙夏はかなり受け容れがたいものを感じたが、落胆する暇もなく、双子に引きずられるようにして、どこかに導かれた。


「……どこまで行くんだよ…?」


神代医大を出てから結構歩いているが、目的地には未だ到着しない様子であった。乙夏には目的地がはっきりと示されていないので、その分の苛立ちも加味されている。

その問い掛けに、信濃は無言で立ち止まり、空を仰いだ。正確には、彼らの側に建つビルの上方を、だ。


「………PPT社…?」


「…ここに、この世界の〈創造者〉が居るわ」



三人は、PPT社のビルの敷地へ入ろうとする。乙夏の見るかぎり、普通の会社だ。だが、門には微笑を浮かべる受付嬢を映したディスプレイがあり、その両脇に、鋼鉄のアンドロイド…Aシリーズ・ケルビムタイプの姿がある。

アポイントメントも取っていない乙夏達を、彼らが門の奥に通す訳はないことは、双子には分かり切っていたことだ。


「父なる神の御名において命じます。〈追放者〉に天使の翼を与え給え」


瞬間、宙を舞った尊氏がケルビムタイプごと光で門を切り裂いた。その手には、小さなロザリオが握られている。


「乙夏=モードニス! 走って!」


信濃は叫ぶやいなや、乙夏の腕を引き、壊れた門を抜け、ビルの中へと走りだした。


「早く、創造者に会わなければ……!」


焦燥を含んだ、信濃の声。しかし、目的が…創造者がどこに居るのか、彼女にも、尊氏にも判らない。


「…早くしないと。Aシリーズに囲まれたら終わりだ」


最初のセキュリティを破壊して侵入した者達のことは、もう知れてしまっただろう。まもなく、Aシリーズがやってくる。


「……こっちだ」


信濃に腕を捕まれたまま、彼女を引きずる形で、乙夏は走りだした。

何の根拠もないのに、自信は有った。

それは彼の内部から出てくるというよりは、外部から、呼び寄せられているような……運命の糸か何かのように、乙夏自身も感じていた。


白い壁の続く廊下を走り抜けた先には、銀色の、観音開きの扉があった。


「……!」


その扉の前には、スーツを着た一人の男が立っている。

その男を見た瞬間、乙夏には判った。

この男は、自分だ、と。


「ようこそ。出会ってはならぬもう一人の俺、乙夏=モードニス」


いつか、どこかで聞いた声。

正確には、この男のオリジナルは現実世界に居る。今、DWの乙夏の前に居るのは、データをデジタル化されたコピーである。


「……あんた…シンドウ…マコト?」


乙夏は、脳の片隅に記憶していた。このDWゲームに投げ込まれる直前に頭に直接響いた声を。


「……よく覚えていたね。そして君は今ここに居る。俺と出会うことが出来た」


新堂は、言った。「出会うことが出来た」と。決して、「出会ってしまった」とは言わない。


「俺と君の出会いは、このゲームに急展開をもたらす」


新堂の顔からは、決して笑みがこぼれることはない。語り口もまた同様だ。


「聖母が覚醒する。そうでしょう?」


信濃が新堂に向けて言う。


「それだけではない。戦いは、一挙にラストシーンまで動きだす。〈母〉が…マリアが目覚め、そして…人類は〈自由〉を勝ち取るだろう」


自由という言葉は、何者かからの抑圧を受けていた事実を物語る。乙夏には感じる術もなかった抑圧を。


「さあ、君に聖母の本当の名を教えよう。彼女の名は……………」


そこで、突然、新堂の動きが止まる。その肉体に異変が起こっていた。

映像の乱れたテレビ画面のように、彼の体には亀裂が出来、千切れ、跡形もなく消えてしまった。


「なんてこと………」


新堂の立っていた位置を見つめ、落胆を隠せぬ三人。しかしその背後で、乙夏にはどこか聞き覚えのある声がした。


「……アスカ・ヤヨイ…それが、聖母の名だ」



☆   ★   ☆



同時刻、現実世界。

サタンが退却の際に、襲撃してきたAシリーズを一掃してくれた為、新堂らはとりあえず戦闘からDWナビゲーションルームに戻ってきた。東城の亡骸は、サタンと共に例の過剰な斥力の中心部に居た為、Aシリーズのように損傷することはなく、現在はDWナビゲーションルーム隣の休憩室に横たえられている。

