蘭陵王伝 別記 第6章 〔 ⑦ 婚姻の切り札 〕
鄭家に求婚書を持って行ったにもかかわらず、王琳の父に阻まれてしまった長恭は、自分の無力さを痛感するのだった。そこで、祖母の皇太后に懿旨(皇太后令)を出してもらうことを思いついた。
★ 敬徳の帰還 ★
絳州からの凱旋後、斉では秋を待って高官の異動が多くあった。青州刺史であった高敬徳は、中央に戻り侍中府の侍中の職に昇進したのである。
侍中は、いわば皇帝の政策顧問であり、決裁を受ける上奏文の選択を司り、斉の政の趨勢を左右できる地位である。その職にわずか二十三歳で就く高敬徳は、高一族の中でも出色の存在であった。ちなみに、長恭のついている散騎侍郎(定員四名)を統括するのが散騎常時であり、その上司が侍中である。
鄴都で一番の妓楼である嬌香楼には、蝋燭の灯火がさながら昼間のように輝いていた。艶めかしい妓女の蔭が紅殻色の壁に映り、琴や琵琶の音曲が廊下に響いている。
六月の中旬に侍中を拝命した高敬徳が、青州での仕事の引き継ぎを終了し、鄴都に戻ったのは六月の下旬になっていた。敬徳は、侍中に就任するに当たり、長く侍中の職にある高徳正を嬌香楼に招いた。
高徳正は、高顕を父に持ち、字は士貞、本貫は渤海郡である。皇族ではないが、北斉建国の功労者であり、藍田公に叙せられていた。建国以来長らく侍中を勤め、国政に関わってきた今上帝高洋の寵臣である。幼少から聡明で、立ち居振る舞いが美しい好漢であった。
高徳正は、高敬徳の父高岳とも親交があり、敬徳が幼少の頃から、清河王府を訪れては高岳と政治談義に花を咲かせる仲であった。
敬徳は青州刺史として青州に赴任していたが、王琳将軍からの援軍の要請を知り、高徳正に個人的な手簡を送って高帰彦の翻意を依頼したのである。
王青蘭との縁談は破談になってしまったが、かねてから王琳将軍の武勇と矜持には憧憬の念を抱いていた。王琳将軍の危機に対して、助力をしたいと考えたのである。その心中に、文叔への友情と共に姉である王青蘭への未練がなかったと言えば嘘になる。かつては気にも留めなかった縁談であったが、できたら改めて婚姻を申し込みたいと思った。
敬徳が妓楼に着くと、徳正はすでに部屋に入っていた。
高徳正は、四十半ばの偉丈夫である。武人としての逞しさはないが、張り出した顎と時に厳しく相手を見据える目が、意志の堅さを示していた。
徳正が正面に座り、敬徳が隣に座ると、酒肴と酒が運ばれてきた。ほどなく嬌声とともに技女達が入っくると、西域の肌も露わな衣装をまとった故舞が披露された。
「藍田公、先日は王将軍への援軍のこと、かたじけない」
「なあに、高帰彦のように利に惹かれる者など動かすのはたやすい」
高徳正は、胡姫の舞に目を遣りながら笑みを浮かべた。
『それにしても、何故わざわざ儂に遠方から助力を頼んだのだろうか?』
青州からわざわざ遣いをよこした心中を量りかねて、徳正は敬徳の晴朗な面差しを窺った。敬徳の隣りに座った年若い妓女が、色っぽい流し目で酌をしている。
「侍中の先輩として、政の心得をお聞かせ願いたい」
敬徳は、新任の侍中らしく自分で酒瓶を取りながら、先輩の訓を聞く体で、徳正に訊いた。
舞でひるがえる妓女の裳裾と、大きく開いた胸元に目を奪われていた徳正は、敬徳の質問で我に返った。
「うまく調和を図りながら流されず、柔和を旨としながら屈せず、寛容でありながら操守を乱さ・・・」
「『荀子』の暴君への仕え方ですか?」
敬徳は憮然とした表情で徳正に訊いた。徳正は酒杯を干すと妓女達を退出させた。広い部屋はしずかになった。
「清河王が、『荀子』を読んでいたとは・・・」
「皇族は、学問を知らぬとお思いですか?」
徳正は、酒瓶を取ると探るような眼差しで酒を注いだ。『荀子』のなかにある暴君への仕え方を口にすることは、今上帝は暴君であると言ったに等しい。皇族の敬徳が読んでいないと侮ってつい口に出してしまったのだ。
「さすが、高岳殿のご子息だ」
この男は父親から受け継いだ清河王の爵位だけで、侍中の官職を得たわけではないようだ。
「藍田公のご助言、肝に銘じます」
「これからは、子貞と呼んでくれ。これからは何かと世話になる」
敬徳は、改めて清雅な瞳を細めると、微笑して拱手した。
『敬徳は皇族だが、父親の冤罪を考えると、鮮卑族の中で、一番陛下と高帰彦を恨んでいるのかも知れない』
徳正は、敬徳と自分の酒杯に酒を満たした。
「常山王の諌言については、どう思っている」
徳正は、今上帝の弟である常山王高演が、陛下にひどく鞭で打擲された件を持ち出した。
『私が、青州にいる間に、宮中ではそんなことが起こっていたのか』
昨年末、敬徳が青州刺史として赴任して以来、宮中の事情は暗衛によって探らせていた。しかし、自分がしらないこともあるようだ。今上帝の暴虐の度合いは、どんどん酷くなっていたようだった。
