蘭陵王伝 別記 華燭の桃花 第6章〔 ⑨平原王府の重陽節 〕
皇太后の懿旨を使って青蘭との結納を済ませた長恭の元に、平原王段韶の昇進祝の宴の招待状が届く。文叔が青蘭である事を知られたくない長恭は、詐病を使って欠席するように言ってくる。
★ 重陽節への招待 ★
九月の初め、長恭と青蘭のもとに、平原王府の重陽節の宴の招待状が届いた。
平原王段韶は婁皇太后の甥であり、将軍として西魏や陳の軍を壊滅させるなど、斉では斛律光に次ぐ常勝の将軍であった。こたびの戦には出征しなかったが、論功行賞の影響で玉突き的に段韶は司空に昇った。長恭の大叔父に当たる段韶は、高長恭と王青蘭を重陽節の宴に招待したのである。
長恭は鄭家で青蘭を乗せると、馬車を平原王府に走らせた。軽快な振動が二人を包む。
平原王府の宴は自分にとって多くの貴族が集う初めての大規模な祝宴だ。緊張すると同時に長恭の許嫁として心弾む部分もあった。
「青蘭、・・・平原王府では長居せず、早く帰ろう」
長居すれば、敬徳と顔を合わせないかと心配だ。
「師兄、平原王府は庭園が見事だと有名よ。造園を見たいのに、だめなの?」
青蘭は、唇を尖らせた。様々な宴の誘いが来ていたが、長恭はほとんど断っている。私を宴に連れて行かないのは、この結婚を後悔しているからなのだろうか?
「ちがうのだ。・・・敬徳と出くわせば言い争いになる」
「隠しだてした私が悪いの。宴で会ったら、直接私から敬徳様に謝るから」
敬徳は磊落な性格だから、小事に拘って長恭との仲が悪くなるとは思えない。
「だめだ、敬徳は嘘を最も嫌う。・・・宴の席で叱責などされれば、君の名誉に傷が付く。だから敬徳とは顔を合わせないほうがいい」
長恭は敬徳の何を恐れているのだろう。本当は平凡な自分を許嫁だと紹介することが恥ずかしいのかもしれない。
★ 平原王府の重陽節 ★
馬車は、平原王府に到着した。皇太后の妹を母に持つ平原王の屋敷は、戚里(高官の屋敷街)の中でも皇宮に隣接して広大な敷地を占めている。
馬車を降りると、長恭は披風を脱いた青蘭の姿に目を見張った。青蘭は、菊を刺繍した深紅の帯をしめ、鴇色の襦裙珊瑚色の外衣をまとっている。紅をさした唇をすぼめると、金歩揺がシャランと揺れた。
「綺麗だ。・・・誰にも見せたくないぐらい」
長恭は、青蘭の袖を引き寄せた。できるだけ目立ちたくないのに、これではかえって人目を引いてしまう。
しかし平原王府の前庭に入ると、長恭の憂慮は無駄である事が分かった。平原王の宴に現れた長恭自身が、衆目を集めたからである。
「ねえ、見て、長恭様よ」
「長恭様と、一緒にいる令嬢は、誰かしら・・・」
「知らないの?最近、王琳将軍の令嬢と婚約したって聞いたわ」
「梁の王将軍の娘?・・・そう言えば、・・噂では、梁と同盟するために皇太后が娶らせたって」
青蘭が長恭に手を引かれ垂花門をくぐると、前庭に段家の家宰が笑顔で現れた。側仕えの吉良が昇進祝の櫃を渡すと、慇懃に礼をした家宰は案内を家人に命じた。
「旦那様が、お待ちでございます」
青蘭が傍らの長恭を見上げていると、周囲からの刺すような視線が感じられる。黄色い菊の飾り棚の周りには、以前宣訓宮の重陽節で見かけた令嬢が何人かいる。重陽節では地味な書生の格好をしていたから、同じ人物だと分かるはずがない。
「誰よりも綺麗だ。似合っているよ」
長恭が耳元で囁くと、青蘭はやっと笑顔になった。
正殿の近くに行くと、多くの招待客が階の下に列をなしている。ここに長くいっれば敬徳に会ってしまう。長恭は青蘭を縹色の袖のかげに隠した。