そして、彼らは現在一人でDWプレイヤー全員のナビを引き受けている凪喪憂子から、衝撃的な報告を受けていた。


「DW内の……〈新堂真〉が消滅しました……」


DW内の新堂真の存在は、彼が乙夏に出来る、最大の支援であった。しかしそれは…その使命を果たすより先に…おそらくはミカエルによって消されてしまった。


「……くそっ………」


「あ…? 何者かが乙夏達に接触しようとしています!」


「何!」


新堂が凪喪の傍らでディスプレイを覗き込むと、そこには乙夏と信濃、(ゴーレムが複写した)尊氏、そして、見紛うはずの無い人物が三人の背後に歩み寄っていた。


「………サタンだ…」


その一言に、DWナビゲーションルームは沈黙に包まれる。

凪喪が、スピーカーのボリュームを上げた。DWの音声が、室内に響きわたる。


『……アスカ・ヤヨイ…それが、聖母の名だ』


姿だけでなく、声までも東城に酷似している。東城を殺した加害者。Aシリーズを統べる権力を失い、戦地から去った彼が、なぜ今DW内に居るのか。


「何故……知っているんだ…」


聖母の名を。


『…あんたは……?』


乙夏が問う。サタンは新堂を、そして真枝兄妹を見、そして言う。


『早く行け。時間が無い』


言われて、乙夏達は少しのためらいを見せつつも、元来た道を引き返して行った。


「……サタンが…乙夏達に味方しているだと…?」


誰も居なくなった廊下で、サタンはぐるりと辺りを見回す。一瞬、新堂はディスプレイ上のサタンと眼があったように感じられた。その眼が、どこか憂いを帯びているようにも。


『…! 何だ……?』


途端、新堂の視界が暗くなる。体から力が抜け、意識が薄れていくのが判る。


「…主任ッ……」


「マコやんっ…」


声が聞こえる。

もう聞こえない。

勢い良く後方に倒れた気がするが、床にぶつかった感覚は感じない。

意識が、途切れた。




☆  ★  ☆




引き返したPPT社の廊下には、先刻乙夏達を襲ったAシリーズたちの残骸が幾つも散らばっていた。誰かに壊された様子である。


『さっきの男がやったのか…?』


「急ぎましょう、乙夏=モードニス」


信濃に急かされ、乙夏はああ、と少し歩調を早める。



「面会ですよ」


真っ白な病室に通される、三人。

真っ白なベッドに身を預けている、房森陽洸と、QZL-BMWL。


「……QZL-BMWL…やっと判ったよ。あんたの名前が」


「……教えて…あたしの本当の名前。あたしが此処に存在する意味を」


「アスカ…ヤヨイ………」


聖母の、覚醒の時が訪れた。

QZL-BMWLであった少女は、〈アスカヤヨイ〉の名を受け、聖母の称号を冠する。その目蓋が、ゆっくりと閉じられ、そして開く。


「……ねえ」


涙。


「……陽洸……あたし、行かなきゃ」


突然の涙とその一言に、唖然とする陽洸。


「……………え?」


「あたしは…人間をミカエルの統治から開放するための兵器。今すぐ、ミカエルの処へ行かなくちゃいけないの」


「…何だよ……そのミカエルって…? なんでお前がそんなことしなくちゃいけねえんだよ…?」


ベッドから降り、ヤヨイの肩を掴んで眼を見つめる陽洸。ヤヨイは、弱々しく笑う。


「大丈夫。きっと、戻ってくる」


誰もが、心の奥では感じていた。これが今生の別れとなることを。


「……こっちを向いて」


ヤヨイは陽洸の顔を引き寄せる。


「私が何をしたいか……分かる?」


「大体は」


「……だったら……それに…応え…」


途切れ途切れの台詞を遮って、ヤヨイの唇に自らのそれを重ね、彼女を抱き締める陽洸。ヤヨイも、彼の背に腕を回す。

どこにも行かせるものか、と。

それでも、陽洸の手からヤヨイの体温が、感触が、消えていく。一瞬で、姿はもう、無い。

白い羽が、ベッドに散らばっていた。

天使の飛び立った跡のように。


「……何者なんだよ…ミカエルってのは…!? 何であいつがそんな使命背負ってるんだよ…俺達皆、今そのミカエルって奴の存在を初めて知ったっていうのに……」


「……陽洸…」


床に座り込んだ陽洸に、乙夏が声を掛ける。しかし、名前を呼んだその後は、言葉がでてこない。この状況で、なんと言葉をかけていいのか、分からなかった。


「出てってくれ。もう…誰とも会いたくない」


乙夏達は、無言で病室を後にした。部屋を出る直前に少しだけ振り向いて陽洸を見ると、彼は床から立ち上がろうともせずに、項垂れていた。

病室を出るとすぐ、信濃が深刻な、しかしどこか諦念を感じさせる表情で乙夏の方を向いた。