「常山王は、斉のために諌言した。勇気ある方です」
「まったく、奸臣がはびこり、忠臣が懲打される。この斉はどうなっているのやら」
忠臣である帝弟の常山王は鞭打たれ、佞臣の高帰彦は、父上を讒言で陥れていながら、今でも寵臣の一人なのだ。
いつもは、人当たりのいい温顔を見せながら、今夜の徳正は心の不満を隠さなかった。
『父の敵は、必ず取ってやる』
敬徳は、これまで封印してきた思いを、胸によみがえらせた。
★ 甘い誘惑 ★
七月の上旬、長恭は辛術の屋敷に招かれた。
家妓の舞が終り、拍手が辛家の堂を包んだ。酒が杯に注がれ、主人の辛術が立上がった。
「斉の繁栄と諸将の健康と武勇を祈念して、乾杯」
今上帝の酒毒を嫌悪している長恭は、常日頃は酒量を控えていた。しかし、縁談が頓挫してから、気持ちが晴れなかった。
酒に飲まれないように酒の量を制御していた長恭が、今夜はなぜか強い酒を口に流し込んだ。
散騎侍郎として寸暇を惜しんで職務に励んだ。出陣しては、檄を振るい先頭に立って武功を挙げた。それでも、足りないというのか。
高敬徳が青州刺史の任を終え侍中として侍中府に入ると言う噂だ。同じ侍中府とは言え、散騎侍郎と侍中では雲泥の差である。青州刺史の時でさえ、自分との婚姻を渋っていた王琳が、敬徳の侍中昇進を知れば、敬徳との婚姻を進めるのは予想できる。
どうにかして、敬徳が都に戻ってくる前に、青蘭との婚姻を確定的なものにしたい。
長恭は、また何杯か杯を重ねた。
高一族に多い酒の乱れを見聞きしてきた長恭は、朝堂に出てからも決して酒に飲まれるようにはなるまいと心に決めていた。酒宴にはできるだけ出席せず、酒の量も常に自分の決めた量を過ごすことはなかった。
しかし、破談の危機という困難な現実を受け入れられない長恭は、いつの間にか自分の酒量を越えてしまっていた。肘を突き、酩酊する額を支えていると、主人の辛術が目の前にいた。
「皇子、別室で酔いを醒まされてはいかがであろう」
辛術の隣りを見ると、先ほど紹介された辛術の娘の辛瑯炎が控えている。今までは、皇太后がほどよい時を選んで中座ができるように遣いを送ってくれていた。しかし、今夜は官吏の屋敷での宴である。皇太后が知るはずもない。
「娘の瑯炎が、別室まで御案内致します」
長恭は、瑯炎に支えられながら立ち上がると堂を出た。
堂の外は既に深夜の暗さを示しており、ところどころに灯籠が掲げられている。皇宮の入り口の金明門も閉まっているだろう。もう、宣訓宮には戻れない。
瑯炎に支えられながら回廊を進む長恭は、一層酔いの深さを増した。ふらついた身体を支えるように回廊の柱に寄り掛かり、星空を見上げると青蘭の姿が思い出された。
『なぜ、青蘭と一緒になれないのだ。私は青蘭に相応しい男じゃないのか。敬徳なら許されるのか』
酩酊の中で僅かに残った嫉妬心が、唯一の理性だった。
「長恭様、客房はもうすぐですわ」
瑯炎が、鼻にかかったような喜びを隠せない声で囁いた。
『何がもうすぐなのだ。婚姻はまだまだ遠い』
長恭は、瑯炎に支えられよろめきながら歩みを進めた。瑯炎の伽羅の香りが、長恭の傍で立ち昇る。
「私、以前から長恭様のことを・・・」
瑯炎が、暗闇の中で長恭を見詰めながら囁きかける。ほどなく、瑯炎が一番はしの扉を開けた。中には燈火がほの暗くと灯り、甘ったるい香が漂っている。
「こちらが、長恭様の客房ですわ。・・・私がお世話致します」
長恭が榻牀に座ると、瑯炎が長恭の帯に手を掛ける。榻牀の薄絹の帳が蝋燭の灯りに魅惑的な影を作っている。霞がかかったような違和感が襲う。この香は、男の心を惑わす催淫香だ。
『これは、罠だ』
頭の片隅で囁く声がした。長恭は指を強くかんだ。指の痛みで酔いが瞬く間に覚め、長恭は瑯炎を睨んだ。
「それに及ばない。世話は結構だ。出て行ってくれ」
長恭は、冷たい言葉を吐くと瑯炎の手を強く払った。
「長恭様・・・」
立ち上がった長恭は、すがりつく瑯炎を外に出し、香炉に水を掛けた。扉を閉めても、瑯炎はしばらく扉の前でうろうろしていた。しかし、長恭が蝋燭の灯りを消すと、姿を消した。
瑯炎の気配が消えると、長恭は扉と窓を開け放した。
『辛父子は、ここで既成事実を作り、あの娘を側女に送り込むつもりなのだ』
すでに青蘭への求婚は知れ渡っているはず。しかし、政治のためか、娘の恋情のためか分からぬが、辛術は妾を押しつけてこようとする。気を付けなければ。きっとこれからも、このような事が起こるに違いない。皇太后が酒宴では途中で遣いを送り、長恭を中座させていた理由が初めて分かった。
長恭は長衣のまま就寝すると、まだ暗い内に目を覚ました。外に出ると、空は白々と明けはじめ、内院の木々は暗く、遠くから家人の働く音が聞こえる。
長恭は厩舎で俊風の手綱を取ると、宣訓宮にもどった。
★ 婚姻の切り札 ★