ほどなく正殿に請じ入れられ、段韶の前に進み出た。
「大叔父上、司空への昇進おめでとうございます」
二人は、丁寧に礼をした。叔母の婁皇太后の愛孫である長恭には、段韶も特に目を掛けている。
「最近婚約したと聞いたが、こちらが、許嫁の?・・・」
青蘭は、再度恭しく礼をした。
「王琳の娘の王青蘭です。平原王にご挨拶いたします」
段韶は甥の隣に寄り添う青蘭を見遣った。婁皇太后は令嬢の絵姿を多く集めていると聞いたが、権門の令嬢ではなく王琳将軍の娘を選ぶとは意外であった。
「これは目出度い。長恭よ、婚儀には祝の酒を持って駆けつけよう」
段韶は磊落に笑うと、長恭の肩を叩いた。
「平秦王府の菊花は、素晴らしいと聞いております。叔父上、庭園の菊花を観賞させてください」
正殿にとどまれば、敬徳と鉢合わせをしてしまう。長恭と青蘭は礼をすると、急いで後苑に出た。
北斉ではこの頃、自然の風景を模した大規模な庭園の造営が流行していた。平原王府の庭園は、自然の風景を模して大きな池を造り、中之島や築山にはいくつかの四阿を配している。池の畔の四阿の周りには、丹精した黄色の菊鉢が配されている風雅な庭である。
「平原王は、猛将とは思えない穏やかな士大夫の風格がある方だわ」
段韶は、斛律光に次ぐ常勝の将軍と言われている。しかし、文官としても仁政を敷いていると評判であった。
「段伯父上は武勇だけでなく、刺史の任地を離れるときは民に惜しまれるほど善政を行ったそうな。私の理想の人物なのだ」
元氏の処刑など血生臭い噂の多い高一族にあって、段韶は温和な人柄で知られている。亡くなった夫人を愛し、今でも独り身を通しているのだ。
「青蘭よかったな。叔父上が、婚儀に来てくれるなら、心強い」
皇太后以外に後ろ盾を持たない長恭にとって、大叔父段韶の祝意は、大きな後ろ盾を得ると言うことなのだ。
後苑の露台で、長恭は侍中府の同僚の何人かに許嫁の王青蘭を紹介した。長恭と青蘭が睡蓮池の近くの四阿の菊花を鑑賞していると、平原王府の家人がやってきた。
「高侍郎、旦那様が折り入って、話があるとお呼びでございます」
段韶から何の話であろう。青蘭を一人にはしておきたくない。しかし、正殿周辺は最も危険な場所だ。長恭は渋々承諾した。
「青蘭、叔父上とちょうと話をしてくる。この四阿で待っててくれ」
長恭が正殿に向かうと、青蘭は四阿の中の椅子に座った。四阿は周りより一段高くなっているが、山茶花の垣根の向こうには、小径が造られている。
「あれが、長恭様の許嫁ですって?」
「あれで絶世の美女?たいした女子じゃないわ」
周りに飾られた菊花を鑑賞する振りをしながら、青蘭を値踏みする遠慮の無いささやき声が襲ってくる。ここで怯んだ様子を見せては、令嬢たちの恰好の餌食になってしまう。青蘭は顔色を変えず、背筋を伸ばした。
★ 楽安公主の中傷 ★
とつぜん、四阿の中に槿花色の豪華な外衣をまとった若い女子が入って来た。
「お前が、兄上と婚約した王青蘭ね」
長恭の妹の楽安公主である。先日の納采の宴には、長恭の兄弟は招待していない。以前、皇太后府の重陽の観菊で顔を合わせたが、あの時は男装だったので文叔と同じ人物とは気が付いていないようだ。
「これは、・・・楽安公主にご挨拶を」
青蘭は立ち上がると、丁寧に礼をした。
「形ばかりの礼は、嫌いなの」
青蘭が顔を上げると、公主は扇を開きながら、青蘭の足から顔までをながめた。
「ふん、四兄の許嫁だと言うから、どんな女子かと思ったら、どこにでもいるつまらない女子だわ」
