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蘭陵王伝  別記  第6章  華燭の桃花  〔 ⑧ 納采の宴 〕

皇太后の懿旨で正式に婚約した青蘭は、婚約発表の宴を開き、多くの一族を招待した。しかし、長恭の婚約に納得しない斛律蓉児が、宴の会場に乗り込んでくる。長恭が政略結婚でいやいやながら王青蘭を娶らされるという噂を払拭するために、自ら女子たちが集まる宴の会場で挨拶をするが、かえって長恭に憧れる女子を増やすだけだった。

 ★  納采の宴 ★

 

 結納が終われば、ほどなく納采の宴が行われる。

 婚姻は家と家との契約である。納采の宴は、両家の親戚縁者を招待して大々的に酒宴を催すのが本来の姿である。しかし、後ろ盾を持たない高長恭は、近しい者を招待するだけのごく内輪の宴になった。

 高家関係では、皇太后に近い皇族が数人招待されただけで、長恭の兄弟達は招待しなかった。主に鄭家関係の鄭桂瑛の兄弟や叔父たちが招かれ、叔母に当たる鄭大車も招待された。

 宴は皇太后所有の別院で行われた。正殿の東西の間を使って、男女に分かれて宴が行われた。


 正殿の西の側殿には、すでに鄭家の招待者が席について、歓談していた。鄭伯礼は、甥の鄭昭信に酒を注いだ。 

「鄭桂瑛も、さすが大きな商いをしておる。娘を皇族の正妻にするとはな・・・大したものだ」

 桂瑛の伯父である鄭伯礼は、感心したというように首を振りながら酒杯を口にした。鄭伯礼の姉は、鄭大車である。

「桂瑛従姉上は、商売で皇太后府にだいぶ食い込んでいたから、・・・その関係では?」

 従弟の鄭昭信は、大梁からこたびの宴のために、大梁から鄴都に来たのである。

「お前は知らぬだろうが、婿の高長恭は鄴で一番の婿がねと言われる美丈夫だ。多くの令嬢が狙っていた。まさか、娘の青蘭を正妻にするとは、大した手腕だ」

 昭信は子供のころの青蘭を見たことがあったが、平凡な容貌の少女であったと記憶している。

「どちらかと言えば、元気だけが取り柄の子供だったがな・・・」

「突然、皇太后の懿旨が出て、決まったらしい。いわゆる賜婚だ」

 賜婚は、ほとんどが政略結婚に他ならない。口が堅い桂瑛は何も言わないが、世間には様々な噂が飛び交っている。

「青蘭の父親は王琳将軍だ。王琳は江南で根強い支持がある。王琳を取り込むための陛下の策だとのもっぱらの噂だ」

「桂瑛従姉上は、あの男とまだ切れていないのか?」

「さあ、何にも言えないな。・・・鄴都の鄭賈は稼ぎ頭だ。鄭家一族は、多かれ少なかれその恩恵を被っている。何とも言えぬ」

 鄭伯礼は、顎の髭をしごくと目を細めた。

 もともと、鄭家は学者の家柄であったが、鮮卑族の王朝では学問で身を立てていくことは難しい。王琳と離縁した後、鄭仲礼の商賈を引き継いだ桂瑛の働きがあってこそ、一族の面目を保つことができるのだ。将軍と桂瑛との関係は、鄭家では触れてはならないことになっていた。

「とにかく、目出度いことだな」

 鄭昭信は、酒杯を満たすと一気に杯をあけた。


「師兄、納采の宴とは目出度いです」 

「君たちが来てくれて、うれしいよ」

 高長恭が顔学堂門下の弟子たちと正堂の西の側殿に入って行くと、招待客の視線が長恭に集まる。長恭の美貌は有名であるが、散騎侍郎を務める長恭の容貌を実際に目にしている官吏はすくない。ましてや鄭家の招待客は、ほとんどが初対面である。香色の地味な色目の装束を身につけているが、長恭の美貌は輝くばかりで貴公子然としている。

 長恭が黙礼をして上座近くに座ると、宴を取り仕切る宣訓宮の内官が現れた。父母のいない長恭の婚姻は、皇太后府が全てを取り仕切っている。内官の周煙が正面に立つと、宦官特有の甲高い声で皇太后の言葉を伝えた。

「皇太后のお言葉を伝える。・・・王家の息女王青蘭は、琴棋書画に通じ貞淑で温順、文武に秀でた高長恭の好逑である。こたび両人は縁があって婚姻を下賜した。共に白髪となるまで添い遂げ、子孫の繁栄に尽力するように」