宣訓宮に戻った長恭は、朝の洗面を済ませて着替えると正殿に向かった。
朝の早い婁氏は、回廊に面した窓際で籠の小鳥に餌をやっていた。
「粛や、いやに早いな。朝餉はまだであろう?」
皇太后は、餌を付けた串を椀に戻すと長恭を朝餉に誘った。
「御祖母様、折り入ってお願いがあるのです」
長恭の思い詰めた面持ちに、皇太后は餌の椀を秀児に渡した。
祖母の居房に行くと、すでに朝餉の用意がされ料理が湯気を立てている。
「粛よ、今日は侍中府に登庁しないのか?・・・どうしたのだ。願いだなんて・・・」
婁氏は孫に料理を取り分けながら訊いた。長恭は、子供のころから願い事をしない子供であった。
長恭は箸を置くと、祖母の顔を見た。
「御祖母様、実は・・・私と青蘭の婚姻の懿旨を出していただきたいのです」
「懿旨?」
「そうです。求婚書を送ってはや一ヶ月も経っています。鄭夫人が江州に行きましたが、王家からは何の返答も来ない。きっと王琳将軍がまだ反対しているのです」
長恭は、思っていたことを一気に吐き出した。
「御祖母様の婚姻の懿旨をいただきたいのです。そうすれば、・・・王琳将軍が反対しても覆ることはない」
「そなたは、何を心配している」
「婚姻は水物です。このままでは、いつ何時横槍が入らないとも限りません」
長恭は、祖母の顔を見て唇を強く結んだ。先日の辛氏のようなことが耳に入ったら、純粋な青蘭は決して成婚を承諾しないだろう。
婁氏は唇をゆがめた愛孫の顔を見下ろした。長恭は、何を恐れているのだ。長恭は鄴都で一番の婿がねと言われ、令嬢の絵姿など望まなくても集まってくるほどなのに。
「その時は、別な娘を探すまでだ」
祖母は強気に言った。
「御祖母様、私は今は何の力の無い開国公ですが、将来は国を背負う英雄になりたいのです。私の大業には青蘭が必要なのです」
青蘭は父親が婚姻に反対しても、自分を責めたりしない。以前のように学堂に復帰し、医術を学び始めた。しかし、敬徳が中央に復帰が決まった今、悠長に構えているわけにはいかないのだ。
「私は、青蘭以外と結婚するつもりはありません。結婚できなければ、・・・北辺に赴き、漠北からこの斉を守り抜く任務につくつもりです」
漠北に赴任した将軍は、決して都に戻ることはない。
「お前は、青蘭と添えねば、ひ孫を抱かせぬと祖母を脅かすつもりか?」
婁氏は、溜息交じりに頭を振った。いつもは慎重な粛が、婚姻に関しては何とせっかちなのだろう。
「しかし、王将軍は自尊心の強い武将だ。王琳にとっては、懿旨で下された婚姻は気に染まぬかも知れぬな。禍根を残す恐れがあるのだぞ。それでもいいのか?」
祖母の視線を長恭は、強い思いで押し返した。むしろ、手をこまねいていて青蘭を奪われる方が、禍根を残すというもんだ。
「大丈夫です。御祖母様、王琳将軍には、誠意を尽くして許していただきます」
長恭は、鬼も笑顔になると思われる麗容でうなずいた。
「そうか、その覚悟なら、懿旨を出さぬでもない」
四柱推命の結果を思い出した婁氏は、温顔でうなずいた。
★ 敬徳の昇進 ★
『敬徳が、侍中として戻ってきた』
高敬徳が、侍中府の侍中に昇進することが正式に発表された。
官位は将棋の駒のようなものである。一つ動かすと他も動く。周との戦の褒賞として多くの官職が代わった。その影響で、高敬徳が青州刺史から鄴都に戻り、侍中に昇進したのである。
侍中は定員四名で、侍中府の中枢である。長恭の上役の散騎常侍の上役で、皇帝の側近顧問として政務の枢要に関わる職務である。
長恭が、上司の廬思道に敬徳昇進の話を聞いたのは六月の中旬であった。しかし、官房で地味な職務に励む長恭には、侍中府の長の一人である敬徳と顔を合わせる機会がなかった。
『敬徳は、私が絳州で戦塵にまみれている間に、青州刺史から侍中に駆け上ることがきまったのか』
五つ違いの幼なじみが、遙か雲の上の存在になっているのを、見たくないという気持ちもあった。
その日、長恭は、広蓋に上奏文を乗せた宦官と共に、侍中府の正房に向っていた。
「長恭・・」
どこからか、長恭を呼ぶ声がした。宮中では、宮女が長恭の名前を囁き合うのは普通である。そんな時は、無視して進むに限る。
「おい、長恭」
もう一度、聞き覚えのある声がして、大きな手が肩を捉えた。振り向くと、すぐ後ろに敬徳の笑顔があった。長恭は、宦官の目を意識して丁寧に拱手した。
「高侍中」
敬徳は、侍中府の高官に昇進したのだ。
「上奏文を、頼む」
敬徳は、傍らの宦官に一瞥すると、書房に届けておくように命じ、長恭を中庭に誘った。
「長恭、久し振りだな。やっと鄴に戻ったよ。積もる話がある。付き合え」
宦官は気を利かせて盆を掲げると、書房に去って行った。
中庭は、木々の緑が濃さを増し、花海棠の花が白く咲き誇っている。
「敬徳、いつ戻ったのだ」
長恭は、二人だけになると昔通りの友の口調に戻った。