楽安公主は馬鹿にしたように扇子を開くと、バタバタとあおいだ。
「たかが商人の娘で、兄上に嫁ごうなんて、・・・到底兄上に釣り合ってないわ。父親が江南で勢力があるからって、御祖母様が取り込むために結んだ婚姻よ。・・・兄上に愛されたいなんて思わない事ね」
楽安公主はお気に入りの兄が、祖母の懿旨によって気に染まぬ妻を押しつけられたと、憤懣遣る方ないのだ。公主の身分とは言え、いまや正式な許嫁になったからには中傷を聞き流すことはできない。
大声で青蘭を非難する声に、四阿の周りには人垣ができた。好奇心に満ちた視線が集まる。
「楽安公主、婚姻を下賜された私を中傷するということは、皇太后と長恭様を中傷するも同じ。長恭様が今の言葉を知れば、公主のことをどう思うか、よくお考えを」
青蘭はいきり立つ楽安を見つめ返すと、強い言葉で諫めた。安楽公主の身分は高いが、義姉になったからには頻繁に顔を合わせるのだ。長恭の真の妻になるためには、中傷に負けない強い心が必要なのだ。
「何よ、商人の娘のくせにえらそうな・・・。お前みたいな女子・・・すぐに捨てられるわ」
楽安公主は、そんな捨て台詞を残して四阿を出て行った。
★ 敬徳との遭遇 ★
楽安公主の中傷を強い言葉ではね除けた青蘭であったが、公衆の面前でののしられた辛い気持ちは隠しようがない。四阿の外にいる人々の視線が痛い。ああ、どこかに行ってしまいたい。
四阿を出ようと青蘭が立ち上がったとき、青蘭の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「青蘭、青蘭殿」
この宴の招待者に自分と親しい者はいないはず。青蘭が逃げるように睡蓮池の方に歩いて行くと、声が追いかけてくる。いったい誰なのだ。振り向くと、藤色の外衣をまとった敬徳の笑顔にぶつかった。
敬徳と顔を合わせてはならない。長恭の言葉を思い出した青蘭は、唇を引き締めると睡蓮の咲く池に目を逸らした。
「王琳将軍の娘御の青蘭殿か?」
女子の格好で、ごまかせると思ったが、無理らしい。青蘭は渋々敬徳の方に振り返った。
「やっぱり、青蘭殿か。文叔に似ているから、姉君じゃないかと思ったのだ。・・・鄴に来ていたのか」
文叔だとは見破られていないのか?青蘭はうつむいたままうなずいた。
築山の方に歩いて行くと、いつの間にか辺りには二人しかいない。
「青蘭殿は、長恭と婚約したと聞いた。とても目出度い。・・・長恭は私の友だ・・・何か祝の品を贈らなければ・・・」
敬徳はいつもの温顔で、青蘭の顔を覗き込んだ。ずっと騙していた私に、贈り物などもらう資格がないのに。青蘭はドギマギして顔を逸らした。
「青蘭殿を見ていると、よく似た男を思い出すのだ」
敬徳は、青蘭に顔を近づけると凝視した。
「王琳将軍は、斉の重要な同盟者だ。実はその家族についても調べた。・・・王琳将軍と夫人の鄭氏の間には、男女の子供がいて・・・兄と妹だ。・・・文叔はどう見ても兄とは・・・」
知られてしまった。敬徳は、私が文叔だと知っているのだ。青蘭は、目をつぶった。長恭が戻ってくる前に打ち明けなければ、非難の応酬になってしまう。
「ちょっと、お話が・・・」
青蘭は、敬徳の袖を引くと築山の奥の四阿に向かった。
「ご、ごめんなさい。・・・私が文叔なの」
うつむいた青蘭は、膝の上で拳を握った。
敬徳は、深く呼吸をした。やっぱりそうなのか。文叔が、かつて自分と縁談があった王琳の娘の青蘭だったのだ。長恭は、文叔、いや青蘭と結婚するのか。
「文叔、お前を、ずっと友だと思っていた。・・・なぜ打ち明けてくれなかったのだ」