 内官の合図で宮女たちが一斉に酒瓶を運んでくると、長恭は立ち上がった。

「こたび、懿旨を賜り王青蘭と婚約の運びとなった。妻を娶り一家を構えなければならないとおもうと、身の引き締まる思いだ。参集の皆様に感謝の杯をささげる」

 出席の人々を見回した高長恭は、杯を掲げると一気に飲み干した。

「鄭家は、鄴都でも指折りの豪商。高侍郎は、前途洋々ですな」

 太子中舎人である源文宗が、隣の羊儒卿に話しかけた。朝廷での出世は財物しだいと言われている。陛下と不仲な皇太后をはばかって遅れていた出世も、妻の実家の財を持ってすれば、思いのままであろう。

「ああ、まったくだ。これで、鄴都の女子たちも静かになるだろう」

 源文宗は、声をひそめた。

「さあどうかな。許嫁の王殿は、皇宮に後ろ盾も持たない商賈の娘だ、嫉妬の的にならなければいいがな。・・・女子の嫉妬は恐ろしいゆえ」

 文宗は、離れたところに座る長恭を見ると唇に酒をふくんだ。


 壁と衝立に隔てられた東の側殿では、女子たちの宴が行われていた。

 青蘭は東の回廊に立って、御花苑に流れ込んでいる支漳溝を見遣った。もうすぐ顔紫雲がくるはずだ。

「青蘭、婚約おめでとう」

 回廊を曲がったところで、顔紫雲が手を振った。青蘭は江南の生活が長く、権門の令嬢には朋友はいない。顔見知りの女子と言えば、最近北周から父顔之推の元に来た顔紫雲ぐらいであった。

「紫雲、今日は来てくれて、・・・嬉しいわ。実を言うと・・・宴は憂鬱なの」

 珊瑚色の艶やかな長裙に鶸色の外衣を身につけながら、東の間回廊で青蘭は心細げにうつむいた。

「これから、開国公夫人になるのに、そんな弱気でどうするの?」

 顔紫雲は、顔思魯などの兄弟や弟子たちに鍛えられて、勝ち気で磊落なところが一番父親に似ていると言われている。口は悪いが、自由な気風が青蘭と通じるものがあるのだ。

「高長恭は、多くの女子の中から青蘭を選んだのよ。そう、青蘭は自信を持ってよいのだ。弱気になってどうするの?やり込められれば、長恭様の面目を潰すことになる。幸い皇太后の懿旨があるから、怖いものなしよね」

 紫雲は強い眼差しでそう言うと、青蘭の手を力強く握った。

「そうね、師兄の面目は潰せない。強気で行くわ」 

 二人は手をつなぐと、偏殿に入っていった。


 上座に座る鄭大車に、母親の鄭桂瑛が酒をついている。

「鄭桂瑛、高長恭と縁談があるなんて全然聞いていなかったわ。言ってくれれば、あんなに苦労を・・・」

「伯母上、私たちも・・・突然のことで、私もびっくりしているのです。・・・皇太后の懿旨が出ては、私たちに何の手立てがあるとお思いですの?」

 桂瑛は皇太后を恨んでいる大車の怒りを静めようと、とぼけて懿旨を強調した。後ろの席にいた鄭昭信の夫人である范淑苑が、酒杯を差し出した。

「伯母上、陛下は梁との同盟の絆を強めるために、皇太后に懿旨を出させたのではないかしら?もっぱらの評判よ」

「まさか、陛下と皇太后は、犬猿の仲よ」

 鄭大車が、訳知り顔で頭を振った。

「桂瑛従姉上、おめでとうございます。これで鄭賈にも箔がつきましたね。皇族との取引も大手を振ってできますわ」

 大きな財産を有しながら、商人は一段低い身分と蔑まれてきた。

「范夫人、まさか鄭家が娘の婚姻を当てにしていると思っていないでしょうね」

 鄭桂瑛は、娘の伝手で商売はしないと范淑苑を目の端でにらんだ。


 若い内官の声が、東の回廊に響く。

「お嬢様、残念ながらお通しできません。・・・この招待状は、斛律須達様のでございます。お返事では・・・」

「斛律家に来た招待状なのよ、問題ある?」

 少女と内官の言い争いの声が、響き渡った。長恭は中軍での今後を考えて、儀礼的に斛律須達を宴に招いたのだ。当然欠席の返事が来た。しかし、その招待状を使って、妹の斛律蓉児が乗り込んできたのだ。回廊に出た鄭桂瑛は側殿の扉の外に立ち塞がると、蓉児を睨み付けた。