「つい先日だ。青州では、まだやることがあったのに、・・・呼び戻された」
敬徳は、栄転を不満げに笑った。
「ふん、侍中と言えば高官だ。二十三歳やそこらで侍中とは立派なものだ」
長恭は、嫉妬心が言葉に出ないように笑みを浮かべた。
「なあに、お前こそ楽城開国公への爵封、・・・戦での武勇に比べると不満だろうが、今は力を蓄えるときだ」
敬徳は、通り一遍ではない言葉で長恭を慰めた。
「外朝はともかく、六部は漢人官吏の独壇場だ。鮮卑族で皇族のお前は苦労が多いだろうが、政に正道を取り戻すには、頑張るしかないのだ」
長恭と敬徳は、四阿に入った。
四阿の周りには、夏椿の花が咲いている。
「そう言えば、王文叔は元気か?」
真面目な顔をしていた敬徳が、顎に手を当て急に笑顔で訊いてきた。敬徳は、いまだ文叔が青蘭である事も、青蘭と縁談が進んでいることも知らないのだ。
「ああ、元気にしているみたいだ」
「そうか、・・・姉の王青蘭は、・・・元気なのか?」
「さあ、話では元気になったらしい」
文叔が青蘭だと話せないやましさで、長恭は目を逸らした。
「そうか、よかったよ。文叔と友になって、あいつの姉だったら、妻にしてもいいかなと思うようになったのだ」
敬徳はニヤけた顔で告白した。やっぱり、敬徳は青蘭に好意を寄せている。
『もし、長恭が求婚して父親の王将軍が承知をしてしまえば、万事休すだ。やはり、懿旨を使うしかない』
「弟が友だという理由で、姉を娶るのはどうかと思うがな・・・」
長恭は、言葉を濁すと仕事の忙しさを理由に敬徳と別れた。
★ 懿旨という選択 ★
数日後、皇太后の懿旨を携えた宦官が鄭家に現れた。
賈主の鄭桂英はまだ江南から戻らず、鄭家は大いに混乱した。王青蘭と楊家宰、主立った家人は、内院に平伏し懿旨を受けた。
「王琳の息女、王青蘭は、聡明で慈悲深く貞淑であり多くの女人の手本である。高長恭と王青蘭は、よき双鴛鴦となろう。よって高長恭との婚姻を下賜するものである」
「謹んで、拝命いたします」
青蘭は拝礼すると、両手で懿旨をうけた。
居所の几案の上に懿旨を広げてみた。錦で縁取られた絹布に麗々しい文言が並び、左の端には皇太后の御璽が押されている。
聖旨に次いで権威のある懿旨であるが、内容によっては一族や国家の命運を左右しかねない物なのだ。母が江南から戻れば婚約が成立するはずなのに、なんで皇太后令が届くのだ。これでは長恭との婚姻が政略結婚だと誤解されかねない。
皇太后が自ら懿旨を出したなら、酷い溺愛だ。もし長恭の頼みなら、私に黙って頼んだのは酷すぎる。
師兄は親切だが、何でも自分で決めて先回りをしすぎるのだ。それはつまり、私を一人前の人として認めていない証拠だ。
青蘭は懿旨を巻き取ると、櫃の中にしまった。
降って湧いたような皇太后からの懿旨に、鄭家では急きょ使者が立てられた。
★ 乞巧奠の星空 ★
七月七日の乞巧奠(七夕)の夕方、長恭は青蘭を茶楼の麗香房に誘った。
乞巧奠は、本来女子が裁縫や刺繍の技能の上達を願う祭りである。しかし、鄴都の大路には灯籠が掲げられ、五色の布が華やかに飾られた。
麗香房の階段を、鴇色の裙襦をまとった青蘭が昇ってくる。今夜は珍しく涼しげな女子の装いだ。
「今夜は、すごい人出ね」
開け放してある窓から通りを見下ろしていた青蘭は、長恭の方を振り向いた。青蘭の女子の装いは珍しく、胸に高く締めた深紅の帯が眩しい。
「この前は、驚いたわ。いきなり懿旨が届くのですもの」
青蘭は小首をかしげて、唇をすぼめた。
「師兄、御祖母様に懿旨を出してもらうなら、先に私に相談するべきじゃない?」
大きな青蘭の瞳が、不満げに長恭を睨む。
「すまない。・・・不安だったのだ。なかなか母君が戻らないので、誰かに、妨げられないかと焦ってしまったのだ」
長恭は青蘭の手を取った。
「懿旨は、重いものよ。拒絶することは許されない。婚姻に何か問題があって強行するのだと疑う者もでる。頑固者の父上は、きっと不信感を抱くわ」
青蘭は、長恭を見上げた。賜婚は、皇帝が皇族や廷臣を取り込むべく縁組みを命じるものである。そこには常に策略が内包されているものなのである。戦なら拙速を善とするが、婚姻は戦いではない。
「君にすまないと思っている。・・・心配だったのだ。・・・懿旨を得れば、その、途中で覆ることは無いと思ったのだ」
青蘭は口をとがらせて、窓の外を見た。内実はともかく。懿旨をうけて主君の命令で嫁がされる賜婚は、青蘭がもっとも嫌うところだ。父が反対していたのは、自分のせいだ。しかし、二人の将来に関わることを、長恭が一人で決めていいはずがない。
青蘭は、不機嫌に片眉をあげた。破談を心配していたのは、むしろ青蘭の方だ。
「そうだ、どこかの男が君をみそめて、奪われないかと心配したのだ」
酷い言い逃れだ。師兄は、私の心が分かっていない。