押さえた怒りが敬徳の言葉に感じられた。当然のことだ。
「学問をするためだ。師父は女子は弟子に取らないから、男子の恰好で学問に励めと・・・本当のことを言えなかった」
「でも、長恭は知っていた」
師兄への恋心を一口では表せない。
「一緒に学問をしているうはちに、悟られてしまって・・・」
長恭は知っていたのに、親友の自分は最後まで知らされなかったのだ。敬徳は唇をかんだ。
「長恭様には、私が口止めをしたのです。学問を続けたくて・・・」
青蘭は無意識に長恭をかばった。青蘭に好意を寄せていたのに、長恭に先を越されてしまった。
「懿旨によって婚姻すると聞いたが、君はそれで幸せなのか?後悔はしないのか?もしいやなら・・・」
青蘭には、せめて幸せになって欲しいのだ。そのためには、懿旨も覆してみせる。
「この婚姻に、後悔しないわ」
青蘭は、きっぱり言った後で頬を染めた。
「師兄は、いつも優しくて私を助けてくれたし、尊敬できる人物で麗しい笑顔に・・・」
「ああ、分かった、分かった。お前は友達だ。幸せに暮らしていければいい」
皇子という身分の高さと、華麗な容姿によって長恭に惹かれない女子はいない。毎日のように学堂で顔を付き合わせていればなおさらだ。しかし、兄弟弟子としての付き合いと、夫婦の情はちがう。男女の情に冷淡な長恭と夢見る若い青蘭の間に、夫婦の情は育っていくだろうか。
「長恭に、よく言っておくよ」
敬徳は青蘭の肩をポンポンと叩くと、睡蓮池ぞいの小径を遠ざかっていった。
敬徳の後ろ姿を見ながら、青蘭はホウッと溜息をついた。敬徳は、鄴都に来てからの数少ない友の一人だ。そんな敬徳に女子である事を黙っていて、親友の長恭と婚約するなんて敬徳が怒るのももっともだ。わずかの誤解もあるようだが、最後は許してくれた。私の幸せを願ってくれるなんて、何て友情に厚い男なのだろう。
振り向くと、目の前に長恭が息を荒くして立っていた。
「青蘭、何でこんな所に、ずいぶん探したぞ。・・・正殿に行ったが、大した話じゃなかった」
長恭と青蘭は睡蓮池の辺にもどった。睡蓮池沿いの小径に立つと、岸から中之島に橋が架かっているのが見える。中之島の四阿の周りには、菊鉢が配置されている。莫大な財を投じて造営された庭園には、招待客が満ち始めていた。
「さあ、大叔父上への挨拶も済んだことだし、そろそろ帰ろう」
「宴には出ないの?」
「そんなことをすれば、二人のなれ初めを、根掘り葉掘り訊かれるぞ」
なれ初めを話せば、青蘭が学堂で男装をして学問をしていたことが、世に知られてしまう。それは、公にしてはならないのだ。
垂花門に向かう途中にも、令嬢たちが長恭に引きよせられるように集まってくる。長恭は青蘭の背中に手をやると、足を速めた。
「平原王への挨拶はすんだ。もういいだろう」
楽安公主のことを話そうか?それは師兄を苦しめることになる。まず、敬徳と会ったことを知らせなければ・・・。長恭の方を向いたとき、浅黄色の外衣を着た見知らぬ少女が、二人の行く手を阻んだ。
「長恭様、私が作った匂い袋です。受け取ってください」
その手には翡翠色の匂い袋が握られている。
「匂い袋は使っていないのだ」
長恭は躊躇なく言い放つと、青蘭の手を握り歩き出した。大門の外で馬車を待つ間、長恭は青蘭の手を離さない。
「匂い袋を使っていないなんて・・・」
青蘭は長恭を見上げた。拒絶するにしても、下手な言い分けだ。長恭の帯には出陣の時に青蘭が贈った香り袋か下がっている。
「受け取ったら、君は不機嫌になるだろう?」