「私は斛律蓉児よ。長恭兄上の婚約の祝に来たの」

 蓉児は手に持った招待状を団扇のように振った。

「お嬢様、何かの間違いではないでしょうか。須達様からは欠席の連絡をいただいております。招待者の名簿には、お嬢様はありません」

 斛律蓉児は、長恭に執着している令嬢の一人だ。宴に同席させれば、諍いはまぬがれない。

「大将軍の娘を、追い返すというの?」

 蓉児は中の招待者に聞こえるように、わざと大声を挙げた。通さねば諍いを起こすと脅かしているのだ。桂瑛が家人に目配せをするが、家人は蓉児の勢いに手が出せない。そうしている内に背後に青蘭が立った。

「お前が、王青蘭?・・・ふん、大したことないわ」

 蓉児は、母親の横に並んだ青蘭を値踏みするようにじろじろと眺めた。

「皇太后の懿旨のせいで、長恭兄上は、お前を娶ることになったのよ。いい気にならないで」

 青蘭は長恭との婚約の宴に乗り込んできた、傍若無人な蓉児を睨んだ。この女子を入れたら、両家の面目は丸つぶれだ。


 そのとき、蓉児の後ろから長恭の声がした。

「いい気になっているのは、お前だ。蓉児」

 蓉児が、声のする方に振り向いた。

「御祖母様は、そなたを招待していない。帰ってもらおう」

 長恭は蓉児と桂瑛の間に割って入った。

「そんな、・・・長恭兄上、こんな女子との気に染まない婚儀は、陛下に言って・・・」

「だれが、気に染まないと言っている?・・・私はこの婚姻を望んでいる。勝手なことを言うな」

「長恭兄上、皇太后の命だからと言って・・・」

 長恭は冷たい言葉で、しがみつこうとする蓉児の手を払った。  

「斛律殿は、お帰りだ。だれか、お見送りしろ」

 長恭は二人の内官に命じると、青蘭の腕を取って歩き出した。


 別院は思いの外広い。回廊の角をいくつか曲がると、小さな房に入った。

 長恭は向かい合って手をにぎると、青蘭を見つめた。傷ついた瞳が昏く沈んでいる。

「青蘭、すまない。・・・儀礼的にも斛律将軍府に招待状を出したのがまちがいだった。蓉児が怒鳴りこんでくるなんて、・・・君を傷つけてしまった」

 花嫁にとって、納采の宴は婚礼に次ぐ晴れがましい席だ。そこに、他の女子が乗り込んできたのだ。青蘭が不快に思わないわけがない。

「斛律蓉児は、師兄に手巾を渡した令嬢よね。きっと師兄が好きなのだわ」

 青蘭は長恭の明眸を見上げた。蓉児はこの麗容に魅入られたのだろうか。

「すまない。・・・青蘭、蓉児は妹のような存在だ。好きでも何でもない。だから、気にしないでくれ」

「師兄が蓉児のためにあやまるの?・・・・妹?、師兄には気の強い妹が多いのね。庶民の私にはたちうちできないわ」

 青蘭はため息をついた。蓉児も楽安公主も、権門や皇族の令嬢だ。宴のたびに顔を合わせるに違いない。これからの付き合いが思いやられる。

「蓉児は、子供で分別が付かないのだ。・・・これからは、決して、だれにも君を傷つけさせない」

 長恭は、青蘭の両肩に手を置くと顔を覗き込んだ。

「焦って懿旨にたよったために、さまざまな誤解を生んでしまった。・・・私の責任だ。すまない」 

 皇太后の懿旨を使ったために、政略結婚などといらぬ噂が青蘭を傷つけている。何としても、払拭しなければ・・・。

「私に東の偏殿で、挨拶をさせてくれ」

「許婚の挨拶?」

 女子の会場で花婿が挨拶するなど聞いたことがない。しかし一度は、はっきりこの結婚への自分の気持ちを表明しておかなければなるまい。長恭は青蘭の手をひいて回廊に出ると、東の偏殿の扉を開けた。高長恭の容貌に関する噂は高いが、実際に間近で目にした女子は限られている。

 女子たちの視線が集まる。

「今日は、納采の宴に来ていただき幸甚のいたりです。様々な噂が飛び交っている事を承知しているが、この婚姻は私がかねてより望んできたこと。青蘭は琴棋書画に通じ温和で聡明だ。相応しい青蘭を妻にできたことは、我が人生で一番の幸せ。ぜひ、温かく見守っていただきたい」

 噂に聞く長恭の麗容に、招待された女子の視線が釘付けとなった。

「粗酒粗肴ですが、ゆっくりと味わってもらいたい」

 高長恭はとろけるような笑顔になると、東の間を見回した。言葉が途切れ、静かなため息が流れた。

 すみやかに、長恭は西の偏殿に引き上げた。長恭の挨拶にも拘わらず、政略結婚の噂は依然として消えないどころか、世の女子たちの長恭への敬慕はますます高まった。  

 