苦笑いをしながら、青蘭は長恭の胸を拳でついた。
「夫を天として、仕えるのが漢族の士大夫の夫人よ。・・・でも、私はちがうの。江陵を飛び出して鄴都に来たのは、・・・」
「分かってる。自分の人生を取り戻すためだろう?・・・君は、聡明で自分の考えを持っている。だから、君に意見を訊くべきだった」
長恭は青蘭の手を優しくなでた。そうだ、長恭の晴朗な瞳で見つめられると、全てを明け渡したくなってしまう。
「母が言っていたわ。他人に与えられた物は、容易に失うけれど、自分の手で苦労して得たものは、決して失うことはないと、・・・だから、学問を中絶したくないの」
「私も、学問を続けていくことに賛成だ。・・・ただ、今の形を続けることは難しい。結納品を届けたら師父に相談するよ」
長恭は、珍しくため息をついた。成婚後にも、青蘭は学問を継続したいと言っている。しかい、皇族夫人で学問をしている例は見付からない。
「今度、顔師父のところに相談に行ってみよう。いにしえの例などもあるかもしれない」
長恭は、父王琳のように頭ごなしに事を決めることはしない。常に青蘭の考えを尊重してくれるのだ。それなのに、こと懿旨については、なぜ独断を通したのであろうか。
青蘭は、大路の乞巧奠飾りから視線を移して、長恭を見上げた。灯籠飾りの灯りを受けて、長恭の笑顔は妖艶なぐらい輝いている。
「そうだな、これからは二人で何でも相談しよう」
光を帯びた長恭の瞳に魅入られるように、青蘭は長恭の胸に身体を預けた。
★ 鄭家の返答 ★
ほどなく鄭夫人が江州から戻った。
「これが懿旨か・・・」
鄭桂瑛は、皇太后の懿旨を広げると几案に置いた。確かに皇太后の印が明瞭に伸されている。賜婚の場合は、家臣が断るには斬首を覚悟しなければならない。商人であれば、なおさらである。
「懿旨など、何のために・・・。長恭殿は、何と言っている」
意図を図りかねた桂瑛は、懿旨をしまうと青蘭を睨んだ。
「その、師兄は、じゃまが入るのを恐れて、皇太后に願い出て懿旨を出してもらったと・・」
すでに、長恭と青蘭の賜婚の話は、戚里にも広まっている。皇太后としては、愛孫の懇願に負けて懿旨を出したのかも知れない。しかし、長恭は懿旨をあまりにも簡単に考えすぎている。平民の娘である青蘭にとって、賜婚は一生の問題なのだ。もし、この婚姻が流れた場合、おそらく青蘭に求婚する家は、鄴都では金輪際出てこないだろう。
「青蘭よ、すでに手遅れかも知れぬが、皇族に嫁ぐとは虎の背に乗るも同じぞ。一つ間違えれば命を失うのだ。その覚悟はできているのか?」
「皇族は、普通の貴族とは違うのは分かっているわ。でも、二人で乗り越えようと約束したから、心配ない」
青蘭は、長恭の美貌と身分、知的な雰囲気にすっかり魅入られて正常な判断ができないのだ。
「皇族で、一人の妻を守っている者など聞いたことがない。他の女子と夫を共有できるのか?」
気が強い青蘭が、自分以外の妻妾を我慢できるとは思えない。
「師兄は、清廉な男子。世の中の浮気な男子とはちうわ。側女なんてとらない」
貴族や庶民にかかわらず、多くの男は正妻の他に幾人もの妾を養うのが普通であった。ましてや長恭が側室を置かないと言うことは、考えにくい。
「頑固な父上を、やっとのことで説得したのだ。私のそんな努力も懿旨が出れば無駄であったな」
はるか江州まで行って王琳を説得してきたのだ。ところが、鄴に戻ってみたら、皇太后の懿旨が届いていた。知らせを受けた王琳は、懿旨が出たことに大いに不快の意を知らせてきた。しかし、懿旨には撤回を望むことも許されない。
「わかった、結納の日取りを決めるよう話を進めよう」
すみやかに、家宰が宣訓宮を訪れ、結納の日が整えられた。
★ 納采の儀 ★
七月の吉日、鄭家で納采の儀が行われた。
正式の求婚書を携えた内官の許有孔が、納采の品々を積んだ馬車を引き連れて訪れた。
鄭家の邸内は、婚姻を祝う深紅の布が飾られ、吉祥の紋を貼り付けた灯籠が掛けられている。結納品は皇太后が宝庫から選んだ玉、白磁、絹布、金や銀の器や壺である。それらを収めた大きな櫃には、深紅の布が掛けられている。
内官は大門を入り正房に進むと、女主人である鄭桂瑛が拝礼する前で求婚書と懿旨を読み上げた。桂瑛は顔を上げ、両手で求婚書を受け取った。先祖の廟に捧げるのである。
母の桂瑛からは、答礼として再度青蘭の四柱と返礼の玉佩が内官に渡された。
これらの儀式に関して、当人である高長恭と王青蘭は、直接関わることはできない。長恭は宣訓宮で結納の行列を見送り、青蘭は正房の西にある書房で、物陰から見守っているだけだった。
鄭家では、簡単な宴がひらかれ、家人に酒が振る舞われた。 この日より、長恭と青蘭は正式な許婚となり、まさしく一連の成婚の儀式が始まるのである。