長恭は、周りの視線など気にしないかのように、青蘭を抱き寄せた。
「それはそうだけれど・・・」
「私の最愛の女人は君だと、知らせたいのさ」
長恭は、傍若無人な笑顔を浮かべた。
馬車に乗り込むと、青蘭は壁により掛かかりため息をついた。
「疲れたわ。・・・令嬢方の視線が、・・・鋭い矢になって・・・」
「私が守ってやっただろう?」
長恭が顔に掛かった髪を指でかき寄せた。
「あれじゃ、逆効果よ」
「いやいや君を娶るという噂なんて、吹き飛ばしてやる」
長恭は、青蘭の髪を優しくなでた。今までは自重してきたが、正式に婚約したとなれば、愛情を表現しても何の差し支えもない。
「これからは、誰にも傷つけさせない」
長恭は青蘭の肩に手を掛けると、抱き寄せた。
「楽安公主に会ったわ」
長恭の肩に頭をもたせかけて、青蘭が囁いた。
「楽安が?・・・青蘭、何か言われたのか?」
長恭は青蘭の顔を覗き込んだ。
「私は絶世の美女でもないし、師兄には不釣り合い。策を用いて皇太后を籠絡し、無理やり婚約をした腹黒い女子だと・・・」
自分を罵倒する楽安公主の言葉が、青蘭の耳に残っている。
「そんな酷いことを・・・妹は、我が儘で勝手なことを言っているのだ。気にするな」
長恭は、青蘭の額に唇を当てた。
「君は、可憐で美しい。しかも、私の好きな学問にも剣術にも医術にも通じてる。・・・私に似合いの妻だと思わないか?」
「師兄の審美眼は、変わっていると言われるわ」
世の中には美しい菊花が満ちあふれているというのに、な野菊が好きだなんて。青蘭は長恭の横に座ると肩に頭を寄せた。長恭は、友であり、義兄弟であり、兄弟弟子であり、想い人なのだ。許嫁になり夫となっても、この温かさを失いたくない。
「審美眼には、自信がある」
そう言うと、長恭は笑顔で青蘭の頬をつまんだ。
馬車は、カラカラと音を立てて、鄭家に向かっていた。
「そうだわ、師兄が行った後に敬徳様に会ったの」
「えっ?敬徳に会ったのか?」
自分がいない間に敬徳と会っていたのか。もしや、先ほどの平原王の呼び出しは、敬徳の策だったのではないか。
「そのとき、私が男の文叔と偽っていた事を、あやまったの。そうしたら、・・・許してくれたわ。師兄、そんなに心配することなかった」
「許してくれた?」
青蘭は、敬徳の想いを知らないから簡単に考えている。事実を知っても青蘭に怒りをぶつけないのは、心に渦巻く怒りが激しすぎるか、いまだ青蘭に未練があるということだ。
「婚約もしたことだし、これからは敬徳と二人では会わない方がいい」
長恭は、青蘭を抱き寄せると、後ろに垂らした髪をなでた。
「分かったわ。・・・その代わり、今までに受け取った全ての恋文や香袋について、話を聞きたいの」
長恭の断り方が、あまりにも堂に入っている。
「それは、・・・多くてよく覚えていない」
長恭は胸をたたこうとした青蘭の拳をとらえると、唇に持っていった。
「これからは、一つ残らず奥方に、報告するよ」
★ 長恭の謝罪 ★
九月の半ば、長恭は清河王府を訪れた。
いつもは門衛に声を掛けると案内も請わずに正殿に行くのだが、今日は客殿に通された。出された茶を飲んで半時ばかり待ったが、なぜか敬徳は出てこない。
長恭は席を立つと、蔀戸を開けて色づき始めた後苑に広がる庭園を眺めた。
宴の時に自分を呼び出させたのが敬徳であるなら、敬徳は文叔が青蘭である事をすでに知っていたのだ。敬徳は父から譲り受けた強力な暗衛を持っている。結納の噂を聞いて、暗衛を使って調べたのだろう。敬徳に秘密にしておくことは到底無理だったのだ。こうなったら、正直に話して平身低頭するしかない。