★ 中元節の青蘭 ★


 七月十五日は、中元節である。中元節の時は、普通は夜の外出が許されない鄴都でも夜間の灯籠見物がゆるされるのだ。

 長恭と青蘭は侍女や内官を引き連れて灯籠見物に出掛けた。以前は屋敷を抜け出すようにして灯籠見物をしていたが、正式に婚約した今では、供を連れて堂々と飾りを見物できる。

「お嬢様、あの魚の形の灯籠は、細工が見事です」

 晴児が、赤い魚をかたどった子供ぐらいの大きさの灯籠を指さした。

「若様、喬香楼の灯籠飾りは、今年も豪華ですね」

 内官の吉良が、都で一番の妓楼である喬香楼の灯籠飾りを見上げる。中元節の灯籠飾りは、盂蘭盆会とも重なって一層豪華である。

 長恭と青蘭は、安康橋のたもとから花灯を流して、長恭の母の冥福を祈った。

 

長恭と青蘭は、供を帰すと中陽門街に面した茶楼である麗香房に登った。二階の客房に入ると、窓から爽やかな風が吹き込んでくる。結納以来、二人でゆっくりとすごすことがなかったと、長恭は反省したのだ。

 客房に入ると、長恭は茶釜から茶をすくって茶杯に注いだ。

「清明茶だ。・・・いい香りだ、落ち着く」

 清明節ごろに摘んだ茶葉で作った清明茶は、江南の記憶を思い出させる。

「昨年は、二人で花灯を流せるか心配だった。でも、これからは毎年一緒に母の供養ができる」

 長恭は、茶杯を青蘭の前に滑らせた。

「あれから、いろいろなことがあって、君には辛い思いをさせてしまった。これからは、今までの分も君を幸せにするよ」

 長恭は情熱的な瞳で、青蘭の手を握った。長恭の甘い言葉に酔えば酔うほど、心の全てを明け渡してはならないとつぶやく自分もいるのだ。

「そう言えば、師兄、崔叔正殿を知っている?」

「ああ、将作大匠の崔殿だろう?」

「ええ、その崔殿に医術の講義を受けているの」

 かねてより青蘭は、医術で民に尽くしたいと言っていた。青蘭は目標に一歩ずつ近づいているのか。

「崔殿が、学堂で講義をしているという話は耳にした。・・・崔殿は、斉では珍しい清廉な官吏だ」

崔一族は、北魏の時代から朝廷に仕えてきた漢人官吏の名門である。崔叔正は謹厳な漢人で、東魏の頃から忠言を呈しては罪に陥れられることが何度かあった。しかし左遷になった地でも医術の腕を磨き、中央に戻ったときには、権門に治療を請われるほどであった。そして、貧しい民の治療も厭わないと耳にしている。

青蘭は、茶杯を手に取ると口に持って行った。先日行った崔府は、権門の家とは思えないほど簡素で、嫡子の崔鏡玄の装束も質素であった。崔師父は、俸禄のほとんどを書物の購入と医館につぎ込んでいるらしい。  

「崔叔正は、尊敬できる人物だわ」

「ああ、斉では珍しい清廉居士だ」

 長恭は笑顔になると、青蘭の手を握った。

「そろそろ、月が東の空に登るころだ。灯籠見物にくりだそう」


  ★ 中山王の悲劇 ★


 さかのぼること、およそ三十年前、西暦五三五年のこと、北朝で栄華を誇った北魏が東西に分裂して東魏と西魏が生まれた。しかし、高氏の傀儡王朝である東魏も二十年しか持たなかった。

 東魏の孝静帝は、紀元五五十年に北斉が建てられると、高洋に譲位して中山王に落された。それにともなって高澄の姉である皇后は、中山王妃そして太原長公主と呼ばれるようになった。

しかし、皇位簒奪の不安にさいなまれた高洋は、東魏の復活を恐れて前皇帝である中山王の毒殺をたびたび図った。寂しく戚里の隅に住まう中山王の食事に、毒が入れられたのである。幸い王妃の機転により難を逃れたが、中山王妃は、常に中山王の側を離れず、毎日の食事に目を光らせるようになった。


 涼風が吹き、丹桂(金木犀)の花が甘い芳香をまき散らす秋になった。八月十五日は、中秋節である。

中秋節は、十五夜の月を観賞するだけでなく、秋の収穫を祝い家族の絆を強める機会でもあった。

 皇宮でも中秋節には高氏一族の親睦を図る宴が催されることになっていた。

 しかし、中山王の暗殺を心配する王妃は、身体の不調を理由に参加を拒んだ。ところが、皇后の李姐娥よりの招待として正式の懿旨が出されたのだ。懿旨を拒めば謀反と見なされて、中山王家に災いが降りかからないともかぎらない。王妃は、仕方なく兄弟達が集う宴に出掛けることにしたのである。