「……乙夏=モードニス。もう、救世主としての、貴方の役割は終わったわ」


「終わった…? 終わったって……」


「世界は、終わるの。ゲームのように、強制終了されるのよ」


その言葉が冗談ではないことは、判っている。しかし、受け入れることの出来ぬ事実である。


「どういうことだよ…おい! ナビゲーター! 何か言えよ!」


脳内には、彼自身の声が響き、そして沈黙が覆う。もう、現実世界はDWとのアクセスを必要としなかった。サンタマリアが目覚め、必要な駒はすべて揃ってしまったのだから…。


「……大丈夫よ。乙夏=モードニス。終焉に、痛みや苦しみはないわ。ただ、いつ終わったのかも私達には判らぬまま、消えていくだけ」


どうして、この少女は、こんなにも冷静なのだろう。乙夏は……

走りだした。ちょっと、と呼び止める信濃の声がする。年配の看護婦が静かにして下さいと怒鳴る。それらを無視して、彼は走る。どうせ、皆消えてしまうのだから。

ならば、逢わなくてはならなかった。

たった一人。

自分を惑わすリリスが消え、初めて気付いた、自分の本当に愛した者。

いつも近くに居て、近すぎて、その大切さに気付けなかった。


「な……」


広い病院を走りぬけ、外来患者・見舞い用の玄関から外に出る。偶然にも、その人物は病院の門をくぐったところだった。

彼女が、彼の名を呼ぶ。


「あれ。どーしたの? 乙夏」


「………なつき…」


彼女は、何も知らない。この世界が、もう少しで消えてしまうことなど。


「七月…」


噛み締めるように呼んで、抱き締めた。


「ちょ…乙夏……何すんのよっ…!」


涙が滲むのを堪えて、身体を離し、冗談めかして笑った。


「………アメリカ式挨拶」


「…ばかっ!」


七月は、顔を真っ赤にして、乙夏の脚を蹴った。


「いてて……ははは…」


世界が終わろうとしても、七月は、乙夏の知るいつもの七月だった。


「なあ、このままどっか行こうぜ」


「……は? あんた入院中でしょ? それに怪我がまだ…」


「外出許可取ったから平気」


もちろん、嘘だ。


「……大丈夫? てゆーか、どこ行く気?」


「………甲斐造ん家。あいつ今の時間絶対寝てるし。起こしに行こう」


「あはは、酷っ」


二人は並んで、歩きだす。

その顔を覆うのは、笑顔だ。


「甲斐の奴こないだのライブの時ダイブして右足強打したらしくてさあ。馬鹿だよねえ」


「七月」


彼女の話を遮るように、彼は彼女の名前を呼んだ。彼女はそれに応える。


「なに」


「手、繋いでもいいか」


彼女は絶句する。

心なしか早足になる。


「ばっ…馬っ鹿じゃないの!?」


「寒いんだよ」


沈黙。


「…………冷たい手」


七月の左手が、乙夏の冷たい右手を乱暴に掴んだ。真冬に手袋もしていないのに、七月の手はとても熱い手だった。


「あったかいな」


七月は答えない。


「手、繋いだのなんて、久しぶりだな」


七月は答えない。


「幼稚園以来?」


「……小学校の、フォークダンス以来よ…」


七月の言葉に、乙夏は笑った。

世界が終わるなら、今、終わってしまえばいい。そう思った。痛みもなく、苦しみもなく、ただ、手のひらに伝わる七月の体温だけを感じている今この時に。




☆  ★  ☆




失われた新堂の意識と感覚。

まず始めに取り戻したのは、聴覚だった。

男と、女の、話し声がする。


「そう…私は、彼と私を殺せばいいのね」


「それが、ミカエルを完全に抹消する為に必要なことだ。出来るか」


「出来なければ、全ては原点に帰ってしまう。そんなことには、させないわ」


聞き覚えのある声。


『……この声…弥生……?』


意識が覚醒。視界がだんだん明るくなる。

何故だか感じる。ここは飛鳥弥生の意識の世界。そこにアクセスしてきた一人の男と、偶然迷い込んだ新堂。


『そこにいるのは…弥生……と、サタンか?』


二人はまだ、新堂の存在に気付いていない。


「お願いがあるの…私の身体は今、永瀬によってコールドスリープ状態にされているわ。このままでは、何の行動も起こせない。コールドスリープを解除してほしいの」


「よかろう……どうした?」


弥生が、新堂に気付き、表情を変える。サタンも、彼女の見つめる先を振り返る。


「……真…」


懐かしい、弥生の微笑。新堂はその微笑に近付こうとする。しかし……


「ごめんね……さよなら。真」


視界が霞み、意識が途切れる。

声帯は弥生の名を呼んだだろうか?