敬徳の怒りを潔く正面から受け止めるのだ。たとえ、罵られ殴られても・・・。
「旦那様が、お会いになります」
侍従がやって来て、長恭を案内した。
書房にはいると、敬徳が座る几案の上には、陳情書が山と積まれている。多くの領地と荘園を所有する敬徳はその経営だけでも、多くの労力を要するのだ。
「今日は、・・・敬徳に話しがある」
長恭は、顔を曇らせた。
「お前に黙っていたが、・・・兄弟弟子の文叔は、女子だったのだ。・・・文叔は王琳の息子ではなく、娘の青蘭だったのだ」
やっぱり、青蘭の言っていたことは本当だったのだ。敬徳はいきなり几案から立ち上がると、長恭に近づいた。
「文叔が女子だと?そう知りながらお前、なぜ俺に黙っていた?」
長恭は、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「文叔の学問のためだ。初めは、私も男子だと思っていた。顔師父は女子の弟子を取らないから、文叔に学問を続けさせたくて、口外しなかったのだ」
敬徳はいきなり長恭の胸ぐらをつかんだ。
「言い訳はよせ。俺が、文叔の学問を阻むと思うか?・・・お前を友だと思っていた。それなのに、俺をだました。・・・見損なったぞ」
敬徳の拳が長恭の頬に炸裂し、長恭はよろめいた。唇が切れて血しぶきが飛び、長恭は眉を寄せて口元をおさえた。
長恭は美しい。長恭はその美貌で全てをたやすく手に入れる。
「お前がいなかったら、今ごろは私の妻になっていたかもしれん。それなのに・・・」
「任官するまで、お前の縁談相手だったと知らなかったのだ」
「うそだ」
敬徳は吐き捨てるように言うと、長恭の胸ぐらを押し返した。
「青蘭が好きなことは知っていたはず。それを知りながら、・・・お前は、俺にだまって婚約した。許せん」
呆然と立っている長恭の顔を、敬徳は拳で再びなぐった。
敬徳との友情は、もうこれまでか。口の中が・・・塩辛い。
「お前の心を知りながら、懿旨により青蘭と婚約してしまった。すまない」
長恭は痛む頬を手で押さえた。にじんだ鮮血を手でぬぐうと唇を強く結んだ。敬徳になぐられた頬が赤く染まっても、長恭は妖艶なぐらい美しい。世の女子はこの容貌に惹かれて参ってしまうのか。そして青蘭も・・・。
男の兄弟のいない敬徳にとっては、長恭は弟同然だった。共に斛律家で剣術を磨き、清河王府で千字文や『小学』を学んだ。父母のいないこのとき、姉以外で、ただ一人家族同然の長恭を心底憎むことなどできようか。
「これ以上、お前を責めて、何になる」
長恭と仲違いすれば、長恭だけでなく青蘭とも友でなくなる。二人の哀れみと軽蔑の眼差しを生むだけだ。
「懿旨に異議を差し挟む力など、俺にはない」
これは天命なのか。
「青蘭は、女子であろうと生涯の友だ。だから、あいつとの友情は大切にして欲しい。他の女子のように、冷淡に扱うな」
長恭は笑顔を作ってうなずいた。最愛の青蘭に冷淡になどできるだろうか。
「お前が黙っていたことは、もう追求しない。でも、もし、冷遇して文叔がいや青蘭が不幸になったら、・・・決して許さん」
敬徳は、長恭の肩を拳で突いた。
★ 延宗の来訪 ★
次の日、長恭は風邪を理由に侍中府を休んだ。敬徳に殴られた頬と唇が思いの外腫れしまったからである。午後になって弟の延宗が宣訓宮を訪れた。
敬徳との諍いを知られたくない長恭は、氷嚢で頬を冷やしながら帳を降ろした榻牀で横になっていた。
「兄上、納采の宴を開いたと思ったら、お疲れで風邪をひいたのか?」