 孝静帝は高皇后にとって望んだ婚姻の相手ではなかった。しかし、二人の皇子と一人の公主が生まれ、家族になると愛着も生まれる。そして、父高歓や兄高澄に圧迫されながらも、魏の王朝を守ろうとする夫の矜持と人柄にふれるにしたがって、共に戦うようになったのである。

「平陽公主が、宝国寺に参拝に行っている。夕方には迎えに行っておくれ」

 中山王妃は娘の迎えを宦官に託すと、慌ただしく迎えの馬車に乗り込んだ。


 その夜の中秋節の宴は、婁氏所生の兄弟が皆そろい和やかな雰囲気の中で進んだ。酒が進むと乱れてくると言われる高洋が中座したので、兄弟は一気に緊張が解けて、和やかな歓談が繰り広げられた。酒をすごした中山王妃は、皇后に勧められるまま後宮で就寝した。


 早朝、中山王妃は侍女の悲痛な声で起こされた。

「王妃、中山王と皇子が亡くなられました。公主は行方不明でございます」

 昨夜、中山王と皇子二人が中山王府で毒殺され、押し入った賊により家人も皆殺しにされたという。

「あっ」

 中山王妃は、言葉を失った。中秋節の家族の宴、李皇后からのたびかさなる招待、機嫌のよい皇帝の中座、自分の早い酩酊、昨夜の何気ない違和感が一つに繋がった。

『洋は、私を後宮におびき出し、その間に中山王と子供達を毒殺したのね』

 ほどなく、中山王妃のいた信徳殿は近衛軍によって包囲され、中山王府に軟禁されることとなった。


 中山王毒殺の噂は、箝口令が敷かれていたにも拘わらず瞬く間に広まった。

 一番衝撃を受けたのは、婁皇太后であった。毒殺の事実を知ると、婁氏は悲嘆のあまり起き上がることができなくなった。心配した長恭は、侍中府を休んで看病に当たった。

「何故、中山王を殺さねばならぬのだ。・・・斉の建国時の約束を忘れてか。・・・何の力も持たぬのに」

 やっと起き上がった婁氏は、薬湯を口にしながら涙をうるませた。

 婁氏は次男の高洋が東魏を倒し北斉を建国することを、最後まで反対していた。娘二人を東魏の皇帝の後宮に入れていたからである。高洋が決して譲位した皇帝を害さないと約束するに至って、ようやく認めたのである。その約束もあえなく破られたのだ。

「御祖母様、あまり嘆かれますと、お体に触ります」

 長恭は、薬湯の匙を差し出しながら慰めた。


 病の知らせを受けて今上帝高洋が見舞いに訪れたが、怒りは収まらず面会は叶わなかった。王琳への援軍を送ることにより一度は和解した母子であったが、中山王の毒殺の件で母子の不和は決定的なものとなったのである。中山王の死によって、中山王妃の称号を失った太原長公主は、宮中の太原長公主府に軟禁され監視を受けるようになった。自死の恐れがあったからである。

 そして、宝国寺に参拝していた平陽公主の行方は、杳として知れなかった。


  ★ 高演の見舞 ★


 数日後、常山王高演が、母皇太后の見舞いに訪れた。

 高演は、婁昭君所生の三男である。李同軌を師として学んできた温和で博識な男子であった。高家の例に漏れず美丈夫であり、兄弟の中では兄の高澄に次いで、高歓の面影を引き継いでいた。

 婁氏は長男高澄の死後、兄弟の中では三男の高演を一番信頼し寵愛してきた。高演は、兄の高洋が斉を建てると、常山王に封ぜられ、幷州尚書令、司空、録尚書事を歴任し、この年には、大司馬となっていた。


 高洋が酒に溺れ酷薄の度を増すに従って、婁氏は他の息子たちとの交流を控えて疎遠を装った。疑り深い高洋が、皇位簒奪の疑いから兄弟達を害することを恐れたからである。しかし、婁氏が心痛のあまり倒れるに至り、高演は母親の見舞いに訪れた。