邸内の喧噪をよそに、榻に座った青蘭はゆっくりと伸びをした。窓の向こうに広がる露台の向こうには、手摺り越しに睡蓮地が広がり、その向こうには夾竹桃の赤い花が広がっている。
ついに、成婚に向けて動き出した。結納は公に両家の婚姻を、そして高長恭が自分の許婚であることを示す儀式である。ほどなく納采の宴が開かれ、皇族一同に両家の婚姻が公表されるにちがいない。
世の娘達が憧れる長恭に嫁ぎ、皇族夫人としての身分を得るのだ。庶民ならいざ知らず、最愛の男に嫁げる娘は少ない。それなのに、この閉塞感は何だろう。
梁の元帝の妃の王氏は、父王琳の姉であった。そこから漏れ聞いたところでは、南朝の皇族の生活は儀礼と掟に縛られた窮屈なもので、外出もままならないようだった。それに比べて鮮卑族の女子は自由を謳歌している。馬にも乗り市場で商売をする者も珍しくはない。しかし、北魏の皇族は漢族の風習を取り入れ、漢王朝を手本に朝堂の体制を整えてきた。公には、漢族の儀礼に則ることが善とされているのである。男子に交じって講義を受け、他の弟子達と議論を交わす学堂の生活は続けられそうにない。
師兄は、顔師父と相談して学問を続ける道を探ると言ってくれた。しかし、古書を紐解いても、成婚後も学問を続けたのは、後漢の曹大家や蔡炎ぐらいしか知られていない。
師兄は、仁愛の心に満ちた想い人だった。女子だと気付いてからも、様々な形で青蘭の学問を応援してくれた。しかし、想い人には誠意を尽くすが、妻には冷酷な男は少なくない。
婚儀までに解決しなければならないことが多すぎる。青蘭は額に手を遣ると碧い空を見上げた。
★ 爵封の祝宴 ★
長恭は青蘭との結納を敬徳に知られることを恐れて、礼部には関わらせず皇太后府だけで内々に儀式を執り行った。しかし、常に令嬢たちの注目を集めている長恭の婚約は、しだいに皇宮で広く知られることになった。
ほどなく高敬徳より、長恭の叙爵祝の宴を嬌香楼で催したいとの文が届いた。嬌香楼に向かう馬車の中で、長恭は両手を握りしめた。
「青蘭との婚約は、すでに耳に入っているに違いない。ああ、・・・」
青蘭には心配するなと言ったが、どう言えば敬徳の理解を得られる思い浮かばない。しかも、敬徳は侍中府での上司なのだ。文叔が女子の青蘭だったことを、敬徳にどう話そう?御祖母様に懿旨を出してもらい、強引に婚儀を進めたことは卑怯だったのだろうか。
嬌香楼に着くと、着飾った妓女たちが長恭にまとわりつくように声を掛けてきた。長恭は、薫香漂う女子たちをかき分け、二階の房に昇った。
恐る恐る扉を開ける。
「やあ、長恭来てくれたか」
両手を広げて長恭を迎えた敬徳は、すぐに長恭を席に案内した。すでに卓上には料理と酒が運ばれている。二つの酒杯を満たすと、敬徳は長恭に掲げた。
「楽城県開国公への叙爵おめでとう」
長恭は、曖昧な笑いで杯を打ち合わせた。
「祝わなければならないのは,私の方だ。・・・青州の刺史から侍中への昇進、・・・めだたい」
私は負け犬だ。開国公は、名前だけの爵位だ。それに比べて侍中は直接政に関わる重要な官職である。それは雲泥の差がある。
「そう言えば、お前が婚約したという噂を聞いたが、本当か?」
長恭は酒杯で顔を隠した。
「お前は耳が早いな。・・・うん、・・・先日、懿旨を賜り婚約した」
敬徳は、相変わらず輝くような長恭の麗容を眺めた。皇太后は、令嬢たちの絵姿を集めているとの噂であった。きっと、皇太后の気に入った令嬢を娶るのであろう。
「女嫌いで有名なお前が婚約とはな・・・。相手はいったい誰なのだ?」
敬徳は、香りの高い酒を再度酒杯に注いだ。
「相手は、・・・王琳将軍の娘の王青蘭だ」
一瞬時が止まり、敬徳は長恭の顔を凝視した。
「王青蘭とは、文叔の姉か?・・・文叔の姉と婚約したのか」
訳が分からないというように、戸惑い顔で敬徳は首をひねった。
ここだ。・・・なんと言い訳をしよう。長恭は卓の上で拳を作るとゆっくりと息をすった。ここは懿旨を強調するしかない。
「御祖母様は、何よりも国を思っている。王将軍を斉に引き留めておくには、婚姻が効果的だとの判断だ。孫である前に臣下である私には、懿旨に逆らうことはできぬ」
長恭が文叔の姉と婚儀を挙げる?よりによって賜婚とは・・・。
「皇太后は、お年だ。早くお前に似たひ孫が見たいのだろう。・・・しかし、・・・女嫌いのお前が、賜婚で女子を娶るとは災難だな」
敬徳は、酒杯越しに長恭を睨んだ。
人も羨む麗容を持ちながら、長恭は女子にひどく冷淡だ。幼い頃に父の妻妾たちの醜い諍いを目の当たりにしたために、女子を信じられなくなったと聞いたことがある。
「女子嫌いのお前が、王琳の娘を娶って反って諍いの種にならないか?」
政略結婚の破綻は、おうおうにして国の危機を招く。
「私が、文叔の姉を冷遇すると?・・・心配無用だ。私だって皇族の端くれだ。外交の重要さはよく知っている」