「弥生いぃー!!」



大声で叫びながら、新堂が目を覚ますと、視界に入ったのはあずみと石崎の顔、それにDWナビゲーションルームの白い天井だった。背中に、冷たく硬質な床の感触。倒れてぶつけた痛みが今更感じられる。


「真…よかったぁ……」


「びっくりさせやがって…」


皆、口々に安堵の声を洩らす。


「弥生が……」


鼓動が早い。奥歯ががちがちと鳴り、手が痙攣する。


「弥生が…死ぬ……」


「弥生がどうしたんだ? 死ぬって……」


新堂は答えない。答えられない。彼がその問いの答えを告げた時、ここにいる仲間は、敵となるかもしれないからだ。


「対ミカエル用兵器、サンタマリアが覚醒し、彼女はDWと共にミカエルを消し去ろうとしている。しかし、DW上からミカエルを抹消しても、ミカエルは現実世界の選ばれた人間の肉体を依代とし、現実世界に復活することが予想される。だから、ミカエルを抹消する前に、ミカエルの依代となりうる人物を抹殺しなければならない。そして、その依代こそ、ミカエルの啓示を受けた永瀬光と聖母のオリジナル・飛鳥弥生……そうですね? 新堂主任」


冷酷に、辛辣に、真実を皆に伝えたのは、妙崎建だった。

新堂は、返事もせず、起き上がってDWナビゲーションルームを出ようとする。すかさず建はドアの前に立ちはだかる。


「……行かせませんよ。言ったでしょう? この史上最高の頭脳が無に帰すような事態は…遠慮させて頂きます。僕の未来に、ミカエルの支配は要らない」


「……………」


新堂は考える。自分はどこでミスを犯したのだろう、と。

彼の計算通りにことが進んでいれば、今頃彼は世界の人間のミカエルからの開放をとっくに放棄して、弥生との再会を果たしているはずだった。たとえ、その後弥生がミカエルの依代となり、弥生としての自我を失ったとしても。反乱軍を率いる頭であった彼は、人間のことなど本当はどうでもよく、仲間と称した者達は利用したに過ぎず、全ては彼が飛鳥弥生と再会する為だけに進められていた計画だったのである。


「…皆……済まない…」


新堂が携帯電話からどこかに英数字のコードを送信すると、天井から白い煙のようなものが吹き出て、室内を満たしていく。特に、建の居る入り口のドア付近に向けての勢いが強い。新堂は呼吸を押さえて、しばしの間耐えた。

これは、〈E-5b〉装備と呼ばれ、本来は敵対勢力の侵入に対し、最も少ない犠牲で済ませる為の装備だ。噴射されるのは催眠ガスなので、通常死人は出ない。ドア付近に向けて多量に噴射されるのは、敵の侵入を出来るだけ防ぐためである。

それが新堂にとっては利となり、ドアの前に立ちはだかっていた建は、誰よりも早くガスの効力で眠っていた。

メンバーの中にはまだ意識の有る者も居たが、到底新堂を追うことは出来なかった。

弥生の居場所が、新堂にはやっと判った。先刻の夢のような意識。断片的に見えた部屋。そして、永瀬光が居るところ、それは、社長室だ。

最上階を目指すエレベーターに、新堂は乗り込んだ。再会の果たせることを信じて。




☆  ★  ☆




SSH社ビル最上階。社長室。

永瀬光という人間が、落下していく。

最上階から一階まで中央が吹き抜けになっているビルの構造上、落下速度をまして、エントランスホールの床に真っ赤な花を散らす。


「………はあ…はあ……」


飛鳥弥生は、その花を見まいとして、手で顔全体を覆い、床に座り込んだ。


「……まこと……真……」


先程、黒髪の男と共に、弥生の意識にアクセスしてきたのは、紛れもなく新堂真だった。逢いたい。しかし、自分はこれから死なねばならない。自分が生きている限り、ミカエルの支配は終わらないのだから……。