「母上、お体の具合はいかがですか」

 高演が榻牀の帳の外から声を掛けた。

「演か・・・」

 帳の中から、白い手が伸びて高演の掌を掴んだ。

「演よ、そなたも出ていたのか、中秋節の宴・・・」

「はっ?」  

 高演は、中山王毒殺の顛末が正確に皇太后に伝わっていることを悟った。

「そなたは、中山王が殺されたとき、暢気に酒を飲んでいたのか?」

 婁氏の声は、怒りに震えていた。そして高演を掴んだ手を放した。

「私は、何も知らず・・・申し訳ありません」 

 跪いた高演は、病床の母の顔を見ることができなかった。

 母婁氏は、高洋が斉を建国して以来ひたすら一族の平安を願ってきた。娘二人の婚姻を犠牲にして建てた斉国である。その後、鮮卑族の反対を押し切って漢族の女子である李姐娥が立后されると、漢族と鮮卑族の対立は、最高潮に達した。婁氏は、鮮卑族と漢族の対立を避けるため、後宮の主たる地位を放棄して、後宮の外にある宣訓宮に隠棲する道を選んだのである。しかし、前王朝の皇帝である中山王と皇子が毒殺されるに到り、己の選んだ道を後悔していた。

 秀児が帳を開けて、婁氏を助け起こした。婁氏は哀傷に満ちた顔で高演を見遣った。

「演よ、そなたに頼みたい。・・・一族の安全を守って欲しい」

 強い眼差しで一瞬息子を見詰めると、力なく目を閉じた。帳の奥に見える母の顔は憔悴しきっている。


 斉の国は、父高歓と母婁昭君で基礎を造ってきたと言っていい。母皇太后の高洋への信頼が揺らいでいるのだ。高演は、『一族を守って欲しい』との母の言葉を反芻した。中山王家の毒殺のような事態が、一族の中で起こることを防いで欲しいと言うことであろうか。それとも、兄の高洋は、皇帝に相応しくないと言うことであろうか。

「母上、斉と一族を守りまする」

 高演は、やっとの事で目を開けた婁氏に力強く誓った。

『母上は、謀反を起こせと?・・・いやそんなはずがない』

 高演は、母婁皇太后の言葉の意味を思案しながら常山王府に帰った。


   ★ 高演の諫言 ★


 侍中府の前庭には、菊の花鉢が置かれ重陽節の近いことを知らせている。

 長恭は、開国県公に封ぜられたと言っても、二百戸の加増があっただけで、散騎侍郎としての職務は何ら変わるものではなかった。

 長恭は、初秋の爽やかさの中、侍中府の書房に入った。納采の宴も済んだが、散騎侍郎としての仕事が疎かになれば、婚約で浮ついていると世の非難をまぬがれない。長恭は、廬思道に挨拶をして筆墨を取りだした。

 廬思道は几案に座り一心に上奏文の弁別に当たっている。長恭が上奏を手に取ろうとすると、思道が近付いてきた。

「長恭、聞いたか?」 

「はっ?」

 長恭は、思道の言っている意味が分からず、晴朗な瞳を見開いた。戸惑っていると、思道が意味ありげに身振りで書庫房に誘う。


 朝の書庫房は、まだ無人である。廬思道は、書架の書冊を探す素振りをしながら、小声で言った。

「昨日、常山王が、陛下に刺された」

 常山王は清澄な風貌と風雅さを合わせ持った大人である。常山王高演と今上帝高洋は共に、長恭の叔父である。常山王は以前も陛下に諫言を呈して、殴られて怪我を負ったことがあった。

「常山王が、刺された?・・・なぜ、温厚な常山王が・・・常山王は、ご無事なのか?・・・」

「ああ、今のところはな。・・・匕首で肩口を刺され、瀕死の重傷とのことだ。陛下の乱行を諌言したためらしい」

「陛下の乱行?」

 中山王が殺されて、諫めた常山王が刺された?前王朝の君主であった中山王を殺したと言うことも衝撃だったが、諫言をした同母の弟を刺したことは、言わば家族内の殺生である。

『自分の子供同士が血を流したと知ったら、御祖母様はどれほど嘆かれるか・・・』

 長恭は、皇太后の心中を思うと、言葉も無かった。


★ 皇太后の心痛 ★


 申の刻、長恭が皇宮から戻った。

 中山王と王子たちが毒殺されて以来、皇太后は生気を失い食欲を無くしてしまっている。しかも思道の話では、常山王が諫言して陛下に刺されたという。祖母が常山王の怪我のいきさつを知ったら、どれほど心痛を感じるか。


 長恭は、官服から葡萄色の平服に着替えた。

「若君、今日はお早いお戻りで」

 内官の吉良が、茶の用意を携えて入って来た。

「朝早くから青蘭様が来て、皇太后の看病をなさっています」

 やっぱり来てくれたか。長恭は茶杯を取ると、口に運んだ。

「御祖母様の様子はどうだ」 

「青蘭様が来て、初めて鶏の羹を口にされたとか」 

 よかった。長恭は胸をなで下ろした。婁皇太后は、祖父高歓との間に六人の子供を設け、多くの庶出の子供達に慈悲をかけてきた。しかし、陛下をはばかって、見舞に来る者は少ない。