長恭は、思わず外交的な立場を強調してしまった。侍中になった敬徳には、天下国家から攻めた方が納得できるだろう。
敬徳は唇をかんだ。文叔の姉に連絡を取ろうと思った矢先に長恭と婚約とは、一歩遅かった。
「そんな言い方は、青蘭に失礼だろう。皇太后の命令で仕方がなく娶るなら、文叔も青蘭も気の毒だ。俺が皇太后に直談判して・・・」
敬徳はいきなり立ち上がると、客房から出て行こうとした。今にも直談判をする勢いだ。
「敬徳、やめてくれ。・・・も、もちろん、青蘭を気に入っている」
長恭は、敬徳の腕をつかむと席に座らせた。
「とにかく、文叔の姉だ、幸せにしてやれよ」
敬徳は、まだ信じていないというように長恭を睨んだ。
懿旨の存在を明かしたために、まるでいやいやながら、政略結婚のために青蘭を娶るような話の流れになってしまった。しかも、文叔が青蘭だと明かす機会を逃してしまった。
ああ、何と意志が弱いのだ。長恭は酒杯に満たした酒を、一気に飲み干した。
★ 本当の許婚 ★
一昨年の夏、顔之推は息子達とともに洪水に紛れて、黄河を下って斉に亡命してきた。夫人の曹氏と娘の顔紫雲は、長安に取り残される結果となったのである。曹氏母子は、斉に寝返った謀反人の家族として顔之推の弟子の屋敷に軟禁同然であった。しかし、顔之推の名声が高まるに従って周の朝廷はその存在を無視できなくなり、妻子を鄴都に送ることにしたのである。
顔之推は、すでに鄴に確固たる地歩を築いていた。そこで、妻の曹氏は娘の紫雲の嫁入り先を物色していた。
顔紫雲は自分の居房で椅子に座ると、憤懣遣る方ないと言うように頬杖をついた。
「鏡玄たら、高官の息子だからいい気になって、女子に学問は無理だなんて失礼な奴だわ」
紫雲は、皿に盛られた桂花酥をつまむと、口に運んだ。
「お嬢様、鏡玄様は、崔家の若様です。口は悪いけれど、気持ちはいい方なのですよ」
側仕えの小容が、茶杯を差しだした。
「ふん、父上の弟子のくせに、偉そうだわ」
崔鏡玄は、父親の崔叔正が学堂で講義を始めるとともに、顔之推に弟子入りして毎日のように学堂に通ってくる。最初の講義の時に衝突して以来、二人の関係は険悪だった。
「そう言えば、今日は高長恭様が、婚約の挨拶に来るとか。高侍郎は皇族で一番の美丈夫ですもの、娘たちのため息が聞こえそうだわ」
小容がため息をつくと、紫雲は茶を一気に飲み干した。
「高長恭は、ちょっと見目が良くて身分も高いから、皆騒いでいるだけよ。長安でもそうだったわ・・・皇族なんて見かけ倒しに決まっている。ろくな奴がいない」
紫雲は、『易経』を手にとると読み始めた。先を読んで、鏡玄をギャフンと言わせたいのだ。
「予習するから、小容は、夕餉の用意をして」
小容は、居所を出て行った。
耳を澄ますと、弟子たちのざわめきが聞こえてくる。来年は十五歳を迎える。一緒に長安から来た母が、近ごろ名家の弟子たちの話をするのは、自分の婿を物色しているにちがいない。好きでもない男の妻として、仮面をかぶって一生を過ごすのはまっぴらだ。
紫雲は書冊を置くと両手を挙げて伸びをした。
紫雲がうつらうつらしていると、遠くから慌ただしい足音が近づいて来た。
「長恭様よ、・・・長恭様が来たのよ」
侍女の良児だ。
「見たの?・・・どうだった?」
「きれいで、麗しい・・・女子よりもきれいなのよ」
噂の高長恭が来ているのだ。女子より美しく、冷酷で、女嫌いな男。女子たちがこぞって噂をする男。どんな男なのか見てみたい。
顔紫雲は、榻から立ち上がった。
長安でも貴公子然とした皇族はごまんと見てきた。どれほどの仮面をかぶろうと、軽薄な放蕩者か、野蛮な獣のどちらかだった。美麗な容姿を持つ男にろくな奴はいないのだ。
紫雲は正房の外に立った。
「先日、正式に結納を交わしたので、師父に報告に参りました」
高長恭の声であろうか、滑らかな絹のような声である。
「懿旨を賜ったとか。・・・本当なのか?」
父顔之推の低い声が聞こえる。
「はい、将軍の了承が・・・御祖母様におねがいして・・・」
何と、長恭の結婚は賜婚だったのか。紫雲は扉の隙間から中をのぞいた。父の顔之推を正面に、二つの背中が見える。銀の冠を付けているのが、皇子だろうか。そうすると隣の後ろに髪を垂らした女は、その許嫁か。
長恭の手に落ちた女はどんな女子なのかよく見てやる。紫雲が額を扉に押しつけると、・・・扉がガラッと音を立てて開いた。紫雲の身体が、いきなり正房に飛び込んだ。万事休すだ。
「紫雲」
驚いて顔之推が立ち上がる。向かい合っていた眉目秀麗な貴公子が振り向いた。
「紫雲、な、なんでお前がそんなところに?・・・」
父親に手招きをされて、紫雲はしぶしぶ父親の傍に行った。
「不出来な娘で、・・・お恥ずかしい。これが娘の顔紫雲だ」
紹介されて顔を上げると、長恭の横にいるのは青蘭ではないか。なぜ、青蘭がここにいる?