遠慮を知らない延宗は、臥内に入ると下ろしていた薄絹の帳を持ち上げた。中をのぞくと、榻牀で唸っていると思った長恭が、氷嚢を手にしてにらんできた。
「兄上、どうしたのだ。その頬は?」
長恭の唇と左の頬が、不自然に腫れている。
「ああ、落馬してうっかり顔をぶつけたのだ。無様なので、風邪を理由に休んだ」
長恭は皇族の中でも騎射に優れ、自在に馬を操ることで有名である。その兄が、うっかり落馬して怪我をするなど、あまりにも不自然だ。
「うっかり落馬した?嘘も大概に・・・。兄上、暴漢に襲われた?・・・それとも・・・青蘭と喧嘩でもした?」
「そんなはずないだろう」
長恭が氷嚢を投げつけると、延宗が器用に受け止めた。
「青蘭には、内緒だ」
長恭兄に想いを寄せている女子は、延宗の周りに何人もいる。ということは、多くの男子から恨みを買っていると言うことでもある。そんな中で、殴り合いの喧嘩になることもあるのかもしれない。
「わ、分かったよ。青蘭には内緒にしておく。そのかわり、今度酒楼で食事をおごってほしい」
「ああ、納采の宴に招待できなかったから、こんど青蘭と一緒に食事に行こう」
長恭は榻牀から出ると氷嚢で頬を冷やしながら、書架の前に立った。最近は忙しくて読書も疎かになっている。長恭は『呉子』を手に取った。
「ほんとうだよ。・・・宴に兄上たちも呼ばなかったから、怒り心頭だと聞いたよ」
「王将軍からの正式の返事がまだなのだ。だから、御祖母様の考えで内輪だけの宴にした。いずれ婚儀には皆を招待するさ」
敬徳の昇進を聞いてから、一区切りをつけたいと宴を急いでいた。そのために長恭の兄弟や、権門の皇族を招待しない内輪の宴になってしまった。ところが、これが憶測を呼んで高開国公は、結婚に乗り気でないとの噂が流れてしまった。
「そういえば、崔叔正について調べてくれたか?」
「ああ、最近将作大匠に復活した崔叔正だよね」
青蘭が顔氏学堂で教えを受けるようになった崔叔正の存在が気になった長恭は、延宗に調べさせていたのだ。
「崔叔正は、名門博陵崔氏の一族で、十七歳で州主簿となった英才だ。父上に重用され中書侍郎に抜擢され、一時は父上の右腕として権勢があったそうだ。しかし、厳正な執行は佞臣に妬まれる原因になった。司馬子如に告発されて北辺に流された」
自らの命により職務を執行した崔叔正を、父上は守らなかったのか。
「数年前、罪を許されて将作大匠にもどされた。・・・聞くところによると、医術に通じ頼まれて長広王の治療をしたこともあるのだそうだ。なんと流刑先では、貧者の治療も行ったと耳にしている」
斉に清廉な官吏は少ない。顔之推がえらんだ文人に間違いはなかった。民の為に役にたちたいという青蘭の志に少しは近づきつつある。
「延宗、・・・礼を言うよ。暇ができたら食事に誘う」
延宗が帰ると、長恭は榻に座って『呉子』を開いた。
崔叔正は、官吏としても文人としても一流らしい。しかも、医術を士大夫だけでなく民にもほどこす仁愛の持ち主らしい。青蘭の医術の師としては知識・人柄・身分ともに申し分のない人物である。
しかし、青蘭が成婚後も医術を学び続ける道は険しい。そして、医術で民に尽くすという青蘭の志を実現するにはさらに困難が待ち受けている。
長恭は、卓上の花瓶に生けられた菊花の一途な白さが純粋すぎると思った。
平原王府の宴をきっかけとして、長恭は敬徳に謝罪に出向く。文叔が女子であることを黙っていたことを責められ、頬を殴られる。平身低頭して、結果的には敬徳は長恭を許した。しかし、諦められない敬徳は、二人を清河王府に招待する。