 長恭は、夕餉の準備を命じると正殿に向かった。


 長恭が祖母の臥内に入ると、青蘭が祖母の手を拭いていた。

「そうなんです。顔師父の娘である顔紫雲が、長安から鄴都に来て友になりました」

 臥内に明るい青蘭の声が響いた。

「あの顔之推の娘が鄴都に?」

 婁氏は、手を預けながら青蘭の顔を見た。

「ええ、そうなのです。師父の後を追ってこの夏に鄴都に来たそうです。物知りで、西域の話もしてくれます。鼻の長い動物がいるとか、動く湖があるとか・・・」

「動く湖とはのう・・・」

 久しぶりの祖母の笑顔だ。

「御祖母様、具合はいかがですか?」

 長恭は榻牀の足の方に座って、顔色を観た。登庁の前の毎日挨拶の際にも会えないときが多いのに、今日は顔色もいい。

「今日は、なぜか調子がいい」 

 青蘭が薬湯の準備で臥内を出て行くと、婁氏は手招きをした。

「納采の宴で、一悶着あったそうだな」

 婁氏は、長恭の顔を見上げた。

「御祖母様、ご存じでしたか。・・・斛律蓉児が、突然来て青蘭に悪態をつきました。でも、はっきり私から言いましたので、もう来ないかと・・・」

 皇太后は、宣訓宮にこもっているようで、皇宮でのことは何でもお見通しなのだ。とうぜん常山王のことも知っているに違いない。

「懿旨を出したばかりに、非難を招く結果となってしまった・・・」

「そうなのです。焦ったばかりに、青蘭を傷つける結果となってしまった」

 意志をはっきりと表明すれば噂も静まるかと思ったが、青蘭への中傷は収まらない。

「どうしたらいいものか・・・」

「心を尽くして考えよ。・・・妻は夫のために心を尽くす。ゆえに夫も妻のために心を尽くして考えるのだ・・・」

「お言葉、肝に銘じまする」 

 長恭は祖母の瞳を見つめた。


 青蘭が薬湯を持って入って来た。

「また、薬湯かい?・・・」

「薬湯がいやだと仰るなら、早く良くならなければ・・・」

「これは厳しい孫嫁だ」

 婁氏が苦笑いをしたので、長恭は薬湯の椀を受け取った。

「それでは、私が差し上げよう」

 長恭は匙で薬をすくうと、祖母の口元に持って行った。

「今日は、御祖母様の機嫌がいい。君が来てくれたお蔭だ」

 長恭は数匙飲ませると、椀を小卓のうえに置いた。

「夜道は物騒だ。長恭よ、青蘭を送っていってやるがいい」

「承知しました。馬車で送ります」

 長恭は、立ち上がると臥内の外に出た。


 長恭は青蘭と一緒に金明門を出ると、皇太后府の馬車に乗り込んだ。

 長恭は青蘭と並ぶと、肩を抱き寄せた。

「御祖母様は気鬱で弱られていると、侍医が言っていたけれど、・・・皇宮で何かあったの?」

 中山王府が襲撃され中山王一家が毒殺されたことは、商賈の鄭家にでも漏れてきている。しかし、それだけではないようだ。

「先日、陛下に諌言した常山王が、・・・刺されたのだ」

 長恭は耳元に口を寄せると小声で囁いた。常山王と言えば、陛下の同母の弟である。諌言したからといって実の弟を刺すだろうか。

「まさか・・・」

「昨日、廬思道に聞いた。・・・本当だ。・・・胸を刺されて重傷だそうだ」

 家族の中で刃傷沙汰が起きるなんて・・・。長恭は、目をしばたいた。

 伯父である高洋は、魏の三台である銅雀台、金虎台と氷井台を改修し、大規模な庭園である游豫園を造営するなど、多くの血税を使った建築を行ってきた。そして、民の困窮を顧みることなく、残虐な行為を繰り返しているのだ。そして、皇族でありながら何もできない自分が情けない。