「それで、婚儀の日取りは?」
青蘭が長恭と結婚する?まさか・・・。
「はあ、王琳将軍が遠方にいるので、意向を確かめないと・・・」
「そうだな、・・・婚儀には出席させてくれ」
紫雲が青蘭を睨んだ。青蘭が気まずげにうつむく。長恭の許嫁は、王青蘭だったのか。・・・なぜ、自分に黙って?
「王将軍は、頑固者だ。それも仕方がないが、後に遺恨が残らなければいいがな」
「師父、それは私からよく謝ります」
長恭と青蘭の二人は、挨拶をすると正房を出て行った。
★ 友との和解 ★
初夏の光が強くなった顔氏学堂では、南朝から訪れた儒学者による講義が行われていた。
「子の曰く、徳は孤ならず。必ず隣あり」
講堂の正面に座った徐子玄が、声を張り上げた。
「『道徳のある者は、孤立しない。きっと仲間ができる』ということだ。しかし、孔子は言っている。『主君に仕えるにうるさくすると恥辱を受け、友にうるさくすれば疎遠にされる』たとえ友に過ちがあっても、くどくどと文や言葉で責めてはならぬと言うことだ」
几案の前に座る顔紫雲は、頭を書冊の上に押しつけた。王青蘭が高長恭と婚約の報告に来てから、紫雲は青蘭を避けていた。自分に婚約を黙っていた青蘭が憎らしいし、冷酷な皇子と結婚させられる青蘭が気の毒だったからだ。懿旨による賜婚には何らかの理由があるに違いない。
孔子の言うとおり、それを、くどくどと責めることは信義にもとるにちがいない。しかし、親友だと思っていた青蘭が、自分を騙していたと思うと悔しい気持ちが先に立つのだ。
講堂の外に出ると、青蘭が立っていた。
「紫雲、話があるの」
青蘭は、紫雲の手をつかむと書庫に引いて行った。夕方の書庫には、人影もない。
「紫雲に謝りたいの。・・・長恭との縁談について黙っていて申し訳ない」
青蘭は眉をひそめて紫雲を見た。
「なぜ、黙っていたの?・・・本当に高長恭と結婚するの?」
士大夫にとって懿旨には、計り知れない重みがある。
「ごめんなさい。その、・・・紫雲が長恭を嫌っているから、言い出せなくて」
そうだ、長恭は女嫌いで冷酷な男だと、紫雲と青蘭は盛んに噂話をしていた。
「もし、政略結婚がいやなら鄴都を出る手もある。協力するわ」
「それは誤解よ。・・・政略結婚じゃないし、いやいや結婚するわけではないの」
紫雲は、青蘭の手を握った。容貌と身分に憧れて成婚してみたら、寒々とした結婚生活を強いられている女子はごまんと見てきた。青蘭にはそうなって欲しくないのだ。
「長恭は、女子に冷淡な男だと聞いているわ。そんな男と結婚して青蘭は幸せになれるかしら」
冷たく振られた令嬢たちが、長恭が女子に興味の無い冷淡な男子だと言い触らしているのだ。
「それこそ、誤解だわ。今まで、女子に関心が無かっただけ・・・よく知れば、師兄は誰にでも優しい人よ」
笑顔で話す青蘭に、あきれた紫雲は首を振った。男は、目的のためには、女子に甘い言葉を囁く。しかし、一旦成婚して目的を達すると、途端に突き放すのだ。男のずる賢さを知らない青蘭は、高長恭の美貌にすっかり参っているのだ。何とかして、目を覚まさせなければ・・・。
紫雲は、窓際の書見台のところに座った。
「二人のなれ初めを聞かせて・・・」
「私が長恭と知り合ったのは、そう、この書庫だった・・・」
青蘭は紫雲の前に座ると、二人の出会いを語り始めた。
長恭と青蘭の婚姻は結納にいたった。そのあとには、納采の宴だ。両家の親族や幽韻を招かなければならない宴は、後ろ盾を持たない長恭にとって、心配の種だった。