と、エレベーターの扉が開いた音がする。誰かが来る。


「……弥生!」


自分の名を呼んでいる。これは。


「………………真…!」


彼女の許に駆け寄る新堂。座り込んでいる弥生に近付いて床に膝を付き、抱き締める。


「……よかった…逢えた……」


「でも、真……私は……」


「いいんだ! 死んだりしなくていい! 人間がどうなろうと、俺は弥生が居れば…」


抱き締める力が増し、語気も強くなる。


「……だめ…だよ……真……私は、耐えられない。人間を見捨てることなんて、出来ない。それに、ミカエルの依代にされて、私でなくなってしまった私なんて、真に見られたくないよ。……私は、いっそ、まだ飛鳥弥生で居られる内に、死んでしまった方が幸せなの…」


それは、願いというよりも、祈りのようだった。



二人は立ち上がり、新堂は弥生を抱き締めた。落下防止用のフェンスの外のわずかな縁に立つ。もう、抱き合うことは出来ない。数十メートル下に、永瀬であった大きな赤い花が見える。

二人は、その縁から足を離した。空気に体重を預ける。

落ちてゆく。下へ。下へ。

新堂だけが。

弥生は。

浮いている。

否、翔んでいるのだ。

床に打ち付けられる直前、弥生のその背に白い翼があるのを、新堂ははっきりと見た。 はっきりしているのは、弥生が、ミカエルに乗り移られていたこと。

曖昧なのは、弥生がいつまで弥生であったのかということ。最後に交わした言葉達の、どこまでが弥生の真意で、どこからがミカエルの虚言であったのかということ。

そしてもうひとつ、明確な事実は、新堂真が死んだということであった。



エントランスホールの床に咲いた二輪目の花に見向きもせず、弥生…否、ミカエルは両の腕を伸ばし、純白の翼を広げた。

その五肢が、翼が、光となって、拡散していく。

世界に、光の粒子が降り注いでゆく。

もはや、光の雨ではない。

万物を超越したその強大な光は、世界を呑み込む、洪水だった。

そして、飛鳥弥生の姿は、もう、どこにも無い。消失、というよりは世界との融和。

彼女は万物に融け込み、万物に属する母となったのである。




☆  ★  ☆




新堂真の死亡の数分前。DW内。

真枝兄妹は、神代医大の屋上に居た。

空は青く、和らかな陽光が降り注いでいる。彼らの他にも日光浴をする入院患者や見舞い客、洗濯物を干す看護婦の姿などが見える。


平和だった。


世界が終わる日とは思えぬ程に。

それは、幸せなことかもしれなかった。


「……いざ、終わるということになってからが永いものね…時間って」


「…何か無いのか? やり残したこととか」


「………そうね。有るわ」


信濃は巻き髪を揺らしてベンチから立ち上がり、碧空を見つめ、高らかに唱えた。


「父なる神の御名において命じます! 〈追放者〉と我、〈伝承者〉に天使の翼を与え給え!」


当然ながら、周囲の者は少女の妙な言動に目を丸くし、美しい声のした方向を振り返った。


彼らは、奇跡を見た。


美しい双子の兄妹の背からは美しくはためく白い翼が現われ、二人はそれをはばたかせて、宙へと舞い上がったのである。


「いつも、尊氏ばかりが空を翔べるから、羨ましく思っていたわ。戦闘の時は、尊氏だけで精一杯だから、自分も翔んだことなんて無かった」


「気分はどうだい? 信濃」


信濃は、少しかたい微笑を湛えて、問いに答えた。


「とても、すがすがしいわ」


それが、大変に信濃らしい答え方だと、尊氏は心のどこかで思った。本当の、尊氏の心と、ゴーレムである自分の心が真に融和して、ひとつの心になったのだと信じたかった。



世界の終わりに、幾人かの人が、天使を見た。

世界が終わったことに、誰も気付けなかった。痛みも苦しみも恐怖も、そこには無かったのだから。

それは、救済であったのかも知れない。



(偽典最終話 『THE FINALE』 了)

UG氏の最終話です。

同じキャラクターと第九話まで同じ展開であったはずなのに、またちょっと違った物語になりました。

****は生きているし、****は**だし。

複数の作家で物語を紡ぐ醍醐味を味わっている気分です。

この物語を読んでいるときは、僕自身も一読者になっています。

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