「歯がゆいよ。これっておかしい。御祖母様は悲しみに暮れている。でも、私は何もできない」

 長恭は青蘭の肩を引き寄せた。

「師兄、兄弟に手を出すなんて、あってはならないことだわ」

「常山王のような忠臣が瀕死の重傷を負わされるとは、何て情けない」

「皇太后が、心痛で寝込むのも無理ないわ」

 青蘭は長恭の肩に頭を寄せた。


  ★ 蓉児の嫉妬 ★


 蒼空が晴れ渡った九月の初め、延宗は、武芸の稽古のために斛律衛将軍府を訪れていた。

 安徳王延宗もすでに十五歳である。先般の出陣では一念発起して今上帝に初陣を願ったが、武芸の力量が不十分であるとして相手にもされていなかった。そこで斛律将軍府に通い、斛律光の息子たちに交じって武芸の稽古に励むようになったのだ。


 延宗が、四阿の中に座り手巾で汗を拭いていると、秋海棠の花の陰から斛律蓉児が、茶器を携えて現れた。

「延宗兄上、剣の鍛錬お疲れ様」

 蓉児は、いつになく笑顔を浮かべると卓の上に茶器と茶菓を並べた。

 斛律蓉児は、斛律光の嫡出の長女である。斛律光は多くの息子をもうけているが、嫡出の女子は二人しかいない。待望の女児として愛育された蓉児は、明るいが我が儘な少女に成長した。

 延宗はこの年下の勝ち気な少女が苦手であった。兄たちに比べて年の近い延宗に対して、事あるごとに命令し、遠慮のない親近感を示したからである。

 蓉児は、いつになく笑顔を作って茶杯を延宗の前に勧めた。

「延宗兄上、温かい茶をどうぞ。お飲みになって」

 延宗は、湯気を立てる茶杯を持って一口飲んだ。

「なんだ、蓉児。僕に茶を入れてくれるとは、どいう風の吹き回しだ」

 気詰まりな雰囲気に、延宗は目を細めて蓉児をながめた。しばらく逡巡していた蓉児は、思い切ったように延宗を凝視した。

「延宗兄上、・・・一緒に皇太后府に行ってくれない?」

 蓉児は延宗にしな垂れかかった。

「長恭兄上に会いたいの・・・」

「蓉児、それはできない。・・皇太后令がでて、・・・兄上は婚儀を挙げるのだ。今さら何を・・・」

 兄の長恭は、かつては蓉児を妹のように可愛がっていたが、近頃は蓉児を避けるようになっている。

「長恭兄上の婚姻は間違っている。止めないと不幸になるわ。先日、納采の宴に乗り込んで、青蘭に言ってやったわ。長恭兄様が梁の降将の娘を娶るなんて、納得いかないって」

 蓉児は、頬を膨らませると口を尖らせた。

「お、お前は、兄上の納采の宴に乗り込んだのか?」

 いくら青蘭との結婚に反対しているからと言って、納采の宴に蓉児が乗り込めば大事になったはず。

 蓉児は皇太后の懿旨と聞いて、兄上が婚姻を強いられていると誤解しているのだ。

「兄上は、政治の犠牲になったわけではない。自ら進んで、婚姻を望んでいるのだ。懿旨が出たのは・・・」

 延宗は、いきさつを説明しようとしたが、兄に憧れる蓉児にとっては、どのような美姫であっても、相応しくない醜女になってしまう。

「子供のころから、私こそが妻になると思って来たのよ。でも、・・・長恭兄様には想い人がいると知って、・・・諦めたの。それがよ、・・・長恭兄様が、政略結婚で皇太后様に王将軍の娘を押し付けられたと聞いたの・・・納得いかない。・・・許せない気持ちだわ」

「蓉児、君が許せないと言っても、どうなるものではないぞ。それに、この婚儀は兄上も望んでいることなのだ」

 延宗はため息をつくと、仕様がないというように空をあおいだ。

「兄上は、この婚姻を喜んでいるのだ。皆が祝福している。蓉児も祝って欲しい」

 しかし、怒りに駆られた蓉児の耳に延宗の言葉は届かなかった。

「長恭兄上は、責任感の強い人ですもの。文句なんて言わないわ。・・・でも、兄上が想い人と一緒になれないなら・・・、私にも考えがある」

 斛律蓉児は斛律大将軍の愛娘だ。婚姻の相手は権門の子息か皇位に近い皇子に決まっている。いくら蓉児が望んでも兄との成婚の望みはない。蓉児もそして自分も単なる政治の駒に過ぎないのだ。

「お前は、兄上には嫁げぬ。・・・諦めるのだ」

 困難の末想い人との婚姻を手に入れた兄が、延宗は心底羨ましいと思った。

 親友の高敬徳に黙って婚約してしまった長恭は、疚しさに駆られて文叔が女子だったと打ち明けようと思うが、怒りを買うことを恐れて言い出せずにいる。

 段韶主催の重陽節の宴に招かれた青蘭は、長恭に憧れる令嬢たちの嫉妬をおそれて、出席を躊躇するのだった。

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